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海軍兵学校跡三度目見学記

2012-06-25 | 海軍

わずか一年半の間に関東からわざわざ広島県の兵学校跡に三回も行った、エリス中尉です。

怪しい。怪しすぎる。

もし、今回の案内の係員が前回、前々回と同じ人だったらどうしよう?
いくらなんでも三度目は確実に顔も覚えられているだろうからヘタすると不審者扱いかも、
と軽く怯えながら門をくぐりました。

今回、大きく違うことは、呉からフェリーで小用港に着く「兵学校の皆さんの帰省コース」ではなく、
呉から音戸の瀬戸、早瀬大橋、と橋で繋がった陸沿いを、元艦長氏の運転で行ったこと。
早瀬大橋方面からは、術科学校に近付くと、古鷹山がこんな角度から見えてきます。



水戸黄門の印籠のように、元艦長氏がIDを提示すると、術科学校のあのゲートの中に、
車ですいすいとはいって行けるのですから、これは感激。
いかに三度目でも、関係者と行くのは違う視点からの見学になるだろうという期待が募ります。

それに今回はTOも一緒で、かれにとっては当然初めての訪問になるわけですから、
艦長氏が案内コースに「術科学校」を入れてくれる話を聞いたときも、断りませんでした。

幸い?三度目は、これまでとは違う方の案内だったので、わたしもひとまず安心。

この日もご覧のように雨が激しく降っている一日でしたが、
だからこそこんな日にしかみられない兵学校跡の姿が見ることができました。
まず、冒頭写真の兵学校学生館。

美しいと思いませんか?

案内の方が「今日来た方たちはラッキーです。赤レンガは雨の日が美しいから」
とおっしゃっていましたが、いつもより深みを増した煉瓦の色もさることながら、
濡れた敷石に校舎が鏡のように映し出されている様子なども、こんな日ならではの情景です。

晴れているときの見学では、結構近くまで立ち寄ることが許されていたのに、
この日は通路から遠景を眺めるだけで通り過ぎました。
最初は校舎のぎりぎり近くまで行け、レンガを接写できたのですが・・。

 雨の日ならではの眼福その2。

当然のようにここの学生も傘をさすことが許されません。
例の黒いコートを着て、このいでたちで江田島を歩きます。
カバンに透明のビニールカバーをかけ、雨から保護している人もいました。

この日は土曜日で、艦長氏によると「おそらくこれから下宿にいくのではないか」とのこと。
驚きました。
兵学校時代から、江田島の人々は「下宿」と称して週末には自宅を開放し、
そこで食べたり飲んだりして羽を伸ばす学生の面倒を見た、という話があるでしょう?

そのシステムが、今も江田島には伝わっているというのです。

術科学校との取り決めなのか、飲食代はどうなっているのか(昔は民家の厚意)、
そのあたりは聞きそびれましたが、艦長氏によると、
「やっぱりちょっとの間でも学校から出て、息を抜きたいんですよ。ちょっとでも」

はあ~、そんなに息を抜きたいもんですか。

「なにしろ辛いもんなんですよ。ここの生活は」

そうなんですね。
やっぱり、四六時中監視の目が光っているこの学校内では、張りつめっぱなしなんですね。



だって、これだもの。
この「分隊点検」という文字の、おどろおどろしい字体は、何?
この字に表れているのは、学生たちの恐怖?

この分隊点検では、身だしなみがいちいち細かくチェックされて、もし「不備!」とか言われたら、
外出は一時間単位で遅れるのだとか。
艦長氏も「髭とか、ちょっとしたシワとか、もう、アラ探し以外のなにものでもないんですよ」
と、数十年前のことを今さらのように嘆息して居られました。



「地面を見てくださいよ、葉っぱや枯れ木が全く無いでしょう。
これは毎朝学生が掃除をして、砂の部分にはほうきで筋目をつけるんです」と艦長氏。
しかーし。

エリス中尉の小姑のような厳しい目は、このツツジを見逃さなかった。
季節が終わり、枯れたツツジの花がら。
今、地面は美しく掃き清められていますが、枯れたツツジはそのまま残っていますね。

