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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ニューヨークの一日〜ミュージカル、極上鮨、そして渋滞

2018-08-23 | アメリカ

 

「今ニューヨークで一番ホットで人気がある店だって」

息子がネットで見つけ出して来た鮨屋情報に文字通り食い付いたのは
休暇を取って日本から来ているTOでした。

早速インターネットで予約を取り出したのですが、

「水曜と金曜の6時が空いてるけどどっちがいい?」

と相談している間に金曜日の予約が取られてしまいました。

「よっぽど人気があるんだね」

「というか、カウンターが8席しかなくて、板前が八人同時に握るらしい」

ほー、それは期待できそう。
せっかくニューヨークに行くんだからミュージカルも観ようということになり、
カードデスクが顧客のためにキープしてあった「アナスタシア」の
S席(オケピットの4列後ろ、ほぼ真ん中)を取ることができました。

用意も万全に整えて、さあ、いざ紐育へ。

しかしハドソン川を渡る手前から、恐ろしい渋滞にかかってしまいました。

それにしてもこれ見てくださいよ。
トールゲートがほとんどEZパスというこちらのETC対象なのはいいとして、
10個のゲートがその先で3車線に合流するんですよ?

「これ考えた人もしかしたらばかじゃないの」

「こんなの混むに決まってるよね」

その合理性にはよく感心させられるアメリカですが、時々
このように首を捻らざるを得ないシステムに遭遇します。

3車線になっても延々と続く渋滞。
かつて渋滞は無人料金所化すれば解消すると思われていたようですが、
いくら料金所を通り抜けても車線が少なく車が多ければ同じことです。

ロスアンジェルスの恒常的な広範囲の渋滞、日本でも
平日の都心部に向かう渋滞はどこも酷いものです。

これは世界中の大都市が持つ同じ悩みといえましょう。

気が遠くなるほどノロノロと進んで、ようやくハドソン川を渡ります。
ブリッジを渡りきったところで分岐があるのでまたここでも激混み。

橋の途中でニューヨーク市に変わるようですね。
かのビリー・ジョエル大先生も、アレンタウンの田舎から
グレイハウンドに乗って同じ橋を渡ったわけです。

♪ "I'm just takein' a grayhound on the Hudson River line...."

そのころはこんなに渋滞してなかったと思いますが。

ブリッジを渡ると、少しですが車が動くようになって来ました。

ハーレム川沿いを走っているとマコムズ・ダム橋が見えてきます。
この向こう側にはヤンキースタジアムがあります。

というわけで、なんとかまずホテルの近くまでたどり着きました。

映画などでご存知かと思いますが、案外緑が多いのがニューヨークの街路です。
ここなど、木々がまるでアーケードのように道路に日陰を作っています。

100年越えのビルディングが現役なのも、ここに地震が起こらないから。

1910年代初めから30年代初めまで、ニューヨークは高層ビルの建築ラッシュで、
現在のニューヨークで最も高い82のビルのうち、16はこの時代に建造されたものです。

ところどころに緑の多い公園があって、人々の憩いの場になっています。
これは公立図書館の隣のブライアント・パークです。

渋滞だけでなく、ドライバーのマナーも酷いものです。

イエローキャブの運転が無茶苦茶なのは当たり前ですが、
とにかく幅寄せをして威嚇するように割り込んでくる車の多いこと。

東京では滅多にクラクションを聴きませんが、ここニューヨークでは
しょっちゅう誰かがブーブー(文句を言うために)鳴らしています。

この写真は左のバスにグイグイと幅寄せされた白い車の運転手(女性)が
窓を開けてバスの運転手に怒鳴りつけているところです。
バスの方も負けておらず、わざわざステップドアを開けて、お互い
しばらく罵り合っていました。

それでなくても、ミュージカルの開演時間が刻々と迫ってくるのに。

この辺りではマチネーが一斉に始まる2時の前には大混雑になります。
わたしたちも少し遠くに停めて歩いて行かざるを得ませんでした。

おなじみタイムズスクエアを信号を待つのももどかしく駆け抜けて・・・。

劇場の前にたどり着いた時には2時だったので、もうだめだ!と思ったのですが、
先に行ってチケットをピックアップしてくれたTOが
まだまだ大丈夫、というので安心しました。

どうやら、開演時間というのは余裕を見て設定してあるようです。

「アナスタシア」はもちろんロマノフ王朝の末娘が生きていた、という
あの話をミュージカルにしたものですが、予想より面白かったです。

カード会社デスクは、「フローズン」(アナ雪)とどちらがいいか、
と聞いて来ていましたが、わたしは文句なくこちらを選びました。

音楽も初めて聴きましたが、意識したロシア風のメロディがなんとも切なく、
日本人好みのミュージカルだと思われました。

Anastasia

帰る時後ろを振り向いたら、二階席のバルコニー下にオケピットのモニターがありました。
もしかしたらこれ、出演者が視線を落とさずにに指揮者を見るための仕掛け?

ミュージカルが終わると、出演者が挨拶するドアの前に人が群がり、
さらにそれが道まで溢れるので、さらにこの付近は渋滞します。

というわけで自転車移動する人も多し。

インド人運転手が多い(イエローキャブもなぜかインド人率高し)
人力タクシーも、急いで移動したい人のために走り回っています。
車で来ていなければちょっと乗って見たい気もしました。

チェイス銀行が一階にあるこの古めかしいビルは、1918年に建造され、
当時は男性だけが使用できる社交クラブ、ラケット&テニスクラブだけがあり、
今は複合ビルになっていますが、まだクラブはあり、
二階に掲げられた旗にはテニスラケットが描かれています。

できた時には三つのダイニングルーム、ビリヤードルーム、図書館、ラウンジ、
ジム、4面のスカッシュコート、2面のテニス(リアルテニス)コート、

2つのラケットコートがあったそうで、実は外からは想像もできませんが、
今でも内部には4つの国際スカッシュコート、
1面のダブルスカッシュコート、
1面のラケットコート、2面のテニスコートがあります。

同じ名前のカフェ、確か六本木ヒルズとかにもありますよね。
調べてびっくり、日本のあのHERBSがニューヨーク進出してたのでした。

そういえばいきなりステーキも最近ニューヨークに進出したという噂です。
調べてみたらお店の名前は「Ikinari Steak」でした。

今日の目的地、寿司望(スシノズ)はHERBのほぼ隣にありました。

見ていると、オーナーシェフらしき方が出て来て暖簾を掛けました。
いよいよ開店です。

入り口脇に掛けられたこの風鈴は・・・・

海自の艦艇ごとに作る金属の銘板を制作しているということで
わざわざ富山県まで工場見学しに行った、
あの工房の作品ではないですか。

職人が全員を前に調理を行うという形式の関係上、時間ギリギリまで
待合所で待たされることになりました。

そして、いよいよ予約時間となり、8名全員が揃ったところで初めてカウンターに案内されます。
わたしたち三人は真ん中で、左側は男性二人、右側は女性一人を含む三人組。

ここでは黙って座ればまず「おつまみ」が、続いて寿司が出て来ます。

まず板前が出て来て挨拶をし、桶に入ったご飯に
黒酢を混ぜてすし飯を作るところから目の前で行います。

完璧に目で見て楽しむエンターテイメント系寿司。

左半分が「おつまみ」ですが、これはアメリカ人のために
便宜上そう言っているだけで、入魂の一皿が次々と続きます。

牡蠣、きんき、鮑、鰹。ダンジネスクラブ、鰻、
と素材だけ聞けば普通ですが、例えば蟹味噌をだいたいおちょこ一杯の
ご飯と混ぜた、まるでドリアのような舌触りの料理とか。
とにかく只者でない感じの工夫された小料理ばかり。

ようやく寿司に入った頃には実はわたしはかなり満腹で、
ご飯を少なくしてもらうことにしました。
寿司は、白いか、皮剥、高部、赤身、中トロ、大トロ、
鯵、石垣貝、雲丹、イクラ、赤ムツ、炙りトロ、穴子、
金目鯛の白味噌仕立て、そして玉子でおしまい。

 

特に炙りトロは、真っ赤に焼けた炭を乗せた金網を
並べたトロの上にかざして焼くという凝りに凝った方法で、
雲丹もそのままの形では苦手な人も多いアメリカ人のためにか、
ご飯に混ぜて食べさせてくれるというもの。

両側のアメリカ人は全員が白人で、時折聞こえてくる会話によると
どちらもが日本には行ったことがあり、日本文化が大変好きな模様。

TOの隣の人は、中国にも日本にも行ったことがあるが、中国人はどうも
食べ物は食べ物に過ぎないというか、鶏一つとっても頸がゴロンと入ってたり、
すごくぞんざいに扱うようだが、日本の焼き鳥なんか見てると全く違う、
彼らには食べ物に対する敬意がある、ということを力説していたそうです。

もちろん街の清潔さの絶対的な違いについても熱く語っていたとか。

コストパフォーマンスは、そういうことに詳しいTOに言わせると、
銀座で同じものを食べたらおそらく片手では済まないレベルだそうですから、
かなりお得に美味しいものを食べられたと言っていいと思います。

もしニューヨークで美味しいお寿司を食べたい方は是非どうぞ。

SUSHI NOZ

その日はマンハッタンの「ベストウェスタン・プラス」に宿泊。
パリのベストウェスタンでは酷い目に遭った思い出がありますが、
ここはおそらくその部屋の5倍くらいの広さで、キッチン付き。

窓から見える景色もニューヨークらしい(笑)

しかしニューヨークという街は夜も眠りません。

一晩中クラクションの音が鳴り響き、暗いうちから近所で工事が始まって、
工事人が大声で怒鳴りあうのが窓を通して聴こえてきてうるさかったです。

次の日のランチはニューヨークの知り合いのご招待でした。
有名なステーキハウス「エンパイア」で待ち合わせです。

これも確か同じ名前のが六本木にあったわね。

ここは昔ナイトクラブでステージがあったそうで、
壁にはエディット・ピアフがここで歌っている写真がありました。

確かめてませんがシナトラも出演したことがあったかもしれません。

しかしランチはデザート付きコースで22ドルと大変お手頃でした。
フィレミニヨンステーキはとろけるように柔らかかったです。
大きくて全部食べられませんでしたが。

パーキングで車が出てくるのを待っている間、横で遊んでいたスズメ。
アメリカのスズメは頭に黒い模様がありません。

MKが紀伊国屋に行きたいというので、またしても混雑する時間(2時前)に
ブロードウェイ付近を通り抜けるという最悪の選択をせざるを得ませんでした。
センチ刻みでしか動かない車列、さらに横からグイグイと割り込んでくるわ、
逆に車線変更しようとしてもウィンカーだけでは入れてくれないわ・・・。
(あ、それでみんな割り込むのか)

全く車でニューヨークを運転すると、心がささくれ立つような気分になります。

車が動かず暇なので車の窓から写真を撮って時間つぶし。
ここではキャロルキングのミュージカルをしていました。
キャロル・キングとジェームス・テイラーとの喧嘩シーンとかもあるのかな(笑)

ばったり街角で知り合いと遭遇しておしゃべり。
ニューヨークのマダムは結構なお歳でもピンヒール現役です。

歩けば2〜3分のこの道を通り抜けるのに20分はかかりました(涙)

ナスダックってもしかしてあのナスダック?

やっと車を停めて紀伊国屋まできました。
紀伊国屋は、日本人らしき人、日本文化が好きな人で賑わっていました。
漫画やアニメ、キャラクターグッズは普通に人気があります。

さて、というわけで帰ることになったのですが、またここからが大変でした。
一つのブリッジにニューヨークの数カ所から車が集中して来るのですから。

車窓から見た巨大な公文のビル。
そういえば公文もアメリカにはすっかり浸透してるんですよね・・。

あららー。

このトラック、右側車線を走っていてよそ見していたらしく、
まっすぐに路側の溝に落っこちてしまったようです。

何を運んでいるかにもよるけど、きっと運転手はクビだな・・。

ダメなところ、嫌なところもたくさん目についてしまうのですが、
うんざりしながら後にしても、しばらくするとまた行ってみたくなるのは不思議です。

それだけ人々を惹きつける魅力にあふれた街なのでしょう。

 


ピッツバーグで大学見学をする

2018-08-19 | アメリカ

今回のアメリカ滞在、次なる目的地はペンシルバニア州ピッツバーグです。
ニューヨークとシカゴの中間くらいにあって、比較的五大湖の一つ
エリー湖に近いという位置にあり、昔は鉄鋼の街として有名でした。

空港で車を借りて市街に向かう途中、もう廃線になっているらしい
汽車の鉄橋の下を潜り抜けました。

ピッツバーグが造船業を最初にして鉄鋼産業を発展させたのは
1800年代初頭だといいます。
もしかしたらこの鉄橋も当時できたものかもしれません。

ピッツバーグというところは渓谷が多いので橋が446箇所にあるそうです。

List of bridges of Pittsburgh

この街を訪れた最大の目的は大学見学です。

ピッツバーグは大学の街でもあり、特に鉄鋼王と言われた
カーネギーが作ったこの大学が有名です。

アメリカの大学設備はどこも広い敷地にあらゆる目的に応じた施設があるのが普通で、
この大学も広いキャンパスに体育館ほどの大きさのジムがあり、それだけでなく
室内で楽しめるスカッシュのコートばかりの階があって圧倒されました。

キャンパスの一隅で目を引いた変なモニュメント。

なんかこんなコンセプトのアート、岡山の三井造船近くで見たなあ。
まあ、なんというか自己満足ですわ。

説明によると、

「評判が悪く、皆の顰蹙を買っている」

とのことです。

工科系の大学ですが、実は案外有名なのが同大学の演劇科。
そのレベルは世界でもトップレベルと言われているということです。

「ピアノ・レッスン」で聾唖の主人公を演じたホリー・ハンター、
「ヒーローズ」のサイラーを演じたザッカリー・クイントのほか、
アメリカでは有名な俳優が多数ここの卒業生です。

なんだか変な柵が見えてきました。

「これがこの大学二つ目の顰蹙です」

アメリカの大学にありがちな「受け継がれている変な風習」。
ザ・カットと呼ばれるこの柵は、昔はカーネギー工科大学と女子大を分けるものでしたが、
いつの間にか、在校生によって毎日(夜中や日の出前)塗り替えられ、ギネスブックにも

「もっとも頻繁に塗り替えられた柵」

として載っている「ネタ」になってしまいました。
この写真だと大変な分厚い柵のように見えますが、本体は細いもので、
その厚みのほとんどがペンキによるものだそうです。

ちなみに2006年のフェンス。こんなにスマートです。
どうやら日本人の先輩が書いたらしく、富士山にスイカ、祭りの団扇、

「富士ひとつ うずみのこして 若葉かな」

の句。(達筆)
ちょっと日本語が喋れるくらいのアメリカ人には理解できないと思うがどうか。

この建物が建てられたのはまだカーネギーが存命の頃。

内部は坂に沿って長い傾斜の廊下になっており、その両側に教室。

「大学を作った時、もし経営が失敗したら鉄鋼工場にしようと思ったようです」

傾斜になっていると引力を利用したラインができたということなんでしょうか。
まあ、ここが一度も工場に転用されることがなくて何よりです。

その当時の工学部ではこんなことをやっていました。

1906年、レンガ積み。

1910年、はんだ付け?

