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ミッドウェー海戦記念式典

2012-06-04 | 海軍

         
だいぶ前のことになりますが、頼まれてハワイ・ヘラルドの新聞記事を翻訳しました。
ある海軍の元搭乗員の方がご自身の載ったその新聞記事を見せていただいたのですが、
そのときに
「送ってきてもらったのはいいんだけど、英語で何て書いてあるか読めなくてさ」
とおっしゃるので、僭越ながら翻訳をして差し上げたのです。

そして、一度はその記事をアップしたのですが、諸事情により当時、一度削除。
裏で色々あったための配慮でしたが、この記事の削除を惜しむコメントが多く、
記事としても皆さまに非常に興味深いものであると思われるので、
問題部分を変更したうえであらためてアップすることにしました。

1943年6月5日(アメリカ標準時で4日)、ミッドウェー海戦が起こってから、
今年で69年目になります。



今をさかのぼること二年前。
2010年の6月2日から二週間、ハワイ、ミッドウェーで日米合同慰霊祭が行われました。
そのときに戦闘に参加した日米両軍の元軍人が集まり、現地で慰霊を行ったほか、アメリカ航空博物館ではミッドウェー・シンポジウムが行われました。
そのときに日本から参加したのは全国から二十一名だったそうです。

この記事を下さった方は、御夫婦で参加されたそうですが、
夫婦参加はこの方たちだけだったそうです。

歴史的にふりかえると日本の大敗に終わったミッドウェー海戦。
そこにいた当事者の口から出る戦闘は、生々しいものです。
今日は少し長文になりますが、このハワイ・ヘラルドの記事を翻訳して御紹介します。



ハワイ ヘラルド 2010年6月18日

「ミッドウェー海戦の記憶」
日本ゼロ・パイロット ハラダ・カナメその教訓を語る


ミッドウェー海戦が戦われてから68年、日本の零戦搭乗員であったカナメ・ハラダは
九十三歳にもかかわらずその戦闘をはっきりと記憶している。

原田は、第二次世界大戦戦史家が「太平洋戦線における分岐点であった」
と位置づけるこの戦いを回顧する為に行われた記念式典に伴い、
フォード島にある太平洋航空博物館で、六月四日に行われたシンポジウムに参加した
二十一人の零戦搭乗員のうちの一人である。


この時ハラダは5機の米軍爆撃機を撃墜しているが、彼自身は
危険から辛うじて逃れることができたのを幸運だったとは考えていない。

「彼は撃ち落とすときに見た敵搭乗員の顔がいまだに脳裏から離れず、
それからずっとそれが心の重荷になっているのです」
約150名が参加したシンポジウムの間、ハラダの通訳を務めた
歴史家のダン・キングは言う。

「全てのドッグファイトで勝利をおさめたのにもかかわらず、
彼は、ことによると敗者になっていたのは自分かもしれない、
といつも感じていたそうです」

ハラダは、1935年帝国海軍の海軍操縦練習生となり、
戦闘機パイロットとしての経験を積むが、
それは彼らが「一匹狼」であることをゆるされていたからであった。
彼は操練35期を首席で卒業し、このとき恩賜の懐中時計を授与されているが、
今日もそれはハラダの手許にある。



この記事のカナメ・ハラダとは、零戦搭乗員に詳しい方ならおそらく「エース列伝」のたぐいで
一度は名前をご覧になったと思われる、原田要中尉のことです。

後半、「一匹狼」lone wolf と言う部分が今ひとつよくわかりませんでした。
団体のうちの一人としてではなく、個々が
「戦闘機パイロット」として一国一城の主として戦闘を行っていた、と言う意味でしょうか。
それにしても、「何十年の間脳裏を去らない撃墜したパイロットの顔」という言葉は・・・。
あまりにも重い十字架です。


1941年12月7日、真珠湾攻撃において、
(真珠湾攻撃は日本時間8日未明なので、米側の文献では常に7日と書かれてあるハラダは4隻の機動部隊上空直衛の任務にあたるも、爆撃も雷撃も行わなかった。
6カ月後、ハラダは真珠湾攻撃のときのものを含む4隻の護衛任務を任されるが、
これが1942年6月4日から7日まで行われたミッドウェー海戦であった。


