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ハンモック・ナンバー

2012-06-27 | 海軍

文字通りのハンモックナンバーとは、自分の寝る吊り床に書かれた番号のこと。
4けたの番号のみが書かれ、それによって戦闘配置が分かる仕組みになっていました。

海軍の学業成績をハンモック・ナンバーと称するのはもう皆さんご存じのことと思います。
ついでに少しインターネットをあたると、
「ハンモックナンバーが昇進について回る海軍では、その仕組みが組織を硬直させ・・・」
と、まるでハンモックナンバー重視が日本が負けた原因のように結論付ける意見や、
「ハンモックナンバーが必ずしも軍人として優秀だったかどうかとは一致しない」
という、誰でも考えつきそうな意見に厭というほどお目にかかります。

ですからまあ、今日はそういった1たす1は2みたいな結論は抜きで、
ハンモックナンバーと実在の軍人の関係を考察していきたいと思います。


そもそも、海軍兵学校にしても予科練にしても、もの凄い倍率の試験を潜り抜けてきたという時点で
その頭脳が優秀であることは最低保障されています。
ですから、そこで例えばハンモックナンバーがテールエンド(びり)だった、と言っても、
それでも当時の日本の青年の中の一握りの超エリートの一員であったことに変わりありません。

「田舎の天才」がここに来て「あれ?俺ってもしかしたら、たいしたことないんじゃね?」
と「身の程を知る」ことにもなり、謙虚を学ぶことにもなったと思われる兵学校ですから、
このような頭脳優秀集団の中でも、恩賜の短剣組、つまり上位5人ともなると、
もうすでに努力してなれるというレベルではありません。

この「天才レベル」の短剣組から、実際にも軍人として評価された人物を挙げると、

秋山真之 17期 首位(88人中)

が真っ先に思い浮かびます。
「坂の上の雲」でもおなじみの名参謀、秋山真之は「のべつに頭が回転し続ける天才」そして
「天才であったが、さらに努力家でもあった」そうです。
日露戦争後、秋山は海軍大学で教鞭をとりました。
そこで自らの戦った日露戦争のことを
「私があの戦争で国に奉仕したのは、戦略・戦術ではなく、戦務であった」
と述べています。
すなわちこの天才にとって戦争は「学問の実戦」であったと考えられていたのでしょうか。

井上成美 37期 2位(179人中)

軍人としての評価より、終戦工作をしたことと、
海軍兵学校の校長であったころの、教育者としての評価が高いのが井上大将。
「ハンモックナンバー必ずしも軍人の資質を表わさず」の例であるともいえます。
戦が下手でも、軍人を育てることができれば、それもまた一つの軍人の業績でしょう。
因みに、音楽でもよく「名演奏家必ずしも名教師ならず」といいます。

山口多聞 40期 2位(144人中)

人物将器能力共に評価の高い、しかし悲劇の提督。
海軍大学では主席で卒業しています。
アメリカ側から「ヤマモトの後継者は彼を置いてない、しかし彼は死んでいるから大丈夫」
と言われたというほど、敵にもその勇将、智将ぶりは伝わっていました。

色々調べていてふと思ったのですが、この山口中将はじめ、首席より次席の人の中に、
有名な軍人が多いような気がします。

山梨勝之進 25期 2位(32人中)
野村吉三郎 26期 2位(59人中)
永野修身  28期 2位(105人中)



上の三人の場合は違いますが、宮様クラス、つまり皇族が同クラスにいると、
どんなに優秀でも首位はあきらめなければなりません。
自動的に宮様が一位になるからで、例えば二人宮様のいた49期は、
本来首席で卒業するはずの生徒は、三位に甘んじなくてはいけませんでした。

もしかしたら、首席というのは案外このような「裏の事情」によって選ばれることもあったのでは?
この「錚々たる2位の面々」を見ていると、ついそういう疑惑が浮かびます。



恩賜の短剣組であれば、自動的にその出世のスピードは「特急に乗ったようなもの」。
逆に言うと「恩賜の短剣だったのに出世しなかった」というのはなぜだろう、と考えてしまいます。

堀悌吉 32期 首位(192人中)

優秀な人材の集合体だった兵学校の生徒をして、「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」
と言わしめた、天才的な頭脳を持つ人物だったと伝えられます。
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」では、予備役に回されて無聊をかこつ堀悌吉を、
同期生の山本五十六が訪問するというシーンがありましたね。

