このブログから、というよりPC、紙も含めたデスクワーク全般からショートリタイアしている間に、2022年がまるごと“イヤーオブ戦争”になりつつある勢いです。
ウクライナ共和国の首都が日本の世界地図では“キエフ”とカタカナ表記されるけれども、現地の発音では“きーう”に近いんだ、ということは何となく耳学問で知っていました。
はるばるユーラシア大陸を渡って訪ねたことはさすがにありませんが、思い出されるのは1972年だったか、キエフ・バレエの来日公演です。公演パンフが結構立派だったから、実家に行けば保存してあるかもしれないのですが、ウロおぼえで、冬靴冬オーバー着込んではいなかった気がするので、たぶん春か秋、月河は中一になったばかりだった筈です。
札幌の厚生年金会館が、当時の時点で東京以北最大の収容人数を誇る本格的総合ホールとして前年にオープンして間もなく、これもウロなのですが実家母のお友達が、当時、地元大手の興行会社に勤めていた縁で「あまり良い席ではないんだけど時間があったら・・」と、良い席ではなくてもマトモに買ったらかなりなお値段のチケットを2枚、回してくれたので、中一坊主もちゃっかり恩恵にあずかったわけです。
同級生のお姉ちゃんやご近所さんのお稽古発表会以外の、本格的なバレエ公演を鑑賞するのは人生初です。それも当時、“ソ連三大バレエ”の一郭と言われたキエフ・バレエ。チケットを融通してくれた母のお友達さんも「ボリショイ、レニングラード(←現サンクト・ペテルブルク)・バレエは知ってたけど、三大って言うからには三つあったのね」“きえふ”ってドコ?と、その先は中学地理分野世界地図帖を出してきて、月河が教えてあげたものです。
月河は小四ぐらいから外国モノの少女漫画に飽きてしまって、ドストエフスキーやらプーシキンやらを読みかじるようなクソガキだったので、“キエフ”が“ソビエト連邦”の一隅の“ウクライナきょうわこく”の首都であることぐらいは大人に説明することができたのです。アタマの良さ、記憶力の確かさでは、月河、中一~二ぐらいの当時がキャリアハイだったかもしれない。
それはともかく、公演の演目は小学生でも知っている『白鳥の湖』で、伝統の全三幕四場に、一部、“今公演で初めてイタにのる、キエフ・バレエ独自解釈の新しい演出”が加えられていることがパンフで喧伝されていました。こういう大事なことは覚えていなきゃいかんと思うんですが、最終幕で悪魔の呪いがとけてオデット王女と侍女たちが白鳥の姿から人間の姿を取り戻した(ということを表す)瞬間、髪につけていた白い羽がポロッと落ちる、というシーンがあったのは覚えています。能舞台みたいに、「いまこういうモノに変身しました」「いま元に戻りました」を、お面で表現するわけにはいかないバレエなのでこうしたんでしょうが、これが“独自解釈の新しい演出”の一環だったのかは、当時も、いまもよくわかっていません。
この瞬間舞台のライティングもほわっと明るくなるのですが、オープンして一年も経っていないはずの厚生年金のステージ床はすでにオケのピアノやら何かの楽器台やらの痕がべたべた付いていて、バレエ専用のイタじゃないからしょうがなかったんでしょうけど、天下のソ連三大バレエの一郭の来日公演です。「東京とかならこんなんじゃないんだろうな」と、子供心になんだか恥ずかしい気がしたのは、不思議とわりに鮮明に覚えています。
主演のオデットと悪魔の娘オディールという、クラシック・バレエ最大の二役ヒロインを演じたソリストは、この公演ではダブルキャストで、“ウクライナ人民なんちゃら芸術家”その他の称号をすでに複数持つベテランさんと、当時20歳だかの新進気鋭さんで、月河が観た日は新進さんだったと思います。お二人ともいま思えばとてもウクライナっぽい姓名だった気がしますが、公演パンフが見つからないしウロで書いちゃいけないのでここは控えて。
それより月河はのちの特撮ヒーロー悪役好きの片鱗がすでにのぞいていまして、第二幕の悪魔ロットバルトの、黒鳥の翼をイメージしたのであろうマントが真っ赤なスポットライトを受けて赤く染まり、クルッと翻した翼の裏がもともと赤だった、という外連味たっぷりな登場シーンにワクワクしたものです。
今でいえば元・横綱日馬富士関の仕切りにも似た、重心を極限まで低くして後ろから前、前から後ろと地を扱き攫いあげる様な振付がほかのどの役の踊りよりカッコよくて、パンフの配役表を見てこの人の名前だけはすぐに憶え、いまも記憶しています。ヴィクトル・リトヴィノフさんという方で、のちに振付・演出の分野でも才能を発揮され、1990年の公演では芸術監督・首席バレエマスターの肩書で来日、さらに2010年代にはこの人が振付した版の『シンデレラ』『ドン・キホーテ』など伝統の演目が、日本公演のレヴューでも好評を博しています。
考えてみればクラシックバレエはバロック・ロココ時代の“王侯貴族”というソサエティの栄華があって隆盛になり洗練されてきた芸術ですから、旧ソ連の共産主義政治とは根本的に相容れないものだったはずですが、“国威発揚”“外貨獲得源”として使えるなら、国を挙げて徹底的に尊重し、保護し、囲い込んで上げていこうという考えだったのでしょう。
その後いろいろあってソ連は瓦解しウクライナは独自の道を歩み始めていたはずだったのに、大国ロシアの“あそこらへんなんもかんも元はと言えば我がロシア”“我がロシアあればこその経済、文化だったはず”という、ショベルカーでグチャッと削り取って自国にくっつけるみたいな拡張・併呑思考はひそかにつのる一方だったようで、2014年クリミア半島での無理スジが、とうとう押し通って戦端を切ってしまいました。
公演パンフで「森の都」と言及されていた“キエフ”、“キーウ”と本来の発音に近い表記がされるようになったのは、本来ならウクライナ国民の皆さんに喜んでもらえるはずなのに、こんな痛ましい戦乱がきっかけとなっての表記変更では変更する私たちのほうも嬉しくありません。
意欲的に海外公演を行なっていたキエフ・バレエが名実ともに“キーウ・バレエ”と名乗って再び日本に来演できるのはいつになるでしょうか。
厚生年金会館のあのホールは、その後維持費がかさむことから経営主体がかわり、ネーミングライツを使って名前も変わったりもしましたが、3年前、老朽化ということで閉鎖され解体されてしまいました。
1972年に『白鳥の湖』を踊ったソリストさん、団員さんたちも、存命としても人生の後半戦でしょうが、バレエが国の誇り、国民の財産とされ、栄誉ある三大バレエのメンバーとして遇され、踊ることにプライドを感じてきたであろう日々を、いまどんな思いで振り返り、どんな立ち位置でこれからの未来を見ているだろうかと思います。
最終幕で王女たちの髪から白い羽が落ちるように、武力侵攻と言う名の呪いが解けてウクライナの人々が人として再び自由になれる日が、一日も早く来ますように。