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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

TAPS(鎮魂喇叭)が鳴るとき〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-11-09 | アメリカ

不肖宮嶋茂樹氏の「鳩と桜 防衛大学校の日々」に掲載された
防大生たちのひたむきな表情と真摯に明日の防人を目指す姿を見るうち、
またウェストポイントについて無性に書きたくなりました。

見学者のための「ウェストポイント紹介ミュージアム」展示、
前回の続きからご紹介していくことにしましょう。

このミュージアム、卒業生の寄贈によって建てられたものですが、
とてつもなくお金がかかっています。

アメリカでは事業に成功し、功なり名を遂げた卒業生が
自分の卒業した大学に、莫大な寄付を行うものですが、
ウェストポイントの場合は実業家ではなく政治家かもしれません。

特に保守派の政治家なら、アナポリスかウェストポイントを出ていることは
大変な強みになるため、ドナルド・トランプは実はこの点
密かな劣等感を抱いているらしい、という話をどこかで聞いたこともあります。

 

さて、パスポート のミュージアムの中には講演会なども行えるホールがあって、
ここでは15分ほどの「ウェストポイントの歴史」を上映していました。

南北戦争で「青と灰色を率いた」とあります。

英語の「ブルー・アンド・グレイ」にはいろんな意味があるのですが、
一般的には南北戦争における連合軍のブルー、反乱軍のグレイをいいます。

わたしがこの意味を最初に知ったのはジャズの名曲、
「オールド・フォークス(Old Folks)」の歌詞でした。

彼らを理解しようなんて思わないこと
ブルーとグレイ、どちらのために戦ったとか
なぜなら彼はそれは外向的で民主的だから
もうやりたいようにやらせてあげればいいんだ

毎晩夕食の後 彼のおなじみの話が始まる
あの日リンカーンのゲッティスバーグでの演説を
彼がどんな風に聴いたかなんて話が 

どちらのために、ってこの爺さんはブルー(北軍)だろ?
リンカーンの演説を聞いてたってことは。
というツッコミはともかく、かつての戦士も今はただの爺さん、
彼らがいなくなったらこの世界は寂しくなるね、という歌です。

自分もまたその「オールドフォークス」となる運命は無視か?



さて、この絵に描かれた二人は両軍の将と思われますが、(誰かわかりません)
「リード」の意味は、つまり北軍のグラント将軍、シャーマンはもちろん、
南軍の
リー将軍もジョンストンも、全員が陸士出身だったということです。

同じ陸軍士官学校を出ていながら互いに殺し合いをしたことに対し
何か反省の一言はないのか、と思わずツッコミを入れてしまいましたが。

南北戦争についての話では、アメリカ人でない我々には全く知るすべもない
同級生同士の戦いとか、
そういう「秘話」がたくさんありそうですね。

出たよ、「ロング・グレイ・ライン」。

coralさんにいただいた各国各軍隊の行進比較映像によると、
はっきりいって彼らの行進が一番「なってなかった」わけですが(笑)
こうしてみると昔ながらの灰色の「肋骨服」を未だ変わらず継承し、
深々と儀礼用帽子を被り歩く姿は、やはり凛々しくかっこいい。

以前も話題にした同名の映画、DVDを取り寄せましたので
面白かったらまたここでご紹介するつもりです。

映像ではウェストポイントの厳しい訓練の様子が次々と映し出されました。
防衛大学校では陸上要員となることを進路決定して行う訓練ですが、
こちらは最初から陸上要員なので入学するなりガンガンいきます。

まあ、厳しいってもこんな低いところなら落ちても大丈夫。
楽勝楽勝!って感じが、やっている人の表情にも感じられますね。

しかし遊びやないんやで。これは。

しかし一通りの基礎を学んだ後は同じことを高所で行います。
さすがに落下する可能性をを想定して安全ベスト着用です。

これはミュージアムの天井にあった実物大模型ですが、
これ実際にやってみるとかなりきつそうです。

次のコーナーに足を踏み入れて驚きました。
実物大の士官候補生の私室が再現されているのです。

わたしたちはその時息子を大学の寮に見送ったばかりで、
その意味でも一般大と軍学校の違いがよくわかりました。

まず・・・・広い!

クローゼットは同じくらいの大きさでしたが、とにかく
家具などを置いていないスペースが広すぎます。

こういうものも部屋に置いておくんですねえ・・。
本物ではなく訓練用の銃だと思うんですがどうでしょう。

正帽は夏冬用、儀式用三種類を並べられる棚。
学生生活に必要な全ての衣類に加え、私服(一着だけ)、
そして一番右にパジャマも掛けてあります。

ベッドがとても高くて、ベッド下にトランクなどを収納するのは一般大と全く同じ。
ベッドの毛布はOD色で、ホテル式のメーキングをすることになっており、
掛け布団は自衛隊のようにきっちりと四角く畳んでおきます。

しかし、いろんなところであの自衛隊名物「バームクーヘン畳み」
を見てきたわたしの目には、この畳み方は甘い。甘すぎる。

写真だと本物みたいですが窓の外に見える景色は写真の合成です。
実際にある部屋から見える景色をそのまま再現しています。

勉強机の上にある本棚には、

「アメリカン・ポリティックス・トゥデイ」

「ミッション」

「マイクロ・エレクトロニクス」

「エクスペリエンス・ヒストリー・1877」

「デジタル・エレクトロニクス」

などの本が並んでいます。
どれも教科書なんでしょうか。

これによると、候補生宿舎のことを「バラック」と言います。
バラックでは36名を一単位とする学生隊での生活を基本とします。

バラックでの生活で最も大切なことは、部屋を清潔に保つこと。
そして整理整頓を欠かさないこと。

これは世界的に軍隊というものはそういうことになっているからで、
埃をためないとかベッドメーキングは完璧にとか、
それらや装備や制服の手入れがちゃんとできているかどうかを
定期的に検査されるというのも防大と全く同じです。
(ベッドが外に放り投げられたりするかどうかは不明)

この「SAMI」と呼ばれる威儀清潔検査は土曜の朝に行われますが、
プリーブ、新入生にとってありがたいことに、抜き打ちではなく
日も決まっているので事前に掃除をしておくことはできます。

甘い、と防大出身者なら全員が口を揃えていうことでしょう。

チェックを行う上級生は、写真右側のバインダーを持って部屋を周り、
チェックリストに印をつけていくのです。

どれどれ、そのチェック項目とは?

「フロアに掃除機はかかっているか」

「調理道具が部屋にないか」

「カーペットに掃除機はかかっているか」

「デスクの後ろもちゃんと掃除してあるか」

って、要するに掃除してあればいいんだろ!と言いたくなりますが、
まあ要するに上級生が小姑のようにデスクの上を撫でて、
埃のついた(かどうかわからない)指にふっと息を吹き、

「ダメだな」

などとサディスティックにダメ出しをするわけですねわかります。

次のコーナーでは「カデットの1日」として、候補生生活を紹介しています。
おヒマな方は上の英文を読んでいただければわかりますが、とにかく
朝起きてから晩寝るまで、候補生の生活はみっちりとスケジューリングされ、
未来の指揮官になるために必要なカリキュラムをこなさなくてはなりません。

起床は5:15。
そんなに早く起きて何をするかというと、ランニング(など)です。
身なりを整え20分で朝食を済ませると、7:30には授業が始まります。

写真のように、最新の設備を使った科学系の授業や、
あるいは体力テストを伴う肉体鍛錬なども授業としてしょっちゅう行われ、
クラスとクラスの間の移動は早足で行われます。

アナポリスと違って地下道なんて洒落たものはここには存在しないので、
どんな天候でも彼らは移動を屋外で行うことになります。

しかし、わたしが訪問したこの夏の日、その日差しの強さと蒸し暑さは
悪名高き日本の都会と寸分変わらぬ過酷なものでしたし、
冬は冬でとにかく内陸特有の猛烈な寒さに襲われるここウェストポイント。
移動一つとっても結構大変なのではないかと推察されます。

1210、軍学校らしく皆で整列して食堂まで行進。
そして4,400人が一緒に食事をとります。

左の上から二番目は「ミッドデイ・スナック」を楽しむ候補生たち。
厳しいといっても食べ盛りの青年たちの集団ですのでおやつも必要。
おやつと言いながらピザ一切れ(アメリカのはでかい)とか、
メープルクリームがけパンケーキアイスクリーム添えを楽勝でかっくらってそうですが。

1250からの「ディーンズ / コマンダンツ・アワー」というのは
説明がないので詳細はわかりませんでしたが、学部長とか司令官とか、
とにかく偉い人の前で発表とかをさせられるんではないかと思います。

そして午後の授業は正式には1355に始まります。

面白いのは1615からの防大で言う所の「校友会活動」(クラブ活動)を
ここでは「マッカーサー・タイム」と称していることです。

検索してもなぜこれをこう呼ぶのかわかりませんでした。

夜1900、全員がフルドレスに着替えてディナーを取ります。

しかし、そこはアメリカ人、食事時間は30分で、食後は
自習したりテレビでスポーツ観戦したり、趣味の音楽演奏に興じたり、
というわずかながら楽しい自由時間を過ごすことになります。

朝5時に起きる割には就寝時間は遅く、なんと2330。
6時間も寝られないことになりますが、日中眠くないのかしら。

消灯時間のところに「タップス(TAPS )」とありますが、
このタップスというのは皆さんもおそらくご存知の喇叭譜のことです。

Taps

つい自分の趣味で海軍のタップスを揚げちゃったよ。

こちら譜面の読める人のために。

夏にアメリカで観た「ザ・ラストシップ」の最終シーズンにも、
ボロボロの艦上でタップスを吹鳴するビューグラー、という
アメリカ人にはたまらんに違いないシーンが挿入されていました。

タップスは「鎮魂喇叭」ですが、ウェストポイントではこれを
「ライツ・アウト」、つまり消灯時間の喇叭として演奏しています。

 

あるウェストポイント卒業生はこう言っています。

「2330、タップスがスピーカーを通じて構内に鳴り響く時が
1日のうちわたしの好きな時間だった。
その20秒かそこらの時間、わたしはこの国のために戦って
そして斃れていった人々のことに想いを馳せるのだ。

いつの日か、わたし自身の葬送でこの旋律が演奏されるだろう。
わたしは祈るのだ。
その時、わたしがこの旋律の表す名誉と敬意を捧げられるに
相応しい存在でいられますように、と


続く。



ポイント・ボニータのメンデル砲台〜サンフランシスコ・ゴールデンゲートパーク

2018-10-26 | アメリカ

ナイキミサイル・サイトを出発し、わたしはとにかく
ゴールデンゲートパークの一つのポイントにもなっている
崖沿いのドライブウェイを走っていくことにしました。

昔、そこから一本道の一方通行になる手前で引き返してしまい、
ちょっと後悔していたこともあり、一人で行ってみることにしたのです。

よく人に「よくどこにでも車で出かけられるね」と、
特に女性からいわれるわたしですが、進んで止まる機能が付いているなら
ニューヨークのど真ん中だろうがアラスカだろうが、道のあるところは
どこだって車があれば出かけていきます。

崖沿いの一本道だって、観光地ならなんてことはありません。

今回もロス在住の女性から、サンフランシスコの中心街とか、
東京で運転するなんてすごい、と感心されてしまったのですが、
わたしにいわせれば、ニューヨークに乗り入れる時の高速車線移動や
霧の八甲田山中と比べれば、
大抵の都心なんて全く恐るに足らずです。

ちなみにそんなわたしが唯一運転しながら死ぬほど怖かったのが、
モントリオールからの帰り、スノータイヤも履いていないのに
雪の高速を延々と走らねばならず、大型車が通り過ぎるたびに
フロントガラスに大量の雪氷をぶつけられたときでした。

さて、それでは崖沿いに走るシーニックドライブウェイに突入します。

道は狭いですが、中国のみたいに舗装していない崖道というわけではなく、
アメリカには珍しく、低いとはいえガードレールもついています。

後ろから車が来ないので、停止して写真を撮ることもできました。

霧が濃いと、流石の観光客もこちらではなく、
左側のブリッジに戻る道を選んでしまうようです。

海沿いの道からいきなり左側にバッテリー、砲台跡が現れました。
砲台には手前にまるでパーキングのようなスペースがあるので、
ここに車を停めてみることにしました。

階段を上がってみる。

ここは「バッテリー・ラスボーン(Rathbone)」といい、
1905年に建造され、1948年に廃止されました。

グーグルマップによる上空から見たラスボーン砲台。
左から#1から#4まで番号が打たれており、
わたしが車を停めたのは#2砲台だったと思います。

M1900という高速砲がマウントされており、
山の斜面に乗せるのではなく、くり抜く形で設置したのは
反撃を受けた時の防御のためです。

その名前は1812年にカナダで亡くなった米陸軍砲兵隊の
サミュエル・ラスボーンから取られました。

砲台の上からは崖の斜面まで行くことができます。
日本なら崖沿いに柵を作ってしまうところですが、
ここではもし落ちたとしても「自分が悪い」で終わってしまいます。

ベンチから3mも行くと、そこは崖です。

時間があればこんなベンチに座って海を見るのもいいかもしれません。
ただし大抵ここは猛烈に風が強くて寒いです。

わたしが近寄れるのはせいぜいここまで。



砲座と砲座の間は繋がっているところもあります。
ここは通路だったと思いますが、向こう側には
パウダールーム(火薬室)や貯蔵室などに使用されていました。

ちゃんと独立した建物のトイレも設置されていたそうです。

バッテリーの名前は「ラスボーン・マッキンドー」になっています。

ラスボーン命名から100年経って第一次世界大戦の時、フランスで戦死した
兵士、マッキンドーの名前を砲台に残そうということになったものの、
いくら100年前の人とはいえラスボーンの名前を消してしまうのも如何なものか、
ということで#1 と2をラスボーン、残りをマッキンドーということにしました。

第二次世界大戦中は、

「砲台はゴールデンゲートの外側に設置された地雷によって守られていた」

と書かれています。
ここから最終的に砲が撤去されたのは1948年になってからでした。

さて、さらにそこからコンツェルマンロードという一本道を
どんどん岬に向かって走って行くと、車で行ける一番端っこに、
面妖な構造物がありました。

なんの説明もないので何に使われたのかさっぱりわかりません。
全集周りを回って見ましたが、どこからも出入りしたり
何かを出し入れするような場所が見つからないのです。

ちなみにこれがグーグルマップの画像。
世界共通で同じような字を書く落書き隊の餌食になっております。

さて、そこからは車で進めないので、適当に周りを歩いてみることにしました。

赤土の道を歩いていくと、立派な?砲台跡が現れました。
これは

 Battery Mendel

といい、サンフランシスコ、ソーサリートの西端を守る位置にあり、
これまで見たどのバッテリーよりも建物の点で大掛かりです。

今までのバッテリーの名前が基本戦死した兵士だったのに、

 George H Mendel ジョージ・H・メンデル大佐

という比較的高位の技術将校の名前が附されています。

メンデル砲台の前に立つと見える景色がこれ。
向かいにもバッテリーが一つ見えますね。

これはバッテリー・ウォラース(Wallace)といい、同じ大きさの
砲台がもう少し右に設置してあるそうです。

手前の山のせいでここからは一つしか見えませんでした。

ここも自由に立ち入りできる模様。
「off-limits」と書かれた印の下の鉄の扉は錆びて
もういたるところに穴が開いています。

リンク先を見ていただければわかりますが、これが作られたのは
1905年、つまり100年経つと金属はこうなるのです。

ここはおそらく弾薬庫かあるいは火薬庫だったのでしょう。

階段を上がってみると、砲台跡が現れました。

はて、ここにどんな砲がどうやって設置されていたんだろう。

答えはリンク先にもあった、これ。
砲撃するときだけ砲がスィング式で持ち上がる仕組みです。
しかしここに設置するくらいだから大きかったんだろうな。

と思ったら写真発見。

おそらくわたしの写真と全く同じところで撮られたものです。
ベツレヘム・スチール・カンパニー製のM1895A4、
12インチ・ブリーチ・ローディング・ライフルである、
と説明には書いてありました。

構造物の見張り所だったらしい部分に上がって行くことにしました。

横長の見張り窓にはガラスなどが嵌っていた形跡はありません。
もっとも100年経っているので元がどうだったかは想像するしかありませんが。

ところで・・・・あれ?

左側にこのブログでもお話ししたことのある「あれ」が。

キルロイがここにいた!(笑)

「キルロイ・ワズ・ヒア」のミームと落書きについては
もしご興味がありましたらこの過去ログ後半部分をお読みください。

「キルロイはここにいた」〜重巡洋艦「セーラム」

一番高いところにも上がってみました。

この木の階段はあとで観光客用に付けられたのだと思います。

砲台の最上階に上がると、そこは地面と繋がっています。
フラフラ歩いて行く人が結構いたのか、アメリカには珍しく
これ以上は崖に近づけないように柵が設置してありました。

もう一つの見張り台にはロナルドさんの名前の落書き入り。

歴史の遺跡に落書きをするなよなー。

ここがソーサリート側の最西端となります。
海の向こうは日本。

サンフランシスコの高地でよくみる鮮やかな色の草が崖を覆っています。

ゴールデンゲートブリッジの方向を振り向いたところ。

砲台をら元来た道を戻るところにあった空気抜きの土管付きの小山。

グーグルアースで確認すると、見えないところに建物跡がありました。
おそらく、この建物から入って行く土中は火薬庫になっていたのでしょう。

先ほどの二つの土まんじゅうから先端に行くとそこに灯台があります。
灯台はゴールデンゲート海峡を通る船の航行の安全のために
1855年に作られてそれ以来ずっと稼働しています。

「カリフォルニアにゴールドラッシュでやって来た人たち、
太平洋やフィリピンに戦いに向かう海軍の艦隊、
そしてアメリカにやってくる何万人もの移民たち・・・。
灯台はずっとここにあってサンフランシスコの歴史を見てきました」

かつて、この岬からは海難救助隊の船が漕ぎ出していました。

そういえば、もう少し灯台側に歩いて行った道から見えた桟橋の遺跡。
これはかつて海難救助船のステーションだったのではないでしょうか。

今ではこの場所には人が陸から立ち寄るすべもありません。

ちなみに紫の丸が、この看板の設置してあった場所です。
先日お話したナイキミサイルサイトも実はこのすぐ近くになります。

さすがアメリカ、こんなところでも携帯が使えるスポットが
ちゃんと用意されていました。

ここから先には歩いて行くことしかできません。

道も舗装されていませんが、なぜかこんなところにもベンチがあります。
灯台のための電気を送るための電柱があります。

灯台のあるところに行くにはこの橋を渡ります。
岩をくりぬいたトンネルにはなぜか扉があって、
灯台に行くにはそこをくぐり抜けねばなりませんが、
トンネルがオープンしているのは日曜の12時半から3時半までのみ。

この日も扉が閉まっていて、灯台にいる人のであろう車が
扉の前に停まっていました。

この写真に写っているゲイカップルは扉の前まで行ってみたようです。

トンネルをくぐって行く人に対して、

「我々の遺産と自然環境を守るため、
とるのは写真だけ、残すのは足跡だけにしてください。
全ての自然の、そして文化遺産を未来に残しましょう」

と注意書きがありました。

ふと崖の上の方を見ると、一部真っ赤な部分が。
先ほどの植物がここにだけ生えているのでしょうか。
それとも・・?