1920年、鉄鋼成型?

なんだか工学部というより工場でやってることって感じ・・・。
ちなみに創立は1900年、当時は「技術学校」と言っていました。

さすが鉄鋼王の作った校舎だけあって、スチールで補強された柱や廊下のアーチ、
丈夫そうなのは半端ありません。

そしてこれが「第三の顰蹙」なんだそうです(笑)

この学校を卒業した中国人の実業家だかなんだかの銅像で、
比較的歴史の浅い大学のせいか、権威的なものを嫌い基本銅像がない
(学校創立者の銅像すらない)この大学のキャンパスに、

札束で頰をひっぱたくようにして無理やり自分のを建てさせたのだとか。

まあ、これは説明してくれた人によると、と言っておきましょう。

キャンパスには、新旧取り混ぜてあらゆるタイプの建築がありますが、
中にはビル・ゲイツが寄贈したコンピュータ工学の建物もあるそうです。

続いて、研究室を見学させてもらいました。
まず、ドローンでのチェックシステムを研究しているゼミ。

日本の会社からの研究員がおられました。

この他にも、ブロック工法で作られた船舶の船殻を、
非破壊検査するロボットを日本の造船会社と共同で研究しているところで
詳しい映画を見せてもらいましたが、企業秘密なので公開不可です。

このドローンの実物大。
河川の突堤などのひび割れを無人でチェックするという研究でした。

3Dプリンターの特殊な成型機械。
DENSOのロゴがあります。

ここで成型しているのはこういうもの・・・ですが何に使うかは秘密。

移動の時にバナナの研究をしている人発見。

と思ったら娘と遊んでるだけのお父さんでした。
学校の課題を手伝ってるのかな?

この2倍の大きさの部屋いっぱいに工作機械が並びます。
この右側に並ぶ機械はシャープ製だったりします。

今の3Dプリンタで、人の顔の皮が作れるという話をしていて、ふと、

「ミッションインポッシブルみたいですね」

というと、まさにあれだそうです。
あれほど短時間で作れるかどうかはともかく、あのようなものを作ることは
今の技術的に全く不可能ではないというお話でした。はえ〜〜。

この研究室では、工学と医学をコラボしたテーマの研究が中心です。

例えばこれ、英語では「クラブフット」(蟹足)と言っていましたが、
日本語で言うところの先天性内反足を矯正するための器具なのです。

先天性内反足を矯正するには、夜寝る時に器具をつけて少しずつ足を
ねじって動かしていくというやり方があるのですが、その器具の開発には、
このように骨の模型にさらに透明の筋肉をかぶせた模型を使って
実際に動かしていくということを行います。

なんのことはないリサイクル用の紙置き場(笑)

さっきの足の模型のように、骨の形にほとんど筋肉と同じ感触の
透明の樹脂をかぶせ、さらに皮膚をかぶせてあります。

人体のパーツ模型があちこちにゴロゴロしてます。

足型を作るための原型を切り出したもの。
お花を挿す給水スポンジのオアシスみたいな材質ですかね。

医療現場でトレーニングに使うための模型も研究しています。
例えば太って脂肪の多い人が多いアメリカでは静脈を探しにくいので、
こういうのの「太った人バージョン」で針を刺して練習したりします。

脊椎の湾曲に対して矯正を行う器具。

こういうのを見ていてふと、

「脊髄液を取る時にする脊椎穿刺の練習用なんてないんですか」

と聞いてみると、それは聞いたことがない、という返事でした。

この大学には医学部はないのですが、冒頭写真の、ギネスブックに載っている

「世界で一番古くて高い建物」

を持つ同市内の大学の医学部や、イエール大の医者と提携して
研究を行うことが多いという話でした。

「特に脳外科医とかになると、エリート意識が高くて
『プリンス』みたいな人が多く、やりにくいことも多い」

というのはここだけの話です。
日本でも脳外科医や心臓外科医が、という話をよく聞きますが
これって世界的な傾向だったのね。

最後に見せてもらったのが教授の部屋。
日本の大学、例えば東京にある私学大学の教授室の4倍くらい広い部屋でした。

ここでも一連のスライドを見せていただいて、息子の参考にさせていただきました。

というところで学校の見学はおしまい。
今日は教授のお宅での夕食にご招待されています。

ピッツバーグの街並みは、イギリス風の建物が連なる、古き良きアメリカという感じです。
教授のお宅は山手にあるのですが、車で坂を上っていくと、どんどん家が立派になり、
そして家と家の間隔がとてつもなく広くなっていくのでした。

到着。
外側から見ても素敵ですが、中は吹き抜けの居間に客用ダイニング、
裏の森に向かってテラス兼サンルームを備えた日本規格で言う所の豪邸でした。

「今日はテラスでバーベキューをする予定だったのに、
雨が降ってしまったので予定変更です」

バーベキューになれば、活躍するのは一家の主人である教授のはずだったのですが。
(アメリカの家庭では、バーベキューは男の仕事、と決まっています)

夕食が終わってアメリカ人の家庭を訪問した時の恒例「ハウスツァー」が始まりました。
客間その2にいくと、古いアップライトピアノが置いてあったので、
急遽わたしと
息子さんのセッションが始まってしまいました。

彼は学校のジャズクラブでトランペットをやっていますが、ヴォーカルも得意で、
好きなアーティストはチェット・ベイカーだということです。

「Ain't Misbehavin’」「La mer」「Don't Get Around Much Anymore」

などの歌とトランペットにわたしがピアノで参加。
レパートリーのコード譜は前もってiPadに打ち込んであるので、
彼はわたしの伴奏のためにそれを即座に出してくれます。
さすがは今時の高校生。


ところで、この写真はその後のハウスツァーで地下室に行った時、
彼が楽器コレクションを見せてくれているところです。

高校生がフリューゲルホーンを含め4本も楽器を持っているなんて、
贅沢すぎないか?と日本の人なら思うかもしれませんが、
彼は状態のいい中古を上手に安くebayで探してくるのだそうです。

そういえば我が家の息子も、学校のドミトリーのルームメイトを、
フェイスブックか何かで条件をつけて募集して、感性の合いそうな同居者を
早々に見つけていたことに驚かされたばかりです。

今時の学生には、アナログ時代に学生生活を送った旧人類には想像もつかない、
ネットを媒介とした情報処理の方法があり、ごく自然にそれを活用しています。

この息子くんは音楽だけでなく絵も得意で、この地下室(総鏡張りのスタジオが隅にあって、
そこだけでも10畳くらいの広さがあった。前の住人がジムにしていたらしい)
に、プロ用の天板に傾斜のつけられる机を設置してそこで絵を描いているそうです。
車でホテルに送っていただく車の中、

「クリエイティブなお子さんをお持ちで将来が楽しみですね」

というと、父親である教授は

「わたしとしては科学者になって欲しいのですが」

と実に世間一般の親らしい希望を漏らしておられました、

 

 

 


第二次世界大戦とその後のサンディエゴ軍港〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-03-29 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」甲板上にあった「サンディエゴと海軍」シリーズ、
最終回です。
サンディエゴに海軍が来るきっかけになったのは、なんと日露戦争に勝利した
日本に対して釘をさす意味で行われた示威運動とされている

「グレイト・ホワイト・フリート」

に地元民が熱心に寄港を誘致したことであった、ということを知りました。

つまり、ぶっちゃけサンディエゴに海軍があるのは日本のおかげなのです!

というのは勿論冗談ですが、無関係ではないわけですよね。良い意味ではないにしても。

◆ ウォータイム 

そしてそのブースターとなったのが、1941年の開戦でした。
開戦と同時に市内に労働者がなだれ込むように移入してきて、
サンディエゴ市の人口は5万人以上も爆発的に増えることになったのです。

交通や住宅事情はたちまち人口増加とともに混雑を極めるようになり、
街外れの空き地だったところですら、トレーラーでごった返すようになりました。

そして政府主導で、約3000世帯が新たにメサ(メキシコ特有の台地)
の近隣の空き地に作られた住宅地に移入してきました。

各写真を引き伸ばしてみました。

人でごった返す市街地は、それまでここでは見られなかった光景でしょう。
海軍がやってきたので彼らを相手の商売も絶好調です。

この「サムの店」では、水兵さんのセーラー服などを専門にしていたようですね。

街のいたるところにセーラー服が見られる街。

戦争中だというのに、この写真から見られる街の活気はいかなることでしょうか。
戦争が「産業」であることはアメリカという大国の実相であると
我々はなんとなく歴史から想像するわけですが、こういうのを見ると
少なくともサンディエゴという街は、日本との戦争が起きなかったら
これほどの発展を遂げたかどうか疑問であるとすら思えます。

艦隊のお兄さん御用達の店、「ボマー・カフェ」。
こういった便乗商売?も含め、サンディエゴは海軍関連企業で振興しました。

エンターテイメント産業も大いに賑わった分野で、水兵たちを乗せた
トロリーやバスは、次々と彼らをダンスホールに運び、
そこではアーティ・ショーやグレン・ミラー、ベニー・グッドマンなど
綺羅星のようなタレントが、連日朝から晩までショウを繰り広げていました。

のみならず、タトゥー・バー、ペニー・アーケード(ゲームセンター)、
このボマー・カフェやエディーズ・バーなどのランドマーク的なお店が
それこそ休む間も無く営業を行っていたのです。

 

戦時中、海軍の空母は太平洋戦線に戦いに赴く前には必ず
航空部隊の機材と人員をノースアイランドで搭載するのが常でした。

一隻の空母が出撃していったあとは、別の空母が途切れることなく
やってきて、艦載機のパイロットはここで文字通り「月月火水木金金」
(アメリカ風にいうとセブン・デイズ・ア・ウィーク)の体制で
訓練を行いました。

かれらが、戦闘で失われることが既定路線となっているパイロットの
補充要員であることは誰もが知っていました。

街に海軍は産業をもたらした、というのはなんども言うことですが、
海軍が次々と投入する飛行機に携わる労働者も膨れ上がりました。

写真は、コンソリデーテッド・エアクラフトの組み立て工場で働く
労働者の出勤風景です。

そういえば、わたしが今密かに?楽しみにしている漫画
「アルキメデスの大戦」で、「大和」を作らせまいとする主人公
櫂少佐に向かって、艦隊派の平山中将はこう言います。

「これがどれほど呉の地域経済に貢献していることか。
呉だけではない。
船渠改修工事には中国、四国、九州からも出稼ぎに来ている。
海軍工廠の仕事によって日本全国の人々の仕事が
支えられているといっても過言ではない。
雇用を創出し経済の好循環を育むためのこの事業は
日本の将来を見据えた、いわば投資である。

つまり国防とは国家の経済政策!
公共事業なのだ!」

櫂少佐はそれに対し、

「軍需産業を活況にする目的ならば大型戦艦
建造である必要はない。
空母や直掩型戦艦でも同様の経済効果は得られます」

と反論するのですが、その話はご興味がありましたら
本編を読んでいただくとして、戦争が雇用を生み出す
経済活動でありひいては国の経済政策であることは
アメリカに限ったことではないのです。

海軍に志望してくる入隊希望者に軍事訓練を行うことも
どんどん拡大していく海軍基地では一層盛んに行われました。

上、行進の訓練を受ける新入隊員。
下は海軍トレーニングセンターで「ジェイコブズ・ラダー」
と呼ばれる縄ばしごを登る訓練を受けています。

Jacob's Ladder ヤコブの梯子(ヤコブのはしご)

とは、旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、
天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子ですが、
このことから日本でいうおもちゃの「パタパタ」、
いつまでも続く階段のようなものの総称に使われることがあります。

海軍でこの単なる縄ばしごをこう呼んでいるのは、
登っても登っても終わりがないからに違いありません。


そして、ここサンディエゴからは、次々と、日本との戦いのために
太平洋に向かう海軍の船が出航していきました。

上は「エセックス」。
24機のSBD偵察爆撃機、11機のF6F戦闘機、
18機のTBF艦攻を乗せ、太平洋を西に向かって進んでいます。

下はUSS 「ワスプ」。
西方に出撃する前にサンディエゴに帰還するときの姿です。

左から時計回りに

SBD ドントレス F4F ワイルドキャット TBF アヴェンジャー爆撃機
F6F ワイルドキャット F4U コルセア 戦闘爆撃機 PBYカトリーヌ

当時海軍航空基地は6箇所にあり、例えばカタリナ水上機は
サンディエゴ湾をくまなくパトロールして、敵の潜水艦が
この要所に忍び込むことのないように見張りを行いました。

アドミラル『ブル』ハルゼーの率いる第三艦隊が
1945年8月、機動部隊を率いて日本に出撃するときの様子です。

ハルゼーは1943年に第3艦隊司令官になって以降、一言で言って

「特攻と台風」

との戦いに明け暮れていました。
1944年10月末、フィリピンで特攻を受け、12月18日、コブラ台風に巻き込まれ、
(駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人)

1945年、4月末、ニミッツの命令で作戦途中でスプルーアンスと指揮官交代させられ、
同時にこの時、海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、
この損害が神風特攻によるものと知ってショックを受けます。

さらに6月5日、またまた台風に遭遇。(艦船36隻が損傷、航空機142機喪失)
更迭されかかるもマッカーサー一人に勝利の功績を独り占めさせてはならじ、
という海軍の陸軍に対する敵愾心がなぜか彼を守って、無罪となっています。

7月、日本攻撃の際イギリス海軍空母部隊が援軍で到着するも、この目的が

「マレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるため」

という漁夫の利を狙うものと疎ましく思ったハルゼーは、
(この人たち案外こんなことばっかり考えてるのね)
イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、
アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせています。

もうほとんど反撃する力のない日本海軍相手にフルボッコ、
これは本当のところ、誰が日本に引導を渡したかはっきりさせるための
イギリスとの権力争いから来ていたということを意味します。
一方日本にとって、このときのアメリカ艦隊の攻撃は

呉大空襲

で残っていたわずかな海軍艦船を永久に失うことを意味しました。

この写真は8月に入ってからの日本行きということなので、
おそらくハルゼーが広島・長崎へ原爆が投下された後に、
再度爆撃を行うために出撃したときではないかと思われます。

ハルゼーは「日本は降伏したがっている」というサンフランシスコの
ラジオが報じた噂を聞いて、そうはさせまじと(笑)もう一度爆撃を行うために
エニウェトク島(マーシャル諸島)への帰港を取り消して、日本へ引き返したのでした。

