
ゴールデンゲート公園の中に冷戦時代の遺物である、
ナイキミサイルのサイト(site、用地ですので念のため)を見るため
一人で1時間離れたサンマテオから車を飛ばしてやってきたわたしです。
あとで聞けば、ツァーは30分に1回しか行われないらしく、
参加するといえばこの寒いところでずっと待っていなければならなかったので、
ツァーは来年にして正解、と自分で自分を納得させました。
さて、カメラを持って敷地に入っていこうとすると、前のツァーのガイドが
ちょうど地下に収納してあるミサイルを稼働させ、地表に出して
さらに仰角をあげているところでした。
これが最大射角かどうかはわかりませんが、ここでストップ。
しばらくするとまたウィーンと音をさせてもとに戻ります。
ミサイル台を動かすスイッチは、帽子の人がいるハッチの下にあるようです。
こんなミサイルが、最盛時にはベイエリアだけで12基もありました。
今はボランティアのおじさんがのんびりと一人で動かしていますが、
かつては135人のソルジャーたちが、24時間ここに勤務していました。
その135人の上に立っていたのは若干24歳の部隊指揮官だったそうです。
ここの勤務になった兵士たちは、たとえば0830には出勤して、
引継ぎを行い、そこから6時間任務に当たります。
その6時間の間、たとえばある兵士は、オシロスコープを使用して、
送信キャビネットと受信キャビネットのすべてのポットを調整し、
PPIスコープを確認し、アンテナをチェック後、コンソールを起動。
これらの機材の「チェック」は、完了するのに約1時間かかります。
それが済むと、通常約2時間ミサイル台は稼動状態のままにしておきます。
このルーチンを0900、1500、2100に、0300に行います。
兵士たちはチェックと稼動任務の間は4時間のガード任務を2回行い、
残りの時間にはメンテナンス任務が充てがわれていました。
つまり、ほとんど彼らには寝る時間はなかったということになります。
今でも何かに使われているらしい建物がミサイルサイトの丘の上にあります。
ここには兵隊たちのバンク(寝床)がしつらえられていました。
しかし、誰もここを使用したことがなく、なんのためにバンクがあるのか
誰もわからない状態だった、とかつて勤務していた元兵士が証言しています。
彼らの平均年齢は18歳半。
全員が学校を出て軍隊に入り、訓練を受けて最初の任地です。
彼らは特別な訓練を受けていましたが、自分の任務が最終的に
なんの役に立つのかとか、目的などは全く知らされていませんでした。
しかも彼らはすぐに移動になりました。
つまりいつも人が新陳代謝している状態です。
ここにいる短期間だけ「寝ない」生活をしたとしても、すぐに
別のところに回されるのでなんとかなったのでしょう。
前の組が今からミサイルの下に入っていくようです。
ここにはコンソールパネルがあるらしいとこの時知り、
今走っていけば一緒に説明を聞くことができるかな?と迷ったのですが、
彼らがどうやら一つの家族らしく、和気藹々な感じだったので、
日本人的遠慮から(笑)お邪魔してはいけないと諦めてしまいました。
後ろに回ってみました。
ここにあるのは正確には「ナイキ・ハーキュリーズ・ミサイル」で、
これを3基収納するマガジンが三つ並んでいます。
固形燃料ロケット・モーターにより推進する地対空ミサイルであり、
地対地ミサイルとして使用することもでき、ここでの主な目的のように
弾道間ミサイル迎撃システムとしての働きを期待されて製造されたものです。
丘の上の隊舎も入れた全体はこんな感じ。
手前のピクニックテーブルのせいで、まるで寂れた遊園地のように見えます。
発射台の奥にある資材置き場に行ってみました。
かつてはこれにミサイルを乗せて運搬したのに違いありません。
木材部分は朽ち、金属部分は錆びてしまっています。
手前のコンテナは、ここを歴史資料としてみせるために、それなりに
メンテナンスを行うため、必要な道具などが収納してあるようです。
下段にベッドが見えますね。
これが当時もこの一角にあって、兵士たちは丘の上ではなく