改めて最西端からブリッジを眺める。

ところであんなところに家と庭がありますね。

ズームして見てびっくり。
建物の柵の中に鹿がいっぱいいるではないですか。
別の日にここに来た時、ジャッカルも見たので、もしかして
これは鹿を保護するセンターか何かかな。

解像度すげー!
改めて28−300mmのレンズの優秀さを知りました。


一方通行なので、サンフランシスコ方面に帰ろうとすると道は一つしかありません。
さっき通ったナイキサイトの崖の上の陸軍砲兵部隊の隊舎跡を見ながら、
ゴールデンゲートのポイント・ボニータを後にしました。

 

続く。

 

 


ナイキ・ミサイル・サイトSF-88〜ゴールデンゲートブリッジ公園 その2

2018-10-01 | アメリカ

ゴールデンゲート公園の中に冷戦時代の遺物である、
ナイキミサイルのサイト(site、用地ですので念のため)を見るため
一人で1時間離れたサンマテオから車を飛ばしてやってきたわたしです。

 

あとで聞けば、ツァーは30分に1回しか行われないらしく、
参加するといえばこの寒いところでずっと待っていなければならなかったので、
ツァーは来年にして正解、と自分で自分を納得させました。

さて、カメラを持って敷地に入っていこうとすると、前のツァーのガイドが
ちょうど地下に収納してあるミサイルを稼働させ、地表に出して
さらに仰角をあげているところでした。

これが最大射角かどうかはわかりませんが、ここでストップ。
しばらくするとまたウィーンと音をさせてもとに戻ります。

ミサイル台を動かすスイッチは、帽子の人がいるハッチの下にあるようです。
こんなミサイルが、最盛時にはベイエリアだけで12基もありました。

今はボランティアのおじさんがのんびりと一人で動かしていますが、
かつては135人のソルジャーたちが、24時間ここに勤務していました。
その135人の上に立っていたのは若干24歳の部隊指揮官だったそうです。

ここの勤務になった兵士たちは、たとえば0830には出勤して、
引継ぎを行い、そこから6時間任務に当たります。

その6時間の間、たとえばある兵士は、オシロスコープを使用して、
送信キャビネットと受信キャビネットのすべてのポットを調整し、
PPIスコープを確認し、アンテナをチェック後、コンソールを起動。

これらの機材の「チェック」は、完了するのに約1時間かかります。
それが済むと、通常約2時間ミサイル台は稼動状態のままにしておきます。

このルーチンを0900、1500、2100に、0300に行います。

兵士たちはチェックと稼動任務の間は4時間のガード任務を2回行い、
残りの時間にはメンテナンス任務が充てがわれていました。

つまり、ほとんど彼らには寝る時間はなかったということになります。

今でも何かに使われているらしい建物がミサイルサイトの丘の上にあります。
ここには兵隊たちのバンク(寝床)がしつらえられていました。

しかし、誰もここを使用したことがなく、なんのためにバンクがあるのか
誰もわからない状態だった、とかつて勤務していた元兵士が証言しています。

彼らの平均年齢は18歳半。
全員が学校を出て軍隊に入り、訓練を受けて最初の任地です。
彼らは特別な訓練を受けていましたが、自分の任務が最終的に
なんの役に立つのかとか、目的などは全く知らされていませんでした。

しかも彼らはすぐに移動になりました。
つまりいつも人が新陳代謝している状態です。

ここにいる短期間だけ「寝ない」生活をしたとしても、すぐに
別のところに回されるのでなんとかなったのでしょう。

前の組が今からミサイルの下に入っていくようです。
ここにはコンソールパネルがあるらしいとこの時知り、
今走っていけば一緒に説明を聞くことができるかな?と迷ったのですが、
彼らがどうやら一つの家族らしく、和気藹々な感じだったので、
日本人的遠慮から(笑)お邪魔してはいけないと諦めてしまいました。

後ろに回ってみました。

ここにあるのは正確には「ナイキ・ハーキュリーズ・ミサイル」で、
これを3基収納するマガジンが三つ並んでいます。

固形燃料ロケット・モーターにより推進する地対空ミサイルであり、
地対地ミサイルとして使用することもでき、ここでの主な目的のように
弾道間ミサイル迎撃システムとしての働きを期待されて製造されたものです。

丘の上の隊舎も入れた全体はこんな感じ。
手前のピクニックテーブルのせいで、まるで寂れた遊園地のように見えます。

発射台の奥にある資材置き場に行ってみました。

かつてはこれにミサイルを乗せて運搬したのに違いありません。
木材部分は朽ち、金属部分は錆びてしまっています。

手前のコンテナは、ここを歴史資料としてみせるために、それなりに
メンテナンスを行うため、必要な道具などが収納してあるようです。

下段にベッドが見えますね。
これが当時もこの一角にあって、兵士たちは丘の上ではなく
このコンテナの中で仮眠をとって勤務に就いていたのでしょう。

地下の発射モニターがある部分には、今人が入っています。
万が一実際にミサイルが撃たれるようなことがあれば
基地全員がこの地下壕に避難したのに違いありません。

うーん・・・やっぱり見ておけばよかった。

見ていると、いきなりグオーンとハッチが下に開いて、
ミサイルがクレイドルに乗ったまま地下に沈んでいきました。

外にうろうろしていたわたしを入れた3人が慌てて覗き込みにきます(笑)

下にミサイルが収納されると同時にハッチがしまってしまいました。

どうやらミサイルは公開の日、見学者がいる時だけ
ハッチの下から出してきて、日頃は地下に収納してあるようです。

ミサイルの出し入れだけ見られたので良しとしよう。

自分でそう言い聞かせ、外に出ました。
後ろから警衛ボックスを見ると、

「注意 人がまだいます」

というプレートがありました。
ミサイル発射の際に外に人がいる場合にこれが出されるのだと思われます。

彼らはミサイルの発射準備ができると、地下に降ろされその瞬間を待ちました。

せっかくなので中を覗き込んでみる。
今はアメリカでも見たことがないコーラの瓶、ドクターペッパー(笑)
白黒のグラフマガジンと入場する人に渡すタグがまだあります。

驚いたのがこの表示。
なんと、タバコを吸っていいのはこのボックスの中だけだったと。
当時はアメリカ社会もタバコに寛容だったので、ミサイルがある
外ではダメだけどこの中なら吸っていいよっていうことですよ。

今の陸軍なら、文句なしに地域一帯を禁煙にしているはずです。

カバーがかかっていてわかりませんが、レーダー的なものだと思われます。

ナイキ・ハーキュリーズのシステム全体はアナログコンピュータがベースです。
地上レーダーは、攻撃側の爆撃機飛行隊とミサイルを追跡し、
こちらのミサイルに飛行中の誘導信号を送ります。

一度に飛行中の単一のミサイルしか追跡することしかできませんが、
打ち上げられて1〜2分で超音速に達し、
87マイル四方の最大範囲を防御することができたということです。

 

ところで、我が航空自衛隊にもナイキが装備されていたことがありましたね。 

前回言ったようにイージス・アショアでさえブーブー言いだす人がいるのだから、
その当時ミサイルを導入するにあたってはどんなにか大変だっただろう、
と思ってちょっと調べて見ると、やっぱり。


1982年、北海道長沼町に建設予定の「ナイキ地対空ミサイル基地」に対し、
反対住民が、

「基地に公益性はなく、自衛隊は違憲、保安林解除は違法」

と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こしていました。

ありがちなことですが、一審地裁では違憲判決で処分を取り消し。
(地裁ですから一応ね?)
国がこれを控訴し、二審の札幌高裁は一審判決を破棄。
これに対し住民側・原告が上告するも、最高裁は原告適格がないとして
上告を棄却した、(その際判決は違憲性には触れず)という流れです。


しかし、1982年といえば、アメリカはとっくに(1978年)
ナイキミサイルの使用を廃止していたということで、
日本はいわば周回遅れのミサイルを配備したということになるのですが、
この辺りの事情についてどなたかご存知の方おられませんか。


ところで、最初に陸自の習志野駐屯地に降下始めで行ったとき、
陸自駐屯地の中に空自が運用しているナイキミサイルの基地があった、
というのがものすごく不思議だったのですが、
やっぱりというかなんというか、これが導入された時、運用において、
陸自は、

「ナイキミサイルは対空砲火の延長である!」(から陸自が運用する)

といい、空自は、

「無人戦闘機である!」(から以下略)

と主張してそれはそれは激しい縄張り争いがあったことを知りました。

アメリカでも陸軍が運用しているように、これを無人飛行機というのは
ちょっと、というかかなり無理がある主張だと個人的には思います。
だいたい、空自の基地にはその「Site 」、用地が設営できなかったので
わざわざ陸自駐屯地の中に空自の運用するミサイルを置いたわけでしょ?

まあとにかくその時は(誰が裁いたかは知らねど)大岡裁きで、

空自はナイキ、陸自はホーク(MIM-23 ホークミサイル)

と仲良く棲み分けることにしてことなきを得たそうです。


ホークミサイル。
 

というわけで、一人で見学を終わり、車で外に向かいました。
今日のゴールデン・ゲート一帯は深い霧におおわれ、風もあって
日本の11月下旬くらいの気候です。

そして、この後、わたしはこの一帯にある砲台の遺跡を求めて、
一人で気ままに車を走らせていきました。


ゴールデンゲートバークシリーズ、続く。

 

 


ナイキ・ミサイル・サイトSF-88〜ゴールデンゲートブリッジ その1

2018-09-30 | アメリカ

ネット時代のありがたいところで、昔はツーリスト本、
「地球の歩き方」が知りうる情報の全てであったのが、
最近ではどんな変わった?嗜好の持ち主の興味に応える観光も
目の前の箱が至れり尽くせりで教えてくれるようになりました。

サンフランシスコで再会したアメリカ在住の友人に、2年前に行った
ファイロリ(FILOLI)ガーデンの話をするとひどく驚いて、
もうこの辺で観光するところなんてないね、と言い合っていたのに、
そんな面白そうなところがあったなんて!と感謝されましたし、
何十年もカリフォルニアに住んでいるのに、今回わたしがネットで探し出し、
見学して来たナイキ・ミサイルサイトに至っては

「聞いたこともなかった」

と驚かれたものです。

今年も何か新しい発見はないかと、「military museum」で検索をかけ、
サンフランシスコ滞在中に見学できる施設を探し出した結果です。

ナイキ・ミサイルが設置されていた場所。
今でもミサイルが見られるとあってはもう行くしかありません。
ただし、ボランティアの数不足か、週二回、金土しか開けていないので、
わたしは慎重に滞在中の見学プログラムを組み、金曜日を待ちかねて
ゴールデンゲートパークに向かいました。

しかし、ナビで「ナイキミサイルサイト」と入れても
該当する場所が出て来ません。

仕方なく、ブリッジを渡ったら左の太平洋側を目指せばいいのよ!
と直感を信じてゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。

ところが、ブリッジを渡ってからこれだ!と進んだ道はもう一度
ブリッジに戻る道で、気がついたらまたサンフランシスコにいるではないですか。

そうだ、近くにある海洋生物保護センターの住所を入れれば、
少なくとも近くにいけるに違いない!

ともう一度ナビを入れ直して事なきを得たわけです。

 

HISTORIC NIKE MISSILE SITE。

この看板の前に立ったとき、なぜナビに出て来なかったのかわかりました。
ミサイルサイトの「サイト」はわたしが入力していた、

sight(光景、眺め)ではなくsite(要地)

だったのですorz

 

それにしても昔は人が来ないこんな山の中に、ミサイル発射場を作っていたのね。

このゴールデンゲート自然公園の一帯には、こちらで「バッテリー」と呼ぶ、
古くは南北戦争のための砲台がそれこそ針山のようにたくさん作られ、
今でもその遺跡が残っていたりするわけですが、時は下り、冷戦時代にも、
アメリカさんはここにナイキミサイルの発射場を針山レベルで作っていたのです。

ミサイルサイトは今でもアメリカ国内のあちらこちらに見られるそうです。

なぜなら1953年から冷戦の終わる1979年までの間に、アメリカは
全部で300基のミサイル発射台を国内に設置していたからです。

このサンフランシスコにも遺跡が残っているだけで三箇所、
そのほかにもわたしがナビを入れた海洋生物センターも
元々はミサイルサイトの跡地に作られたものなのだそうです。

ところで、当たり前の話ですが、アメリカがここまでしたのは、
冷戦時代に対峙していたソ連の上空からの攻撃に備えるためでした。

この遺跡の説明にもあります。

「核戦争に生き残るためにこれらの装備は必須であったのです」

 

ファーイーストの何処かの国には、上空を敵国のミサイルが通過してもなお、
それを迎撃するための地上イージスを設置することに対して反対する
自治体の長というのがいるそうですが、わたしこの記事を読んで
ちょっと笑ってしまいましたよ。

「イージス・アショアが配備されることは町民の安全や安心、
平穏を著しく損なうことにつながり、まちづくりにも逆行する」。
20日の町議会で花田町長が反対理由を力説すると、
傍聴席を埋めた配備反対派の住民約20人はうなずいた。

中略

住民の間では高性能レーダーが出す電磁波による人体などへの影響や、
ミサイルを発射した際の落下物に対する懸念は根強く残ったままだ。

はあああ〜〜〜?

って感じ・・ははっ・・(力ない笑い)

「ミサイルを発射した際の落下物」ってあんた。
落下物が落ちる事態ということは、その時別のミサイルが
朝鮮半島から飛んで来ているってことなんですけど?

北朝鮮のミサイルよりそれを迎え撃つミサイルの破片が心配ってか?
ミサイルが本土を直撃するより電磁波が人体に及ぼす影響が怖いってか?

本当にミサイルが飛んで来たこともある国の自治体の長として、
そのまちづくり(どうしてパヨクって、自分たちの主張は平仮名で、
反対事案はカタカナで主張するんだろう)とやらと、
敵ミサイルのどちらを優先事項とするべきか判断もつかないのね。

 

というような茹でガエル的お花畑的な人はアメリカにはいなかったので、
(日本の現状を質すと源流はGHQの占領政策に行き当たるのですが今はさておき)
冷戦に入るなり、アメリカは国家存亡の危機とばかりに戦略爆撃機を飛ばし、
原潜を海に潜らせ、地上ミサイルを問答無用で作りまくっていました。

全米に300基設置されたミサイルサイトがアメリカの本気をものがたっています。



A Battery 2nd BN (HERC) 51st ARTILLERY

LAUNTING AREA

と手描きの字も拙い感じの看板があります。
第51砲兵部隊で第二歩兵中隊であることはわかった。
HERCがどうしてもわかりませんが、細かいことはよろしい。

金網に、オープン時間が毎週金土の1230から4000まで、
しかも天候が悪い時にはやりません、と書いてあります。

思うのですが、雨が激しい時だとランチングシステムに
水が入ってしまうからですね。

サンフランシスコは冬(クリスマスの頃から春まで)
雨季と言っていいほど雨が降りますが、どうしてたんだろう。

もちろん今ではミサイルを発射することはできませんが、
システムがまだ電気で稼働できるので、立ち入りは制限されています。

これはここがまだ陸軍の運用下にあった時の注意書きで、
許可を得た人物しか立ち入りを許されませんでしたし、
写真はもちろん、メモを取ったり地図を書いたり(時代ですね)
といった諜報活動につながるような行為も厳に禁止され、
必ず司令官の許可のもとに意図を明らかにしてなされなければなりませんでした。

許可を得ずにこれらの私物を持ち込んだりすると問答無用で
没収します、と最後に書いてあります。

入り口にまず第一の警衛ボックスがありました。
雰囲気を出すために?マネキンを置いてますが、
これがのっぺらぼうで結構怖い(笑)

ダイヤル式電話はアーミーカラーでオシャレに統一。

直通ダイヤルの一覧表にはファイア・アラームとかイマージェンシーとか、
プリズン/ジェイルブレイク(脱走)とか、ボム・スレートとか、
マン・ウイズ・ガンとか、ありがちな(陸軍的にはですよ)ダイヤルもありますが、

「ヒットエンドラン」「ドッグ・ケース」

とか

「メンタルサブジェクト」「バンク・アラーム・アトなんとか」

など、なぜ軍が?と思うような部門もあります。
誰かが鬱になったり、銀行強盗が入った時も出動しちゃうわけですかい。


こと細かすぎて、たとえどんな事態になっても大丈夫。って感じ。
ただしピザのデリバリーの電話番号とかはありません。

門の周りは崖なのに全く柵とかがなく、放置されています。
それにしてもすごいながめ。
海と内陸の間にあるダムのようなものは「ロデオ・ビーチ」といい、
その外側がロデオ湾、ビーチのこちら側はロデオ・ラグーンと言います。

自然にできたダムなんですね。

こちらのラグーンには、サンフランシスコを飛び回っている
あのペリカンさんたちのコロニーなどがあります。

対岸にある赤い屋根の建物は昔は陸軍のものだったと思いますが、
現在は政府機関の所有になっているということです。

湾から左側に目を転じると、ポツンとピンク色の可愛らしい小屋が。

色は可愛らしいですが、ガチンコに金網で囲まれているところを見ると
これも陸軍の所有で何かを貯蔵していたところだと思われます。

門の中には車で入っていくことができます。
中のベンチに、テンガロンハットみたいなのを被ったボランティアが
近づいてきて、ガイドツァーに参加しますか?と聞きます。

いつもならお願いするところですが、前の組が始まったばかりのようだったので、
様子を見ようと思い、ツァーを断ってしまいました。

まあ、また来年くればいいし。

「ご自分で見学するのなら自由に中を歩いて結構ですよ」

そう言われてミサイル発射場に進んでいきました。

発射場の周りにも金網が張り巡らされ、入り口には警衛ボックスがあります。
遠目に見たとき、本当に人がいるのかと思いました。

その時、ミサイルの発射台がグイーンと音をさせて動き出しました。

これを見逃してはなんのためにここにきたのかわからん。
急いで中に入ります。

 

 

続く。


ゴールデンゲートブリッジ公園を歩く

2018-09-28 | アメリカ

今年もサンフランシスコにやってきて、次の日の朝、
ゴールデンゲートブリッジを臨むサンフランシスコ湾沿いの公園、
クリッシーフィールドにやってきました。

州道280と101、どちらで来ても途中から地道に降りなければいけません。
いつも選択する海側の道を通っていると、去年なかったこんな店が。

「SUSHIRAW」・・・・スシ・ロウ(生)→スシロー?