 

ところがちょうど日本が8月15日に降伏してしまい、ニミッツは最高機密で最優先の電報で
「空襲作戦を中止せよ」との命令をハルゼーに対して送って来ました。

しかしハルゼー、此の期に及んで

「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。
ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」

という命令を出していたということです。
おっさんよお・・・。

戦争が終結する頃、サンディエゴの人口は以前の二倍にまでなり、
経済規模が増大して西海岸でも経済の中心地の一つとなりました。

写真右上は終戦の知らせを受けたサンディエゴ市民。
市民の中に普通に水兵さんが混じっています。

俯瞰写真に見えているのは、1944年にクェゼリンの戦い、
マーシャル諸島侵攻でその役目を担った軍艦ばかりだそうです。

ちなみに、今「ミッドウェイ」が係留されているのはこの写真の
右下の赤い線で指し示された部分に当たります。

 

◆ PROSPERITY (繁栄) 1945ー

現在のサンディエゴです。
赤で指し示された部分は、全て海軍関係の施設となります。

コロナドの砂州途中には「海軍水陸両用部隊基地」があり、
内陸には海軍病院や補給処、海兵隊基地などもあります。


軍隊の施設が第二次世界大戦後縮小されたのに伴い、
海軍は業務をウェストコーストでのオペレーションに集中して行きました。
冷戦中にはこの地域は人員、艦船、そして航空機補給のための訓練施設がほとんどとなります。
(トップガンなどもその一環ということができますね)

写真は USNS「コンコルド」に洋上補給する補給艦(左)


こんにち、9万5千人以上の人々がこのサンディエゴエリアにいるわけで、
海軍はこの地で一つの組織として
もっとも巨大な雇用先という言い方もできるわけです。

付け加えれば、海軍だけでおよそ14万2千500人もの民間人の仕事を
艦隊のサポートのために生み出しているのです。
この数字は、サンディエゴ地域全体のトータルの雇用者の20%を占めます。

例えば「ニミッツ」。

この空母一隻に関わる軍人と民間人の数を考えただけで万単位の数字が浮かびます。

「チャンセラーズビル」。

このパネルが制作されたのは2015年以前であったらしく、
現在横須賀にいるはずの「チャンセラーズビル」の写真が(笑)

それまではサンディエゴが母港だったんですよね。

F/A-18 ホーネット。
ついこの間墜落してパイロットが二人亡くなっていましたが・・。

そういえばホーネットドライバーの唯一の知り合いであるブラッドは

「ベイルアウトすることは、たとえ死なずに済んでも、
搭乗員としてもう終わりということでもある」

と言っていましたっけ・・。
死なずに済む確率はだいたい2分の1、残りの2分の1が
頚椎損傷などで二度と操縦はできなくなるとかなんとか。

ところで艦載機1機にも雇用という意味では莫大な人間の数を必要とします。

SH-60 MK IIIシーホーク。
対潜哨戒のほか、救助ヘリとしても運用されます。

 

この紳士はピーター・バートン・ウィルソン。
サンディエゴ市長、上院議員、カリフォルニア州知事として、
サンディエゴ市のダイナミックな発展に寄与した人物です。

特に上院議員時代、サンディエゴ地域における海軍の
強いプレゼンスを維持し続けることを効果的に提唱しました。

軍港には最適な海深を持つ現在のサンディエゴ軍港は、
例えばニミッツやカール・ヴィンソンなどの原子力空母であっても余裕で擁し、
9隻もの輸送艦も備えています。

アメリカ海軍とサンディエゴは、100年以上パートナーシップを結んできました。
軍港に最適な地形、訓練に最適な環境をを海軍はサンディエゴに見出し、
サンディエゴは1908年の祖先が結びつけたその関係をさらに発展させ、
街の繁栄を共存することで、一層強固なものにしていくことでしょう。

 

続く。

 

 

 


アメリカ東部春休み旅行

2018-03-28 | アメリカ

息子の春休みを利用してアメリカに行きました。
今回の目的地はアメリカ東部、ニューヨーク州とコネチカット州です。

ユナイテッドコードシェア便なので、シカゴのオヘア空港でトランジットです。
シカゴ空港は巨大ハブ空港ですが、ダラスなどより雰囲気がまともです。
空港ロビーにはシカゴ空港の名物、恐竜の骨がこのように鎮座しています。

もちろんレプリカです。

ターミナルの地下を繋げる通路は、シカゴ空港のシンボルともなっており、
映画によく登場します。

今回ユナイテッドの広告がすごいことになっていました。
スタッフがスーパーヒーロー風です。
ちゃんと登場人物の人種も偏らないようになっているのがミソ。

パラリンピックの応援を兼ねているようですね。

空港のラウンジで6時間もの時間を過ごしたのち、乗り換えです。
ニューヨーク州の某地方は、内陸なのでいまだに雪がこの通り。

最高気温が1度と聞いていたのでかなりビビって重装備をトランクに用意しましたが、
流石に3月だけあって、思ったほどではありません。

体感的には日本の12月といった感じでしょうか。

よく知っているホテルチェーンを宿泊先に選びました。
ホテルの佇まいも、カントリーロッジ風です。
田舎のせいか、駐車場の IDタグも、Wi-Fiのパスワードも必要ありません。

夏にパロアルトで泊まったのと全く同じ部屋の形です。
ロフト風の二階があって、ここを今回もわたしが独占しました。

二階から下を見たところ。

一階のベッドが全面引き出し式でした。
壁のようですが、これをよいしょっと引き出すとダブルベッドが現れます。

ホテル敷地内も田舎ならではの佇まい。
折しも夕焼けが真っ赤です。

この一棟に同じ二階タイプの部屋が4室があります。

バックヤードにはまだ積雪が残っていました。
夜間は零下まで気温が落ちるので、街のあちこちに雪が解けないまま積み重なっています。

アメリカには全米にどこにいっても同じチェーン店が展開しているので、
それを探せばだいたい同じものが手に入るというのが便利なところです。

ここでも迷いなくホールフーズを探し出し、食材を買いに行きました。
やはり土地の安い地域の店舗は占有面積が大きくて立派です。

ニュースでアマゾンがホールフーズに参入したというのは聞いていましたが、
オンラインで購入し、ここに商品を取りに来るというシステムのロッカーを
初めてここでみることになりました。

店舗に来ることはできるけど、店内をお買い物して回る時間のない人向け。

アメリカでは今、高校生が主体となって銃規制に対して反対デモが起きています。
高校で頻発する銃撃事件に対し、なんと

「教師に銃を所持させる」

というアホな選択をした結果、その教師によって、間違えて
(この時のニュースの聞き間違えがなければ)
二人の生徒が射殺されてしまったので、皆が怒っているのです。

彼は高校生ですが、亡くなった二人のティーンの名前を挙げ、
銃の規制と撤廃を呼びかける演説をして喝采を浴びていました。

到着して次の日、わたしたちは車で近郊のある街に行きました。

実はうちのティーンがいよいよ大学進学という運びになったのですが、
行ったことがなく、ツァーにも参加していない大学から合格通知が来て、
学校を決定しようにも判断材料を欠くということで、実際に見に来たのです。


アメリカの大学を受験するシステムというのは、学校の成績と共通テスト、
エッセイと推薦状を送ればよく、全く行ったことが無い学校でも、 
受験することができてしまうので、こんなことも多々起こります。

大学の周りの街並みを見るのも大事な目的、というわけで、
街の中心街?でお昼ご飯を食べました。

 

アメリカに住むのにいちばんの問題となるのは治安です。
先ほどの話題では無いですが、銃撃事件が頻繁に起き、
治安の悪いことで有名な街に名門校があることも珍しくありません。

ただ、ここの場合は田舎ということもあってその心配はなさそうです。

古い町並みに、落ち着いた雰囲気のお店が並ぶ、鄙びた郊外の街という感じ。

街の中心の広場に、モニュメントがありました。
イギリスとアメリカの間に起こった海戦について記念するプレートが埋め込まれ、
その中にはコンスティチューションとイギリス海軍の戦いもありました。

額縁屋さんのショーウィンドにあった「歴代大統領トランプをする」の図。

ケネディ、クリントン、カーター、ニクソン、FDR・・・
後ろ向きのはもしかしてジャクソン?

うーん・・・人選の基準がわからん。
にしても誰が欲しがるんだ、こんな絵。

ちょうど滞在中にキャンパスツァーがあることがわかったので参加することにしました。
対象は来年度以降の受験者ですが、別に受かっていても参加は可能です。

実は

「もし他のところに受かっていてもうちに来てね」

という意味の合格者対象のお願いパーティが既に開催されていたのですが、
そちらには都合がつきませんでした。

アメリカの大学は、メインの建物以外に、学外に一軒家のような施設があり、
そこが入試オフィスだったり、事務だったりします。

そしてレクチャーが1時間。
これから受験する人たちに向けての説明ですから、プログラムについての他に、
当大学にどんな企業が協賛しているかという説明があります。

そして、

「うちは工科大学なので、一流企業からのオファーがたくさんあります」

ということで、みんなが気になる卒業者の就職先です。
錚々たる大企業ですが、やはり技術系大学の出身者は安定してますね。

アメリカの大学のシステムとして、工学部に入り、その後、
自分が興味があり、向いていると思えば
医学に進む、ということも可能です。

この一覧を見てちょっとわたしが個人的にうけてしまったのが、
ファランクス・シウスなど武器を製造しているレイセオン、そして
ロッキード・マーチン、ボーイングがあることでした。


それから実にプラクティカルというのか、この大学の卒業生は就職後、
サラリーは最低でもいくらから始まって、
平均給与はいくら、
という具体的な説明までありました。

この説明会の後、化粧室で他のお母さんが

「どう思いました?」

とか話しかけて来たけど、何について聞いているのかわからず、

「いいんじゃないでしょうか」

と適当に答えておきました。

続いて、現役の学生を案内役にしての校内ツァーです。
アメリカの大学は大きいので、1時間たっぷり歩き回ることになります。

どう見ても教会にしか見えないこの建物、現在では
コンピューターセンターとして使われているということでした。

ランキングで常に上位につける、当大学建築学科の卒業者が設計したコンサートホール。
ほとんどの日本のホールよりモダンで立派なので、軽くめまいがしました。

ちなみにこのコンサートホールの出入り口はこのようなもの。
まるで宇宙船に乗り込んでいくようなエントランスです。
それを温かみのある木材で作ってしまうのがポイント。

歴史のある学校なので、古い建築物が多いですが、中身は近代化されています。
、敷地には開放感があり、明るい感じもわたしの気に入りました。

あとは研究室や教室なども見て回ります。
3Dプリンターだけの部屋(外から見える)もありました。

「3Dプリンタ、熱が出るし、臭いから一つにまとめてるんだと思う」

と息子。
そうだったんだ・・・。

 

何でもこの学校は入ってからが難しく、(アメリカの大学の傾向ですが)
就職率がいいのもその厳しさに耐えた人材であるという保証があるからなんだとか。

都会の誘惑がないのが不幸中の幸いと言えるかもしれません。
田舎というのは親としては治安の点から言っても安心ですが、息子は

「女の子が・・少ないんだよ」

まあ工学部ですから。
でも、キャンパスツァーで回って歩いたところ、結構女子もいたよ?

「30パーセントしかいないんだって」

母数が多いから30パーセントでも十分じゃないかという気がしますが、
若者にとっては大きな問題なのかもしれません。

「その代わり、街に女子大があって、そこで彼女を探したりするらしいよ」

君はそんなことを前もって調べているのか。

この大学からは、過去宇宙飛行士を輩出しています。

学生なら無料で使い放題のジムもあり。
ヨガなどの教室も定期的に開かれているということです。

まるで中世の城のような大学正門。
古い建物に近代的な建築が溶け込んでいます。

学生のドミトリーは三人部屋が基本で、一人部屋もあるそうです。
全く外に出なくても4年間生活できるだけの環境ですが、
やはり皆外のアパートを借りたりすることもあるようです。


さて、というわけで一つ目の学校のツァーが終わった途端、
わたしたちはその足でコネチカットに向かいました。

コネチカットにあるリベラルアーツの大学も見ておきたいと思ったのです。

時差ボケで睡眠不足のため、途中で仮眠を取りながら瀕死でたどり着いた、
これが全米トップ3のリベラルアーツ大学だ。

息子は受けておきながら、あくまでも工学部優先なので、
こちらにあまり興味はないのか乗り気ではなかったのですが、
見るだけでも見ておこう、となだめすかしてやってきました。

いやー・・・こちらの大学もすごい。

こちらも街の雰囲気はボストンのウェルズリーあたりに似ていて、
古くてリッチな感じの街並みで、治安的には大合格です。


あとは息子の行く気ですが、さて、どうなることやら。

おまけ;

コネチカットの街にあった海兵隊の宣伝。

 


アメリカ空母発祥の地 サンディエゴ〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-03-19 | アメリカ

「ミッドウェイ」についてお話ししていくと言っておきながらなんですが、
その前に、ここ「ミッドウェイ」のあるサンディエゴと、海軍のつながりについて
艦内見学に入る前に3回に分けてお話してみようと思います。


「ミッドウェイ」フライトデッキの艦首に立つと、
この写真のようにその向かいにある海軍基地が見えます。

昔はそう大きくなかった砂州のような土地に基地を作り、
だんだん土地ごと大きくしていった結果、現在のような
西海岸最大の海軍の根拠地が形成されていったのですが、
ここに立って基地を眺める人誰もがおそらく知りたいと思うかもしれない
「海軍基地の成り立ちとその歴史」が、パネルにまとめられていました。

こんな感じです。

「サンディエゴ:海軍基地発祥の地」

として、

◆ 先駆者たち 1911ー1924

から説明は始まっていました。

一番初めに顔写真があるのは「海軍航空機の父」である

グレン・H・カーチス

”グレン・カーチスは自らがデザインした飛行機を自分で操縦した
例えばエルロンロッドは自分の肩で操縦したりしていた
このようにしてライト兄弟のシステムは大きく進歩することになったのである”


サンディエゴのイブニング・トリビュート、1911年1月21日付の記事です。

「グレン・H・カーチスの偉業により世界がサンディエゴに注目」

とヘッドラインがありますね。

サンディエゴに到着してわずか6週間後、カーチスはここに飛行学校を設立しました。
それは、この「ミッドウェイ」のちょうど艦首の左側にあったそうです。
(タイムズスクエアのキスのあたりかもしれません)