堀が左遷されたのは、軍令部の権限強化を目的として行われた「大角人事」による粛清でした。
この人事で予備役に追いやられたのは、つまりロンドンの軍縮会議における軍縮条約の推進派。
堀悌吉はそのなかでも「戦争は悪である」とはっきりした見解を持っていたと言われています。
将来の海軍大臣候補をまとめて四人葬ったこの人事に対して、山本は
「巡洋艦一個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか。海軍の大馬鹿人事だ」
と怒りまくり、自分も海軍をやめる!とまで言い出しますが、それを引きとめたのも堀でした。

この黒幕には東郷元帥も名を連ねていたため、これを以て
「東郷元帥は晩節を汚した」というものもおり、例えば井上大将が言ったという、
「平時に口を出すとろくなことにならなかった」とは、これを指していたのではないでしょうか。


その東郷平八郎元帥ですがイギリスに学び、兵学校を出ていないので、
幸か不幸かハンモックナンバーは残されていません。
しかし、兵学校で主席になるようなタイプの人間ではなかったようです。

日本とロシアの関係が風雲急を告げたとき、海軍大臣山本権兵衛は、聯合艦隊司令官に
「姥捨て山」とすら言われていた舞鶴要港部司令官の東郷平八郎を抜擢しました。
これを明治天皇は不思議に思われたというのです。

意外な人事に、その理由を尋ねられたとき、山本大臣は
「東郷は運の強い男でございます」
と奏上したそうです。

このように、卒業時の成績が一生ついて回ると言っても、その後の働きによっては
鈍行から特急に乗り換えることも、現実問題としては不可能ではありません。

こんにち、日本で一番有名な提督は東郷平八郎であることを誰しも疑いませんが、
実はアドミラル・トーゴーは、特急、それも新幹線への乗り換え組だったということです。


先日散々お話した「キスカの撤退作戦」でも、ご存じのように大抜擢人事が行われました。

木村昌福 107番(113名中)

ハンモックナンバーを跳ね返すほど、実戦で働きをあげた木村少将のような軍人に共通するのは、

「自分の判断を最後まで信じる」
「いつも強運に恵まれている」

これに尽きると思います。
発令されたとき、皆が一瞬驚き、決戦終了後も世界が驚嘆した東郷の「T字戦法」。
木村少将以外は誰もが納得せず、皆が反対した、キスカ突入作戦の撤退。

ともに、数分、そして一日ずれても作戦は成功していません。
この二人に共通するのは、おそろしいばかりの運のよさでした。


三川軍一 38期 3位(149人中)

神重徳  48期 10位(171人中)

ここで、悪名高い第一次ソロモン海戦における三川艦隊の再突入問題について少し。
三川長官が勝利を収めたあとの撤退を決意したのには、先任参謀神重徳の進言がありました。
皆さんご存知でしょうから詳細は省きますが、栗田艦隊と違ってこちらは「反転せず」。


これはわたしの単なる想像ですが、この神参謀、三川長官共に、これを決意する瞬間、
その脳裏には、「東郷ターン」始め「決断の成功例」が去来していたということはないでしょうか。

ここで欲をかいてせっかくあげた嚇嚇たる戦功がフイになったとき、
「皆に非難されてもあのとき撤退しておくんだった」
と後悔する自分の姿までをシミュレーションして、その結果この帰還を選んだのでは?

三川忠一は、真珠湾攻撃の時、南雲忠一司令官に第三次攻撃を進言した人間です。

南雲忠一 36期 7位(191人中) 海大は2位

南雲忠一の第三次攻撃中止も、この三川軍一の反転も、いわば、恩賜の短剣組の
「優等生の安全運転」が結果的にに悪い形で出てしまった例かもしれません。

ある元海軍軍人などは、この三川撤退について、
「功名心からのことであれば、その罪は万死に値する」なんて言っておられます。

後世のものとしてはせいぜい「後からなら何とでも言えるよなあ」としか言えませんけど。


米内光政 29期 68番(126人中)

これほど成績の悪い者が、海軍大将まで昇進し、海軍大臣や連行艦隊司令長官に就任したのは
極めて異例のことであったとされます。
現に、若いころ米内は「首切り5分前」の職場を転々としていたそうですが、
かれの偉かったのは、その間、候補生のような初心に戻って本を読みまくっていたことでした。

米内がなぜ兵学校でこれほど成績が悪かったかというと、
詰め込み式で、何しろ量をこなすことが要求される兵学校の学業において、
自分が納得するまで一つのことを深く研究し、
問題を掘り下げていくようなアプローチをしていたからだそうです。

