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三島由紀夫 映画「憂国」

2011-07-10 | 映画

                   

ボストンで「戦場のメリークリスマス」と一緒にこの「憂国」の豪華ブックレット付きDVDを購入しました。
たまたま目に着いたからという理由で何の気なしに手に取ったのですが、
これがなかなか貴重なDVDであったことがその後わかってきました。

三島の遺族(夫人)がこの作品を忌避し、上映の禁止は勿論、
オリジナルフィルムを焼却処分にしてしまったためながらく幻の作品となっていたのですが、
夫人が亡くなってその後、2006年、
平岡家(三島の本名は平岡公威)からネガフィルムが発見されたため復刻し、
ようやく陽の目を見たのです。

海外では三島文学の評価は非常に高く(ノーベル賞の候補に挙がったこともあります)
かつ三島自身も「滅びの美学」を体現する日本の象徴的人物として一般に有名です。
先日記事にした「戦場のメリークリスマス」に彼らが三島的なものを見ていたのではないか
(つまり刀、武士道と死と隣り合わせのエロスといった)、とそのイメージから語ってみました。



太宰治がまたそうであるように、三島文学に対してはその人物人生を含めた熱烈なファンがいる一方、
(わたしが太宰を嫌悪しているように)嫌いとなると徹底的に嫌いな人間がいる、といった
好みが両極端に分かれる作家のひとりではないかと思います。

わたし自身はごく一般的な読者としての範囲を出ていない知識しか持っていなかったわけで、
本日画像、「憂国」のスチール写真についても、何処かで観たことのある
「腰の軍刀にすがりつきの図」(笑)みたいなものだと思っていたくらいでした。

画像を描くためにあらためて細部を見ることになり、これが割腹して果てた三島自身演じる陸軍中尉と喉を突いて後を追ったその妻で、二人が横たわっているのは掃き清められた白砂だったことを初めて知ったのです。
(描くとき筆のテクスチャーにさんざん苦労したこの背景ですが、何とか砂に見えてます?)
そして、今までそこにあることすら気付かなかったのですが、
軍刀は男性の首を貫いていたのです。
モノクロである上に画像が荒く、実はどうなっているのかわからなかった男性の胴体部分は、
もしカラーであれば鮮血で紅く染まっているのでしょう。

   

このタイトル「憂国」ですが、英語題は「Patriotism」、つまり「愛国」です。
英語辞書を引くと愛国心と引いても憂国と引いても、この同じパトリオティズムが出てきます。
つまり「国を憂う」という直接の単語は英語には存在しないということです。
しかし、画像右側、三島自筆の意外とかわいらしい字で書かれた英文のタイトルをご覧ください。
(LOVEのOがハート型なのがおわかりでしょうか)
三島自身がこの映画の英語タイトルを憂国の英訳である「パトリオティズム」でなく

「愛と死の儀式」

と名付けていることは非常に興味深い事実に思われます。



二・二六事件に加わることができなかった武山信二中尉。
今や彼らを反乱軍として討つことを命ぜられ、公と義の狭間での苦悩の末、
自らの命を切腹によって断ち、妻麗子とともに死ぬ。


30分ほどのこの映画は、全編ワーグナーの楽曲が流れる中、三島と妻の麗子役の女優、
二人きりの出演者は「至誠」と書かれた掛け軸のある舞台で台詞の無い演技をします。

今回何かで「三島の演技が下手」という感想を目にしたのですが、
ほとんどがイメージ写真のようなアップや象徴的な映像がコラージュのようにフラッシュされ、
演技は「していないに等しい」と言いきってもいいでしょう。
それはまるで連続写真を見ているかのような気にさえなります。

三島はある時から、醜悪ともいえる不可思議な自己顕示行為に奔走し、それらは
「天才文学者三島由紀夫」の熱心な信奉者を酷くがっかりさせたと一部では見られています。
そしてその最たるものに「アクション映画で主役のやくざを演じたこと」がありました。
この「からっ風野郎」での演技者としての惨憺たる姿と「憂国」での三島は少し異質に見えます。

ここで三島本人はその鍛え上げられた肉体を惜しげもなく誇示するものの、軍帽を目深に被り、
三島由紀夫であることをその軍帽に、そして軍服によって覆い隠し、名も無い一軍人を「演じて」います。