その時の初めての生徒の中に、当ブログでもお話ししたことがある
「海軍パイロット第一号」となった

セオドア・ゴードン・エリソン中尉

がいました。
エリソン中尉の他の3人は陸軍士官です。
写真の水上艇の上にいるのはカーチスと4人の生徒たちの授業風景です。


カーチスの最大の功績は水上艇の発明をしたことでした。
陸上と水上のどちらからでもテイクオフすることができる優れものです。

上の新聞記事は、カーチスがサンディエゴ湾を横切り、
機体を見事着水させた記念すべき偉業を行った時のものです。

その時カーチスは巡洋艦「ペンシルバニア」に機体をホイストさせ、
続いて甲板から もう一度舷側に沿って海上に機体を降ろさせています。

(つまり船での運用の方法を示したということですね)

彼のこのデモンストレーションを目の当たりにして、
これからの海軍に航空機が重要な役割をするであろうことを
誰一人否定する者はありませんでした。

カーチスは彼の初期の水上艇を「スパニッシュバイト」という
彼自身の水上艇基地で製作していました。

デモを見た海軍は、早速カーチスに3機の水上艇の注文をしましたが、
翼の上にオプションで「浮き」をつけることを要求したということです。

海軍としてはいまいち飛行機の「浮上性能」を信じてなかったんでしょうか。

 

さて、その後1917年9月25日、海軍は初めての「海軍航空基地」を
半島のノースアイランドに設立し、早速ここから「ミッドウェイ」のある
陸地と直接往復を開始しています。

なんのことはない、航空機運用の練習も兼ねて、水上艇はノースアイランドと陸地を
頻繁に往復し、便利な交通手段として早速活用され始めました。

ノースアイランドの飛行学校には、パイロットの養成だけではなく、
同時にメカニックの学校も併設されています。

その海軍最初の飛行機パイロットとなったセオドア・エリソン中尉。
白黒で写真からはわかりませんが、赤毛なので「スパッズ」とか呼ばれていたようですね。

海軍は次に彼にカーチスの基地のあった「スパニッシュ・バイト」で
11名の士官とともに訓練を受け、史上初の

「空飛ぶオフィサー」

となっています。

後年彼が娘の病気を見舞うため乗り込んだ飛行機が墜落し、
帰らぬ人となったという話は、当ブログ

「天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始」

でお読みください。

1941年までに、ノースアイランドは「スパニッシュバイト」として
知られている浅い入江によってコロナドと分けられました。

つまり上から言うとコロナド、スパニッシュバイト、そしてノースアイランドです。

この写真の赤い矢印のところに海軍基地ができたのは1917年のことでした。

1924年までにはノースアイランド海軍航空基地は
国内でももっとメジャーな海軍基地となりました。

この写真にある赤の矢印2つの部分が、水上艇の離発着の場所となります。
当時は「ミッドウェイ」のあるあたりを、しょっちゅう飛行機が行き交っていたのです。

 

◆ 空母の発展 1924ー1940

 

1924年、海軍の最初の空母、「ラングレー」がノースアイランドに繋留されました。
石炭による動力で、500フィート(152m)の長さの甲板を持ち、
34機の戦闘機、爆撃機、そして偵察機を搭載することができました。

写真は「ラングレー」とそのハンガーデッキです。
ハンガーデッキには当時の爆撃機と戦闘機がぎっちり搭載されています。

そういえば当ブログでも「機動部隊」というゲイリー・クーパーの
主演映画をご紹介したことがあるわけですが、この映画でクーパーは
「ラングレー」の最初の艦載機パイロットという中尉の役を
40がらみで無理やり演じております。

甲板から海に落ちて殉職した同僚パイロットの奥さんと結婚するという
実にありがちなストーリーでしたね。

1925年に行われたノースショアでの「ラングレー」からの
カタパルトでの発艦実験の写真。

思いっきり「ラングレー」が岸に近く着けているのが目を惹きます。

この時に使用された飛行機はカーチスの

SBC-4「ヘルダイバー」Helldiver 偵察爆撃機

でした。
1934年には「ダイブ・ブレーキ」「ランディングギア」など、
空母に着艦するための革新的な技術が導入され艦隊に導入されました。

パイロットの他に後部座席に銃撃手を配する、というその後の
戦闘機の基本となる形もこの時に確立されることになります。

1928年、アメリカ海軍は空母「サラトガ」と「レキシントン」を導入しました。
どちらも巡洋艦の艦体に空母使用の甲板を備えた仕様です。

写真は現在のサンディエゴのブロードウェイ・ピアに投錨した
竣工したばかりのUSS「サラトガ」。

写真の丸で指し示した棒の先が、現在のネイビーピアの当時の姿です。

こちらはUSS「レンジャー」

少し後のことになりますが、1935年に初めて最初から空母として建造されました。
ちなみに、我が帝国海軍では「ラングレー」登場の3年前に当たる
1922年において既に最初から空母として建造された「鳳翔」を生んでいます。

実は「鳳翔」は「世界最初の空母」と言っていいかと思います。

世界で最初の空母として船を建造していたのはイギリス海軍でしたが、
(1918年起工)その「ハーミーズ」は第一次世界大戦が終了し、
完成を急ぐ必要がなかったのでのんびりと建造していたら、
後発の「鳳翔」に竣工だけ先を越されてしまったというわけです。

「鳳翔」は確かに国産ですが、その技術は多くをイギリスと
イギリス海軍から招聘した技術者に頼っていたということもあり、
イギリスの立場では

「日本が最初に空母を完成させた」

と言うことには渋い顔をしていると思われます。

写真は、完成後の「レンジャー」が初めてサンディエゴにやってきたときのものです。

ここの説明には、

”1928年、「サラトガ」と「レキシントン」が「ラングレー」に続き
サンディエゴにやってきて、海軍搭乗員の訓練が行われるようになった

このことは14年後のミッドウェイ海戦でアメリカに勝利をもたらすことに
大きく寄与したと言うべきであろう”

と書いてあります。
まあ言われてみれば確かにその通りなんですが・・・・。

単に「ミッドウェイ」と言う文字を使いたかったので無理やり
こじつけてみました、みたいな?

「ニューホーク」(新鷹)と言うあだ名で知られていた

カーチス BF2C-3 爆撃戦闘機

は、

「上空から敵の船を見つけ、それを沈めることができると言うことで広まった」

と割と当たり前の説明をされていますが、当時の常識からは
これは全くの「新戦法」で画期的だったのです。

ちなみに「ヘルダイバー」と言うのは実は鳰(カイツブリ)のことですが、
急降下爆撃をすると言うイメージと「地獄の」「ダイバー」と言う響きが
ぴったりだったため、後年誰もこの名前を鳥だと思わなくなりました。

こちらは「レンジャー」に艦載されていた偵察機SU-4。

偵察機の当時のミッションとは、敵の艦船を発見したら
その位置を空母に報告し、攻撃・爆撃機を発進させることでした。

PM-1 長距離偵察機。

1923年には海軍に導入され、沿岸部の警戒に当たりました。
小さくて航空機が搭載できる無線セットが普及した後は、
無線情報を沿岸の無線局で中継し陸上や艦載機に送ることができるようになります。

1930年、空母「サラトガ」に着陸する海兵隊の第14偵察部隊の飛行機。

 

1940年、サンディエゴには空母「ヨークタウン」そして「エンタープライズ」が
サンディエゴを母港としていました。

第二次世界大戦前夜のノースアイランドには、あらゆる航空母艦で
活用されることになる航空機が集結していたのです。

なぜかハルゼーの写真と説明がありました。

ウィリアム・F・”ブル”・ハルゼー・Jr.提督
初めてサンディエゴを訪れたのは、彼の少尉時代。

1908年に「グレイト・ホワイト・フリート」の一員である
USS「カンサス」に乗り組んでいたときのことです。

「グレイト・ホワイト・フリート」とは1907年12月16日から1909年2月22日にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ海軍大西洋艦隊の名称です。

略称「GWF」、日本語では「白い大艦隊」「白船」と訳されることもあります。
名前の由来は、GWFの艦体が白の塗装で統一されていたからでした。

この艦隊の目的は、実は

日露戦争で勝った日本を牽制するため

であったと言われています。
呉の三宅酒造の資料室でこの艦隊を迎えたときの日本の論調について
あまりにも無邪気にその立派なことを讃えたグラフを見つけ、

「これは確信的か、それとも故意的か」

とここでも書いてみたものですが、実はそのとき、
若きハルゼー・ブルドッグは日本に来ていたわけですね。

この時に彼は日本で東郷元帥にも会っていますが、実際に会って
東郷元帥のファンになった
ニミッツやスプルーアンスと違い、彼は

「舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいる」

と言い放ち、日本嫌いをさらにこじらせていったようです。
まーなんと言いますか、最初から

「日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃」

と決めてかかっての日本来航ですから、頑固(そう)な彼には
日本で見るもの聞くものそれを覆すことに至らなかったのかなと。


ともかく、ハルゼーはGWFのサンディエゴ寄港の際、
初めてこの地に立ち寄ったということになりますが、実はこの寄港、
その後の海軍とサンディエゴを結びつける大きなきっかけとなった出来事でした。

その経緯については次回お話したいと思います。


ところでここの展示にも書いてありますが、ハルゼーは52歳の時に
訓練を受け、
搭乗員資格を得ています。

当時のアメリカ海軍のシステムで、パイロットの資格がなければ、
航空関係の指揮官になることはできなかったからなのですが、
彼は航空オブザーバー課程という上級士官中途教育コースを受け、
後にパイロットコースに変更し、成績は最低ながらとにかく終了しています。


彼が偉かったのは、52歳で大佐という階級でも訓練課程を一切省略せず、
パラシュートをたたむなどの雑務も自分でこなしたということでしょう。

失敗をした者に与えられる不名誉なマーク(多分デメリット)も甘んじて受けました。

ダグラス TBD  「ディバステーター」Devastator 艦爆

は、最初の総金属製単葉機で、海軍の注文によって製造されました。
1937年には艦隊に導入された、最初の電動式折りたたみ翼機でもあります。

クルーはパイロット、爆撃手、銃撃手で構成され、「サラトガ」や
「レキシントン」「レンジャー」などの空母の艦載機の基準となりました。


1940年ごろ、サンディエゴにあった海軍の組織は以下の通りです。

ノースアイランド海軍航空基地 

32番ストリート 海軍駅

バルボア 海軍病院(現在のバルボアパーク)

海軍無線中継基地 (チョラス・ハイツ)

海軍補給処 (ブロードウェイ・ピア)

海軍訓練センター(ウェストコースト)

海兵隊入隊事務所 (ウェストコースト)

 

 

続く。

 


「ミッドウェイ」のある光景〜サンディエゴ

2018-03-17 | アメリカ

サンディエゴで「ミッドウェイ」を見学するというのを2年続けて実行したわけですが、
後半の「ミッドウェイ」見学編に突入する前に、サンディエゴという街の様子を
少しご紹介しておきます。

最初の年に泊まらせていただいたジョアンナの家。
大学の同窓つながりで知り合ったボーイフレンドのうちも近所です。

当たり前のように自宅にプールがあります。
今年行ったら、

「今年はトイレをジャパニーズスタイルにしたの!」

ジャパニーズスタイルって?と思っていたら、TOTOのウォシュレットを導入したのでした。
何を今更、という気がしますが、アメリカでのウォシュレットの普及は、現在でも
わたしの知る限り公的な場所ではゼロで、裕福な個人宅に限られています。


眼下にはサンディエゴのシーワールドを一望できる眺めです。

二回ともロスアンゼルス空港から車で向かいました。
アメリカのフリーウェイを走ったことのある方には「あるある」な光景でしょう。

ジョアンナのうちの近くでみた光景。
一人ずつゴミ袋を持ってゴミを拾って歩く仕事で、従事しているのは非白人ばかりです。
マイノリティやホームレス予備軍にも仕事を与えるという市の施策によるものです。

そういえば、サンディエゴは街の中心部にもホームレスはあまり見なかった気がします。
気候的にはホームレスが暮らしやすいので集中しそうなんですが、
こういった公的な対策が功をそうしているということなんでしょうか。

2回目のサンディエゴ滞在のホテルはわたしが自ら選びました。
ポイントはキッチン付き、そして「ミッドウェイ」に近いところ。
となると会員にもなっているマリオットのレジデンスインしか選択肢はありません。

ミッドウェイまで歩いて5分という、これ以上ない立地です。

近隣には同じレジデンスインが他に二つありますが、ここが
一番新しく、インテリアのセンスも他より洗練されている感じ。

パーキングは4つ星、5つ星ホテルと同じようにバレーを頼むことができます。

部屋は2ベッドプラスソファーベッド。
息子が大きくなってからはいつもこのタイプの部屋を選びますが、
誰がソファーに寝るかは適当にその日の気分で決めます。


素晴らしかったのは窓からの眺め。
ミッドウェイとじゃ反対側でしたが、海事博物館の帆船
「スター・オブ・インディア」の帆と星条旗がこんな風に見えます。

こちらは車上から撮った「スター・オブ・インディア」。
海沿いの遊歩道は朝方散歩やウォーキングをする人で賑わいます。

寝室の角は全面ガラス張りで、この開放感!