この辺りは以前から中国人の移民が多い場所で、ここ左に曲がったところにある
客家料理の店などはわたしたちが住んでいた時からあり、
一度気まぐれを起こして入って見ましたが、店内の水槽に苔が生えているし、
なんか変な匂いはするし、中国人しかいないしで、当時2歳だった息子は
完璧にトラウマを植え付けられ、その後10年くらい中華料理はダメになりました。

きっとこの店もチャイナがやっているインチキ寿司だと思われます。

ホテルのあるサン・マテオからは渋滞もあるので小一時間かかりますが、
息子の送り迎えのない今となれば、むしろそれも楽しんでしまいます。

この日のサンフランシスコ湾はほとんど霧のない晴天でした。
冷たい風と強烈な日差しが同時に体を直撃し暑いのか寒いのかわからない、
そんな天気もこの一帯特有のものです。

海水が回り込んで池のようになっているところにペリカンの親子がいました。

お母さんが頭を突っ込むと子供も真似して(笑)

漁の仕方を子供に教えているのだと思いますが、
さすがにお母さんも獲ったものは自分で食べてしまいました。

見たところほとんどが観光客で、ブリッジをバックに写真を撮っています。

ブリッジに向かって歩いていくと、左はこんな草だけのフィールドですが、
ここは昔陸軍の飛行場でした。

もちろん、複葉機の時代、1919年から1936年の間です。
このころの飛行機の離着陸に大変適していたため選ばれたようですね。

なんども書いていますが、写真に写っている建物は全部当時からのものです。

航空時代の黎明期、ここは飛行機の発展のステージのようなものでした。
横に離着水に御誂え向きのサンフランシスコ湾があったことは
水上機の発展にも寄与することになりました。

「この傾斜が休憩するのにちょうどいいんです」てか?

自転車の人はほとんどがレンタル。

船も頻繁に行き交います。
これはおそらくタグボートだと思うのですがどうでしょうか。

 

ヒッチコックの映画「めまい」で有名になったブリッジのたもとに近づきました。
この鎖もその時代にはもうあったと思われます。

ボードに乗ってただあちこちをフラフラ漂っている男性がいました。
確かに運動にはなりそうだけど・・・。

マリオカートのようなゴーカートを借りてこの辺を走ることもできます。
ちらっと見たら、助手席にはナビのためにiPadが装備してありました。

一眼レフにカメラを替えて初めてブリッジを撮るわけですが、感心したのは
ブリッジの赤が「見た通りの色」に写っていること。

ズームもできて、結構広角にも写り、さすがはオールインワンだと思いました。
旅行にはこれ一本で十分です。

去年はオープンしていて見学できたフォートは今年は閉鎖されています。

去年なかったこんな看板を発見。
なんと、自殺者が多いという汚名を少しでも返上するべく、サンフランシスコ市は
自殺防止ネットを設置することにいたしました!

なんでも橋の上から6メートル下に人体を受けるスチールのネットを張り、
人が落ちないようにするというのですが、うーん・・・・・。

どうしても自殺したい人はそのネットからとびおりてしまうのでは?
もしかしたら、6メートルというのが微妙な数字で、そこに落ちたら
スチールで怪我をして動けなくなってそれ以上飛び降りられないとか?

何かと謎ですが、とにかく来年来た時にはネットは完成しているでしょう。

それがいかほどの効果があるか、ぜひ知りたいものです。

コンクリートで塞がれた向こうに鎖があるのが見えるでしょうか。
それが「ヴァーティゴ」(めまい)にも登場した同じ場所です。

Vertigo (1958) Golden Gate Bridge scene # HD*

映画のおかげでここでキム・ノバクとジェームス・スチュアートごっこ?
をする人が後を絶たないため仕方なく閉鎖したとかかしら。

しかし、映画ではスチュアートが飛び込むシーンだけセットに変わってますね。

それでも柵を乗り越える人が後を絶たないらしく、この警告である。

「警告を破ってここに立ち入った人は1年の収監、
または罰金1万ドル(今日現在 1,128,160.00 円)が科せられます」

とにかく、ものすごく厳しく禁じられていることはわかった。
さすがにこれを見てまで柵を超えようとする強者はおるまい。
きっと監視カメラもバッチリ装備されてるんだろうしね

初めてここに錨を下ろした船は『サン・カルロス』(アヤラ艦長)、
1775年8月5日のことであった

からはじまって、

ドン・フワン・バチスタ・デ・アンサ少佐は1776年、
ここカンティル・ブランコ(ホワイトクリフ)に入植する

などと書いてあり、途中に

1853年、アメリカ合衆国陸軍の技術者たちがクリフを切り拓き、
ここにフォート・ポイントを建造した

最後には

海側の外壁は100年にわたって全く損傷を受けていない

と書かれています。

アルカトラズ島をバックに自撮りして画面を確認する二人。
新婚旅行でここに来る人も多いようです。(ex.わたしの姉)

カモメと鵜が仲良く同居しています。
左の二羽も新婚さんらしくずっといちゃいちゃしていました。

東映のオープニングみたいに波が砕けるのを撮ろうと待っていたのですが、
これが限界でした。

フェリーの横をおそらく沿岸警備隊のボートが急行していくのを目撃。
もしかしたら誰かブリッジから飛び込んだのか?
それともさっきのボードのおじさんが海に落ちたのか?

と思って目で追っていくと・・・、

波をボンボン跳ねながらブリッジの下をくぐっていきます。

なんだ、おじさんが落ちたんじゃなかったのか。

ブリッジ下から車の場所まで戻ることにしました。
パレス・オブ・ファイン・アーツの建物は実はR2D2のモデルです。

・・って言われていますが本当かしら。

一人で5匹くらい犬を連れているのは「散歩屋さん」。

忙しい飼い主に変わってウィークデイに愛犬を散歩させる仕事です。
聞いたところによると、犬を預ける人というのは裕福なので、
結構この商売、いい稼ぎになるのだとか。

クリッシーフィールドは犬にとっても楽しい散歩場です。
聞いたわけではありませんが、ここに来て彼らの様子を見ているとわかります。

ここでは日本の公園のように犬を必ず繋がなくてもいいので
勝手気ままにあちらこちら走り回ることができます。

この白黒の犬は体は大きいですがまだ子供らしく走り回っていました。
犬にも性格があるのは愛犬家の皆さんはよくご存知だと思いますが、
彼はアメリカ人の言うところのスパンキーなタイプです。

勢い余って他所の犬のところに突撃。
そういう犬は、えてしてよその犬にちょっかいをかけたがるものです。

彼が目をつけた?のはこの黒い犬。

「よお」

「な、なんだよお」

「遊ぼうぜい!」

「やだよ!僕今ご主人様に遊んでもらってるんだもの」

「そんなこと言わずによお」

「もううるさいなあ。ご主人様、早くフリスビー投げて」

「くっつくなよお」

「いいじゃん、俺もフリスビー取る遊びしていい?」

女の人「そーれ!」

「これは僕のだ!あんなやつに渡さないぞ」

「それいいなあ、俺にもくわえさせて」

「やだよ!」

「ご主人様に持っていかなきゃ!邪魔すんなよ」

「そんなこと言わずに俺と取り合いっこしようぜ!

バシャバシャバシャ

「あ・・・・・くわえていたの落としちゃった」

「でへへ、俺が拾ってやるよ」

「やめろよー」

ご主人「すみませんけど、オタクの犬がうちの子を怖がらせてるので、
なんか言ってやってくださらないかしら」

黒「ほーら、怒られろ(笑)」

「なにい?うちのご主人は俺のこと怒ったりしないぞ?」

「キャイ〜ン」

「こら、いい加減にしないか」

「ほら怒られた」

「・・・ちっ。今日はこのくらいにしといたらあ」

「お前やなやつだな。もうどっかいっちまえ」

と、いう感じに見えましたが、多分実際もこんなものだと思います。

サンフランシスコ湾にはよくペリカンが飛来して、このように
列を作って飛んでいるのですが・・、

このペリカンの群れが飛ぶのは本当に綺麗なものです。

一列になっていたかと思ったらこうやって全員で一斉に着水したり。

長い首を折りたたんで、実に優雅に飛びます。
あんな大きな鳥が飛んでいるときはとてもスマートに見えるのです。

 

今回のサンフランシスコ滞在で、わたしはこの時を入れて
三回はゴールデン・ゲートエリアに通い、今まで見たことがなかった場所や
軍事遺跡などを観たのですが、それはまた後日お話しします。

 

続く。


ソルジャー・スカラー〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-27 | アメリカ

前回、ウェストポイントの学年を

1年 プリーブ

2年 イヤーリング

3年 カウ

4年 ファースティ

と呼ぶことを説明しましたが、次のコーナーでは、プリーブから
ファースティになり学校を巣立つまでの47ヶ月の間でも、
特に印象的なイベントが紹介されていました。

白の欄がプリーブ、右の紺色の部分がイヤーリングです。

プリーブは左上の「レセプション・デイ」(入学式)に始まり、
基礎的な候補生教育と学問の合間に彼らは自分の専攻を決定します。

ウェストポイントに到着した日から、新候補生たちは
体力的にも精神的にもチャレンジが始まります。
すぐさま、彼らは「軍隊生活」の中に放り込まれ、敬礼の仕方や
行進の仕方、命令を遵守することやライフルの使い方、そして
バラックでの生活についてを一から叩き込まれることになります。

海軍兵学校では「娑婆っ気を抜く」と称して、最初にバスを使い、
今まで着ていた服を故郷に送り返す、という儀式がありましたが、
ウェストポイントでは、ある意味アメリカ人には最も強烈な儀式があります。

列を作っている男性の頭を見てください。
全員坊主刈りどころかほとんどツルツルにされていますね。

なんとウェストポイント、入学当日に髪の毛を剃ってしまうのです。

これには驚きです。
防衛大学だって今時こんなことやりませんよね?

防大でもしこんなことをやったら、頭剃られるなら受けねえ、
みたいな人もいて、受験の人数が減ってしまうかもしれません。

でも、ここではやるのです。

流石に入学式の時だけで、最初のダンスパーティの時には
十分毛は生え揃っているので問題はないと思いますが。

敬礼の仕方を教えられるのは初日から。
「セカンドネイチャー」として素早くできるまで繰り返し練習。

彼らは「カデット・オナー・コード」(規則)と「カデット・クレド」を
通じて、陸軍士官学校の慣習と伝統を学んでいきます。

これは皆の髪の毛の生え方に個人差はあるけれど、だいたい入学してから
2〜3ヶ月といった感じでしょうか。

アメリカの士官学校ではいずれも学業を非常に重視します。
そもそも高校の成績がトップクラスでないと願書を受け付けてもくれませんし、
身元を証明するために、国会議員などの推薦人が必要になります。

「クリティカル・シンキングとクリエイティビティ」

批判的思考と創造性、これが士官候補生にとって必須のキーワードです。
学問を通して論理的思考をすること、引いては統率の際に必要な
判断力を培っていくことを目標としています。

歴史はもちろん、文化芸術、例えばシェイクスピアを演じたり(右上丸中)
社会科学などを深く学ぶことによって、人間というものを多角的に考察し、
高度でプロフェッショナルな
意思決定ができるようになることも
指揮官としての必須条件です。

士官学校の達成目標は全て「軍の統率」に帰結するといっても過言ではありません。

だからこそ彼らはSTEM(科学、技術、工学、数学)の基礎を叩き込まれます。
特にこれらの知識と解決のための思考は、高度な問題解決を可能とするからです。

しかし、学問は任官したらそこで終わり、というわけではありません。

ウエストポイントの厳しいアカデミックプログラムは、
卒業生が変化する世界の不確実性を効果的に予測し、
それに対応していくことができるように準備されています。

候補生たちは、数学、科学、英語、歴史、心理学、哲学など、
幅広い教育を受けることができ、知識とスキルの幅広い統合によって、
問題を理解し、
分析し、解決し、効果的に対応することができます。

ウェストポイントの卒業生は理学の学士号を取得することができ、
今日の陸軍指揮官に必要な教養を満たすための完璧な準備ができます。

 

ちなみにスカラシップは、よく知られたフルブライトの他に、

ローズ(RHODES)奨学金

マーシャル(MARSHALL)奨学金

トルーマン(TRUMAN)奨学金

などが、学業成績やリーダーシップの秀でた学生に与えられます。


ところで、余談ですが、先日読者の方に我が自衛隊をこのように
誹謗中傷しているタイトルの記事を教えていただきました。

「自衛隊幹部が異常な低学歴集団である理由」

これ、読んだ方は首をかしげると思うのですが、この筆者は「幹部」、
その中には士、曹を経て任官した人と士官学校に当たる防衛大学校、
一般大を卒業して幹部となった人たちがいることを意図的に混同してますよね。

もっともらしく本当のことを書いているように見せかけてはいますが。

自衛隊というシステムに、その成立と憲法的な存在意義上、
組織として不備がないとはわたしは決して思いませんが、それはともかく、
海外と比べて、というなら、アメリカでも志願入隊してくる軍人は
中学、高校を卒業してこの人の言うところの「低学歴」のまま昇進し、
士官に任官してくるというのが常道です。

ゆえにアメリカ軍は低学歴集団ではない、というこの人の持論は間違っています。


ところで「低学歴」などという言葉で自衛隊を侮辱しているこの人は何者?
タイトルは慶應大学の教授ですが、ご自身の出身大学は成蹊ね。ふむふむ。

この教授とやらはおそらく何かの理由でとんでもない学歴至上主義なんでしょう。
いや、それよりも、とにかく自衛隊を貶めることが目的で、
後付けの不可思議な理論をこねくってこのような記事を書いたのだと思われます。

何よりタイトルのつけ方に悪意が感じられ、あまりにも品がなさすぎて、
これを書いた人の人格や教養すら疑われます。

こんな理論的思考のできない人は、もし何かの間違いで自衛隊に入ったとしても
絶対に幹部になどなれないと、ここでわたしが勝手に断言しておきます。


さて、プリーブの一年が無事に終わる時、彼らに取って遠い存在だった
ファースティの4年が卒業し任官していきます。

「レコグニション・デイ」では、上級生が彼らを激励し、
1年間の健闘を讃える儀式が行われます。

左側のでかい上級生は、まるで

「これがあと3年続くんだぞ」

と言いたそうな顔をしてますね。

2年、イヤーリングは野戦実習やランバックと呼ばれるマラソン大会、
もちろん学問も自分の専攻を追求していきます。

でも21ヶ月目には、イヤーリングは初めてフォーマルな軍服に身を包み、
正式なダンスパーティを開いてもらえます。

もちろんこの時にはダンスの相手に彼氏彼女を呼んだりするわけですが、
士官候補生の恋人たちに取ってもこれは晴れがましいひと時でしょう。

候補生同士でお付き合いしている場合は軍服同士で踊るのかな。

また、イヤーリングの年の最後には、皆で

ウェストポイント・セメタリー(West point cemetery)

での慰霊を行います。
なんとウェストポイント、学内に陸軍軍人の墓があるのです。

墓地に葬られているいくつかの名前を上げておくと、


ジョージ・アームストロング・カスター将軍

シルバヌス・セイヤー(陸軍士官学校の父)

ジョージ・ワシントン・ゲーソルズ(パナマ運河建築総監督)

エドワード・ホワイト(宇宙飛行士、アポロ1号の事故で殉職)

マギー・ディクソン(陸軍士官学校バスケットボールコーチ)

エミリー・ペレス(イラク戦争で戦死、戦死した史上初の黒人女性士官)

 

基本的にこの墓地は陸軍の高官のためのものですが、28歳の若さで
心臓病で急死した民間人のマギー・ディクソンと、
少尉で戦死したエミリー・ペレスは特別措置によるものだと思われます。

カウはしかしどうしてこう記すべきイベントが少ないのか。
海軍兵学校でも「むっつり2号」とかいわれて、つまりあまり
存在感がなかったという記憶があります。

「カウ・サマー」(”牛の夏”って牧歌ですか?)、夏休みには
一般の大学生が自分の専攻に関係する職業体験をすることができるといわれる
「インターンシップ」で、陸士のカウたちは陸戦訓練をすることになります。

