そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「ゆとり教育から個性浪費社会へ」 岩木秀夫

2007-11-19 23:47:31 | Books
ゆとり教育から個性浪費社会へ
岩木 秀夫
筑摩書房

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VIVAさんのブログで紹介されていて興味を惹かれて読んだ一冊です。

ここにきて「ゆとり教育」路線を否定する方向性は決定的なものになっている感がありますが、本書はなぜ「ゆとり教育」が日本の教育界の趨勢となり得たのか、その歴史を紐解いていきます。
歴史といっても単に教育史に閉じたものではなく、グローバルな視点も踏まえ政治・経済・社会思想といった広範な観点から社会と教育が相互に影響を与えあいながら進んできた道のりが辿られています。
きわめて客観的・価値中立的な立ち位置から淡々と流れを追っていく筆致が特徴的です。

価値中立的と書きましたが、最後まで読めば著者が「ゆとり教育」に対して批判的な意見を持っていることがわかります。
ただそれは「学力低下をもたらしたから」といった巷間言われている理由に基づく批判とはちょっと趣を異にします。

産業資本主義に基づく高度成長が終わりを告げたポスト産業社会では、製造業中心の近代社会からサービス経済化された社会へと移行が進んでいきます。
そして「新奇な感情・欲望を次々に商品化して巨大な利益を上げる、マクドナルド型のサービス産業」が経済社会の中心となり、売り手は「感情労働」を、買い手は「感情消費」を強いられることになります。
そして「マクドナルド化が極限まで進んだ高度消費社会」では、地位や所得による評価よりも「表層的な個性に囚われて相互を評価する社会」が作り上げられます。
著者はこうした社会を「イディオシンクラシー=個性浪費社会」と名付けたのです。
「個性浪費社会」は「社会全体のサブカルチャー化」とも言い換えられます。
著者は「サブカルチャー化」が「ゆとり教育」の直接の産物というわけではないものの、「ゆとり教育」が「子どもたちが学校に拘束される時間を、物理的にも心理的にも減らす」ことでその進行を「一層加速する」点において批判しているのです。

「個性浪費社会」の何がいけないのか。
ここでポイントになるのが経済社会のグローバル化と社会の二極分解です。
この論点については現在では散々議論されているので説明不要だと思いますが、著者の言葉を借りれば、社会は「データ・言語・音声・映像の分析を通じて問題発見・解決・戦略媒介などの活動を行う」シンボリック・アナリスト(「金融・財務・経営・市場調査・広告などのプロ」)から成る「勝ち組」と、「低賃金で劣悪な労働条件の下で働く」「負け組」とに二極化します。
そして「負け組」の一般大衆は個性浪費社会において「そのときそのときに最大限の欲求充足を追及する即時充足的な生活に追い込まれ」人格を「解離的」なものにしていく、とされています。

独特の言葉使いがされているため正確に文意を掴むのには苦労しましたが、著者の論じている社会のイメージはよくわかる気がします。
これまでにこのブログで自分が批判的に書いてきた「ワイドショーによる不祥事のエンターテイメント化」「スポーツイベントの過度な商業化」「テレビ局の資本参入による映画産業の質的劣化」など(あ、テレビ絡みばっかりだ)も「個性浪費社会」の実例と言えるのかもしれません。

ちなみに「ゆとり教育」の出発点は中曽根政権による臨教審にある、ということです。
当時英米ではサッチャー、レーガンによる新自由主義的な市場原理を取り入れた教育改革が行われていましたが、貿易黒字減らしという大命題を背負っていた中曽根政権では内需拡大を目指した「バブル教育」が指向され、英米の能力主義とはまったく異なる「ゆとり」路線へと進んでいったと。
そしてその「バブル教育」を思想面で支えたのがポストモダニズム官僚・学者であると。
このあたりの経緯については非常に丁寧に解説されています。

ここにきて「ゆとり教育」を否定する路線は既定化され、英米に遅れて新自由主義的な「新能力主義」路線が教育政策の主流になっていますが、著者はこれを歓迎してはいません。
新能力主義は「グローバル化にともなう中流階層の空洞化を軽視しすぎて」いると。
もはや一部の「勝ち組」が得た果実が社会全体にトリクル・ダウンする経済社会基盤は崩壊している、としています。

このあたりの論点は現在では聞き慣れたものではありますが、この本は2003年に書かれたものなのでやや先見があったとは言えるのかもしれません。

しかし、「ゆとり教育」もダメ、「能力主義」もダメとなると、いったいどうすればいいのでしょうか。
この本は非常に精緻かつ客観的な視点を与えてはくれていますが、この疑問にはほとんど答えてくれていません。
唯一、答えを導き出すための方向性が示されている一節が「おわりに」に書かれています。
「一人ひとりがもって生まれたイディオシンクラシーを努力によって鍛錬し、その人格的成果が尊敬されるような、そのようなことを可能にする社会的基盤がもっと多様に用意される必要があるのです。」

わかる、わかるんだけど、じゃあそのためにどうしたらよいのかを考えれば考えるほど途方に暮れる気分になります。
この本は明確な回答は与えてくれません。
それは、我々一人一人が考えなければならないということなのか、それとも、答えを出すのが絶望的に困難な課題だということを意味しているのでしょうか…

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