眼下にはパシフィック・ハイウェイという幹線道路が走り、サンディエゴの
「タワマン住み」御用達のツインタワーレジデンスが真横に立っています。

朝、ゴミ収取車がいたので、連続写真を撮ってみました。
路上に何曜日朝、と決められた時間に出したゴミの巨大なケースはゴミ収集車が
抱えて持つことができるスライドを両脇に備えています。

アームをグイーンと操作すれば、中のゴミがちゃんとタンクの中に。
この時にゴミが残っていると、アームを戻す時にぶちまける結果になります。

その例


ホテルには中層階に一応アメリカのホテルには必須のプールがあります。
朝、誰もいないプールをカモメが泳いでいました。

朝ごはんはバッフェ式で、ピーク時には座るところを探すのも大変です。
この日は外のテラスが空いていました。

プールで水浴びしていた鳥さんたちが虎視眈々と見張りを・・。


ウォーターフロントに建つのはホテル以外は駐車場や倉庫だけ。
向こう側はサンディエゴ空港で、飛行機は右手の山側から着陸し、海に向かって
離陸するのがずっと見ていると幾度となく繰り返されて飽きません。

エレベーターホールは景色を見るために全面ガラス張りで、
そこからの眺めはわたしにとって眼福としか言いようのないものです。

「ミッドウェイ」の向こうの海軍基地、そこに係留されている空母。
サンディエゴの海軍基地は正確には

ノースアイランド海軍航空基地
(Naval Air Station North Island, NAS North Island)

と言います。

ちなみに左の建設中の建物もホテルになるようです。

手前が「ミッドウェイ」と来客用のパーキング、そしてその向こうに空母。

「ホテルから空母が見えました」

というと、サンディエゴ在住のジョアンナのボーイフレンドは

「何だろう・・セオドア・ルーズベルトかな」

こちらはまずこの時にiPadで調べて、

「カール・ヴィンソン」USS Carl Vinson, CVN-70

であることがわかりました。

「カール・ヴィンソン」の愛称は「スターシップ・ヴィンソン」。
ハインラインの「スターシップ・トゥルーパーズ」と関係あるのかどうかは知りません。

2017年にはメンテに入った「ロナルド・レーガン」の代わりに西太平洋に進出し、
北朝鮮半島沖に展開、「あしがら」「さみだれ」と訓練を行い、
「レーガン」が復帰してからはその打撃群艦隊、海上自衛隊の「ひゅうが」、
「あしがら」及び航空自衛隊F-15戦闘機と共同訓練を実施しました。

この画像を撮った時には、その訓練から帰還してすぐだったことになります。

艦橋部分をアップにしてみました。
白い車以外は人影もなく、稼働している様子は全くありません。
帰港して乗組員は夏休みでも取っていたのでしょうか。

ちなみに今現在時点でスターシップヴィンソンは日本近海におられます。

空母の周りには手前に見えている柵が張り巡らされ、船が侵入できないようになっています。
この柵はグーグルアースでも確認できます。

そして、「カール・ヴィンソン」の隣にももう一隻空母が。

「セオドア・ルーズベルト」(USS Theodore Roosevelt, CVN-71)

ボーイフレンドはさすがサンディエゴ在住だけあって、ここを母港にしている
空母の名前をちゃんと認識していたんですね。

「セオドア・ルーズベルト」の愛称はコールサインとおなじ「ラフ・ライダー」。
ルーズベルト大統領が米西戦争に参加した時に指揮した騎兵隊の名前です。

以前、湾岸戦争における「バトルフォース・ズールー」という3隻の空母を
航行させる示威作戦についてお話ししたことがありますが、
そのうちの一隻、唯一の原子力空母が「セオドア・ルーズベルト」でした。

思い出していただきたいのですが、この作戦で「ルーズベルト」が一緒に航行した
「ミッドウェイ」は、今彼女の向かいで展示されているわけです。

「ズールー戦隊作戦」の後、「ルーズベルト」は

「ミッドウェイ」「レンジャー」(CV-61)「サラトガ」(CV-60)
「アメリカ」( CV-66)、「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)

とともに、史上稀に見る空母6隻による戦隊航行に加わっています。

 

また「セオドア・ルーズベルト」は「砂漠の嵐作戦」に参加した
唯一の原子力空母となりました。

なお、「セオドア・ルーズベルト」は2017年11月12日、日本海において、
「ロナルド・レーガン」「ニミッツ」と護衛艦「いせ」「いなづま」
「まきなみ」他、艦艇数隻と日米共同訓練を実施しています。

つまり、この写真の後「ルーズベルト」はここを出航して日本に向かったのです。

エレベーターホールのガラス越しに、望遠レンズを投入して写しました。
スーパーホーネットらしい戦闘機が一機甲板の上に見えますね。

71という艦番号はライトアップできるようになっており、
番号の横の黄色い文字は、「プロペラとローターの回転に注意」とあります。

「ミッドウェイ」の手前は「ネイビー・ピア」という突堤ですが、
ここからはクルーズ船が発着します。

「ミッドウェイ」甲板上には数多くの飛行機が展示されているのがお分かりでしょうか。

ヘリのローターや、艦載機の折りたたまれた翼などが雑然と。
もう見学時間は終わり閉館しているはずですが、「ミッドウェイ」艦上ではこれから
パーティが行われるらしく、テーブルセッティングされ、人の姿もチラホラ見えます。

結婚式や誕生日パーティ、会社のパーティ、そして海軍関係者のパーティと、
この甲板は市民に会場を提供してそのお金を運営費に回しています。

他の展示軍艦とは桁外れに集客数を誇る「ミッドウェイ」ですが、維持していくために
寄付以外にもパーティスペース、子供のキャンプ会場として貸し出しているのです。

 

赤いシャツの人は「ミッドウェイ」の従業員、パーティ参加者はついでに見学もできます。

岸壁側の「ミッドウェイ」。
赤で描かれている飛行機のシルエットは実は「ミッドウェイ」艦載機の
戦闘機パイロットが撃墜したMiGなのですが、これについてはまた後日。

「ミッドウェイ」はもうアメリカ海軍の軍籍にないので、旗の掲揚も軍艦のそれとは違います。

甲板に展示されているF-8C(F8U-2)クルセイダー。

今回は前には同行者の体力的に無理だった甲板に行って
艦載機を全部見学することができました。
そのうちご紹介していくつもりなのでどうかお付き合いください。

ホテルのテラスは「ミッドウェイ」と海軍基地の灯りを見るための特等席です。

「ミッドウェイ」の三色のライトアップと艦燭は、サンディエゴの夜景のシンボルです。

こちらはジョアンナたちに連れて行ってもらったコロナド(海軍基地側)
から見たサンディエゴ市街と「ミッドウェイ」。


さあ、これで準備が整いました。
次号からは「ミッドウェイ」についてお話していくことにしましょう。




マイノリティの沿岸警備隊〜コーストガードアカデミー博物館

2018-03-12 | アメリカ

 

リチャード・イサーリッジ (Richard Etheridge)は、アフリカ系として初めて
湾岸救命ステーションの指揮官になった人物です。

ノースカロライナで1843年奴隷として生まれたイザーリッジは、南北戦争の間は
連合軍のために任務をしていましたが、戦後は救命隊に戻りました。

 

左端がイザーリッジ、ピー・アイランド・ステーション庁舎前の部下との写真です。
部下が全員黒人であることがおわかりいただけるでしょうか。

イサーリッジを指名したのは救命部隊を創設したキンボール本人だったそうですが、
当時の社会的通念から、黒人の指導者の下に白人を置くわけにいかず、
結果ピーアイランド・ステーションは全員が黒人の職員となりました。

ちなみにイサーリッジの着任5ヶ月後、ステーションは放火されています。

つまり黒人ゆえ常に監視され、わずかなミスを起こしても彼自身とクルーは
簡単に白人にポジションを取って代わられかねない状態にあったわけで、
彼はそのことを重々承知し、非常時への対応準備を常に怠りませんでした。

そして1896年10月11日、その努力が身を結ぶことになります。

スクーナー「ニューマン」はハリケーンの襲来した日
乗員のほかに船長の妻と3歳の娘を船上に乗せていました。

見張りだったセオドア・ミーキンス(写真左から5番目)は信号を察知し、
イサーリッジと共にコストン・フレア(マーサ・コストンが発明した信号)を発射して
「ニューマン」に通信を送ります。

ピー・アイランドのクルーは難破した船まで巨大な波が打ち寄せる海岸から
ボートで近づきますが、波が強すぎて近寄ることもできません。
ビーチ・ブイを設置するためのアンカーを打つこともできず、
最終的に2人の隊員が波の中を泳いで、難破船にラインを引くことに成功します。

 

(ビーチブイ使用例。結局隊員はラインを繋いだ海を泳いで救助を行った)

その後も彼らは何度も海に入り、船長の3歳の娘から乗客と乗組員を全て救出しました。
伝わっている話によると、隊員の中で最も水泳に長けていたミーキンスは、
そのほとんどの救出活動に加わっていたということです。

RESCUE MEN The Story of the Pea Island Life Savers Film Trailer

ミーキンスはその後21年以上に亘りピーアイランドで暮らしていました。

1917年に亡くなった日は休暇中で、ボートに乗っている間に嵐が起こり、
彼は海岸に泳いで帰ろうとして溺死したといわれています。

ピー・アイランドには長い救助用の何かを持ったイサーリッジの
ブロンズ像が、彼の功績を称えて建てられました。

「コンバット・アーティスト」という言葉を初めて知りました。
ジェイコブ・ローレンスは、軍所属のアーティストになった最初のアフリカ系です。

戦艦「マサチューセッツ」にも、絵が得意で艦内の絵描きとして活動し、
戦後プロになってしまったカートゥーン作家というのが居ましたが、
彼の場合は沿岸警備隊に戦争中入隊してそこで元々の技能を披露したところ、
トントン拍子に「公式画家」の地位を得たという人物です。

大戦が始まって、アメリカ政府は兵力の増加を目的として、
公式に人種差別を撤廃し、沿岸警備隊士官学校へのアフリカ系入学許可、
そして予備士官への登用をはじめました。

ローレンスもその一環として入隊後、

カールトン・スキナー(1913〜2004)

が艦長を務める気象観測船「シークラウド」にその他の黒人兵とともに配属されます。

中尉だったスキナーは乗り組んだ「ノースランド」で、停止したエンジンを動かすのに
白人のエンジニアを優先し、どうしようもなくなって初めて黒人エンジニアに任せたら
その途端エンジンが動き出す、という事件を目撃して以来、人種差別は軍、特に
海の上ではなんのメリットももたらさない、という考えの持ち主でした。

そんな艦長の元でアーティストとして各地でスケッチを行い、船のペインティング、
その他イラストの必要な仕事を任されるようになったローレンスは、戦後
「戦争シリーズ」と称する一連の作品群をものし、評価を高めます。

ちなみに彼が他の隊員に見せているのがこの絵。
 
「Embarkation or possibly Landing Craft」

というタイトルだそうですが、タイトルもさることながら、
見ている同僚の皆さん、全員「?」な感じ。

彼が沿岸警備隊にいるときに製作した絵画は行方が分からないものが多いそうです。

おまけ:美人の嫁グェンドリンさんとローレンス。

■ ジョセフ・ジェンキンス

デトロイト出身のジョセフ・ジェンキンスは、沿岸警備隊初の黒人士官でした。

講演会を行った時の紹介記事を読んでいただくとわかりますが、ジェンキンスは
アカデミーで予備士官になるための訓練をする前に、すでに名門ミシガン大学の工学部で
黒人初の学生となり、卒業して高速道路の設計者として働いていた人物です。

雪の積もる「シークラウド」の甲板でOKサインをするジェンキンス中尉。
左のクラレンス・サミュエルズ中尉もアフリカ系です。

そう、つまり「シークラウド」は実験的にアフリカ系を士官として採用した船で、
艦上での人種差別は非合理的だとするスキナーがその艦長になったというわけです。

これもおまけ。
ジェンキンス中尉の結婚式での一コマ。

ジェンキンスら黒人士官の登用実験は大変うまくいき、彼らのおかげで
その後のアフリカ系の軍での採用は大幅に進むことになります。

ジェンキンスは沿岸警備隊に在籍したままミシガン州兵のエンジニアリング部隊の
隊長を務め、さらには土木エンジニアとしても生涯第一線にありました。

実験的に予備士官としてジェンキンスが入学してから20年も後のことになりますが、
写真のマーレ・スミスJr.はアフリカ系で初めてコーストガードアカデミーを卒業しました。

正式な黒人のコーストガーディアンは彼が1966年に少尉となるまで居なかったことになります。

ヒゲが無い時代、コーストガードアカデミー卒業式でのスミスJr.。
握手しているのはお父さん、マーレ・スミス陸軍大佐、奥が学校長です。

上の写真はベトナム戦争時、カッターの指揮官としてブロンズスターを授与されるスミス。

お父さんもまるで映画に出てきそうなイケメン黒人ですが、
陸軍では核兵器に関する防諜部門にいたため、仕事の関係でスミスJr.は
ドイツとそして日本で幼少期を過ごしています。

あまりにかっこいいので写真をもう一枚。
ポイント級カッターでデッキガンの操作を指導するスミス艦長。

スミスはその後ジョージ・ワシントンで法学を修め、
法学部門のディレクターとして古巣で活躍し続けました。

しかし、まるで映画の1シーンですね。

 

さて、真珠湾攻撃以降、戦地に男性が取られその抜けた職場を埋めるため、
どの軍も女性軍人をこぞって募集し始め、沿岸警備隊も1942年から

SPARs (SENPER PARATUS  ALWAYS READY)

という名称で1946年までに1万人もの女性を採用しました。

モーターを前に講義している教官も内心ウッキウキ(多分)

そんな中、アフリカ系の女性も採用されました。
初のアフリカ系女子コースト・ガーディアン、
ジュリー・モズレー・ポール嬢、そしてウィニフレッド・バード嬢。

絶対これ合格には容姿も考慮されてるでしょ。

アフリカ系女性として初めて沿岸警備隊の制服を着用し配置についた、

オリビア・フッカー Olivia J. Hooker(1915〜)

彼女はヨーマン、つまり書記下士官のセカンドクラスまで昇進し、
戦後は超名門コロンビア大学で心理学の博士号を取得しています。

米国心理学界の知的発達障害部門の創設に携わり、大学で教授職、
ケネディチャイルドスタディセンターのディレクターを務め、
引退後は悠々自適の生活を送り、2018年現在、102歳でまだ健在です。

これは凛々しい。
固定翼パイロット、

ジャニーヌ・マクリントッシュ・メンツェ(Jeanine MacLntosh Menze)

特記すべきは彼女がジャマイカ生まれで、アメリカには帰化したことでしょう。
それでも彼女のタイトルは

「アフリカ系アメリカ人女性初めてのパイロット」

となっています。
つまりアフリカ系って色の黒い人のことっていう括りなの?
何だか乱暴だなあ・・。

名札は「マクリントッシュ」となっていますね。
胸のウィングマークがよくお似合いです。

以前も一度ご紹介したことがある、アフリカ系女性初のヘリパイロット、
ラ・シャンダ・ホルムス(La'Shanda Holmes)

Female Changemakers: LaShanda Holmes.mp4

彼女の映像が見つかったので挙げておきます。

こちらはアフリカ系で初めてマスターチーフ・プティ・オフィサー、
つまり下士官の最高位
にまでなった、ヴィンセント”ヴィンス”・パットン曹長

腕の洗濯板が本当に洗濯板そのものです。

アフリカ系のヴァイス・アドミラルすなわち中将も生まれました。

マンソン・ブラウン (Manson Brown)VADM

学位は土木工学、イリノイ大学でも学位を取っています。

 

ところで割と最近のことになりますが、アメリカの空軍士官学校で
黒人に対する差別的な落書きがあり、それについて学校長が

「他人を尊重できない者はここから去れ」

と厳しい調子で訓示をしたことが話題になりました。

優秀なら特に軍では昇進になんの障害もないのがアメリカ社会ですが、
人の心に潜む差別、もうこればかりは如何ともし難いのが現実。


ちょっと住めば日常生活の中でも、例えば白人の娘が郵便局で
中国人の局員に向けるさも汚いものを見るような目とか、
逆にアジア系の客の精算を済ませた後、次の客(わたしね)に
わたし中国人嫌いなの、と言ってくる白人店員とか、黒人の居住区は
どこでも本当に黒人しか住んでいないとか・・・
山のように差別の片鱗を発見することができるのがアメリカです。

士官学校の落書きも、そんな「日常」から出てきた、本人にすれば
悪戯程度のことという認識だったのかもしれません。

犯人探しをしたという話は伝わっていないので、この件では誰も
処分されるということにはならなかったようですが、その代わり
落書きをした学生は自分の認識の大いなる過ちと罪悪感を
一生十字架のように背負っていくことになったわけです。


優秀なアフリカ系の先人について軍人として多くを学んでいれば、
彼あるいは彼女の差別心は、少なくともこんな形で外に現れることは
なかったかもしれないと、この項をまとめ終わった今わたしはそう思います。


 

続く。

 


フォートポイントとジョセフ・シュトラウスの英断

2017-12-18 | アメリカ

 サンフランシスコのフォートポイント、フォートの内部を見学しました。

雪は降りませんが、夏でも決して暑くならず、むしろ霧のため
夏が一番寒いと感じるのがここサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近くです。

建物内部では嘗て兵舎であった頃を再現しています。

この回には士官の居住区があったと思われます。

当時使われていたコーヒー豆の箱。
「コーヒーミルズ」は商品名だと思われます。

1864年、南北戦争の頃の兵士のレーションとは?