あ、それが将来の職業になるわけですから当然ですが。
学問も大事ですが、陸軍士官としてはやっぱりこちらがメインですよ。

学生が実習で使う装備一式を全部紹介してくれています。
写真の右上、入学の日に頭をバリカンで剃られている人がいますね。

実は、彼らが銃を持たされるのは入学して二、三日以内なのだそうです。
坊主刈りとともに、精神をたたき込むという儀式的な意味もあるのかもしれません。

陸軍毛布には「U.S.」とだけマーク入り。
寝袋からマスクから、これら一式は入学した学生にすぐに全部支給されます。

フットパウダー、日焼け止め、虫除けスプレー、非常食のバー。
こんなものもちゃんと配ってもらえます。
日焼け止めは3段階くらいで日差しの強さに対応するという気配り。

 

さて、「カウ」は新学期が始まればすぐにaffirm、意思表明の宣誓を行い、
「500th ナイト」といって、ウェストポイントの500日を乗り切ったお祝いに
これまた正装のダンスパーティを開いてもらえます。


右側の「ファースティ」、4年生はイベントが盛りだくさんですね。

まず特筆すべきは「リング・ウィークエンド」でしょうか。

ウェストポイントでは1835年から行われている儀式で、
「インディア・ホワイトユニフォーム」(白い軍服のことをアメリカではこういう)
に身を包んだ彼らは、
陸軍士官学校のリングを贈られます。

アメリカの特に私学大学はオリジナルの「カレッジリング」を毎年作りますが、
TOはアメリカの大学卒業時オーダーしなかったそうです。
その理由は、

「指輪なんて生涯すると思わなかったから」

いや、そういうもんじゃないでしょうよ。そういうもんじゃ。

これは士官候補生にとって何よりもエキサイティングな夜、

「ブランチ・ナイト」

なぜ夜にするのかはわかりませんが、とにかく、
歩兵か?情報部隊か?それとも軍医か?
自分が最初の実習先が発表される晩です。

 

ちなみに、アメリカには「医学大学」というのはなく、
4年間メディカルコースに必要な単位を履修して、そのあと
メディカルスクールに進学して医者の勉強をするのです。

ですから防衛医大に当たるものもなく、軍医になりたい者は、
陸士を卒業してから陸軍のメディカルスクールで初めて医学を学びます。

そして3週間後の44週目、

「ポスト・ナイト」(これも夜か・・)

で、全員の正式な配置先が決まることになります。
全員が志望通りに行かないであろうことは、陸海ともに同じ。

悲喜こもごもの夜になるというわけです。

そして卒業まであと100日、という夜にまたまた正式な夜会が開かれます。

この「卒業まで100日ダンスパーティ」は、大変歴史のあるもので、
1871年から今日まで毎年行われている慣習です。

これはこのパーティの出し物のポスターですが、面白いですね。
おそらく演劇部のお芝居だと思われますが、題を見てください。
先日、元帥が二人出たクラスのことを

「星が降りかかったクラス」(The class the stars fell on)

という、という話をしたばかりですが、このお芝居はそれに

「・・literally」(文字通り)

をつけて、本当に星が降りかかって、というより人を直撃してます。

そして47ヶ月目。

帽子を投げるセレモニーで有名な卒業式が終わると、卒業生は
セカンド・ルテナント、少尉に任官し、ウェストポイントを旅立っていきます。

 


続く。

 


海軍の街・サンディエゴを歩く

2018-09-20 | アメリカ

東海岸での滞在を終わり、西海岸に移動しました。
息子の入学をアシストする仕事が終わったら実はもう用事はないのですが、
そこはそれ、せっかく行くのだから色々見学もしてきたいわたしとしては、
サンフランシスコの前に無理くりサンディエゴ訪問の予定を入れました。

アメリカ国内の移動、特に大陸横断は飛行機代が高いのですが、
幸い今回はユナイテッドのポイントだけで

ボストンーサンディエゴーサンフランシスコ

の移動代が皆まかなえてしまう上、カードのポイントが溜まって
去年泊まったミッドウェイ近くのホテルがそれもポイントで泊まれます。

今回も窓際の席を取ったので、これを見ることができました。
ネバダ砂漠の真ん中に作られた人口ファーム、センターピボットです。

なぜ丸いかというと、中心からスプリンクラーが時計の針のように回って
全体に散水しているからです。

地下水をくみ上げて砂漠に農地を作ってしまう、というのは、
誰が考えたかは知らないけど、さすがアメリカ人、という感じです。

一つの円が大きいもので直径1kmはあるらしいのですが、
おそらくこれらを管理しているのは一つの会社かまたは一つの農家。

拡大してよく見ると、円の外側に家があります。

日本の農家とは同じ農業とは思えないほどの違い。
たとえて言えば家内制手工業とプラントという感じでしょうか。

前に移動した時と同じフィヨルド?みたいな地域が見えました。

グランドキャニオンの少し北、ユタとアリゾナ州の州境にある
パウエル湖から出ている河の支線です。


全体的に赤いですが、「赤い河の谷間」という歌にも歌われた
「メサ」が連なっている地域だからです。

メサがあるこの地域に溜まった水はこのような湖の形を作り上げるのです。

ローガン空港を飛び立って6時間、西海岸に到着です。
サンフランシスコ空港近くの塩田が見えてきました。

夏場雨が少ないこの地域では長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

というわけでサンフランシスコに到着。
時間の関係で、サンディエゴに行くのにサンフランシスコで
乗り換えをしなければいけない便しかなかったのです。

窓から外を見ていると、脱出シュートみたいなものが
飛行機に乗り込むための移動しきゲートから出ているのに気がつきました。

まさか本当に非常時脱出用?

と思ったら、飛行機に載せる荷物をここに放り投げて滑り落としていました。
まじかよ。

アメリカの国内便は小さいので、手荷物でも乗り込む寸前に預けたりしますが、
まさか、パソコンの入ったトランクも、こんなことして積み込んでたの?

軽くショックを受けつつ、それでも投げ落としていたのが
(比喩表現ではなく本当に投げていた)数個だったので、
もしかしたらギリギリにきた人の荷物かもしれないと思い直しました。

そうであってくれ。

というわけでサンフランシスコを離陸。
本当の?雲の下に、サンフランシスコ名物にもなっている
霧を降らせる冷たい雲が二重に出ているところが見られました。

この雲の向こう側は太平洋となりますが、この地域はいつも
このようなクリームのような雲がかかっています。

サンフランシスコからサンディエゴまでは1時間半くらいで到着です。
海軍基地が見えてきました!

飛行機は空港を通り過ぎてから海軍基地を常に左に見るように旋回します。

画面上方に見えているのは、本土から海軍基地のある
コロナドに伸びている長い砂州で、これを右側に行くと基地です。

思いっきりズームしてみました。
自衛隊のヘリ搭載型護衛艦のようなのが2隻見えます。

苦労してアイランドの文字を読み取ってみたところ、
これらは強襲揚陸艦で、向こうから

LHA-6 「アメリカ」USS America

LHD-4 「ボクサー」USS Boxer

であることがかろうじてわかりました。
「アメリカ」は「アメリカ」型のネームシップ、
「ボクサー」は「ワスプ」級強襲揚陸艦の4番艦となります。

うおおおおこれは・・・・!
真ん中辺に見えるのって、これ、

サン・アントニオ級ドック型揚陸艦

なんじゃないですか?

こちらはドックで新造艦建造中と思われ。
一番右など、完璧に覆いで形をわからないようにしてあります。
確かに上空からは丸見えですので。

右から4隻目も「サン・アントニオ」級かな?
サンディエゴ基地には「サンディエゴ」以外に4隻も同級がいます。

飛行機は左に旋回し、滑走路へのアプローチを始めました。
最近までお話ししてきたサンディエゴ海事博物館の帆船や、
「ミッドウェイ」がこんな角度で見えます。

今回前半はヒルトン系のキッチン付きホテル、「ホームスイート」。
地名を「ホテルサークル」といって、今まで何もなかったところを
切り開いて各社ホテルを建て「ホテル村」となっている一角にあります。

ここもほぼ新築で、インテリアもセンスがいいし、ロビーラウンジには
ご覧のような中庭が繋がっていて、今流行りの「テーブルファイヤー」が楽しめます。

この大きなチェス盤は、たまーに真剣に勝負している人がいましたが、
ほとんどは子供の遊び場になっていました。

週2回くらいは「ソーシャルナイト」といって、ロビーラウンジで
ちょっとした食べ物屋飲み物が出されるのも共通。

こんなにお得感がありながら、5つ星の半額くらいのお値段で泊まれるのが
キッチン付きスイートのありがたいところです。

朝食付きも売り物ですが、どこに行っても所詮アメリカなので、
卵料理にポテト・ベーコン、パンケーキなどにフルーツ、ヨーグルトだけ。
野菜はなぜか絶対に出てきません。

三日後、去年泊まった「ミッドウェイ」近くのホテルに移動しました。
チェックインの時に、

「実は去年もこのホテルに泊まったんです」

と言うと、ウェルカムバック!といってアップグレードしてくれました。
カードのポイント利用で取ったホテルなのに、なんか申し訳ない。

「高層階と低いところとどっちがいい?」

と聞かれたので、

「ハイヤー・イズ・ベター!」

と言って15階にアサインしてもらいました。
窓からは「スター・オブ・インディア」と空港が見えます。

そして・・・・。

また逢いに来たよ、ミッドウェイ。

コロナドの岸壁には去年と同じ「カール・ヴィンソン」が。

その隣に「セオドア・ルーズベルト」がいるのも同じ。
艦体のあちらこちらに白い「バンデージ」をつけて修理中です。

次の朝。
6時に起きて外を見てみたら、埠頭沿いの道はたくさん人が歩いたり
自転車で通ったりするトレイルになっていたので、わたしも歩くことにしました。

アメリカについてから、毎日1万歩から多い時で2万歩歩いています。
航空博物館や買い物、モールに行くだけでもたくさん歩くことになるので、
アメリカに行くとわたしは体の調子がとてもよくなるのです。

景色のいい道が近くにないホテルでは、ジムのトレッドミルを利用します。

さすがサンディエゴは海軍の街だけあって、
GIフィルムフェスティバルなどと言うものを街ぐるみでやってしまう。

「スター・オブ・インディア」の帆が朝日を受けて。

こちらは映画「マスター・アンド・コマンダー」で使われた帆船。
後ろにはソ連の潜水艦もいます。

海事博物館の展示の中心となっている蒸気船「バークレー」で
弦楽四重奏の奏でるハイドンを聴きましょう、という企画。

カクテルも出るようです。
特等席は50ドルで、日本の感覚だとこれでも安いですが、
学生と軍人はなんと10ドル。

アメリカでは普通にミリタリーサービスに就いている人は優遇されていて、
例えば飛行機などでもプライオリティシートの前に搭乗することができます。

ここでもお話しした実験潜水艦「ドルフィン」には、

WORLD'S MOST DEEPEST SUBMARINE
(世界で最も深く潜水した潜水艦)

と看板がありました。

あれ?こんなのあったっけ・・・?
去年も一昨年も気づきませんでした。

PCF 816

PCFとは「パトロール・クラフト・ファースト」のことで、
ベトナム戦争で哨戒を行った時には「スウィフト・ボート」と呼ばれていました。

このボートは一度アメリカ海軍からマルタ海軍に貸与されていたのですが、
マルタからサンディエゴの博物館に寄贈されて今日に至ります。

PCF-816, Vietnam Riverine boat passes USS Ronald Reagan, Oiler, and pleasure craft on San Diego Bay.

かつてメコン川を哨戒していたボートが元気にサンディエゴ湾を航行しています。

 

さらに海沿いを歩いていきます。
この辺りには個人がヨットを繋留するヨットハーバーがあります。

ここは向かいのコロナドが防波堤の役目をするため、
全く波がない、ハーバーには最適の場所となっているのです。

ヨット越しに空母が見える、これがサンディエゴ。

歩いていくと、沿岸警備隊の飛行隊基地が現れます。
ゴミが散らかり放題ですが、この辺にはホームレスも多く、
彼らの生活の残渣がそこここに散乱しているのです。

気候が穏やかで街が豊かだと、当然のようにホームレスが集まってきて
観光地でも御構い無しに、いやだからこそ住み着いてしまうんですね。

緑のボックスに落書きをしたのも彼らだと思うのですが、

”UFCK”

ってなんだよ・・・(笑)
結構文盲の人も多いっていうからなあ・・・。

U.S. COAST GUARD SECTO SAN DIEGO

セクトって新左翼か?と思ったら、単にSECTORの「R」が
白く塗られていて見えなくなっているだけでした。

コーストガードは、所在地の前に「セクター」をつけて、
陸上のオペレーション基地を、

「コーストガード・セクター・サンフランシスコ」

などと称します。

何か有名なカッター(コーストガードの艦船)のスクリューかと思ったら、
横のプレートには非常にわかりにくい亀の甲文字で

「 SEMPER PARATUS ALWAYS READY」(常に備えあり)

という沿岸警備隊のモットーに挟まれて、
1790年に始まった歴史が200年目を迎えた1990年、
この間に沿岸警備隊で任務に就いた人々を讃えるために、
このモニュメントが作られた、と言うことが書いてありました。

 

わたしはこの日ここでちょうど30分歩いたので、折り返すことにして、
ホテルに帰り、この日は3度目になる「ミッドウェイ」見学に出かけました。

続く。




陸軍指揮官の条件〜合衆国陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-19 | アメリカ

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントにはミュージアムがあって、
誰でも見学できるらしいということで見学を決めたわたしですが、
例によってそれ以外のことを全く調べずに現地に着いてみれば、
バスに乗って学内を見学するツァーがあるらしいとわかりました。

『合衆国ミリタリーアカデミーはあなたを歓迎します』という言葉が、
大々的に壁に刻まれているのが、このビジター・コントロールセンター。
立派なロビーにカウンターがあり、そこでは左のバナーにもある
「ウェストポイント・ツァー」を受け付けています。

「参加してみようか」「時間が合えばいいけど」

カウンターで聞いたところ、ツァーには一時間コースと一時間半コースがあり、
なんと15分後に一時間コースのツァーが出発するとのこと。

なんてラッキーなんでしょう。

一人12ドルくらいの(正確には忘れた)フィーを払って、出発まで
「The long gray line」 のエントランスから入るミュージアム
(これはいわゆるウェストポイントミュージアムとは違い最近できたもの)
の見学をして待ったというわけです。

ウェストポイントの歴史、士官候補生たちがどんな訓練を行なっているのか、
というようなことを体験的に知ってもらいましょう、というのがここの目的です。

創立から今日に至るまで、国防の軍を率いる指揮官を育成してきた
陸軍士官学校は「国の宝です」と言い切っています。

当たり前ですよね。

防人と彼らを育てる教育機関が国にとって宝であるのは当然です。

それが普通の国の考え方であることを、普通の国でない日本に住むものとして
こんな表現からもつい思わずにいられないのですが、それはともかく。


上段左から二番目の、

シルヴァナス・セイヤー(Sylvanus Thayer )1875-1872

は、陸軍士官学校の父というべき人です。
彼自身も陸士を出ていますが、ジェファーソン大統領の命により、
セイヤーが取り入れた教育方針や軍人になるための躾などが
彼の監督時代に体系化して現在もそれが受け継がれています。

防衛大学校もそうですが、士官学校では工学を重んじ、
教育のコアにエンジニアリング(土木含む)を据えています。

左から三番目の写真は建造途中のワシントン記念碑ですが、
これにも多くの陸軍士官学校卒業生が加わった、と書いてあります。


最初に起こった大きな戦争、南北戦争への参加をはじめとして、
世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、卒業生のステージは
常にアメリカが行なってきた戦争とともにありました。

ウェストポイントを訪れた内外からの賓客のサイン。
上から主な人物を書き出すと、

1842 チャールズ・ディケンズ

1860 イギリス国王エドワード七世 ウェールズ公

1872 日本使節団

1862 アブラハム・リンカーン

1863 ラルフ・エマーソン

1881 マーク・トゥエイン

1895 ウィンストン・チャーチル

1902 セオドア・ルーズベルト

1916 ウッドロー・ウィルソン

1872年の日本使節団は咸臨丸を連れて行ったあの全権団です。

 Japanese Embassy Delegation

の文字(上から五番目)は几帳面で美しく、
いかにも日本人の書いた文字だなと思わせます。

ところで冒頭にもあげたこの4本の柱は、ウェストポイントの
指揮官に必要なものが刻まれています。

まず「リーダーの資質」と上にあり、柱には左から

Academic (学術)

Military (軍事)

Physical(身体)

Character(人格)

それを土台で支えるのが、

Duty(義務)Honor(名誉)Country(祖国)

なるほど。

しかし言うては何ですが、これだけのことを言うのに、
こんな大掛かりな舞台装置みたいなのをわざわざ作るって・・・。

士官候補生を教育し、訓練し、啓発することで、ここを卒業した者が
Duty、Honor、Countryの価値を踏まえた指揮官の資質を備えること。
そして秀でた専門知識を備えたキャリアを育て、国家に奉仕する
アメリカ陸軍の将校となるための準備を行うこと。

下手な訳ですみませんが、これが陸軍士官学校の「ミッション」です。

右手を上げる仕草は、士官候補生が晴れて任官する際の誓い、
自衛隊でいうところの服務の宣誓とともに行います。

 

「私、〇〇は、米国憲法を支持し、国内外ののすべての敵から
米国憲法を守ることを誓い、それをここに厳粛に宣言(または肯定)します。

同じくそれに真摯であり忠誠を負い、なんらの心裡留保も
忌避の目的もなく、また対価を求めずその義務を果たし、
誠実かつ十分に、自らに与えられた任務を果たすことを誓います。