兵学校時代は生徒が一つ一つ手でこれを取り去り、枯れた花がらを決して残さなかったそうです。
昔の兵学校はマニュアルではない、「心のある」掃除をしていたということでしょうか。

  

相変わらず壮麗な大講堂から見学は始まります。
ここに入ると、どこの学校の講堂にもあるあの何とも言えない古い匂いを感じます。
どうして、学校の講堂というものは同じようなにおいをさせているのでしょうか。


 

兵学校もそうですが、現在の士官候補生も、卒業式のときに成績優秀者はこの方向から
壇上に登り、恩賜の短剣を受け取り、目の高さに捧げ持って後ろに下がります。
そして式の間、ずっとそうやって捧げ持っていなくてはなりません。
晴れがましいと、それを辛いなどとは思わないのでしょうか。

今、成績優秀者の受け取るのは感状ですが、短剣ではだめなのか真剣に聞いてみたいところです。

銃刀法違反になるから
、というのが艦長氏の答えですが、なんとまあ、夢のない・・・。



誰も撮らないこの角度から写真を撮ってみました。
ヘンデルの「見よ、勇者は帰りぬ」の流れる中、この階段をここから登った短剣組。
兵学校のときも、現在も、

成績の順番に前から座るので、

これを見ている父兄には、我が子がどんな成績でで卒業するのかが丸わかりだったそうです。
因みに、案内をしてくれた元自衛官の方も、元艦長氏も、
「私は後ろの方に座っておりました」そうで・・・・。



しかし昔は、と言ってはお二人に大変失礼ですが、
「東大(一高)や京大(三高)は滑り止めだった」
という案内の方の言葉は若干誇張であるとしても、当時の男子の憧れ、それが兵学校。
たとえ後ろの方に座っていても、日本中から選ばれた俊秀の一員であったことに違いありません。

実際は「一高三高に行きたいが、実家が貧乏だったので、費用が全て国から出る兵学校に行った」
という選択のもと、兵学校に来た生徒もいたそうです。
68期のクラスヘッド、山岸計夫生徒もその一人で、兵学校に入る前は
ボーイのアルバイトをしながら夜学に通い、兵学校に在学中もらっていたお金を切り詰めて
妹を学校に行かせるために仕送りしていたそうですが、
かれもまた貧困ゆえに兵学校を選ばざるを得なかった生徒でした。

案内の方は続けて、「昔はそうでした」

「しかし、今は違います!今は元気でやる気があれば誰でも入れます!」

元艦長氏、苦笑い。
何もそんなに力いっぱい強調しなくても。
というか、それなりに難しいと聞いたことがあるのですが?



入るときに自衛官のIDを出した艦長氏ですが、ツアーの間、一度も案内係に向かって
自分が元自衛官であることを明らかにしませんでした。
身内の人間にしか分からないような質問も勿論することなく、わたしたちにだけ聴こえるように
「あのときはこうだった」「これは実はこうなんですよ」
とひそひそ説明して下さってはいましたが。

自分が若いときに過ごした場所が懐かしくないのかしら、と不思議に思っていたのですが、
どうもご本人がおっしゃるには
「あまりにもあの訓練の日々が辛かったので、今でもここに近付くとその辛さが思い出されて、
何とも言えない重たい気分になってしまう」
とのこと。
ちょっとしたトラウマになるほど、厳しい生徒生活だったんですね。

戦後、一度も江田島を訪れたことの無い元軍人が結構いるという話を聞いて、
「青春の日々を過ごした江田島に行ってみたい、という風には思わないのだろうか」
と漠然と不思議に思わないでもなかったのですが、どうやらそのうち少なくない人たちの心は
「あまりに過酷な日々だったので、あまり思い出したくない」
ということのようです。

帝国海軍の精神によって支えられた美しい切磋琢磨の場、などと知らない者が憧れるには、
当事者にとってはあまりに色々あり過ぎて、といったところかもしれません。

戦後の江田島で過ごした艦長氏ですらそうなのですから、ましてや旧軍の「鉄拳制裁付き」
学校生活は、一言では語れないほど複雑な感慨を各自に残したのに違いありません。


旧兵学校三回目見学記、後半に続きます。








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