このコンテナの中で仮眠をとって勤務に就いていたのでしょう。
地下の発射モニターがある部分には、今人が入っています。
万が一実際にミサイルが撃たれるようなことがあれば
基地全員がこの地下壕に避難したのに違いありません。
うーん・・・やっぱり見ておけばよかった。
見ていると、いきなりグオーンとハッチが下に開いて、
ミサイルがクレイドルに乗ったまま地下に沈んでいきました。
外にうろうろしていたわたしを入れた3人が慌てて覗き込みにきます(笑)
下にミサイルが収納されると同時にハッチがしまってしまいました。
どうやらミサイルは公開の日、見学者がいる時だけ
ハッチの下から出してきて、日頃は地下に収納してあるようです。
ミサイルの出し入れだけ見られたので良しとしよう。
自分でそう言い聞かせ、外に出ました。
後ろから警衛ボックスを見ると、
「注意 人がまだいます」
というプレートがありました。
ミサイル発射の際に外に人がいる場合にこれが出されるのだと思われます。
彼らはミサイルの発射準備ができると、地下に降ろされその瞬間を待ちました。
せっかくなので中を覗き込んでみる。
今はアメリカでも見たことがないコーラの瓶、ドクターペッパー(笑)
白黒のグラフマガジンと入場する人に渡すタグがまだあります。
驚いたのがこの表示。
なんと、タバコを吸っていいのはこのボックスの中だけだったと。
当時はアメリカ社会もタバコに寛容だったので、ミサイルがある
外ではダメだけどこの中なら吸っていいよっていうことですよ。
今の陸軍なら、文句なしに地域一帯を禁煙にしているはずです。
カバーがかかっていてわかりませんが、レーダー的なものだと思われます。
ナイキ・ハーキュリーズのシステム全体はアナログコンピュータがベースです。
地上レーダーは、攻撃側の爆撃機飛行隊とミサイルを追跡し、
こちらのミサイルに飛行中の誘導信号を送ります。
一度に飛行中の単一のミサイルしか追跡することしかできませんが、
打ち上げられて1〜2分で超音速に達し、
87マイル四方の最大範囲を防御することができたということです。
ところで、我が航空自衛隊にもナイキが装備されていたことがありましたね。
前回言ったようにイージス・アショアでさえブーブー言いだす人がいるのだから、
その当時ミサイルを導入するにあたってはどんなにか大変だっただろう、
と思ってちょっと調べて見ると、やっぱり。
1982年、北海道長沼町に建設予定の「ナイキ地対空ミサイル基地」に対し、
反対住民が、
「基地に公益性はなく、自衛隊は違憲、保安林解除は違法」
と主張して、処分の取消しを求めて行政訴訟を起こしていました。
ありがちなことですが、一審地裁では違憲判決で処分を取り消し。
(地裁ですから一応ね?)
国がこれを控訴し、二審の札幌高裁は一審判決を破棄。
これに対し住民側・原告が上告するも、最高裁は原告適格がないとして
上告を棄却した、(その際判決は違憲性には触れず)という流れです。
しかし、1982年といえば、アメリカはとっくに(1978年)
ナイキミサイルの使用を廃止していたということで、
日本はいわば周回遅れのミサイルを配備したということになるのですが、
この辺りの事情についてどなたかご存知の方おられませんか。
ところで、最初に陸自の習志野駐屯地に降下始めで行ったとき、
陸自駐屯地の中に空自が運用しているナイキミサイルの基地があった、
というのがものすごく不思議だったのですが、
やっぱりというかなんというか、これが導入された時、運用において、
陸自は、
「ナイキミサイルは対空砲火の延長である!」(から陸自が運用する)
といい、空自は、
「無人戦闘機である!」(から以下略)
と主張してそれはそれは激しい縄張り争いがあったことを知りました。
アメリカでも陸軍が運用しているように、これを無人飛行機というのは
ちょっと、というかかなり無理がある主張だと個人的には思います。
だいたい、空自の基地にはその「Site 」、用地が設営できなかったので
わざわざ陸自駐屯地の中に空自の運用するミサイルを置いたわけでしょ?