神よご加護を。」


これもなかなか下手な翻訳で失礼いたします。
陸軍士官学校のOath (宣誓)には、

「any mental reservation 」

「purpose of evasion」

という、自衛隊の宣誓でいうところの

「事に臨んでは危険を顧みず」「身を以て責務の完遂に努め」

に当たるところに、英語圏の者でないと少し理解しにくい、
この二つの言葉が使われています。

メンタル・リザーヴァションを「心裡留保」と訳してみましたが、
これは、

はっきりした疑いではないが、心の底から信じることを妨げる何か

というときに使われます。

芥川龍之介の自殺の理由みたいですね。

日本語で「一点の曇りもなく」とよく心情説明のときなどに言いますが、
この場合も"without" を伴って同じように翻訳するのが良かもしれません。


これを読んで思ったのは、自衛隊の宣誓はその対象が「国民」ですが、
こちらは「米国憲法」となっていることです。

かの国では国民と憲法は一義であり、日本のように乖離した存在ではないことを、
こんなことからも感じ取ってしまうのですが、それはともかく。

指揮官養成のためのシステムについての紹介です。

学術的にも肉体的にも、鍛錬され、錬成されてこそ指揮官、
ということで、徹底的に厳しい47ヶ月のプログラムが組まれています。

特に軍事演習については、状況判断と意思決定の能力と、
的確で私心のない命令を下せることに訓練はフォーカスされます。

「個の集まりは個より偉大である」

切磋琢磨と言いますが、共に学び刺激し合い、協力することで
より一層そのリーダーシップを強固に培うことができるのです。

どう行動し、どう振る舞い、どう真実を撰び取るか。
指揮官は部下と言葉と行動で意思疎通をはかり、
モラルと尊厳ある立ち居振る舞いで任務を果たさなくてはいけません。

指揮官の人格は陸軍の価値に直結し、部隊の士気に直結します。
そのため指揮官はしなやかで強靭な肉体を備えていなければなりません。

そして、柔軟性のある精神が的確な判断力と独創を生むのです。

「責任の重みを感じること」

いやー、なんというか、軍隊指揮官の養成というのは、
おそらく世界どこに行っても同じような言葉を使うものですね。
「指揮官の条件」というのは古今東西共通なのに違いありません。

学生は「学生隊」(Corps Of Catdets)を組織し、そして
シニア(最高学年)の優秀な生徒から隊長が選ばれます。

夏の野外訓練では小隊が組まれ、上級生が下級生を指導します。

そして指揮官としてのステージが上がると同時に責任も大きくなります。

陸軍士官学校の学生隊の階級について説明しています。

下から

1年 カデット・プライベート

2年 カデット・コーポラル

3年 カデット・サージャント

4年 カデット・オフィサー

どうも乱暴な進級ですね(笑)
各学年の呼ばれ方とその目標は、

1年 (プリーブ pliebe)チームメンバー ついていくことを学ぶ

2年 (イヤーリング yearling)リームリーダーになる 下級生の指導

3年 (カウ cow )リーダーシップスキルの向上とスタイルの洗練

4年 (ファースティ Firstie)士官として学生隊を指揮する 常に考え、創造せよ


「プリーブ」はそのものが陸士の1年生のことを指します。
「イヤーリング」は一般的に動物の1歳児のことです。

「カウ」は文字通り牛ですが、「イヤーリング」の牛が、
3年になってやっと大人になったということなのかもしれません。

まあ、大人になったと言っても牛なんですけどね。

「ファースティ」は「ファースト」から来ています。

海軍兵学校でも4年生が「1号生徒」だったでしょ?

卒業生の紹介コーナーです。

まず左、2006年に卒業した、ルカズ・デーダ君。

ニューヨークはクィーンズの出身で、ポーランドから10歳の時やって来た
移民の息子さんです。
彼はやはりウェストポイントに在学していた長兄を訪ねて
ここにやって来たとき、

「この場所に恋してしまった」

ということです。
なんか当ブログ的に親近感が湧きます。

専攻はドイツ語。
はてポーランドの人ってドイツを死ぬほど嫌ってると思ってたけど・・。
かつての敵を知る、という意味があるのかな。

彼は今航空士官として活躍しています。

 

右は女性、2007年卒のレネー・ファラーさん。

インディアナ州出身の彼女がウェストポイントに入ったのは、
9・11同時多発テロ事件がきっかけでした。

「世界にある悪くなっていく物事を自分の力で変えることができ、
その変える力の一部になりたいと思ったんです」

在学中は英語専攻、フェンシングをし、弦楽合奏団にも参加していたという彼女、
今では
陸軍の武器科にいるということです。

 

さて、次回はこの展示から、ウェストポイントの毎日についてお話しします。

 

 

 

 


「長き灰色 (グレイ)の列」〜陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-09-17 | アメリカ

予告編でもお伝えした通り、今回ウェストポイントに行ってきました。

ニューヨーク州の田舎にある航空博物館と、州都にあった駆逐艦
「スレーター」に行った勢いで、この際ウェストポイントにも行こう!
と我が家で唯一の免許保持者であるわたしが強く主張し実現したものです。

前にも言ったかと思いますが、日本はもちろんアメリカで
一家を乗せてハンドルを握るのはわたし。

運転が苦にならないタイプなので、代わってくれる人がいればなあ、
と思ったことは
全くありませんが、こういう体制でよかったと思うのは、
自分の行きたいところに人にお願いすることなく行けるということです。

もちろんうちのTOという人は、妻の行動を制限したり咎めたりはせず、
むしろわたしが探し出してくるミリ系観光に喜んで同行してくれるので、
一人の時も家族といる時もわたしの乗る車の行き先はわたしの意のままですが。

そんなわたしの家庭事情はどうでもよろしい。
というわけでこの日、車はニューヨーク州のハドソン川沿い、広大な敷地をもつ
U.S. ミリタリーアカデミー、通称ウェストポイントに向かいました。

ナビの通りにフリーウェイを降りたら、そこはなぜかこんな街。
街全体がゴミゴミしていて薄汚く、看板の半分以上がスペイン語。
どうもヒスパニック系のエリアのようです。

言いたくないけど、移民街というのはどこもどうしてこう、
荒れ放題のシャビーで汚らしい雰囲気になってしまうのでしょうか。

他人の国に来てその経済の恩恵にあずかろうとしているだけの移民は、
そのほとんどが、移民先の国家の文化へのなんの敬意も遠慮もなく、
住んでいるところに自国の貧しさからくる混沌を持ち込む。

もともとの住民は眉をひそめてそこから逃げ出し、より一層
「外国化」が彼らの住み着いた地域を蝕んでいく・・・・。

これはアメリカに限ったことではありません。
わたしは最近、
17年前に2年連続で訪れ、いずれもアパートを借りて
月単位で住んだパリの街が、路上生活をする移民のせいで
目を覆うばかりの惨状になっているのを見て心から悲しく思っています。

日本でもそういう地域がそろそろ出て来ているようですね。


それにしても、軍施設、特に士官学校のある地域というのがこれ?
と違和感を感じながら進んでいくと、ある瞬間から急にそこは
上品な雰囲気の漂う落ち着いた、しかし質実な街並みに変わりました。

そうそう、陸軍士官学校の近隣はこうでなければ、と頷きながらなおも進むと、
「ウェストポイント・ゴルフコース」という案内が山間部の道路に現れました。

地図で見るとわかりますが、ウェストポイントが所有している地域は
総面積64.9 ㎢ で、千代田区、港区、新宿区、渋谷区を足したより広いのです。
その中にはハドソン川や山林を含むとはいえ、これだけ面積があれば
そりゃゴルフコースが一つや二つあっても不思議ではありませんね。

というわけでウェストポイント正門に到着。
エイブラムス・ゲートと名前がついています。

ここに来る手前にそれらしい門があったので、入っていこうとしたら、
そこは陸軍の関係者の住居区か何からしく、警衛ボックスにいた一人の軍人さんが、
すわ!という感じでこちらを睨み据えているので、慌ててバックしました。

その表情から見て、おそらくウェストポイント見学に来た人が皆同じ間違いをして、
車で入って来るのに結構うんざりしているんではないかと思われました(笑)

そこからすぐ先に戦車がある正門を見つけたというわけです。

このゲートの「エイブラムス」というのは、

クレイトン・W・エイブラムス・ジュニア将軍(1914-1974)

の名前から取られています。
エイブラムス将軍は1936年陸士卒業、戦車大隊の指揮官を経て
最終的には陸軍参謀総長を務めた軍人でした。

わざわざ台座に「戦車に登ってはいけません」という注意書き。
いたんだろうなー、過去若気の至りでやらかした士官候補生が(笑)

エイブラムスの名誉は、第二次世界大戦の時のヨーロッパ戦線で
パットン将軍を刮目せしめるほどの優れた戦車隊の指揮によるものです。

彼は装甲と攻撃力に優れたドイツ軍の戦車隊を破り、

「バルジの英雄」

と讃えられました。

サンダーボルト、Thunderbolt VII、 M4 A3E8 シャーマン

第二次世界大戦中、エイブラムスが搭乗した最後の戦車だったそうです。

エイブラムス・ゲートから足を踏み入れると、ウェストポイント博物館が
このように威風堂々の佇まいをたたえ現れます。

一般人の見学はオールウェイズ・ウェルカム。
エイブラムス・ゲートは、むしろ広報のために解放されているという感じ。
「本当の」ウェストポイントへの入り口はこの先にあり、そこから先は
一般人は指定の見学バスに乗ってでないと入ることはできません。

しかしここもよく見ると「ビジターセンター」ではなく、

「ビジター・コントロール・センター」

であるのが、観光地ではなく軍の施設であることを物語っています。

ビジターコントロールセンターは入るとすぐロビーになっていて、
そこからは全面ガラス張りの窓を通してハドソン川が臨めます。

窓に近づいて下方を撮影してみました。
こんな小道も舗装して傾斜には階段と手すりをつける至れり尽くせりな感じ。

とにかくアメリカの教育機関の中で最高にお金がかかっているのが
各種士官学校であることは間違いありません。

ハドソン川を眺める窓際には歴史的経緯の説明が設置してあります。

ウェストポイントはかつてイギリス軍に対する防衛の拠点(ポイント)でした。
1780年に、ジョージ・ワシントンがここに設置した要塞が

「フォート・アーノルド」(のちのフォート・クリントン)

です。

そして1778年、完成したもっとも広い要塞、

「フォート・パットナム」(Fort Putnum)

の跡地が、現在の陸軍士官学校となります。

ここには、訪れた人々に陸軍士官学校の歴史と現在を紹介するための
ミュージアムがスクール・ショップと併設されています。

そのミュージアムのエントランスが、これ。

士官学校卒の五人の将軍の候補生時代の肖像が掲げられています。
左から、

ユリシーズ・グラント(1843年卒)

ここにいる人たちは全員元帥位まで昇進した陸士卒の軍人です。

グラントは南北戦争で北軍に勝利をもたらした司令官で、
アメリカ人なら「グラント将軍」を知らない者はいません。

面白いのが、グラントの元々のファーストネームは「ハイラム」なのですが、
陸士に提出するときに間違ってミドルネームがファーストネームで記載され、
本人はそれを気に入ってこちらで通したという話です。

確かに「ユリシーズ」の方がかっこいいよね。

我が日本の西郷従道が、明治政府の太政官記録係に名前を聞き間違えられ、
本名の

「隆興」=「りゅうこう」を「じゅうどう」=「従道」

にされてしまったのを気に入り、
それを本名にしてしまった話を思い出します。

グラントはのちに合衆国大統領となりましたが、政治家としては評価されておらず、
それどころか彼を「史上最低の大統領」に推す人も結構いるようです。

 

ジョン・ジョセフ・パーシング(1886年卒)

もっと正確にそのAKAを加えた名前を書くと、

ジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング
(John Joseph "Black Jack" Pershing)

ブラック・ジャックとは手塚治虫の漫画の医師のことではなく、
法執行官が持っている棒のことです。

彼は「バッファロー大隊」の起源となった黒人ばかりの部隊を率い、
戦果を挙げていますが、士官学校で教鞭を取ったとき、
あまりにも学生に厳しいので、怖れられ嫌われると同時に、

「ニガー・ジャック」

と黒人部隊の指揮官だったことを揶揄するあだ名で呼ばれていました。
(人種差別が当たり前だった時代ですからこれは致し方なし)

その後、パーシングを取材した記者が、「ニガー」という言葉はあんまりだ、
と考えたのか、一応公的にはそう書くのが憚られたからか、あだ名を勝手に

「ブラック・ジャック」

に変えて報道し、こちらが歴史に残っているというわけです。


ダグラス・マッカーサー(1903年卒)

説明はいりませんね。
マッカーサーが若い時って、こんなにイケメンだったんだー!
とちょっとびっくりしてしまいました。

奇跡の一枚かもしれないと思い、他の写真も調べてみました。
やっぱり男前・・・だけでなく実にノーブルな面持ちの青年ですね。

これなんかもヘアスタイルが今風でいいじゃないですか?

ちなみにマッカーサーの陸士での成績はレジェンドともなっていて、
首席で入学し、全学年首席で通し首席で卒業という凄まじいものでした。
彼以上の成績を取った生徒は史上まだ二人しかいないそうです。

元帥になったからといってクラスヘッドばかりではなく、グラントなどは
どちらかというと後ろの方(人数も少なかったけど)だったそうですが。

ところで昭和天皇陛下と並んで撮った写真のあの人って、
本当にこの美青年の成れの果て?

うーむ、時の流れというのは人を変えるものだのう。

マッカーサーの母はいわゆる「ボミング・マザー」で、彼を溺愛し、
小さいときには女の子の格好をさせ、
ウェストポイントに入学したら
息子心配のあまり学校の中にある
(今でもある)ホテルに、
彼の卒業まで住んで彼を監視、じゃなくて見守っていたそうで、
このため、
彼は

「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」

とからかわれることになったということです。
すごいなこのカーチャン。


ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1915年卒)

昔「将軍アイク」というテレビドラマがあったそうです。

平時に16年も少佐のままだったパッとしないアイゼンハワーの軍歴は、
第二次世界大戦がはじまり、連合国の最高司令官になったことから、
わずか5年3ヶ月の間に大佐、准将、少将(同じ年に)中将、そして
大将に続いて元帥にまで昇進するという、アメリカ陸軍史上、
空前のスピード昇進記録を打ち立ててこちらもレジェンドとなっています。

その後彼が合衆国大統領になったのもご存知の通り。

ちなみにアイゼンハワーは原爆の使用には絶対反対の立場で、
トルーマンにも強硬に反対を進言していたそうです。


オマール・ネルソン・ブラッドレー(1915年卒)

この人誰だっけ?とわたしが思った唯一の一人。
卒業年がアイゼンハワーと同じで、つまりこのクラスは二人元帥を出しており、

「星が降りかかったクラス」”the class the stars fell on"

とまで言われたそうです。

歩兵出身の彼はヨーロッパ戦線で野戦部隊を率いて「マーケット・ガーデン作戦」
「バルジ作戦」などを戦いました。


さて、エントランスの写真をもう一度見てください。
五人の元帥の上部に、士官学校の帽子が見えますね?

そう、卒業式のこの瞬間の白い帽子を表現しているのです。
そして、肖像の下の

「THE LONG GRAY LINE」

は、ウェストポイント・アカデミーの変わることないグレイの制服に
身を包んだ、過去から現在に連なる卒業生たちの列を表します。

 

というか、この制服、ブルーじゃなくてグレーだったのか・・・。


次回はこのセンターのなかにあった展示についてご紹介します。

 

続く。


東海岸の軍事博物館見学予告編

2018-09-13 | アメリカ

さて、息子が大学に残って夫婦二人になってから、東海岸近辺の
めぼしいミリタリー系博物館に行きまくりました。

それらについては、今後時間をかけて観たものをじっくりと
ここでお話ししていくわけですが、今日は東海岸でどんなところに行き、
何を観てきたか、予告編を兼ねてざっとご紹介します。

まず、ニューヨーク州北部にあるエンパイアステート航空博物館
地元の空港に併設された航空博物館で、全く期待していなかったのですが、
屋内の博物館展示も、外側の飛行機展示もなかなかの充実でした。

なんとびっくり、博物館内にはこんなものもありました。
巨大な「赤城」の模型です。

これについてもまた詳しくお話ししますので、乞うご期待。

実は・・・こんなところにも行ってしまったのだった。
当ブログ的には先にアナポリスに行きたかったのですが(笑)

というわけで、アメリカ合衆国陸軍士官学校、ウェストポイントです。

ちょうど学内ツァーの時間に間に合い、バスで学内を観ることができました。

ツァーではかつてイギリスの艦隊を防ぐため、ハドソン川に渡した
いわゆる「チェーン」と、そのチェーンを渡したポイントを見ながら
解説を受けることができます。

この鎖の一部はコーストガード・アカデミーにもあったので、
そちらを見学した時に書いたことがありましたよね。

未来の陸軍士官たちのピチピチした生の姿を垣間見ることもできました。

学内ツァーが終わってからウェストポイントミュージアムも見学。

日本軍の武器や制服、降伏調印式のサイン入り実物もここにあります。

昼ごはんを食べ損なったので、士官候補生御用達のマクドナルドへ。
ここの大きな星条旗も半旗になっていました。

とにかくこの地方は日差しが厳しくて蒸し暑かったです。
こんなところで候補生たちは大変だなあ・・と心から同情しました。

まあ、それをいうなら我が自衛隊の士官養成のための厳しい訓練も、
日本というとんでもない暑い国で行われているわけですがね。

おそらく日本では全く知られていないと思われる軍事遺産、
駆逐艦「スレーター」の見学にも行きました。

ニューヨークの州都アルバニーのハドソン川沿いに係留展示されています。

TOが帰ることになり、出発前ローガンのヒルトンに一泊しました。
ヒルトンにはフィギュアヘッドがロビーに飾ってあります。

最後の夜を懐かしのオールドボストンで過ごすことにしました。

ハーヴァード・スクエアは、夜になって一層人が集まってくるようです。
いつ来てもストリートミュージシャンの演奏がありますが、
ここで演奏するにはオーディションを受けないといけないそうです。

ここ出身で有名になったミュージシャンも多数。

TOが本を買いたいというのでザ・クープに来ました。
ここも懐かしいなあ。
実店舗の本屋がAmazonに押されて姿を消しているアメリカですが、
ここだけは今後も決して無くならないでしょう。