塩づけあるいは新鮮な牛肉(あるいは塩漬け豚肉かベーコン)
3/4パウンドのハードブレッド
(あるいは1.5パウンドのソフトブレッド、コーンミール)

2.5ozの豆
1.5ozのグリーンコーヒー(かローストコーヒー)
砂糖、ビネガー、キャンドル、ソープ、塩コショウ


アメリカ人が野菜を食べないのは昔からだったみたいですね。
グリーンコーヒーというのは読んで字のごとく焙煎しないコーヒー豆を
抽出してのむコーヒーですが、最近ではこの飲み方が健康志向の層に
じわじわと流行っているということをたったいま知りました。
この頃のグリーンコーヒーにそんな意味はなかったと思いますけど。

それから、キャンドルとソープもレーションに含まれていたようです。


右下のは小冊子で某大尉によって書かれた

「キャンプファイヤー、キャンプクッキング」

「ソルジャーのための料理のヒント」

で、

「携帯野外オーブンで作るパンのレシピ」

が含まれているということです。
この本の内容が別のところに掲示してありましたが、その

「キッチンフィロソフィー」

によると、


豆を下手に煮ると、銃弾よりそれは人を殺すことを覚えておくがよい。
そして脂肪は火薬よりも人を死に至らしめる
調理というものはこの世における全ての作業の中でも特に
『急がば回れ』の精神で行うべきで、5分早く調理を切り上げて
火が通っていないくらいなら1時間遅れる方がまだましである。

強火にするとスープは焦げ付くし、顔は焼けるし、
君自身もカリカリになり(笑)
ろくなことはない。

よい調理の秘訣というのは「Skim, Simmer, Scour 」である 

(上澄みを掬うがことく丁寧に、コトコト煮込み、食材をよく洗う)


まさかアメリカで「アク取り」という技があったとも思えないので、
このように翻訳してみましたが、単に「S」でまとめたかっただけかも・・。

電気による灯りがなかった頃、ろうそくは各自に配給され、
1日に一本使い切っていたようです。

こちらの部屋は二段ベッドの寝室です。
「ミッドウェイ」など軍艦の中の寝床を散々見て来た目には、
この広々としたスペースの使い方とベッドの天井の高さは破格に見えました。

上の段のベッドにも靴や帽子をおく棚が上に付いていますが、
この人たちは一体いつ靴を脱いだのか気になるところです。

当時の兵士たちの軍服や帽子、バッグの実物が展示されていました。

寝室で使われていたベッドをそのまま無造作にパネル置き場にしています。
写真は写っている人の服装から見て南北戦争時代でしょう。

この写真をよく見てください。
なんと手すりがありません。

最初からなかったというわけではなく、さらによく見ると劣化して
落ちてしまったという感じです。

南北戦争終了後しばらく使われず放置され、荒れていた時期に
わざわざ写真を撮った人がいたようですね。

ベッドには上段下段ともに所有者の名前がペンキでしっかり書かれています。
ちなみに上段がカルロ・アンドレオリ、下がティモシー・J・バーンさんです

兵士の居住区を「バラックスルーム」と称したようですね。
ここで兵士たちがどう過ごしたかが描かれています。
ベッドが広いので上の段でトランプに興じたりしていたんですね。

上の階から下の広場を見下ろしたところ。
第二次世界大戦の時にはここは日本軍の襲撃を防ぐ重要なポイントとして強化され、
各ケースメートは完璧に塞がれていました。

1948年頃の写真を見ると、それがわかります。

第二次世界大戦中、ここにはアメリカ陸軍砲兵隊が駐留していました。

さて、この時には時間があったので、屋上にも上がってみました。

1926年に建築家協会は、軍事建築遺産として保存することを提案したそうですが、
資金難で計画は頓挫し、1930年代、ゴールデンゲートブリッジを作ることになった時、
今度は工事にも支障があるということで撤去されそうになってしまいました。

要塞の真上に橋をかけることになったのですから当然です。

GGブリッジの主任設計者であるジョセフ・シュトラウスは、
このことを受け、要塞を壊さなくてもいい方法を目指しました。

漢です。

シュトラウス氏は、

「フォートポイントに今や軍事的価値はないが、芸術的、歴史的な価値はある。
国家のモニュメントとして保存され、復元されるべきだ」

と述べ、設計をやりなおしたのです。

シュトラウス氏の苦心がよくわかる、橋と建物の位置関係をご覧ください。

要塞がちょうどブリッジを支えるアーチの南のアプローチの真下に位置するように
設計されているのがお分かりでしょうか。

シュトラウス氏の苦心の設計を表すもう一枚の写真。
このあつらえたようなカーブとそこにちょうどはまり込む形で
存在する要塞のバランスをご覧ください。

 

ちなみにゴールデンゲートブリッジの工事中、ここフォートポイントは

工事関係者の車の駐車場になっていたようです。

この屋上階は「バーベット・ティアー」(barbette tier)
と呼ばれ、大砲のマウントが並んでいました。

許可を受けた専門の砲手だけがここから手すり壁越しに
砲撃することを許されていたということです。

その理由。

これが手すりの外側なのですが、安全上の理由でここが分厚い
(7フィート2インチ)ため、下手な人には撃たせられなかったのです。

かつてはこの砲座の全てにキャノンが乗っていました。

しかし、バッテリーと呼ばれる砲台があったのはこの屋上だけではもちろんありません。

第二次世界大戦が終わってから、本格的にここを保存する動きとなり、
1970年10月16日、リチャード・ニクソン大統領は、

Fort Point National Historic Site

を作成する法案に署名しました。

現在の状態になる前に、大々的な保存&復元工事が行われ、
それが終わったのは2005年のことです。

わたしはその前にサンフランシスコに住んでいて、ずっと毎年
この近くまでやってきていたのですが、ずっと工事をしていて
近寄ることもできなかった記憶があります。

フォートポイントの灯台です。
今は稼働していないと思われます。

かつてはこんな風に大砲の砲列が太平洋とサンフランシスコ湾の入り口に向けて
睨みをきかせていました。

結局この要塞から、実際の敵に向かって砲撃が行われたことは
一度もありませんでした。

ただサンフランシスコは1906年に巨大地震に見舞われ、その時に
ここでも壁の一部が崩れたりして被害も出たようです。

この要塞の海側に面した構造がこのようになっているのは、
海岸線にカーブを揃えて砲弾が等しく届くようにしたからだと思われます。

外から見ることしかできないこの部屋は、三つの区画を持つ牢屋だそうです。

勤務中に規則に違反した兵隊を収監するために使われ、
真ん中は独房となっていたということです。

螺旋階段を上から見たところ。
できるだけ外側を歩かないと階段が狭く、手すりもないので非常に危険ですが、
造形的に確かにシュトラウス氏がいうようにこれは「芸術」というものでしょう。

この歴史的な建築物を残すために建築家として大変な決断をしてくれた
シュトラウス氏に、後世のものはすべからく感謝すべし、ということを述べて
フォートポイントシリーズを終了します。

 

終わり。

 

 

 

 

 

 


キャノンボールからミサイルへ〜フォートポイント遺跡 サンフランシスコ

2017-12-16 | アメリカ

サンフランシスコはゴールデンゲートブリッジの袂にあるフォートポイント。
前回からサンフランシスコ防衛の最重要地であった要塞についてお話ししています。

前回にも書いたように、フォートには「出撃路」と呼ばれる出入口が一つしかありません。

「出撃」だけで帰還はスルーしているあたり、いかにも要塞です。

その出撃路の扉らしきものが内部に飾ってありました。
経年劣化したものを70年代から80年代の階層の際に取り替えたのでしょう。
扉の表面は補強のために鋲が無数に穿たれています。

これが要塞の図です。
海に面した三面に砲台が張り巡らされ、
陸側となる画面下部分にこの出撃路があると御考えください。

かつてはこの陸側部分に兵舎など居住区がありました。
現在はかつての姿を再現したり、資料を展示する部屋に使われています。

要塞が健在だった頃の武器関係のものが実物展示されています。

左【実弾】「ソリッドショット」Solid Shotとされています。

   砲郭から海上の敵船を狙ったもので、熟練の砲手は、
   海面や地面をバウンドさせて目標に当てることができました。

中【キャニスター】鉄球とおがくずが詰められたブリキのシリンダーです。
   筒の一方は木製のプラグで留められ、反対側は折りたたんで密封されました。 

右【摩擦火管】(フリクション・プライマー) 
   大砲のベントに発砲時挿入することで、火薬のカートリッジに点火するものです。

【グレープ・ショット】  

以前「コンスティチューション」の武器についてお話しした時に
この名前の砲弾について書いたことがありますが、
もともと帆走軍艦の索具類破壊と人員殺傷を目的に考案された武器です。

左の縦型グレープショットは9個の鉄球を内臓しており、
着弾と同時にこれらが飛散してダメージを与えます。

コロンビヤード砲やロッドマン砲の砲弾より大きな気がします。

「フィリングルーム」というのは、砲弾に火薬を仕込む部屋。
それらの作業に使われた道具が展示してあります。
弾倉で火薬を装填するために運ぶツールなどです。

丸い砲弾は動かないよう台座に乗せて、オカモチのような
取っ手付きのケースに入れて一つずつ運搬します。

火薬の樽は4階建てのラックに積んでいます。
樽の重さは相当なものになったと思うのですが、一番上の段のものを
どうやって降ろしたのか、気になります。

倉庫の鍵は司令官のポストにある者が管理をしていました。
ここでの仕事は基本士官が受け持ち、有能な下士官がその下で仕事を支えました。
軍曹クラスの任務は、倉庫の重点やヒューズの調達などです。

弾薬庫で最も重要なことは一にも二にも換気。
通気性がよく、湿度が少なく、清潔であることが求められました。

サンフランシスコ湾沿いに建っている要塞ながら、
サンフランシスコの特性として年中気温が低くて温度差が少なく、
空気が湿気ることはまずありません。

弾薬庫で仕事が行われている様子を描いたものです。
高いとことに立って偉そうにしているのが士官ですね。

少しわかりにくいですが、庫内はもうもうと煙っています。

弾薬庫はいわば要塞の心臓部とでもいうべき場所でした。
セキュリティも安全管理も厳密に行われなくてはいけません。
不注意による火花の発火、敵の「ホットショット」(熱した砲弾)を受けようものなら
要塞全体の破壊につながります。

そこで、重量があり燃えにくい樫の木が扉や窓に使われ、
通路と弾薬庫を隔てる通路は二重構造の壁になっていました。

弾薬庫は三箇所に分散させ、さらにそれぞれを6つの区画に分け、
リスク分散をした上でそれぞれを厳重に施錠して管理しました。

ここにある飛翔体の正体はわかりませんが、横の説明には

「キャノンボールからミサイルへ」

として、

「長年の間に、古今東西の軍の指導者たちはより強力な武器を創造しようと苦心を重ねてきました。
石の球が鉄球になり、そのパワーを強大にするために工夫が凝らされ、
その結果ぶどう弾やキャニスター、ホットショット、バーショット、
そしてチェーンショットなどが生み出されました。

同時に火薬にも開発が加えられ、それに従って破壊力が増してきます。

1880年代の後半、サンフランシスコの防衛は、それまでの先込め式、
(マズルローディング、前装式という)からここにあるような巨大な砲弾、
25マイルの飛翔距離を保つものに置き換わってきます。

それらの砲台は鉄筋コンクリート性でサンフランシスコの丘陵を生かして設置されました。
(去年お伝えしたこの地域に点在する砲台の数々です)

好ましからざる訪問者が湾内に侵入してきたときに1発お見舞いする、
という当初の目的でしたが、48年間何も起こらなかったので、
1946年にここを防衛するサービスは廃止されました。

1959年1月、カリフォルニアのフォートバリーに、陸軍の対空部隊が駐留し、
1974年にはナイキミサイルがアメリカの対空防衛に採用されるようになりました。」

と書いてありました。

フォートポイントを建造した業者の紹介もされていました。
右下のおじさんが CEOのナグリー氏である模様。

建築にあたっては、現地で調達できる建設資材が限られていたため、
中国など遠方から材料となる花崗岩を輸入することになり、
約800万個ものレンガは要塞の建設現場にほど近い工場で制作されました。

しかし、工事の終了と同時に、フォート・ポイントは改修作業が必要になります。
その理由は、南北戦争の東海岸での戦いにおいて、 石造要塞は
新型の施条砲での攻撃を防ぎきれないことが証明されてしまったのです。

1870年代以降には、南東部の急崖に位置するバッテリー・イースト防塁が、
要塞の岬先端部での防御力増強を担いました。

当時ここに勤務していた兵士の軍服と国旗、カリフォルニアの旗がなぜか。

今は絶滅してしまったアメリカングリズリーがあしらわれた
カリフォルニア州旗は、南北戦争の頃にはまだなく、
制定されたのは熊が絶滅した頃とされる1911年のことです。

兵士たちが私物を入れていたチェストには、制服やノート、歯ブラシなどが納めてあります。

「兵士の給料」とあるのは、南北戦争の1861年頃、
兵士がどういう手当をもらっていたかが示されています。

戦争前には例えば月13ドルの給料が戦時中は16ドルまで上がり、
戦争が終わるとまた13ドルに戻されたりしたそうです。
例えばある兵士の実際の天引きの内訳は、

洗濯代 1ドル

食費 3ドル

タバコファンド1ドル

弾丸紛失  50セント

装備紛失 50セント

軍法廷罰金 12セント

家族控除 12セント

装備紛失 2ドル56セント

床屋 50セント 洋服屋 50セント 

などなど。
軍法廷の罰金が12セントって、何をやったんだこの人は・・・。

肩にモールがついたなかなか立派な制服ですが、士官ではなく
下士官ではないかと思われます。

生活の場でもあったフォート・ポイントでの憩いのひととき。
膝にボードを置いてチェスに興じています。

弾薬庫を出ると、螺旋式の階段で上に上るようになっています。
弾薬庫は階段の近くに作られ、宿舎である二階と三階からすぐに
駆けつけられるようになっていました。

ご覧になればお分かりかと思いますが、この階段ものすごく怖いです。

手すりはありませんし、段が護衛艦の中並みに小さいので、
降りるときにはそろそろと壁伝いに歩きました。

 