まあとにかくその時は(誰が裁いたかは知らねど)大岡裁きで、
空自はナイキ、陸自はホーク(MIM-23 ホークミサイル)
と仲良く棲み分けることにしてことなきを得たそうです。
というわけで、一人で見学を終わり、車で外に向かいました。
今日のゴールデン・ゲート一帯は深い霧におおわれ、風もあって
日本の11月下旬くらいの気候です。
そして、この後、わたしはこの一帯にある砲台の遺跡を求めて、
一人で気ままに車を走らせていきました。
ゴールデンゲートバークシリーズ、続く。
ペトリは発射機、レーダー、指揮所等あらゆる構成品が車載されていて、トレーラーで移動出来ますが、ここにある発射機(弾庫)と指揮所は地上だけではなく地下にもあり、移動は無理です。基地に根を張るしかなく、戦線が移動に伴い、陣地が移動する陸軍の戦い方にはそぐいません。
長沼ナイキ裁判は一審で「自衛隊は憲法違反」という判決が出たので有名です。司法は独立しているとは言え、自衛官だって公務員ですよ。いくらなんでも仲間内で「憲法違反」はひどいですよね。戦争になったら、どうするつもりなんでしょう。裁判の始まりは1969年で最高裁の判決が1982年だったと思います。
米軍がナイキを用途廃止にしたのはもうアメリカ本土まで飛んで来る爆撃機なんてあり得ないと判断したからですが、日本は今でも時々、ロシアや中国の爆撃機が周辺を飛んでいますから、止める訳には行きません。たとえ、米軍がナイキを止めても、ペトリ導入の目途が立つまで、ナイキを使い続けていました。
昨夜「鉄腕DASH」というテレビで海自カレーが取り上げられていましたが、これを左寄りの大学生が「税金でやっている自衛隊「なんかが」カレーかよ」とツイートしていて、炎上していました。
自衛隊「なんか」にも警戒管制レーダーがあり、24時間365日、北は稚内から南は宮古島までの空を監視し、防空識別圏に侵入する敵味方不明機にはスクランブルをかけ、それでも止まらない場合には撃ち落すために、サンフランシスコのミサイルサイト同様にアラートに就いて「自衛隊「なんかが」」日本を守って来たんです。
おまえ、代わってやって見ろと思いました(笑)
ナイキアジャックスがありその後継機がナイキハーキュリーズで確かに米国では1958年から1979年頃まで使用されました。
ドイツ、オランダ等西側ヨーロッパでも1983年頃まで使用されていたと思います。ソ連の爆撃機迎撃用であり、本格的なミサイル対応はハーキュリーズの後継パトリオットとなります。
核弾頭搭載が可能な事が日本では問題となり、何時ものような迷走で核弾頭搭載不可能なナイキJをライセンス生産したことから日本では1970年頃から1994年頃までの使用になったものと思います。おかげかどうか分かりませんが日本では切れ目なくパトリオットが1989年頃から使用されはじめ、弾道ミサイル迎撃用としてPAC3へと進化しています。
所掌が陸、空と問題となりますが、どこを守るかで基地の問題化とも思います。
日本では費用や位置の問題で全土を守る事がハーキュリーズでは不可能であり、また破片が落ちてくる等おかしな住民論争で位置がおかしな方向に行ってしまったのも要因ではと思います。
高空だから空自とは本当はおかしな判断であり、駐屯地の多さや主要重要地を考えれば陸自が所掌すべき防空対処機能でしょう。航空基地を守るのであれば空自でもおかしくないでしょうが。
パトリオットは移動可能となったので対応に柔軟さが出来、現在のようなその都度所要の展開が出来るようになりました。ただ日本で今の数で足りていないのではとも思います。
まだまだ国民の中に基地があるから狙われて危険だなどの考えがまん延していますが。
私がおかしいと思うのは基地防空も考慮しなければと思います。自衛隊航空基地は滑走路はほぼ1本であり、攻撃されたらアウトで復旧能力はあるでしょうが地形からもなかなか対処が難しく、海自の後方基地も燃料や弾薬補給から防空能力付与が必要でしょう。空自や海自(大湊のみ)に防空隊が設置された事があったとの記憶がありますがその後どうなったのでしょうか?
我が国に侵入する敵機を落とすことが任務なので、理屈から言うと国土防衛が任務であっても、情報の流れから言うと、空自のJADGE(警戒管制)システムから情報を得て、初めて対処が可能になるので、空自にぶら下がる方が統制しやすいのです。そのため、低層域を受け持つホークとその後継の中SAMが陸自で、高層域を受け持つペトリが空自という分担になっていますが、どちらも空自JADGEシステムの統制を受けています。
ご存知のように弾道ミサイルへのより堅固な守りを実現するために防衛省(自衛隊)は陸上イージス(イージスアショア)を導入しますが、これは高層域を受け持つペトリよりもさらに上空で対処しますが、陸自の役割となり、今までの高層域(空自)低層域(陸自)という理屈付けは事実上、破たんしています。これは弾道ミサイル防衛に関しては、すでに海自がイージス、空自がペトリを保有しているにも関わらず、陸自は事実上参加していないからです。
このように任務から考えて、陸海空どこが所掌するかということよりも、ネットワークが発達した現代では、どことどこが繋がれば、効率よい運用が可能になるかが最優先になっています。これが今年末に策定される新しい「防衛計画の大綱」で優先課題となる「クロスドメイン」です。
蛇足ですが、海自大湊と八戸にあった防空隊は冷戦終了後、ソ連の空襲はないと見積もられたため、解体され、装備は陸自に移管されました。アメリカがナイキを止めたのと同じ考えです。