階段を上ったところにはティールームになっています。

ブランソープ・スクウェアには人がいっぱい。
ボストンはこの頃昼間暑いですが、夜になると爽やかです。

わたしたちがこの日夕ご飯を食べたのは、画面左の二階にある、
インド料理「マハラジャ」。

ボストンに住んでいた時、TOの同級生だったインド出身の
ラマナンドさん夫妻に初めて連れて来てもらいました。
あれからもう17年経つのに、変わらず盛況です。

サラダとチキンコルマ一つを二人で食べてちょうどでした。

マハラジャからの眺め。
アメリカの古い街並が夜になってクリーム色の街灯に照らされる様子は
胸が締め付けられるくらい美しく、懐かしい感じがします。

向かいにはジェラート屋さんができていて、アイス好きのアメリカ人が
夜にも関わらず詰め掛けていました。
この日は日曜だったせいで、夜ですが子供も結構います。

お父さんがコーンを食べているのを見ている子供の顔が・・・(笑)

わたしたちより先にこの近くのメディカルスクールに留学した友人が、
色々とボストンでの学生生活をレクチャーしてくれたことがあります。
その彼が

「あそこはいかにもニューイングランド、って感じで好きだった」

と言っていたスターバックスが、ここ。
ちょっとエドワード・ホッパーみたいです。

TOを空港で見送り、わたしは一人になって、
毎年来ているいつものホテルに投宿し、いつもの公園に歩きに来ました。

この日はレイバーデイの次の日で、レイバーデイに休めなかった人が、
休みが取れたのでバーベキューをしようと支度をしていました。

レイバーデイは「勤労感謝の日」ですが、そんな日にも
働かないといけないサービス業の人たちはいるわけで・・。

わたしが朝歩きにくる時間にはほぼ人はいません。
たまにすれ違う人とは必ず挨拶をします。

ここアメリカで挨拶をすることは、相手にとって自分が危険ではない、
と知らせる意味もあるのだと聞いたことがあります。
特にこんな人の少ないところでは必要かもしれません。

車を停めたところから約一時間歩いて、この堤防の上の
一本道を通って帰ってくるという、もう何年も歩いている同じコースです。

一人になってすぐ、ふらっとバトルシップコーブにやって来ました。

中には入らず、外から眺めるだけ。
どれも、皆さんに詳しくお話しして来た艦船です。

USS「ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア」。

戦艦「マサチューセッツ」と「ライオンフィッシュ」。

「ライオンフィッシュ」の横にはソ連で建造された「ヒデンゼー」
その流転の人生についてはぜひ当ブログ記事をお読みください。

「ケネディ」が一番かっこよく見える場所から。

そういえば一眼レフでバトルシップコーブを撮るのは初めてだった・・。
「マサチューセッツ」をハリネズミのように守る砲の列。

こんな遠くからでも「ライオンフィッシュ」にペイントされた
日の丸と旭日旗がくっきり写ります。

ところで、インターネット時代になって?改めて検索してみたら、
今まで毎夏来ていた所にミリタリーミュージアムがあるのを知りました。

ここが結構今回の目玉というか、面白いものを見ることができました。

第二次世界大戦博物館、という名前の通り、その時代のアメリカ、日本、
ソ連、ドイツのものを集めて展示してあります。

これらについてもそのうちお話しさせていただきますので、
どうかよろしくお付き合いください。



リメンバリング9/ 11〜ボストンニュース雑感

2018-09-12 | アメリカ

息子の入寮を無事に見届けた後も、わたしは元気で東海岸にいます。

いるついでに調べておいたミリタリー系の博物館に行ったり、
いつもの場所で散歩したり、買い物したりしています。

今いるボストン郊外は、3日前まで昼間は日差しが強く、
日向にいると苦痛なくらい暑かったのですが、2日前の夕方、
こちらの言い方で言う「猫やら犬やらが降ってくる」ほど強い雨が
雷を伴って振って以来、いきなり秋になってしまいました。

昨日は昼前から1日雨が振っていて、気温は14度。
二日までの服がもう着られなくなるのでは?と思うくらい寒かったのに、
今日は日差しが復活して途端にまた蒸し暑い天気が復活。

寒い時にはコートを着ている人もいますが、次の日はノースリーブ。
アメリカ人に「衣替え」の習慣はないのに違いありません。


さて、こちらではネタ探し(笑)とニュースがどう報じられているのか
チェックするために、部屋にいるときにはテレビを流しっぱなしにして、
画面を写真に撮ったりしているのですが、今日はそれをご紹介します。

まず、大坂なおみ選手の全米オープン優勝での事件。
日本ではどう報じられてますか?

画像は、無敵の女王の自分が小娘に歯が立たなかったのでヒステリーを起こし、
それを審判のせいにしただけでなく、後から「セクシズムへの抗議」にすり替えて
殊勝な顔でコメントするセリーナ・ウィリアムズ選手。(だってそうでしょー?)

感情を爆発させてやりすぎ、聴衆を味方につけて場を無茶苦茶にしておいて、
後から尤もらしい言い訳をするなんて、傲慢以外のなにものでもありません。

この人が誰かチェックするのを忘れましたが、

「このオーサカと言う若い女性は、彼女の研鑽の結果を発揮した瞬間を
いわば盗まれたのと同じようなことになってしまったんです」

としてセリーナを激しく非難していました。
(これはセリーナが審判を『泥棒』と罵ったこととかけている)
審判への非難を性差別にすり替えたのも、ダブルスタンダードだ、
ともいっていました。

CBSはセリーナを擁護している、と言う日本のネットの噂も見ましたが、
少なくともわたしが見た限り、コメントを言う立場の人は
なべてセリーナに厳しく、試合当日の夜これを報じたキャスターは

「彼女も、ナオミにブーイングした彼女のファンも、
テニスというスポーツにもっと敬意を払うべきだ」

ときっぱり言い切っておりました。

後から知ったのですが、大会主催者も、これは我々が望む結果ではなかった、
みたいなことを言ったらしいです・・・これ酷すぎない?

夢叶って憧れの選手と決勝戦、四大大会の一つで優勝し夢を果たしたのに、
誰も自分の勝利を讃えてくれないどころか四面楚歌。
これじゃ二十歳の彼女が泣いてしまっても仕方ないと思います。

ところで、表彰式でナオミに観客がブーイングすると、いきなりいい人ぶって(笑)
皆にブーイングをやめるようにと叫ぶセリーナってなんなの一体。

こんなことになったのはそもそも誰のせいなんでしょうか。

「彼女は悪くない」

と言ったらしいですが、そもそもあなたの苛立ちは当初若い選手に向けられてたでしょ?

この言い訳くさいセクシズムへの抗議へのすり替えについては、大坂選手が
もしハイチ人と日本人とのハーフでなかったから、もっと強力な、

「人種差別」カードが使えたのに残念だったね、という辛辣な意見さえあります。

違和感があったのは、どこの局も、セリーナのラケットを折った映像ばかりを流し、
大坂なおみ選手の圧倒的だった試合運びについては全く触れずにいることです。

ペナルティがなくてもおそらく彼女の勝利は動かなかっただろうということも言及なし。

聞いていた限り、大阪選手が日本人であることに特に言及した局もゼロでした。
日本だと、おそらくお愛想でも勝者の健闘を讃えるような言辞が
誰かから出るものだと思いますが、なんだか不思議な感じです。

まあ、あれだな、アメリカ人としては本心ではセリーナに勝ってほしかったのね。


わたしがアメリカに行く直前、ジョン・マケイン議員が亡くなりました。

アメリカに到着すると、街のそこここの国旗が全て半旗になっており、
しかも約1ヶ月くらいはそのままになっていたと記憶します。
アメリカにとってのマケイン議員がいかに大きな存在だったかを知りました。

CNNなどは民主党寄りをほぼ公言していて、トランプを親の仇のように報じますが、
流石にマケイン議員に対しては丁重な扱いだったように思います。

ベトナム戦争で捕虜になり、自殺を試みるほど酷い拷問から生還した
マケインは右左関係なくアメリカの英雄なのです。

全ての海軍艦艇が艦尾の国籍旗を半旗にしていたそうです。
横須賀の第七艦隊でも同じようにしてマケインに弔意を表していたはず。

この時に番組に出てマケイン氏の思い出を語っていた政治家は、
海軍兵学校でマケイン氏と同期だったということです。
話しているうちに、目に光るものがあったのが印象的でした。

 

海軍といえばですね。

昨日、ついに?「ラストシップ」の最終シーズンが始まりました。

作業をしながら横目で観ていたところによると、米海軍艦隊、
フリート・ウィークつまり一般公開の時に敵機来襲があり、
チャンドラー艦長の艦もズタズタにやられてしまっていました。

散々だった1日が済んで鎮魂の喇叭が演奏されています。
喇叭手の軍服もボロボロです。

Huluで早く続きが観たい・・。

ところでこれを制作しているのは9月11日、そう、セプテンバーイレブンです。
テレビでは、事故の時間に行われているトレードセンタービル跡での
慰霊式での様子を中継しながら、当日の映像を流し続けています。

実はわたしは明日西海岸に移動することになっており、当初
カード会社は9月11日のフライトを提案してくれていたのですが、
事故当日、ボストンからサンフランシスコへの便がハイジャックされた、
ということを思い出してなんとなく一日ずらしてもらいました。

縁起が悪いとかそういうことではなく、空港もその日は
何となくいつも通りではないのではないかと思われたからです。

映像を司会するスタジオの女性アナウンサーが、

「わたしの祖父もパールハーバーで亡くなっている」

と言い出したときにはあんた何言い出すの?と思いましたが。
言っとくがなあ、真珠湾攻撃は「テロリズム」じゃないんだぜ!

昔WTCの跡地グラウンドゼロに瓦礫が残っている状態の時
見に行ったことがありますが、ご存知の通りその跡地は
現在慰霊のモニュメントがあるだけになっています。

国旗の先頭に立つ音楽隊はバグパイプ。

音楽隊はニューヨークのファイアデパートメントと、
ニューヨーク警察の合同メンバーで構成されていました。

事故の後、現場に飛び込んでいった多くの消防士と警察官が
ビルの倒壊に巻き込まれて殉職しています。

国旗を敬礼で見送るのは警察と消防士たち。

左の女性警察官は、911で父親を亡くしています。
この若さから見て、幼いときに殉職した父と同じ道を目指したのだと思われます。

遺族が自分の家族と、その他の犠牲者の名前を読み上げています。
右側の少女はおそらく事故当時赤ちゃんだったのではないでしょうか。

ペンタゴンでもシャンクスビル(飛行機の墜落したところ)でも、
同じような慰霊式が行われています。

ところで、遺族が読み上げた犠牲者に日本人の名前があったのですが、
同時に字幕をタイプする人には聴き取れなかったらしく、
どこの国の人だよ?みたいな妙な綴りになってしまっていました。

ペンタゴンでは海軍の喇叭手が「ラストシップ」と同じく鎮魂の譜を奏で、
純白の軍服に身を包んだ海軍のコーラス隊が、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を
ハーモニーも荘重にアカペラで歌い上げました。


今日一日、アメリカの全国民が一つの事件を想い、こうべを垂れ、
17年前の今日失われた三千人以上の犠牲者(いまだに正確な犠牲者数は
特定できていない)の魂のために祈りを捧げます。

おそらく今日、アメリカは星条旗を半旗にしてその弔意を表すでしょう。





わたしのワシントンD.C.滞在

2018-09-03 | アメリカ

今回、東海岸にいる間にワシントンに一泊してきました。

ワシントン空港到着。
ボストンに住んでいた頃来て以来ですから、ほぼ空港の記憶なし。

当時はレンタカーのゴールドメンバーなどではなかったので、
レンタカーを借りるのも、その都度カウンターに並んだものです。

今ではカーロットの「プレジデント・サークル」に並んでいる
選り取り見取りの車から、契約したクラスの値段で借りられる身分に。

契約はいつもカローラ・クラスでしますが、大型車があればそれを借ります。
今回も一泊ですがトヨタのハッチバックを選びました。

空港から市内に向かう途中、虹が出ていました。

これを見るとワシントンにやって来た、と思うワシントン記念塔。
高さ約70mあって、内部は上まで登れるそうです。
(調べてませんがまさかエレベーターなんてないよね?)

そしてたった今知った情報によると、ペリーが日本から持って帰った函館、
下田、琉球の石がどこかに使われているんだとか。

ワシントンでのホテルもいつものレジデンスイン・マリオットにしました。
一泊なので料理は多分しませんが、キッチンがあると何かと便利です。

次の日、早速わたしたちは3人でホテルを出ました。
目的はスミソニアン博物館。

というか、スミソニアンのためにだけワシントンにやって来たようなものです。
もちろんこれはわたしの強い希望によるものです。

アメリカの貨物列車は気が遠くなるほど車輌の列が長いのですが、
この時に遭遇した列車も丸々5分間は続いて行きました。

合衆国国会議事堂が工事現場の向こうに・・・・・。

おお、これが夢にまで見たスミソニアン博物館。
しかし誰も前にいないのはなぜ?

TOが開館時間を勘違いして1時間早く来てしまったのですorz

「じゃホテルに帰ろうか」

「わたしスターバックスで時間潰していく」

そのまま二人は帰って行ってしまい、結局博物館には現れませんでした。
その理由は、この後大雨になったからです。

ドワイト・D・アイゼンハワー記念館を作るつもりと判明。
施工許可者と言う意味か、トランプ大統領の名前が一番上に見えます。

こんな巨大な建物をアイゼンハワー一人のために・・・・?

と言うわけで、少し戻ったところにあるスターバックスに到着。
ただしこれはそこにあったシアトルの第一号店の写真です。

スタバ第一号店にはシアトル旅行の時に行って見ましたが、
ほぼ全員が観光客で、全員が店内の写真を撮りまくっていました。

開館10分前に行って見ると結構な列ができていました。
スミソニアンに行く予定のある方、開館30分後に行けば
行列は解消していてほとんど並ばずに入れます。

飛行機に乗る時のように金属探知ゲートを通り、
荷物はX線検査を行います。
アメリカの空港のように靴までは脱がされませんでしたが。

スミソニアンといっても、ここはたくさんの博物館のうちの一つに過ぎません。
正式名は、

国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum)

といいます。
スミソニアンの展示については、また例によって、
「ビニーリサイニーリ」方式で何日にも分けてお話しして行くつもりです。

歴史的な航空機の本物があるのはもちろん、宇宙関係は
ほとんどが実際に宇宙から帰って来たものだったりするのがすごい。

写真はマーキュリー計画でジョン・グレン飛行士が乗ったカプセル。
これを回収したのは「ミッドウェイ」艦上にあったヘリコプターです。

一目でわかるこの形、この色。

当ブログでもベルX-1、「グラマラス・グレニス」の前に立つ
チャック・イエーガーの絵を掲載したものですよ。

人類初めて音速を超えたロケット機がここにあります。

黎明期に空を飛んだ(あるいは飛べなかった)飛行機の数は数知れず。

ジェット機は胴体をそのまま輪切りにして中を見学できるようになっています。

歴史的な偉業を成し遂げた飛行機は言うに及ばず。
これは北極圏を飛んだ飛行機、ノースロップ・ガンマ・ポーラスター

お父さん、すっかり疲れてベビーカーの見張りをしつつ休憩です。

零式艦上戦闘機、もちろん本物です。

空母コーナー。
この巨大な模型は空母「エンタープライズ」です。

ここは展示室全体が空母のハンガーデッキと同じ作りになっていて、
個人的にはすごく馴染みました。
ここで見たものをご紹介できるのが楽しみです。

空中にもびっしりと航空機が展示されていて圧巻です。

アポロ計画の月面モジュール。
これが本当に月に行ったのか・・・と感慨に浸れます。

ここにある中である意味もっとも歴史的に価値のある展示かもしれません。

なぜか館内のIMAXでミッション・インポッシブルの新作が上映中。
わたしたちはアメリカに出発する前日に皆で観に行きました。

「アルビオン」を見学したその日の夜だったので、
寝落ちするかと思ったら、案外面白くて最後まで観てしまいました。

一人で写真を撮り歩き回ってお腹が空いてしまったので、カフェで休憩。

広いテーブルスペースの手前に食べ物のケースが並んでいて、
そこでピックアップしたものをお勘定して食べるというシステムです。

大きなモッツアレラチーズ入りターキーサンドとフルーツ。

アメリカの生んだ偉大なパイロットたちについても多くを学べます。
右側の女性はリンドバーグ夫人。彼女自身も有名な飛行士でした。

初めて見るのに初めて見る気がしない。なぜだろう。
マリー・アントワネットもこれが飛ぶのを見たというモンゴルフィエ兄弟の気球。
ここにあるのは模型だそうです。

夕方まで一回の休みだけで駆け回り、腱鞘炎になる一歩手前になるまで写真を撮って、
ホテルに帰って来たら、
一日の歩行距離は2万歩でした。

外は激しく雨が降っていたので、お土産ショップで傘を買いました。
ショップの一隅にはワシントンということで「桜」コーナーあり。

出口で見かけた素敵なTシャツのお父さん。

ワシントンの中心部には100年越えの建物と新しい建物が混在しています。
こちらは新しい方ですが、砂漠の中にありそうな雰囲気。

国立アメリカインディアン博物館だそうです。

こちらは古い方、スミソニアン産業博物館です。

航空宇宙博物館の周りには郵便博物館、聖書博物館などがあり、
どちらもこんなものをわざわざ観に行く人がいるのかと思ってしまいましたが、
車で通りかかるたびに誰か人が入って行くのをみました。

ワシントン滞在は二泊。スミソニアンだけが目的です。
にも関わらず、初日航空博物館に全く脚を向けなかったTOとMK。

彼らにしてみれば、スミソニアン航空宇宙博物館も
わたしにとっての聖書博物館みたいなものなのでしょう。


飛行機に乗る前に空港近くにあるスミソニアン別館には流石に
一緒に行くことになりました。

空港に向かう途中、息子に適当に風景を撮ってもらいます。

記念塔の根元は星条旗と柵で囲まれていますが、これは
1982年、反核派の男が核武装に抗議し爆博物を仕掛けたとして
立てこもり射殺された事件以降になされたという話です。