砲郭の内部、ここから砲口を突き出します。
要塞として使われていた頃には、砲口口は蝶番のある扉を開け閉めしましたが、
その後レンガとセメントで塞がれていたようです。

真ん中に穴が空いているのは経年劣化で剥落してしまったのでしょう。

そこからカメラを持った手を突き出して外部を撮影してみました。
なんと、びっくり!外側は自然の岩に囲まれています。
もしかしたら、砲口を出すために岩を削ったのかもしれません。

海上の船舶からもし要塞を武器で狙ったとしても、自然の岩が
シールドとなるように作られたということでしょうか。

今ではゴールデンゲートブリッジの橋脚がその前に立ちふさがっています。

この砂浜にはよほど物好きでもない限りやってくる人はいないだろう、
と思ったのですが、手前の砂浜には足跡がありますね。

カモメのいい休憩場所らしく、雛がいます。

二階に上がり、回廊をもう一度砲郭の並んだ方向に歩いて行くと、
火薬庫やその上の士官居室の窓が並んでいます。

この棟だけに居住区があり、二階は士官、三階が下士官兵の居住区となっていました。

 

さらに進んで行くと、建物の角部分にこのようなものが・・・。
なんの説明もありませんでしたが、これは明らかにトイレの跡。
トイレの遺跡です。

個室はもちろん、全く部屋として仕切られてもいないわけですが、
二階にあるということはこれでも士官用だったのでしょう。

外部の一般人が決して入ってこない上、サンフランシスコは
年じゅう寒いといっても雪が降ったり凍えることはないので、
こんなトイレでも大丈夫だったようです。


続く。


「ホット・ショット」〜フォートポイント・サンフランシスコ

2017-12-05 | アメリカ

 

ゴールデンゲートブリッジのあるサンフランシスコの最西北端は、
真珠湾攻撃後、ここに多くの砲台が設置され、
まるでハリネズミのように太平洋から向かって来る外敵を排除する
防衛の要所であったことをお話ししたことがあります。

元々は南北戦争の時に陸軍が沿岸防衛のために要塞を作った場所で、
今でもその史跡が「フォート・ポイント」として公開されています。

いつもサンフランシスコに来たら一度は散歩するクリッシーフィールド。
昔陸軍の飛行場があったフィールドにはまだ格納(手前)も残されています。

うっすらと向こうにアルカトラズ島が煙っています。

この日もクリッシーフィールドからフォートポイントまで歩き、
往復しようと歩き出しました。

ダウンベストにマフラーのスタイルですが、8月の映像です。
気温の低く風の強いここでは夏でも防寒着が必須。

「プリンセス・ダイアリー」という映画では、ハイスクールのパーティが
ここで行われたという設定でしたが、あれを見て

「あそこで、しかも夕方、こんなピラピラのドレス無理だって」

とここの気候を知っている人なら皆思ったでしょう。

今日は全体的に快晴で、ブリッジだけが霧で隠れています。

午後には晴れることが多いですが、午前中はだいたいこんな感じです。

Caspian Tern、オニアジサシという水鳥がいました。

日本でも旅鳥として飛来することがあるそうですが、
大抵単独でやって来るのだそうです。

ダイサギもご飯を探し中。

ペリカンが何か捕まえた!と思って写真を撮ったら海藻でした。
ミネラル補給のために海藻も食べるんでしょうかね。

観光地なので自転車を借りて走る人もあり。
彼らはゴールデンゲートブリッジをバックに家族で記念自撮り中です。
子供がつまらなさそう(笑)

犬の散歩のメッカ?でもあります。
フィールドの小道沿いには始末用のプラスチックバッグ供給スタンドがあり、
バッグに入れればトラッシュボックスに捨てても構いません。
ゴミは1日一度、必ず自治体の清掃車が集めに来ます。

いつも思うんですが、日本の自治体って、住民一人一人の道徳心に
甘えすぎというか、頼りすぎって気がします。
犬を飼ったことがないのでわかりませんが、散歩に出て
いちいち袋を家まで持って帰るというのは、いかに愛犬のものといえど
結構煩わしいものではないかと思うんですよね。

ちなみに、この近くには陸軍がいた時代からのペット墓地があります。

サンフランシスコ・ペット・セメタリー

古い墓石には「大佐」「少佐」など、必ず階級が書かれていて、
ペット所有者が軍人であることを表しているのだそうです。

おなじみ、犬の散歩業者。
契約した家の犬をピックアップしてまわり、散歩させる専門業です。

いろんな意味でアメリカにしか存在しなさそうな職業ですね。

霧が少し晴れて、ブリッジの頭が見えてきました。

こんな日は行き交う船の汽笛が数分おきに鳴り響きます。

鵞鳥が綺麗なV字を描いて飛んでいきます。

いつもこのポジションはどのように決まるのだろうと不思議です。
先頭を飛ぶ鵞鳥は明らかにリーダーだと思うんですけどね。

フォートポイントが見えてきました。
元々ここは海面5mまで切り崩されていたため、花崗岩を巧みに組み合わせ、
その隙間を鉛で塞ぐという工法で護岸壁が構築されました。

以来ここで100年以上荒波を防ぎ驚異的な強度を誇ってきましたが、
1980年代に再建築するとともに、強大な波の力を弱めるために防波堤を設置しました。

さて、写真を撮りながらクリッシーフィールドを突き当たると、そこはフォートポイント。
もちろんブリッジができる前に建造されたレンガの要塞です。

大抵は閉鎖されているのですが、この日は珍しく公開されていました。

入ってみることにします。
ちなみに要塞の入り口はここだけです。
「出入り口」と呼ばず「出撃路」と呼んでいたのが要塞ならではですね。

「太平洋沿岸全域へのキーポイント」

と言われたこの場所には難攻不落の要塞が必要とされました。

入り口上部のアーチ部分のレンガの積み方は、海軍兵学校のレンガの生徒館、
元呉鎮守府の庁舎と全く同じ方法です。
兵学校の生徒館は1888年、こちらは1861年と、20年の開きはありますが、
ほぼほぼ同時代の建築ということでレンガの積み方には共通点も多いのです。

一つしかない入り口から入り、ゲートを抜けるとそこは建物に囲まれた広場です。
全体は三階建ての回廊式で、堅牢に城壁が周りを囲んでいます。

ちなみにこの博物館、見学は無料。
ゲートが開いていれば入ってくることができますが、こういうところの常として
常に寄付を募っていますので、入ったところにある寄付金箱に
いくらか寸志をいれてから見学した方が良いかもしれません。

この写真に見えている一つ一つのドームが砲郭になっています。

一つの砲郭につき一基ずつ大砲を備え、窓から砲口を外に向けます。
こちらの鉄製は台座のみ。

これを見る限り、砲口を出せば窓がふさがりますが、どこから敵を見て
目標を定めたのか不思議といえば不思議です。

こちらは南北戦争時の木製台座と上に乗っているのは「コロンビヤード」砲。

重い砲弾を高角・低伸いずれの軌道にも投射する能力をもち、かつ
大口径・前装式、長い射程を誇る滑空砲で、沿岸用警備兵器に重宝されました。

1811年、アメリカ陸軍のジョージ・ボンフォード大佐が開発し、米英戦争から
20世紀の初頭まで使用されていたものです。

地面のピヴォットのレールを見ればわかる通り、稼働角度は180度未満ですが、
中には360度回転させることのできる砲台もあることはあったようです。

砲台は重量が重く、いちど据え付けられたものは移動せずにそのまま使用しました。

こちらは火器士官であったトーマス・ジェファーソン・ロッドマン
「コロンビヤード」砲を改良開発した進化形、「ロッドマン砲」

圧力により砲弾を打ち出すことによりより爆発が強力な方式を開発しました。

ミニチュアの可愛らしい砲ですが、もしかしたらこれも本物?

南北戦争の写真や映画で見覚えのある大砲といえばこれでしょう。
「12インチナポレオン砲」というそうです。

敏速に馬で移動させることができるように、大砲に大きな車輪をつけ、
さらに実弾、榴弾、キャニスター弾など多目的に撃つことができ、
革命的な野戦兵器と言われた傑作です。

砲郭に展示されていた説明板。

「ゴールデンゲートの防衛」というタイトルですが、内容は
当時の砲兵がいかに大変な任務であったか、ということにつきます。

それによると・・・・、

一つの砲を担当する砲員5人は、連日、朝から晩まで
通称「42パウンダー」の装填と発射の厳しい訓練を行いました。
堅牢なレンガの壁は耳をつんざくような爆発音を始終反響させ、
発砲されるたびにあたりを鉄粉が充し、視界がなくなるほどだったと言います。

また、暴発や砲身がノッキングすることによって怪我する可能性など、
彼らの訓練には命の危険がつきものでした。

幸いだったのは、ここで実際に戦闘が行われるような状況にはならず、
厳しい訓練が結論として実戦に役立つ日が来なかったことでしょう。

当時の大砲による艦船攻撃の方法を書いた図がありました。
なんと驚くことに、砲弾を直接船に当てるのではなかったようです。

穏やかで波のない海面にはね飛ぶことによって、砲弾は威力を失わず
確実に大きな船舶の船腹に命中させることができたはず、だそうです。

本当にこうなるのかは、実戦に至らなかったので永遠の謎ですが。

砲身に弾を込める装填棒が立てかけてありました。

要塞には当初141門の大砲が装備されることになっていましたが、
1861年10月の時点で、24ポンド、32ポンド、42ポンド砲および
10インチと8インチのコロンビアード砲、合わせて69門の火器が
要塞内および周辺に設置されていました。

南北戦争後、軍はロッドマンが開発した強力な

「10インチ ロッドマン式 コロンビアード砲」

を要塞底部の砲郭に導入しました。
これらの大砲は、128ポンドの砲弾を使用し、2マイル以上の射程を誇りました。

かくも重武装されていたこの要塞ですが、さらに強力な兵器、
「ホットショット」なるものを使用することが可能でした。

そういえばチャーリーシーンの映画にそういうのがあったわね、
と思い出したりしたわけですが、最近観た映画の中でも、

「イケてる人」

という意味合いで" You're hot shot. "と使われていましたっけ。

武器としての「ホットショット」とは専用の砲弾用加熱炉です。
鋼鉄製の 砲弾を真っ赤になるまで加熱し、 大砲に装填・発射すると
木製の敵艦 を燃え上がらせることが可能でした。

加熱した砲弾のことも「ホットショット」と称したようで、転じて

急行貨物列車  、有能な[ぶる]人 、やり手、偉い[ぶる]人

(スポーツの)名人 
例:He's a hotshot at archery. 彼は弓術[アーチェリー]の名手だ

有能な[ぶる]、やり手の、得意がる、気取った

という意味で現在は使われています。

 

赤くなるまで熱した砲弾をどうやって装填したんでしょうか。

とにかく、サンフランシスコ防衛の要として、どんな敵をも撃退するため、
厳しい訓練を通じてそんな兵器も扱えるようにしていたということです。

去年車で走っていて偶然発見した、ブリッジを渡った向こう岸、
サウサリート側の
「ライムポイント」、そしてこの「フォートポイント」が、
サンフランシスコ湾内に敵を入れないための最初でかつ最重要な砦であることが、
この図を見てもお分かりになると思います。

それは敵が「北軍」の時代から「日本軍」と変わっても全く同じでした。

横から見た架台とコロンビヤード砲。

次回は建物内部の展示と兵士たちの生活についてお話しします。

 

続く。

 

 

 

 


婦人自衛官と和文タイプライター〜タイプライター博物館

2017-10-25 | アメリカ

 

今年のアメリカ滞在中には、国内移動を二回行いました。
まずボストンからサンフランシスコ、東海岸から西への移動です。

上空から見ると、街の様子が都市によって全く違います。
広大な土地を持つ土地を持つアメリカならではで、その点日本はどこに行っても
上から見ても下から見ても良くも悪くも同じ景色ばかりです。

まあ、日本全体がカリフォルニア州にすっぽり入るわけですから
それも当然かもしれませんが。

というわけでこれはボストンの西部、わたしがいつも滞在している地域ですが、
一軒家と緑が連なっていると上からこう見えます。

ちなみにこれは離陸直後にトイカメラモードで撮った写真です。

これはサンフランシスコからロスに向かう飛行機に乗った時。
窓から外を見ていたら、荷物の積み込みが窓の下で始まりました。
飛行機が小さいのでこんなシーンも間近に見ることができます。

「あ、うちの荷物積み込んでる!」

ちゃんと機械でプライオリティタグのチェックをしている模様。
カウンターで預けた自分の荷物が積み込まれているのを初めて見ました。

アメリカの荷物の扱いは荒っぽいものと思い込んでいましたが、
この時見ていた限りでは大変丁寧でした。

一つ一つ番号をスキャンしてチェックしていました。

ロスアンジェルス空港に降りるために高度を下げています。
さすがはロス、全体的に緑が少なく殺伐とした感じです。

そこでもう一度ボストン空港上空。

左側に空港ホテルのヒルトンが見えています。
やっぱりわたしはボストンが好きです。

サンフランシスコ空港で「タイプライター展」をやっていました。
移動のための広大なスペースを利用して、空港ではよくこのような

ニッチなジャンルのミニ・ミュージアムが企画されており、以前にも
ここで日本の民芸品展覧会を目撃しご紹介したことがあります。

これはアメリカのタイプライター会社が会社の資料を空港で展示していたようです。

「ザ・シカゴ」とあるのが1905年製、赤いのが1927年製。
一番左はもっとも古く、1875年の製品です。

世界で初めて特許をとったタイプライターは1800年初頭には世に出ていたそうです。

こちらは1890年の製品。

タイプライターは誰か一人が発明したというものではなく、原型から
様々な人が改良を重ねて形にして行ったものなのですが、とりあえず

「タイプライター」

という名称を最初につけたのはアメリカ人で、1873年に、ミシン会社だった
E・レミントン・アンド・サンズ社が作った機械、

ショールズ・アンド・グリデン・タイプライター

という商品名にその名称が組み込まれました。

これらも全て1890年製。

この頃にはイタリアのオリベッティ社もタイプライター生産を行なっていました。

資料を置くのかタイピングする紙を置くのかわかりませんが、
その部分がとても装飾的に作られたタイプライター。

1989年に発売された、最初のダブルキーボード(上が大文字)だそうです。

わたしがこの展示に立ち止まり、写真を撮ったのはこれがあったからでした。
なんと、日本で発売された日本語タイプライターです。

とても古いように見えますが、戦後の1951年製。
マツダタイプライターという商品名だそうです。
販売元は

Tokyo Shibaura Kabusshiki kaisya (TOSHIBA)