このとき翻訳した新聞記事はもう一つあって、
こちらには真珠湾攻撃についてこのような原田氏の述解を加えています。

1941年12月7日、原田はハワイに哨戒のため飛行するが、
オアフ攻撃には参加していない。

「彼は自分が攻撃隊から外されているということを知った時、怒り狂ったそうです」
キングは言う。
「日本の搭乗員は守備より攻撃を重んじるものだからです」


翻訳のニュアンスとして、こうとしか訳せなかったのですが、
「怒り狂う」というのは当時の搭乗員の感情としてはいかがなものかと言う気がします。
「残念でたまらなかった、悔しかった」
と言うのが日本人のメンタリティには近いのではないかと思います。


最小の防御設備しかないが、重量の爆装を帯びた原田の零戦は
このとき6月4日に沈められた蒼龍から発艦した。


もう片方の新聞は
「重い装備とごく最小の防備、それはまるで『空飛ぶマシンガン』だった」
と零戦についてこのように説明しています。


船団はこのとき敵の爆撃により壊滅的な打撃を受ける。
原田の機は日本側の船団で辛うじて機能していた空母飛龍に着艦をした。
そこで新しい機に乗り換え発艦したとたん、飛龍は大炎上。

彼はその海域を3時間旋回し、燃料を使い果たしてから海上に不時着を図った。
四時間の漂流の後、七日夕刻、原田は駆逐艦「巻雲」に救助される。
幸運であったとしか言いようがないが、
駆逐艦に拾われるまでの時間、彼は死ぬことを考えていたという。

飛龍の甲板で新しい機を待っていたときに、
拳銃を近くのテーブルに置いたことが彼を死の運命から遠ざけた。
戦闘の興奮の中で、彼はそれを装着するのを忘れていたのである。

「機が用意できた、というのを聴くや、彼はすぐさま飛び上がりました。
そのとき拳銃がテーブルに置いたままであったことが、彼を今日在らしめているのです」
キングはこう報告した。

「もし彼が拳銃を持っていたら、海中を漂っていたとき彼は自決していたでしょうから」



巻雲艦上では、腕や脚を失った重傷者を差し置いてハラダの治療が施された。
原田は戦争の現実に震撼した。

「軍医が言ったんだそうです。
『いやいや、貴様はここのみんなよりちゃんと手も脚もついとる、
だからあんたを手当てして戦闘に戻さんといかん。
脚や手を無くした兵は基本的に役に立たんから、放っておくんだ』」
キングはこう続ける。

「戦争に組み込まれるというのは、人間としてではなく
兵器として使い捨てられるということなのです」


戦闘が終了したときには、
アメリカ海軍は日本側におよそ二千五百名の犠牲を出す打撃を与えていた。
比べて米軍側の犠牲は三〇七名である。

帰国してから一カ月以上、搭乗員たちは敗戦を隠ぺいするために隔離されていたと
原田は言う。

しかしながらハラダはその後もガダルカナルの空戦場で戦い続け、
そこで単独10機、共同撃墜1機を記録している。

ミッドウェー開戦から68年後、日米両国から、
ハラダをはじめとする百人を越す元軍人たちが小さな珊瑚環礁を訪れた。
ここは、今日国際自然保護対象であり、
戦いで失われた将兵たちに敬意を払う地となっている。

「ハワイのレイを携え、ボートでそこに行って弔辞を読んだ」

(8ページに続く)



さて、この後、8ページでは慰霊祭の模様が語られるのだと思います。
思います、と言うのは、この続きを訳すため
「8ページ以降送ってください」
と手紙を出した(勿論メールはなさらないので、スネイル・メール、つまり文通)のですが、

「この続きは、先日の会合席上で出席していたアメリカ人に見せたら、彼が
『欲しい』と言うのであげてしまい、ありません」

・・・・・orz

何と言うか・・・全く、こだわらないって言うのか・・・。

でも、実際の体験があまりに強烈過ぎて、それを再現した形式的な記憶のよすがなど
全く問題としていない、ということなのでしょうね。

最後にこの部分のもう一方の新聞記事を挙げます。




ミッドウェー環礁は世界的な自然保護区域にあり、
米国野生生物、魚類保護局の管理、保護下にある。

環礁はホノルルの約1250マイル北西に位置する。

旧日本軍人たちは慰霊のために続いてオアフをも訪れた。
ミッドウェーのこの海戦では日本側に2500名の犠牲者があったと言われている。
米軍側は約300名の命が失われた。