反核派が戦闘的というのは世界的な傾向だったりするのね。

のリンカーン記念堂のプール(フォレスト・ガンプとジェニーが入った池)
はこの木立の向こう側にあります。
今走っているのはコンスティチューション通りです。

観光バスから降りる観光客は絶えることはありません。

ポトマック川に渡るアーリントン・メモリアルブリッジを臨む。

「あー!今撮って!あれ撮って!」

と騒いで撮らせたレイセオン社(ファランクスなどを作っている)のビル。
でって言う。

そして約30分後、空港併設のスミソニアン別館に到着。
どちらかと言うとわたしはこちらがメインだったんですよね。

なぜって、ここには旧日本軍機やドイツ軍機などのコレクション多数。
何と言っても冒頭写真のB-29を直にこの目で見たかったからです。

博物館は空港から近く、飛行機の時間待ちに見学もできます。
空港からは頻繁にホテル提供のシャトルバスが往復しているようです。

まあわたしは飛行機の待ち時間ではとても時間は足りなかったですけどね。
全部見終わるのにたっぷり5時間かかってしまいました。

ワシントン空港に着いた途端、雷雨になってしまいました。
これは一旦止んでからの写真ですが、出発は遅れるとの通知。

ワシントンのダレス空港では、このようなバスがターミナル間を往復しています。
バスはほぼまっすぐにしか進まず、ターミナルで乗り込んだ客を、
向かいのバゲージクレームまで載せて行きます。

これは「モービルラウンジ」というもので、2本の筒は柱だそうです。
これを天井にはめると車体がラウンジの高さに応じて上下する模様

わたしたちの飛行機は遅れに遅れました。
一回乗り込んでまた降ろされ(荷物もピックアップ)、
結局いつになるかわからない出発をラウンジで待つことになりました。

アメリカ人は慣れているのか皆平然としています。
まあ、誰しも落雷の危険をおしてまで飛んで欲しくないですよね。

その辺が北海道の空港で暴動を起こした某民族との違い。

結局離陸したのは予定時間の4時間後でした。

わたしにとってのワシントンDC滞在はイコールスミソニアン、
しかも航空宇宙博物館のみ。
そして街一番と評判の、
しかしその割にいまいちだったイタリアンの夕食、
それが全てでした。

しかしその二日でいっぱいブログネタができたので大満足です。
またそのうちここでお話ししていくつもりですので、よろしくおつきあいください。

 

 

 


ボミング・マザーにならないで〜アメリカの大学入学オリエンテーション

2018-08-30 | アメリカ

 

息子が入寮した次の日、大学のオリエンテーションが始まりました。

オリエンテーションはこの大学のホールで、朝早くから行われます。

日本の市民会館の大ホールくらいの規模ですが、実はここは小ホール。
同じ建物に大ホールもあり、
東京のオペラシティと同じくらいです。


ここで、学生生活に関わる各部門のディレクターによるレクチャーが
午前中いっぱい使って行われました。

学生生活一般、健康、安全、経済・・。

安全についてはスクールポリスのヘッドが、

「我々は万が一学校内で銃撃事件が起こった時の訓練も受けています」

学内をスクールポリスのパトカーが四六時中パトロールしており、
彼らはFBIとの連携を常にとっているということでした。

健康について、特にマインドの問題は専門のセラピストを設け、
LGBTQの問題についても対処しているというのですが、

「はて、L(レスビアン)G(ゲイ)B(バイセクシャル)
T(トランスジェンダー)はよく聞くけどQって何?」

と思い、家に帰ってから調べてみると、Qとは

Queer or
Questioning

クイアとは同性愛者を含むセクシャルマイノリティーの総称で、
とにかく「大多数の外にあるもの」という定義でしょうか。
はっきりとはしないが「クエスチョンズ」でもあるように、
ぼんやりとしたマイノリティという意味かもしれませんがわかりません。

この写真は、ボランティアであるソフォモア(二回生のこと)四人が
一つの質問に1分以内で答えていく20問、というコーナー。

「授業をスキップしたことがありますか?はい最初の人」

「イエス、アイムギルティ、バット・・・」

「はい次の人」(ドッと笑いが起こる)

骨折したとか、よほどの理由があれば仕方ありませんが、
一回でも授業を休むとリカバーするのが大変だ、ということです。
代返なんてことはアメリカの大学には起こりえません。
困るのは本人ですし、そんな犯罪行為に誰も手を貸してくれません。

また、1時間の授業に対し最低2時間から4時間のホームワークが必要だとか。

ちなみに、学業についてのレクチャーで、

「この学校に入ってきた皆さんのお子さん方は、ほぼ全員がハイスクールの
上位10%におり、その多くが首席か次席だったという優秀な生徒ばかりで、
しかもSATの成績、特に数学は満点で入ってきている人の方が多いのです!」

といきなり親たちの親ばか心をくすぐりまくった後に、

「しかし、皆が優秀なので、そんな生徒が
最初の試験でBとかCの成績を取ってショックを受けます」

あー、それは知ってますよ。

戦前の日本で、地元では神童とか天才とか言われていた青年が、
海軍兵学校のハンモックナンバーでいきなり最下位になってしまい、
ショックを受けるという話みたいなもんですね。

「それでメンタルを壊してしまう生徒も少なくありません」

日本のノーベル賞受賞科学者の息子がMITに入ったものの、
入学してすぐに自室で自殺していた(しかも一週間気付かれなかった)
という痛ましい話があったのをご存知の方もおられるでしょう。

彼の場合はいきなり英語の環境に放り込まれたことも原因かもしれませんが、
アメリカ人学生でも学業についていけずに自殺する、という事件は
名門校ほど頻繁に起こるというのが定説です。

学校としては自殺されるのは一番困りますから、なんとしてでも
そうなる前に専門家に相談してくれ、と声を大にして言いたいところでしょう。

「よくあるコミニュケーション」としてディレクターと学生の間で
ちょっとした寸劇が行われました。

1、男子学生と母親 2、女子学生と父親 3、単位を落としそうだと報告するメール

1と2はも日本でもありそうなやりとりでしたが、最後は、

「お父さんお母さん、落ち着いて聞いてね。
わたし、実はボーイフレンドの子供を妊娠してしまったの。
彼にはちょっと病気があるけど大丈夫、産んで育てるわ」

と言った後に、

「今のは嘘。ちょっと脅かしただけ。
わたしは妊娠どころかまだボーイフレンドもいないから安心して。
でもね、一つ単位を落としそうなの・・・」

親に、なーんだ、そんなことか、と思わせるためのテクニック紹介?でした。

アメリカの大学は専攻を途中で変えることができます。

つまり入学した時には何をするのか決まっていない学生もいますが、
一旦選んでから変えるのよりはギリギリまで迷うのもありらしいですね。

このガイダンスは、専攻を決めるにあたって、というテーマ。

また別の部屋で行われた学生への質問など。

驚いたのは、こんなステージを持つ小ホールが別のところにもあったことです。
この調子では、他にも後いくつかホールがありそうです。

この日はランチもディナーも申し込んで学校で食べることにしました。
ディナーは学校の一部にある「アラムナイ・ハウス」つまり
卒業生同窓会クラブのソーシャルルームで行われることになっていました。

この建物は学校の横にあった、いったい築何年?という古い家。
軽く150年くらいは経ってそうです。

大学のあちこちには、歴史に名を残した卒業生を讃えるコーナーがあります。
海軍士官の姿をした写真を見つけて目を輝かせて近づいていくと、
海軍にいた時代があった科学者でした。

アラムナイセンターにあった卒業生コーナー。
装甲艦、USS「モニター」の本がありますが、写真を撮り忘れたので
卒業生がこれを作ったのか、それとも海底から発見したのかわかりません。

右側は軍用航空機の開発者で、コンベアのB-58ハスラーなども手がけた
卒業生の紹介として本が飾ってあります。

アポロ計画時代、NASAのトップをしていた卒業生もいたようです。

なんと!あのリバティシップを大戦中740隻作り、効率性の点で
海軍と造船の現場に大変な効率性をもたらした人が卒業生にいました。

この他、シービーズで指揮をとった土木工学専攻の卒業生もいるなど、
軍事研究にも多数の卒業生が関わっていることがわかりました。

サラダとチキン、白身魚のビュッフェがこの日のディナー。

同じテーブルになった人たちと話しながら食事するのですが、
わたしたちの隣に座った男性は、なんとコロラドから、三日かけて
車で馬を乗せてここまでやってきた、と語り驚かされました。

なんでも彼の姪がどうしても愛馬を連れてきてほしい、と頼んだからだとか。
近隣の乗馬クラブに預けたりするつもりなんでしょうか。

それにしても、アメリカの金持ちはやることが豪快だわ。

息子と最後にこの食堂でランチを食べました。
冒頭写真の建物の内部がこれです。
外側は思いっきりロマンチックなのに、中は普通のダイニング。

入り口で8ドル払えば中で好きなだけ食べても構いません。
もちろん時間制限もありません。

学内を歩いていて東部の学校だなと思った貼り紙。

「建物の外側を歩くと上から雪が落ちてきて危険ですから
必ず内側を歩いてください」

さて、オリエンテーションも二日目になり、いよいよ最後です。

オリエンテーションの最後は親と子が一緒に受けることになり、
ロビーでコーヒーを飲んでいると、「よお」といって息子が近づいて来ましたが、
あとはずっと同級生と楽しそうに話をしていました。

もう友達になったのかしら。


ロビーには栄養について専門知識を持つ栄養士がアドバイスをするコーナーや、
学生専用銀行のコーナー、そして・・・・

なぜか海軍のコーナーがありました。

せっかくなのでパンフレットだけもらってきました。

まだ詳しく読んでいないのでわかりませんが、ちらっと見たところ、
海軍が月々2,000ドルくらいを出資するバカロレアディグリーで、
工学系大学で原子力や医学につながるバイオロジーなどを勉強し、
卒業後、海軍の原子力エンジニアや軍医、航空士官、軍艦乗組、
そして原子力潜水艦の乗組になってくれんかね、というブースのようです。

どちらにしてもアメリカ市民でないとダメらしいですが。

海軍のブースには三人もいましたが、陸軍と空軍は
テーブルが用意されていただけで誰も来ていませんでした。

いよいよクロージングセレモニーの始まりです。
それにしてもたかが一つの大学のホールなのに、この立派なこと。

セレモニーではディレクターの一人が今年の入学生の「優秀さ」について語り、
去年の入学生がこの一年どんな学生生活を送ったか、学生が製作したビデオを放映したあと、
スクールソングを皆で歌っておしまい。

息子の部屋には後から思いついたものを買って来て放り込みました。

他の生徒たちは今日が本格的な引越しです。
前の車が荷物を降ろし終わるまで、後ろは動けません。

近隣から来ている彼らは、荷物をバラバラで持って来ているのが特徴。
スーツケースなど一切持たず、ハンガーにかかった服を持ち込む男子学生もいました。

皆が買ったばかりの電子レンジ、掃除機、温熱器、
コーヒーポットやダイソンなどの箱を抱えています。

 

オリエンテーションのレクチャーではこんなことを言っていました。

自分たちで何もかもやろうとせず、ましてや子供を
「ダチョウ」のように何かあった時に殻に閉じこもらせず、
できるだけ我々を信頼して外部の専門家を頼ってください。

ただでさえ、大学というのは最低でも週32〜36時間の
勉強をしないと単位が取れないので、95パーセントの学生が
大変な思いをして時間を捻出しているのです。

だそうです。
アメリカの大学は入るより出るほうが難しいとはよく聞きますが、
とにかく皆猛烈に勉強させられるようですね。

親としては、私の子供は親元を離れて大丈夫かしら、と心配になるものですが、
そんな時に決して「爆撃型」「ヘリ攻撃(バラマキ)型」ペアレンツにならないで、
とこの講師は語りました。

愛情の爆撃、心配のヘリ攻撃、何れにしても大人になりかかっている
彼らには、負担にしかならないのは事実です。

わたしは皆さんも薄々お分かりの通り、興味の対象が子供にだけ向いている
ボミングマザーだったことはないという自信はありますが、
(ボムはボムでも本当の爆撃関係にこそ興味があるので、と言うのは冗談)
それでも息子からすれば、自分を信じていないと思われるような心配や小言が
疎ましく思われることだってなかったわけではないでしょう。

そんな点からいうと、親元から離れての学生生活は、子供の側にとっては
誰でも持つ「親の煩わしさ」からの解放であることは間違いありません。
逆に、離れて初めて親の有難さに気付く
機会であるとも言えます。

親にすればそうであってほしい、といいますか。

週一度程度のスカイプ、用事がある時のメール、せいぜいメッセージと、
この時代ならではの便利なツールを活用して適度なコンタクトを取りつつ、
遠い日本から保護者の務めを果たしていこうと思います。

息子が自分の人生を親の助けなく歩いていけるようになる日まで。

 

 


バック・トゥ・スクール〜子離れの季節 in アメリカ

2018-08-28 | アメリカ

ついに大学が始まり、息子が旅立っていきました。

この場を借りてアメリカの大学と、またこの季節の風物詩ともいえる、

「バック・トゥ・スクール」

についてお話しようと思います。

アメリカの私立大学はどこでも、入学に際して学生本人に対してだけでなく
親に対しても、大々的なオリエンテーションを行います。

しかも、1時間2時間というものではなく、丸々二日かけ、合間には
ランチ、ディナー、学長主催のパーティ、その他ソーシャルを含んで
あらゆる角度から学校の紹介と、新入生の親の不安を解消するための
アプローチでより一層学校に理解を深める一大イベントです。

新入学生のオリエンテーションは日本の大学でも普通に行いますが、
親を対象にここまでするとは、と日本人の我々には驚きです。

アメリカの大学、特に私学はそれ自体がビジネスなので、
大金を出してくれるスポンサーに説明するのは当たり前かもしれません。

この期間にわたしたちは広大なキャンパスをあちこち歩くことになり、
かなり学校内の地理に詳しくなりましたが、それでもまだ行ってないところもあります。


この日は学生センターを探検してみました。

 

卒業生の寄付らしいスタンウェイのピアノが学生ユニオンのラウンジにあったので、
誰もいないのをいいことにショパンのエチュードを一曲弾かせてもらいました。

調律などはされていないらしくひどい状態でしたが、周りにはソファもあり、
このコーナーは防音装置で囲まれています。

キャンパスに必ずピアノがあるのもアメリカの大学の特徴。

広大な部屋の半分にビリヤード台が置かれていました。
こういうのもおそらく卒業生の寄付によるものでしょう。

男女兼用床屋の広さは自衛隊基地のそれくらいの感じです。
5分でも遅れたら予約はキャンセル、とアメリカにしては厳しいです。

ユニオンにはスクールショップがあります。
アメリカの大学は、学校の名前のロゴを入れた洋服やカップ、
その他小物を中心に、学生生活に必要なものを売っている売店を備えていますが、
その店内、ロゴ入りトレーナーのラックに飾ってあった昔の当大学学生の写真。

1900年初頭のケミストリー専攻学生という感じですかね。

売店では各種パソコンも現物販売しています。

売店の本棚で見つけた「トランプ塗り絵本」。
皆が見るのに誰も買わないという「ネタ本」扱いです。

どれどれ、中身は・・・?

本当にあるのかどうか知りませんが、別売りで、

上「トランプ 侮辱の数々」

「ばか」「ロウレベル」「メンタル・バスケットケース」・・・
彼がやらかした数々の暴言事件に楽しく色をつけましょう。

下「ロック・ハー・アップ!(彼女をぶちこめ!)」

クリントンと彼女の夫にまつわる疑惑の数々が数十ページにわたり掲載。
トラベルゲート、ホワイトウォーター、モニカ・ルインスキー・・・。
今蘇る思い出深い事件をあなたの感性で彩ろう!

・・・みたいな?

