会社はだれのものか岩井 克人平凡社このアイテムの詳細を見る |
世に名高い岩井克人の著作を初めて読みました。
著者は、2003年「会社はこれからどうなるのか」を発刊後、実際に多くの企業人との意見交換を行なったとのことで、そういった意見交換を繰り返す中で整理が進んだ点を盛り込んだ新論文(実際には編集者によるインタビューの聞き書きみたいだけど)を前半に、意見交換の実例として小林陽太郎、原丈人、糸井重里との対談を後半に収録した2部構成。
著者の会社論は実にシンプルで、全ては会社(=法人化された企業)の定義に始まります。
すなわち、法人とは「本来ヒトではないモノなのに法律上ヒトとして扱われているモノ」。
法人とは、モノでありながらヒトである、という矛盾をはらんだ存在であるというとらえ方が出発点。
そこから、
・米国流の株主主権論は、会社(法人)をモノとしか捉えておらず、ヒトとしての側面を考慮に入れていない点で法理論として誤っている。
・会社(法人)は法律上ヒトとして扱われるが、自然人と異なり意思も持たないし自ら行動することもできないので、会社になりかわって意思決定し行動する自然人が必要となる。それが経営者である。従って、経営者には私的利益よりも会社の利益を優先し「倫理的に」行動する義務が本来的に存在する。
・会社は、社会にとって価値を持つからこそ、制度上ヒトとして認められているのであり、原理的に社会的責任を担っている。その責任イコール”CSR”である。
といった主張を導き出します。
このブログにも何度か書いてますが、自分は、米国流の株主中心主義、株価至上主義に違和感を憶えつつも、それに対抗するだけの感情論を超えた論理的説得力のある反論になかなかお目にかかれないことを日ごろから歯がゆく感じていたので、この明快でシンプルな主張には目を開かれる思いがしました。
あまりに明快すぎるので、ちゃんと理解できているのかどうか不安になるくらいだけど。
その一方で、著者は米国流の考え方を安易に侮蔑するのではなく、それはそれで強固な信念に基づいた、非常に強力な理論であることを認めています。
米国流に対抗していくのは、とてつもなく体力の要ることだと(糸井氏との対談にで詳しく語られます)。
このへんからも、この人、信用できるなぁという気にさせられます。
で、著者は米国流の株主主権論には批判的な立場なわけだけど、その一方で資本主義の質的変化という観点から、従来型の日本的経営の限界も指摘します。
すなわち、いわゆる「産業資本主義」の時代には、資本さえあれば大きな利益を上げることができた。それは農村に人がたくさん余っていたために、安い賃金で人を雇うことができたからであり、日本の高度成長期を支えた構造はそうしたものであった。そして、終身雇用、年功賃金、会社内労組といった日本的制度はそうした産業資本主義の時代に非常にマッチしたものであった、と。
ところが、都市が農村の過剰人口を吸収しきって、労働者の賃金が上がってしまった「ポスト産業資本主義」の時代には、そうはいかない。資本を投下させすれば自動的に利益が上げられる時代は去り、いかに他者との「違い」を生み出して差別化できるかどうかが利益を生むかどうかの境目となる。そうしたポスト産業資本主義社会に、日本的会社経営がうまく順応できていないのではないか、と指摘しています。
自分も日本の会社に勤めるサラリーマンの端くれなので、このへんはよくわかります。
仕事で付き合いのある会社の人たちを見ても、大きな会社になればなるほど自縄自縛に陥って新しいことがしづらそうなんだよね。
ところで、この本には、会社が「社会にって価値を持つ」とはすなわち「利益を生む」ことだとの記載もありました。
いぶつくらげさんもがんばって利益出してくださいね(笑)
>会社になりかわって意思決定し行動する自然人が必要となる。それが経営者である。
まったくその通りだと思いました。
>会社は、社会にとって価値を持つからこそ、制度上ヒトとして認められているのであり・・・
まったくその通りだと思いましたが、耳が痛い話でした! うちの赤ん坊も、社会的責任を担うまでにしっかりと育ててやらなきゃです~ (笑)