大器晩成型の見本のような人物で、それが決して中途半端ではなかった証拠に、
米内は次第と軍の、そして日本の中心へと望まれるような形で出ていくことになります。

面白いのは、周りの人間もこういった米内の有望なことを認めていたということです。
「彼は上手くいけば化ける」
兵学校の教官のこの予言は当たったのでした。

財部彪 15期 首席(80人中)

優秀な人物でした。
しかし、この人物は、自力ではなく、コネの助けで楽に出世する誘惑に勝てなかったと見えます。
彼がめとったのは、何と山本権兵衛の娘。
首席を見込まれてのことでしょう。

ところがこのとき、この結婚を、なんと山本大将に向かって直接、

「財部は優秀な男である。
しかし閣下の娘と政略結婚なんかしたら、
自分の実力で出世したとしてもそう思ってもらえないから、
どうかそれだけはやめてやってくれ」

とねじ込んだ男がいました。

広瀬武夫 15期 64番くらい(80人中)

ご存じ、軍神広瀬中佐、実に男前です。
ワールドワイドに愛されたこのナイス・ガイは、成績こそ地味でしたが、慧眼で、さらに
山本大将にこんなことを直接談判しに行くほど、実行力と侠気のある人物でした。

しかし。

後の軍神もこのとき、山本大将にとってはただのハンモックナンバー64番(くらい)の男。
進言は無視され、財部は結婚後、案の定「財部親王」と陰口をたたかれることになります。
岳父の威光の恩恵を被ったということでしょうか、「大角人事」の粛清は何とか逃れましたが、
その後「統帥権干犯事件」で予備役に追いやられます。

海軍大将まで出世し、海軍大臣も務め、傍目には順調な「恩賜の短剣コース」。
その人事には「女婿」という言葉が影のように付き添い、財部自身が賞賛されることはなかった
という意味では、広瀬の懸念はまさに的中したのでした。

こうしてみると、ハンモックナンバーは、出世の一つの足がかりにはなっていますが、
人間的に魅力があって、隊長としてのカリスマ性を持ち、あるいは軍神にまでなってしまう人物は、
全くそれとは無関係であるということがわかります。

広瀬武夫しかり、野中五郎しかり。


それから、今回調べて思ったのが、クラスの人数のまちまちなこと。
一口で恩賜の短剣と言っても、
18人クラス(24期)の首席と、581人クラス(71期)の首席では、
随分その価値も違ってくると思うんですが・・・。


ところで、先日「三笠艦橋の図」を別項にアップしたとき、若い航海士の
「枝原百合一」(ゆりかず)という名前が気になる、と書いたのですが、
今回ハンモックナンバーのことを調べていて、この百合一くんが、

枝原百合一 31期 首席 (173人中)

であることが判りました!パチパチパチ
でも、百合一くんは、その後中将どまりです。残念。

さてそこで冒頭の「ジパング」もどきですが、

滝栄一郎 51期 首席 (255人中)
草加拓海 51期 滝より下(255人中)

ここだけの話ですが、この「ハンモックナンバー」、
この順位について話題にするのは、海軍軍人同士のタブーとなっていたそうです。


ですから草加少佐、このとき内心かなり頭にきてたと思います。


 

 

 



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4 Comments

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Unknown (足軽零戦記者)
2012-06-27 23:16:20
 せっかくの珠玉のブログなので、ファンからあえてひとこと。

 第一次ソロモン海戦は1942年8月8日~9日。キスカ島撤収作戦で木村司令官がいったん
帰投命令を出したのが1943年7月15日。三川司令長官が木村司令官の判断をシミュレーシ
ョンするのは無理ですよ。

 あのとき輸送船が全滅して隊員が飢え死にすることにでもなったら、当時ようやく売り
出し中だったアメリカ海兵隊は面目丸つぶれ。日米戦どころか、朝鮮戦争、ベトナム戦争
、沖縄基地問題…と続くアメリカの戦後に大きく影響したかもしれません。三川艦隊の判
断は歴史を大きく変えたのではないかと思いますが…。
そうなんです・・ (エリス中尉)
2012-06-28 00:46:04
足軽零戦記者さま、ご指摘ありがとうございます。