アンクルサムの他にも、名画に描かれた人物や、プレスリー、
ワシントン(の彫像)に扮したトランプが続きます。

ミサイルをぶっ放しているUSS「トランプ」はわかるとして・・・。

なになに、下にキノコ雲、飛行機はエノラ・ゲ(略)

 

この日の売店は、お土産にロゴグッズを買う新入生と親で大混乱。
息子娘が行っている学校を世間様に自慢したい親のために、

「〇〇〇(学校名)Dad、〇〇〇Mom」

というグッズまで販売されていました。
わたしは買ってませんが。

学内はスターバックスは必須として、アイスクリームのメーカーも参入しています。
ダイニングも構内にいくつもあり、例えばその一つでは入り口で8ドル払うと、
中にあるものは何をどれだけ食べても構いません。

ケースの中にはアイスクリームまであってこれも食べ放題。

息子に言わせると、

「あれは罠だよ。
タダだからって好きなだけ食べるなんて最低」

大学からしてこうだから、アメリカ人って皆太るんですね。

スクールユニオンを出ると、にゃーと声がして猫が走り寄ってきました。
日本でもよくあるのですが、わたしのもつ「動物アンテナ」に感応したようです。

これが本当の猫まっしぐら。

しゃがんで写真を撮っているとずんずん近づいてきて、
たちまちピントが合わなくなりました。
猫氏の目的は、自分を可愛がってくれる人物にスリスリすること。

日本では見たことがないグレイのふさふさした尻尾を持つ猫でした。
首輪にお魚の形のタグをしているので、学校の誰かの猫でしょう。

トウブハイイロリスは普通にあちらこちらにいます。
(今住んでるホテルでは朝ゴミ箱に侵入してるのをよく目撃する)

何か見つけて食べだしました。

わたしがこの様子を激写していると、インド系の学生らしい男の子が
横に来て一緒にスマホで写真を撮り出しました。

きっとリスのいない国から来た留学生なのね。

こちらのリスさんは頬袋に食べ物を貯蔵したままこちらを窺ってます。
やっぱり大きなカメラは怖いんでしょう。

今回カメラはニコンの一眼レフ一台、レンズもオールインワンで乗り切ります。

いよいよ息子が入寮のために荷物を運び込む日がきました。
ただし、何かの手違いで実際の入寮は次の日からということがわかり、
この日は荷物を運んで部屋の掃除をしてやることにしました。(TOが)

ドミトリーの個室は二人一部屋です。
三人一部屋のドミトリーもあるそうですが、二人でよかったかな。

「友達が嫌な奴だったらどうするの」

「ルームメイトは友達じゃないよ」

「だったら尚更、こいつウゼーとかなったらどうする?」

「どうもしない。ルームメイトだから」

息子は案外人間関係にクールなところがあるのですが、
この辺の感覚はすでにアメリカ人的になっているようです。

今回ルームメイトは前もってSNSで自分の好みと傾向を公表し、
募集して応募してきたアメリカ人(近郊出身)だそうです。

到着してからこの日まで、ベッドリネン類から始まって、
あらゆる学生生活に必要と思われる品々を揃えるために、
毎日のように大型店に日参することになりました。

どんなものが必要かは、SNSによる先輩のアドバイス、
例えばすぐに寒くなるから冬の装備はもう持ち込んでおけとか、
(その心は学校が始まると忙しいので買い物に行っている間がない)
暖房器具があると朝助かる、とかいうのを参考にします。

LLビーン、ベッド・バス&ビヨンド、ターゲット、ベストバイ・・。

アメリカの便利なところは、全米どこに行っても同じ名前の大型店があり、
ほとんどが同じ店の作りで何をおいているかも共通なので、
不慣れな地で欲しいものを探すのに店を探しだす必要がないことでしょう。

わたしたちも他のアメリカ人のように、リネンを買うために「バスビヨ」、
電化製品のためにベストバイ、シャワーに必要な小物のために
ターゲット、冬用衣類のためにLLビーン、と毎日走り回りました。

今の時期、お店ではどこに行っても

「バック・トゥ・スクール・セール」

と銘打って学生生活に必要なものを集めたコーナーがあります。

そして、どこの店でも、お父さんお母さんと新入生らしい子供、
くっついてきた下のきょうだいという組み合わせがうろうろしています。

到着すると早速拭き掃除をして、ルームメイトのところまで
ブラインドを掃除しておきました(TOが)

息子はダストアレルギーがあるので、これに加え、ベストバイで
ダイソンの温熱&空気清浄機付き扇風機を購入して万全の態勢です。

この日と次の日の荷物運び込みは、インターナショナルスチューデント、
海外からの学生と、遠隔地からの学生に限られていたため、
廊下で荷物を運ぶ人と鉢合わせするということもなく、
掃除もしっかりしてやれた(TOが)のはラッキーでした。

後から知ったところ、遠隔地組のオリエンテーションは宿泊の関係で
入学日に一番近いギリギリですが、東海岸の近郊の出身学生の回は
すでに7月から始まり、5回に分けて行われていたということです。


わたしたちが荷物を運び込んだのはオリエンテーションの始まる2日前。

アメリカの大学には入学式というものはなく、それらが終わり、
寮に(新入生は必ずドミトリーに入寮しなくてはならない)残る息子娘と、
彼らを残して家に帰る両親とが抱き合って別れを惜しむのが
入学式のセレモニーといえばセレモニーとなっているのです。

学校は入ってくるものに対してはこれからの生活の指針を与え、
つつがなく学生としてやっていけるようにスタートアップするだけ。

そして全米で、ほぼ同じ時期に新入生が大学生活を始めるにあたり、
家族と別れるための準備に始まって入寮に至るまで、
新入生の数だけ別れを惜しむ家族があり、泣いてしまう母親があり(笑)
これからの自分の生活に不安と期待でそれどころではない学生あり、と
同じ光景が繰り返されるのが、バック・トゥ・スクールの季節なのです。

 

ちなみにわたしは、流石に息子が寮に入った次の日には
いろんな思い出が走馬灯のように巡ってしんみりしたものですが、
この後二日にわたり行われたオリエンテーション行事を経て、
何か一つ、「正しい子離れ」をしたような気がしています。

アメリカの大学は、生徒に対する親離れより、親に対する子離れロスに対して
ここまで手厚くケアしてくれるのだと驚かされた、その、
オリエンテーションイベントについて、後半でお話ししましょう。

 


タスキーギ・エアメン・メモリアル〜ピッツバーグ空港

2018-08-26 | アメリカ

ピッツバーグ空港には、ウェイコ9「ミス・ピッツバーグ」の復元機が展示されています。

胴体に「メイル」の字が見えるように、郵便局の飛行機でした。
この郵便を運ぶための飛行機会社は、業務を拡大し、
今はユナイテッド航空の一部地なっています。

また、この空港のTSA(空港検査員)は、元軍人が多いそうです。
四人に一人が元軍人で、誇りを持って仕事をしています、とあります。

空港の一角にミリタリーラウンジなる部屋もあるくらいですし、
アメリカでは退役した軍人を積極的に雇用し、そのことが
企業のイメージアップにもつながるという土壌があります。

そしてこのように、普通に白人と黒人が並んでいる今のアメリカ。
しかしここに至るまで、黒人には長きに渡る迫害された歴史がありました。

 

飛行機を降りてバゲージクレームに向かうとき、
ムービングウォークで通り過ぎるところに冒頭写真のコーナーがありました。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくるね」

家族に断って、少し逆戻りし、コーナーに入って行きました。

昔、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍にあった黒人ばかりの航空隊、
タスキーギ・エアメンについて、映画を紹介しつつ話したことがあります。
その時の記憶によると、タスキーギというのは南部アラバマにあったはず。

どうして五大湖に近いここピッツバーグ空港に展示があるのかな。

ここにあった説明によると、ピッツバーグのセウィクリーというところにある墓地に、
アメリカで最大規模ののタスキーギ・エアメン・メモリアルがあるからだそうです。

ここには全ての戦争のベテランの墓が約100基くらいあり、
その墓の主の人種はそれこそ様々だということでした。

「彼らは身体検査と適性検査で選定を受け、合格した者は
航空士官として採用され、単一エンジン、のちに双発エンジン機の
操縦士、ナビゲーター、そして爆撃手としての訓練を受けた」

 

最初にお断りです。
アメリカでは黒人を「ブラック」ということはまかりならず、

アフリカ系アメリカ人といわないといけませんが、ここでは
(日本語に差別的意図はないとして)単純に黒人、と表記します。


アメリカでの黒人の人権は公民権運動に至るまで全く顧みられていませんでした。

国体を揺るがす戦争となっては、有色人種も戦力として取り込みたいが、
しかしながら白人の部隊に黒人を混ぜることは都合が悪い。
ということで、アメリカ軍は「セグレゲート」、有色人種だけの部隊を作ります。

日系人ばかりを集めた部隊もそうですし、黒人女性だけの部隊、
そしてこのタスキーギ飛行隊などを作り、白人の指揮官を置きました。

特に特殊技能を要するパイロットに黒人を採用したのは
この「タスキーギ・エアメン」が初めての試みでした。


アメリカでは1917年に一度だけ、アフリカ系の男性が陸軍で
航空偵察員を希望したことがあるそうですが、当然
拒否されています。

アメリカにいる限り黒人が航空機に乗ることは不可能だとして、貨物船で密航し、
フランスに渡ってパイロットとなったアフリカ系アメリカ人がいました。

ユージーン・ブラード(Eugene Jacques Bullard )

この人の経歴を見たとき、昔当ブログで扱った、ジャン・フランコ主演の

「フライボーイズ」

という映画を瞬時に思い出してしまいました。

ラファイエット基地に集められたアメリカ人ばかりの外人部隊の中に、
一人スキナーという名前の黒人青年がいたという設定です。


ラファイエット基地に外国人の航空部隊があったのは史実で、
このユージーン・ブラードはどうやらスキナーをモデルにしているようです。

スキナーが、アメリカでは飛行士になれないからフランスにやってきた、
という設定であったように、ブラードはアメリカでは果たせない空飛ぶ夢を
フランスで叶えるために密航までしてやってきたのでした。

第一次世界大戦の時、彼は勇気ある任務に対し、レジオン・ドヌール始め、
クロワ・ド・ゲールなど数々の勲章を授与され、

ブラック・スワロー・オブ・デス(l'Hirondelle noire de la mort)

「死の黒燕」という厨二的な渾名を与えられました。

ただ、撃墜に関しては、20回以上の空戦に参加して、1機、あるいは2機の
ドイツ軍機を撃墜したとされますが、公認記録ではありません。

戦争が終わってからはパリのジャズクラブのオーナーになり、
名士だった彼の店は、黒人歌手ジョセフィン・ベーカーや
ルイ・アームストロングなどが出演する超有名な社交場になりました。

第二次世界大戦が始まったとき、彼は早速外国人航空隊に志望しますが、
事故で背中を負傷していたこともあり、選ばれたのは白人でした。

非番の時にフランス人将校と口論になって罰せられたこともあって、
失意のうちに彼は帰国しましたが、アメリカでかつての名声は全く通用せず、
「ただの黒人」となった彼は、セールスマンや警備員、通訳などの仕事で
糊口を凌ぎつつ余生を送りました。

66歳で亡くなった時、彼の身分はロックフェラーセンターの
エレベーターのオペレーターで、晩年、テレビ番組に出演した時には
エレベーターボーイの制服を着てインタビューを受けたそうです。

不遇の余生を送った彼ですが、1994年になって名誉回復が行われ、
死後33年経ってからアメリカ空軍の中尉に任官されることになりました。

 


さて、アメリカ軍がアフリカ系をパイロットに登用することは、
必要性から生じただけではなく、有色人種側の熱い希望でもありました。

のちに公民権運動を指揮する全米有色人種地位向上委員会のウォルター・ホワイト
労働党のフィリップ・ランドルフ、連邦判事ウィリアム・ハスティなどが
それを実現するために運動を行なった結果、1939年、アフリカ系アメリカ人の
パイロットを養成するための予算法案が議会を通過しました。

これまで「バッファロー連隊」とあだ名される黒人だけの歩兵部隊は
第24、そして第25歩兵連隊、偵察部隊として第9、第10騎兵隊が存在しており、
新設される航空隊も、これらと同じ「分離方式」で編成されることになりました。

黒人にとって航空職種携わるための門戸となったこのシステムですが、
あまりにも選択に制限があったため、航空士官になれたのはごくわずかで、
1940年の時点で全米でたった124名だったそうです。

それだけに実際にタスキーギ航空隊員となれた一握りのアフリカ系は、
最高レベルの飛行経験を持ち、かつ高等教育を受けたエリート集団であり、
全体のレベルは下手すると白人の一般的な部隊より高かったといえます。

さらにその上で、米陸軍航空隊は、厳密な適性検査でスクリーニングを行い、
機敏さやリーダーシップなど個人的な資質をふるい分け、
パイロット、爆撃手、ナビゲーターと職種を決定していきました。

のちに彼らが精鋭部隊となったのも当然といえば当然だったのです。

 

後年タスキーギ・エアメンについていろんな媒体が取り扱いましたが、
そのうちHBOの「タスキーギ・エアメン」をこのブログでも取り上げたことがあります。

この中で大統領夫人エレノア・ルーズベルトがタスキーギ航空隊を訪問して、
首席指導員だったアルフレッド”チーフ”アンダーソンの操縦で空を飛んだ、
という実際のエピソードが語られます。

映画では、おばちゃんが気まぐれで飛びたいと言い出し、主人公である
ローレンス・フィッシュバーンを「ご指名」してお偉方大慌て、という

アクシデントとして扱われていましたが、実際は航空隊の宣伝活動として
前もってこのフライトを行うことは決まっていたそうです。

だからこそ、教官として何千人ものパイロットを世に送り出してきた
アンダーソンが選ばれたのですが、大統領夫人、飛行機から降りて、

「なんだ、ちゃんと飛べるじゃないの」"Well, you can fly all right."

と言い放ったという話を本欄でご紹介しました。

彼女が内心黒人パイロットをどう思っていたかが窺える一言ですね。


1941年7月、Chanute飛行場で271人のパイロットの訓練が始まりました。

ただし全員が黒人だったわけではありません。
教えている技術が非常に専門的で特殊なので、完全に分離することは不可能でした。

この通称「タスキーギ・プログラム」はタスキーギ大学での座学に始まり、
タスキーギ陸軍飛行場で実地に操縦訓練を行うことになっていました。

64キロしか離れていないマックスウェル飛行場は白人パイロット専用です。

その中でも図抜けて優秀だったパイロット、キャプテン・ベンジャミンO.デイビス,Jr
は黒人の部下の上に立つ指揮官となりました

デイビスはのちに黒人初の4スター空将(事実上の最高位)になりました。

その後、アメリカ空軍の歴史において何人かのアフリカ系、二人の女性の
空軍大将が誕生してきましたが、2018年現在、アメリカ空軍の最高位は

チャールズ・ブラウンJr.

この人もまたアフリカ系アメリカ人です。

 

徹底した分離政策をとったため、黒人航空隊であるタスキーギでは、
例えばフライト・サージェオン(医師)なども黒人で揃える必要があり、
そのため、アメリカ陸軍初の黒人医官が誕生するというメリットもありました。

しかし、あまりにも厳しいスクリーニングで弾かれた人員の「捨て場所」に
当局は実際のところかなり頭を悩ませたようです。
これらの人員は、管理部門や調理に回されることになりました。

パイロットにも同じような難しさがありました。
あくまでも現場は白人優先だったので、訓練を受けた黒人航空士官ではなく、
相変わらず黒人部隊の指揮官には白人士官がアサインされることになりました。
ブラウンJr.などは超例外中の例外です。

史上たった一人の空軍元帥、あの差別主義者”ハップ”・アーノルドはこう言っています。

「黒人パイロットは、現在のところ我々の航空隊に使うことはできない。
社会的状況が変わらない限り黒人士官に白人の指揮をさせることは不可能だからだ」

タスキーギ航空隊のデビュー戦は1943年5月。

シチリア攻略のシーレーン確保のために地中海の小さな島を爆撃し、
この成功後も、同盟国からその飛行機の赤い尾翼から

「レッド・テイルズ」「レッドテイルズ・エンジェル」

と呼ばれた彼らは、次々とその優秀さを発揮しました。

デイビス中佐が第332航空隊を指揮して行ったダイビング航空攻撃では
予想以上の戦果を挙げ、また第99戦闘機隊は、イタリアのある空戦で
わずか4分の間に5機を撃墜するという記録を作っています。

また、強敵であるメッサーシュミットとコメートと対峙し、
3機を撃墜したことがありました。

332航空隊が戦争中に受けたフライトクロスの数は実に96に上ります。

 

これら戦闘機部隊の成功を受けて、黒人爆撃隊の組織が計画されました。
陸軍に対し人権向上委員会や市民団体からの突き上げもあったと言います。

その結果、1943年にB-25ミッチェル60機を擁する第617爆撃航空隊が組織されました。

ただし、新しい指揮官となったロバート・セルウェイ大佐というのがまた差別主義者で、
航空基地内で白人と黒人の映画館での区画を分けたことで反乱が起こり、

フリーマン飛行基地の反乱

その責任を取ってやめさせれたりしています。

この反乱では162名の黒人将校が逮捕されることになりましたが、
結果として、軍隊の分離政策を廃止した完全統合に向けた第一歩となりました。

それでも一般世間よりはずっと黒人の待遇はましだったと言えるかもしれません。
基地周辺の白人経営によるクリーニング店では、ドイツ人捕虜の洗濯は引き受けても
黒人士官たちの洋服を預かることは拒否したと言われています。

ちなみに、分離政策を取っていた時の黒人専用クラブの名前は
マダム・ストウの同名の小説をもじって

「アンクル・トムズ・キャビン」といいました。

余談ですが、公民権運動以降、「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」
「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味しました。

ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を“アンクル・トムの娘”
と罵倒したことは、その蔑称としての意味をよく表している例です。

さらに、黒人と同じく合衆国の被差別民族であるインディアンたちは、
「白人に媚を売るインディアン」を「アンクル・トマホーク」と呼び、また、
中国系アメリカ人は同様に、「白人に媚を売る中国系アメリカ人」を
「アンクル・トン」(Uncle Tong)と呼んでいるのだとか。

アメリカ(特にニューヨーク)に行くと、アメリカ人にはヘイコラしているのに
日本から来た観光客となると偉そうにする日本人飲食店主が結構いるのですが、
これなどさしずめ「アンクル・トミタ」?(全国のトミタさんごめんなさい)

992人のパイロットが1941〜46年にタスキーギで訓練をうけ、そのうち
355人が海外に配備され、84人が事故や戦闘で命を落としています。

犠牲者の内訳は、戦闘や事故で死亡したのが68人。
訓練中の事故による死亡が12名。
戦争捕虜として捕らえられた32人のうち
死亡した人がその内訳です。

 

パンテレッリアというのは、最初にタスキーギ航空隊が爆撃した地中海の島です。
アメリカの象徴ハクトウワシが、黒い鳥が島に向かって飛んでいくのを

「頑張ってこい息子よ、お前はもう自分でやれる」

と言いつつ見送っているという図。
黒い鳥には

「初めての黒人航空部隊」

と説明があります。

映画を紹介した時、最後のキャプションで、こんなセリフがありました。

「332航空隊は護衛した飛行機をたった1機も失ったことはない」

この記録については、異議を唱える後世の研究も存在し、
ある研究者は少なくとも25の爆撃機が彼らの護衛中失われた、とし、
また別の研究者はそれは27機だった、とする報告を挙げています。

確かに前線で一機も爆撃機が撃墜されたことがない、という話には
かなり盛っている感が拭えないので、神話は神話に過ぎない、
というしかありませんが、それをもってタスキーギ航空隊の名誉が
貶められたということにはならないと思います。

同じ時期、同じ場所で戦っていた航空隊の爆撃機の喪失は
平均46機であったという記録もあるのですから。


このように、高く評価されたタスキーギ・エアメンでしたが、
戦後は普通に人種差別を受ける運命が待っていました。

4スターの空将になったもう一人のタスキーギ隊員、

ダニエル”チャッフィー”ジェイムズJr.

や、NORADとNASAで通信に携わったマリオン・ロジャースのように
その実績と資質を認められて活躍した者は極めて少数だったと言えましょう。

2012年、ルーカスが製作した映画「レッドテイルズ」が公開された時、
ロジャースはセレブレーションに招待されて、その席でインタビューを受け、
このように語っています。

“Our airstrips weren’t as nice as the ones shown in the film. ”

「我々の滑走路はこのフィルムに描かれたような良いものではなかった」