二幕目では、同じく死を覚悟した最愛の美しい妻と最後の愛の交歓が行われるのですが、
この部分を「死を目前にした壮絶なエロス」として語るには、その映像はあくまでも観念的で、
表現方法からもまるで聖なる儀式を粛々と取り行っているようです。
そして最もこの部分を冷え冷えと見せているのは、三島が女性の肉体に耽溺しているように見えないこと。
最も印象的なシーンは、事後、褌と目深に被った軍帽だけで、軍刀を床について足許に妻を侍らせている姿。
かれが同性愛者であったというのは、文学上の戦略において作られた「仮面」であったと言われ、
ここでの三島からはむしろ強烈なナルシシズムだけが感じられます。


そして、この映画の最も生々しく生気に満ちた部分が、二人が自決するシーン。

かれはいつのころからか「切腹による自殺」を世間に公言しており、たとえば体を鍛える理由を
『切腹したときに腹から脂肪が出ることのないように』などと語っています。
「憂国」での切腹シーンは、まるでその願望を映像で予行演習するかのごときで、
飛び出した腸には豚のものを使うなどという、省略され観念的な他のシーンとはあまりに対照的な、
グロテスクなほどのこだわりとリアリティを見せています。



小説「憂国」は三島が「私の小説で何か一つ読むならばこれを読んで欲しい」と語ったという作品ですが、
切腹の描写はこれでもかとばかり凄惨なもので、必ずしもそのものに美を見出していたわけではないようです。
三島にとって切腹はあくまでも観念上の様式としてあるもので、自らの人生を自らの手で終わらせる、
その様式美の極ともいえる「死の儀式のかたち」にこそ、表現者としての興味の対象があり、
それこそ自らがその方法を終焉に選んだ理由だったのでしょう。


市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした三島の遺体を解剖した医師によると、その首には三箇所の切り傷が見られ、
それは介錯の森田必勝が興奮のため太刀筋を誤った形跡であると言われています。
あるいは三島の激しい苦悶がその姿勢をして介錯を受け損なったというのもあるかもしれません。

本来武士の切腹の作法というのは、介錯によって確実に命を絶つために
「形だけ」刀を腹に突き立てるものと言われています。
後に続いた森田の腹部の傷はかすり傷程度で、その頸椎は一太刀で切断されており、
おそらく彼は「非常に安楽な切腹死」をしたと思われます。
しかし自ら映画で演じたシーンをなぞるかのように、三島の自ら突き立てた刀はその腹腔深くを抉りました。
それはまさに「介錯無しで切腹する者の斬り方」だったそうです。

おそらく彼は、切腹による自殺を決意してからというもの、何度も何度もその方法を反芻したでしょう。
「憂国」では小説と映画と言う形でシミュレーションをし、
また写真家に連続写真による自らの切腹シーンも撮影させています。
なんども疑似体験されていたはずのその本番で、三島が苦悶をわざわざ選んだのはなぜだったのか。


いまわの際、吹き出す血を、飛び出す己の腸を―その凄まじい苦痛も含め―
三島があくまでも表現者としての冷徹な目で観ていたのではないか。
そしてもしかしたら、それを観たいがため彼は最後の「計算違い」をあえてしたのではないか。
これはわたしの想像です。


「憂国」で使われた「序曲と愛の死」はワーグナーの楽劇、「トリスタンとイゾルデ」の劇中曲です。
主人公トリスタンを歌う歌手ををドイツ語で「ヘルデン・テノール」(英雄的テノール)
そして彼の死を「ヘルデンハフター・トート」(英雄的な死)と言います。


三島が自らこの映画を「愛と死の儀式」と名付けたように、「憂国」のテーマは「思想」ではありません。
もしかしたら三島由紀夫にとって「憂国心(パトリオティズム)」は、ヘルデンハフター・トートと言う名で麗々しく飾られた己の死を完遂するための公の大義にすぎなかったのではないでしょうか。

最後の瞬間、
かれは皇国思想を信奉する思想家でも、ましてや自衛隊員に決起を呼びかけた煽動者でもなく、
己の作り上げた美学の殉教者としてその人生を終焉せしめることに恍惚としながら至福のときを迎えた、
そう思えてなりません。