キスカについて以前記事を書いたこともありますから、日付に記憶もあり、書き終わってわたしも「あれ?もしかしたら」と思ったのは確かです。
それで、予約投稿し終わってから、調べてはいたのですが・・・まあ、何を書いても言い訳になるだけなのでやめます。
とにかくっ!お恥ずかしい。
全く同時に足軽零戦記者さん以外の方からも打てば響くような指摘を頂いております。
おふた方もが、わざわざコメント下さるなんて、本当にありがたい限りです。(感涙)

三川撤退については、その影響、三川軍一の下した判断の真意、ともにこれからの研究課題です。
足軽零戦記者さんの御意見、頭に入れたうえで今後資料を読み解いていきたいと思っております。
因みに「三川、神、共に万死に値する」と言ったのは、元伊号潜水艦艦長、板倉光馬氏です。
敵空母は所在不明でした・・・ (オヤジ)
2016-12-16 17:51:59
コメントするのは初めてですが、以前からブログを興味深く拝見しております。

第一次ソロモン海戦での三川長官の決断は、私は当然であったと考えます。

第八艦隊は、敵航空機の攻撃に対しては全く無力です。そもそも、8月7日の昼にラバウルを出撃した第八艦隊が、1日半かけてガ島海域まで到達するまで、一度も航空攻撃を受けず、ガ島海域の連合軍艦隊は全くの無警戒状態でした。これは、敵の失敗に助けれた部分が大きいです。

第八艦隊は、ご承知のように夜戦で大戦果を収めました。夜戦が終わった時点で輸送船の所在は不明、そして、敵空母の所在も不明です。

現実には、フレッチャー提督が指揮するアメリカ機動部隊(空母3隻基幹)は、既にガ島海域を離れて南下しており、第八艦隊の脅威にはなりませんでした。しかし、これを三川長官が知る術はありません。

三川長官は、ガ島海域に敵機動部隊がいる前提で行動しなければなりません。よって、攻撃終了と同時に全速力で北上し、敵空母の攻撃半径(200海里程度でしょうか)から離脱せねばなりません。以前、調べてみたことがあるのですが、この時のガ島付近の日の出は午前5時12分と計算され、戦闘終了が午前零時30分くらいでした。猶予時間は4時間半程度です。

巡洋艦・駆逐艦のみで構成される第八艦隊は、この海戦で、燃料の残量を考慮し、戦闘中は26ノットで行動しておりました(史実)。そのまま26ノットで4時間半、北方へ退避したとすると…ガ島海域から離れられる距離は120海里くらいです。実は、午前零時30分に戦闘終了、というのはやや遅いのです。

さらに、敵輸送船団の所在が不明である以上、仮に三川提督が、所在する「はず」の敵輸送船を捕捉撃滅しよう、と考えた場合、第八艦隊の各艦を分散させて、日の出の後に目視と水上機で捜索するしかありません。

仮にこれを実行した場合、第八艦隊は白昼のガ島海域で戦力を分散させることになります。史実では南方に退避し、第八艦隊の脅威にならなかったアメリカ機動部隊が、ガ島海域に戻ってくる時間が生じます。高速力で3日以上行動している第八艦隊の各艦の燃料の問題も生じてきます。第八艦隊にタンカーは付随していないので、燃料補給はラバウルに帰らないと不可能です。

「敵の輸送船を当てもなく探した挙句、燃料が欠乏した状態で、アメリカ機動部隊の空襲を受けて全滅する第八艦隊」
これは、史実に照らしても、十分にあり得たと思われます。

私がここまで書いた程度のことは、三川長官とその幕僚は当然分かっていました。だから、第八艦隊の作戦計画は「ガ島海域での攻撃は一航過のみ。攻撃終了後は全速で避退する」というものだったのです。
オヤジ・・・・! (エリス中尉)
2016-12-17 14:18:41
オヤジさん初めまして。
コメント欄でオヤジさんと呼ぶのもなんか気が引けますが。

早速深い考察からなる卓見のコメントをいただきまして恐縮でございます。
読ませていただいたところ大変納得いたしました。
海軍兵学校67期の方が南雲艦隊の撤退を「不思議でもなんでもない」というのを
実際に聞いたことがあります。
これも一度書いたことですが、「艦隊は艦隊の論理で動く」ものであり、
後から結果をもって指揮官を非難するのはあたらないと思います。

「万死に値する」は強い言葉ですが、まあこれは、いかにも正義感から少尉の分際で
艦長を殴ってしまう方のものらしいかなと(笑)

南雲長官も、トータルで見れば決して負けてばかりではありませんし、
そもそも敗戦の責任を指令官一人に負わせるというのは如何なものかと思います。

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