とあります。
電気製品でもないのに、東芝が生産していたんですね。

日本語のタイプライターなので、漢字が含まれることになり、
ご覧のように膨大なキーが必要となるので、習熟も難しく、
プロのタイピストが使うくらいで一般には普及しませんでした。

和文タイプライターは1915年に日本では杉本京太によって発明されました。

邦文タイプライターのマニュアルは本一冊文だったようです。

タイプの活字は漢字を含み、ひらかな、カタカナで最低でも1000、
小型汎用機種でも大抵は2000を越える漢字を含む活字の中から、
適切な文字を探して一文字ずつ打ち込んで行くため、かなりの技能が必要で、
英文ライターのようにブラインドで打ち込んでいくことなどまず不可能でした。

このロール式のタイプが日本で使用されている様子。

世にワードプロセッサーというものが登場するまで、和文タイプライターは
日本の官公庁における書類の作成や印刷業界の版下制作を支えていました。

特に書類作成では、学校などの公共機関、企業が内外の関係者に配布する書類、
そして連絡文章の作成に威力を発揮し、1970年代まで手書きによる謄写版と並行して、
普通に活用されていたのです。

もちろん自衛隊でも使われていたそうですが、和文タイプライターの活字配列は、
検定に使用する場合も含め、一般的に五十音順なのに、どういうわけか
自衛隊ではいろは順の並びの機種を採用していたのだそうです。

当時の婦人自衛官には和文タイピストという職務があったということになりますが、
自衛隊が「いろは順タイプ」を採用していたため、入隊して隊内の検定で得た
タイピストの資格が、退職後全く役に立たないという弊害が生まれたそうです。

一般の和文タイプの検定試験は商工会議所など、いくつかの団体が行なっていました。

日本語でこうなんだから中国語はどうなる?って話ですが、
例えばこの「shuangge」製のタイプライターのキイは
2450個あるということです。

配列を覚えるだけで何年もかかりそう。

しかし毛沢東先生のために大躍進しながらタイプする中国人(適当)。

有名人が実際に使用していたタイプライターが展示されていました。

インペリアルのタイプライターはジョン・レノンの所有していたもので、
彼がというより、彼が住んでいた叔母のミミのうちにあったものです。
ポール・マッカートニー

「ジョンのうちに行くと彼はタイプの前に座っていたけど、
リバプールにはタイプライターがあるうちなんてなかったし、
友達のうち誰もそもそもタイプライターが何かさえ知らなかったよ。
誰もそんなもの持ってなかったからね」

と言っています。

レイ・ブラッドベリとその愛用のタイプライター。

『R is for Rocket 』ウは宇宙船のウ、『The Octorer Country 』
十月はたそがれの国、また『Fahrenhei451』華氏451などの小説を
読んだことがなくとも、彼が何作かを手がけた「トワイライトゾーン」
を観たことがあるという人もいるかもしれません。

初期の作品、「華氏451」は、図書館にあるコイン式の
タイプライターで執筆されたということがわかっているそうです。

テネシー・ウィリアムス

「焼けたトタン屋根の上の猫」「欲望という名の電車」「ガラスの動物園」
などを遺した偉大な劇作家です。

彼は執筆するときいつもタイプを打ちながらセリフを大声で朗読するのが常でした。

アーネスト・ヘミングウェイと「ローヤル」というメーカーのタイプライター。

オーソン・ウェルズのタイプライター。

ケースには名前と住居にしていたと思われるパリのホテル、
オテル・ドゥ・ラ・トレモワイユの名前が刻まれています。

手直ししまくった原稿らしきものの実物も見ることができました。
下半分ほとんどボツになってますね(´・ω・`)

うちにもオリベッティのタイプライターがあった記憶がありますが、
おもちゃにするだけでちゃんと使うことなくいつのまにかなくなっていました。

もちろん和文タイプライターなどというものがあったのも、そしてそれが
当時文書製作の主流となっていたことも初めて知ったわけですが、
一番気になったのは、

なぜ自衛隊だけが普及型ではないいろは順のタイプを導入したのか、
そこに何があったのか

ということです。

今更ですし、そもそも何があったとしてももうとっくに時効なんですがね。


ちなみに冒頭画像はいろは順のタイプライターの文字列です。
ちょっと見ただけでもう無理ゲーな漢字、いや感じ(笑)



シーボードを買いに〜 カリフォルニア雑景

2017-10-24 | アメリカ

今年の夏のアメリカ滞在で、サンフランシスコとロスアンジェルスを往復しました。
その時の写真をサンディエゴとシリコンバレー滞在時のも含め淡々と貼って行きます。

まず冒頭写真はシリコンバレーのマウンテンビューにあったファストフード、
「ウィングストップ」というお店の内装です。

単なるチキン専門店なのですが、なぜかコンセプトが航空。
壁一面にボマー(B-17?)の写真があるかと思えば、

テーブルはこの通り。

「彼らを飛ばせよ!」

というポスターに描かれているのはBー24リベレイターですかね。

壁にはいたるところに航空関連の額。
こちらダグラスDC3の設計図。

コクピットの陸軍パイロット。

なぜチキン屋さんがここまで?という謎なのですが、メインの商品が

「チキン・ウィング」→「ウィング」→「飛行機」→\(^o^)/

らしく、チキンが飛べないことはこの際無視している模様。

サンディエゴ空港の通路になぜか折り紙モチーフ。
サンディエゴの日本人会というのは大変しっかりした組織だそうですが、
関係あるのでしょうか。

紙飛行機と折り鶴があしらってあります。
これを普通に外国人は「オリガミ」と呼びます。

サンディエゴ空港ならでは?
見るからに初々しい感じの海軍軍人がグループで飛行機を待っていました。

同じ飛行機だったと見えて、その中で一番階級が上の人(中佐)が比較的前に座り、
若い人たちは全員遥か後ろの方に・・・。

ところで、中佐の前に座っている人たちのガタイが皆異様にでかいのですが、
彼らはこの日サンディエゴで試合を済ませたジャイアンツの選手団です。

わたしたちは試合があったこともその結果も知らなかったのですが、
機内で機長がわざわざジャイアンツのメンバーが乗っていること、
ついでに試合は今日は負けた、とアナウンスしていました(´・ω・`)

いやそこはわざわざ触れてやるなよ。

小型飛行機のタラップはキャリーも使えるこんなタイプ。
あくまでもバリアフリーです。

ジャイアンツの皆さん、気のせいかあまり元気がありません。
まあ、プロですからいちいち一喜一憂しないんでしょうが。

さて、そのロスアンジェルス空港に到着後、車でホテルまで移動中、
前を走っていた楽譜付バス。

なぜ「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」?

予約したホテルを探してうろうろしていたら、なんとすぐ近くに
ノースロップ・グラマンを発見。

本社はバージニア州らしいので、ここは工場だと思われ。

航空機会社なので管制塔があるんでしょうか。

ちょっと迷ってホテルに到着。

キッチン付なのでいつも選ぶマリオットのレジデンスインです。

マリオットだけでなく、ここには3つもホテルが並んでいました。
その理由は、おそらくこの巨大な送電線。

空港ホテルにするくらいしか土地の使いようがないのでしょう。

アメリカではどんなところにあるホテルでも必ずと言っていいほどプールがあり、
夏場は必ず人が泳いでいます。
このプールも朝から晩まで大盛況でした。

ここからビバリーヒルズ。
ビバリーヒルズにもホームレス(しかも女性)はいます。

ジャパニーズレストラン「ボス・スシ」。
この名前は絶対日本人の経営ではない、に太巻き一本。

アメリカでも犬がいなくなるということがあるんですね。
なんだろう・・・散歩中に逃げたとか?

 


 

この日の外出の目的は、この楽器屋さんにキーボード「Seaboard」を買いに来ること。
カード会社に探してもらったら、西海岸ではこの店にしか現物がなかったのです。

 

 

アメリカの楽器屋というのはいつもそのスケールに驚かされます。
ギターコーナーだけでこの有様。
ミュージシャンには天国みたいなところでしょう。

 

ロス中のミュージシャンが、ジャンルを問わずここにやって来るに違いありません。

 

 

早速「Seaboard」を見つけて触ってみる息子。
息子はピアノは弾けませんが、作曲のためにこれが欲しいそうです。

 

Seaboardは映画「ララランド」で主人公が弾いていたので有名になりましたが、
そういえば「LA LA Land」って、ここロスアンジェルスのこと・・・。

 

 

お店のお姉さんがとても親切でかつ知識豊富なプロでした。
というわけでSeaboardを手に入れてにっこり、の息子。

ところでなんでシーボードという名前なのか。
息子に聞いてみると

「音がフローするから?・・シラネ」

だそうです。

 

 

後ろに飾っているウクレレに北斎柄が!
しかしこの違和感の無さは一体・・・?

ウクレレ→ハワイ→日系→北斎

と自然につながっていく気がする。

 

 

そのあと近くで食事をしましたが、横にこんな看板がありました。

 

「マシュマロって何?」

 

「有名なDJだよ。いつもマスクを被ってて正体がわからないの」

 

Adele - HeLLo (marshmello Remix) 

 

このリミックスは悪くないと思うのですが、息子は「嫌い」だそうです(笑)

たった今、なんで嫌いなのかもう一度聞いて見たら

「何聞いても同じだから」

うーん、それをオリジナリティって言わないかな。

「オリジナリティじゃなくて単なるワンパターンなんだよ」

なるほどね。それならわかる気がする。


 

おまけ*

ロスアンジェルス空港近くを走っていて見かけた大きなドーナッツ、
「ランディズ・ドーナッツ」の看板。
息子が

「スパイダーマンが映画で飛び乗ったところだ」

というのですが、本当でしょうか。
写真を撮る場所を考えれば、飛行機がドーナッツの輪を
潜っているところも撮れるかもしれません。

 

 

 

 

 

 



V.J-DAYの勝利のキス@タイムズスクエア〜空母「ミッドウェイ」博物館

2017-10-20 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」博物館のハンガーデッキは、皆が最初に足を踏み入れるところなので、
案内所があったり、ショップがあったり、いろんな情報が掲示されています。

ボランティア募集の看板。

「メイク・ザ・ミッドウェイ・マジック

とありますが、ミッドウェイマジックとは彼女のあだ名?です。

艦内にはウィングを利用したカフェがあり、スターバックスが参入しています。

売店では「チョコレートアーモ」という商品名の弾薬型チョコを売っていました。
陸自の知人にお土産にしようと買って帰ったのですが、嫌な予感がして食べてみると、
チョコレートが壮絶にまずかったので、あげなくてよかったと胸をなでおろしました。

 
さて、冒頭写真です。

空母「ミッドウェイ」が展示されている岸壁の向こうには、隣の岸壁にある
「ツナ・ハーバーパーク」に立つ巨大な「勝利のキス」像があり、
「ミッドウェイ」の甲板からよく見えます。

このモニュメントは言わずと知れた、アルフレッド・アイゼンスタットの写真、

V-J Day in Times Square

を表したもので、現地では

”Embracing Peace" Statue

と呼ばれています。

割と最近だった記憶がありますが、このキスされている女性、
イーディス・シェインさんが91歳で亡くなったというニュースが流れたとき、
あのキスは恋人同士のものではなく、通りすがり同士だったということを知り
ちょっと驚いたのはわたしだけではなかったのではないでしょうか。

日本との戦争が終わり、喜びに沸くタイムズスクエアに友人と共に向かった彼女は
地下鉄を出たところで、いきなり見知らぬ水兵に抱きしめられ、キスされます。

この水兵は、グレン・マクダフィであるという説が現在最も有力です。

ガールフレンドに会うためにタイムズスクエアにきていた彼は、
戦争終結の報に接し、捕虜になっている兄弟が解放されることに喜び興奮し、
近くにいる看護師を
抱き寄せてあの歴史に残るキスをしたといわれます。

その時に、それもたまたま近くにいて民衆の様子を撮っていた写真家が、
すかさず二人を撮りだしました。

その写真が有名なアルフレッド・アイゼンシュタットのものです。

この二人を撮ったカメラマンはもう一人いて、違うアングルの写真が残されています。

ただし、同じ人物の同じキスの瞬間でありながら、撮る場所の違いで、
ヴィクター・ヨルゲンセン(海軍写真班)のこの写真は、残念ながら
ドラマチックさや構図においてアイゼンシュタットのに見劣りします。

この二人の写真を比べてみると、いかに写真は撮る場所と構図であるかがわかり、
自衛隊イベントで場所取りに躍起になって我を忘れる
大人気ないおじさんの気持ちが
理解できるような気がしますね。

共感はしませんが。

ここで注目すべきはアイゼンシュタットがプロのフォトジャーナリストであり、
ヨルゲンセンは、プロといっても海軍所属カメラマンであったことです。

この写真の違いは、偶然ではなく、実はプロとセミプロの違いであった、
とわたしは思わずにいられないのですが、いかがでしょうか。

ちなみに、この写真で後ろにいる驚いた顔のおばちゃんも特定されていて、
ユタ州のケイ・ヒュージス・ドリウスさんというそうです。

 

さて、この時のアイゼンシュタットの追想は次のようなものです。

「V-Jデイにタイムズスクエアで、わたしは一人の水兵が通りに沿って走ってきて
片っ端から女性という女性を抱き寄せてキスしている光景を目にした。
お婆さん、太ったの、痩せてるの、若かろうが年食ってようがおかまいなし。
わたしはチャンスとばかりライカを持ったまま走って彼に近づき、振り返って
後ろを見回したんだが、
他にはわたしを喜ばせるような絵になる被写体がいなくてね」

失礼なやつだな(笑)

「その時だ。突然わたしの視界に飛び込んできた白い塊が彼に捕まえられた。
わたしは振り向くと同時に水兵と看護師にシャッターを切った。
もし彼女がダークな色のドレスを着ていたら、わたしはシャッターを押さなかったよ。
逆に、もし水兵が白いユニフォームを着ていても同じだ。撮らなかったと思う」

ほうほう、ネイビー×ホワイトの二人であるから撮ったのだと。
白×白、ダーク×ダークでは絵にならないから撮らなかったというわけね。

面白いことに、別の媒体ではアイゼンシュタット氏、こういっています。

「VJ-デイの日、わたしは撮るものを探しながら群衆の中を歩いていた。
水兵がこちらに歩いてくるのをみた。
彼は手当たり次第に老若構わず女性をひっつかんでみんなにキスしていた。

その時わたしは群衆の中に看護師が立っているのに気がついた。
わたしは彼女に意識をフォーカスしながら、水兵が彼女に近づいて、
体を曲げてキスすることを期待した。

今にして思えば、もし彼女が看護師でなければ、さらにダークな色の服を着ていたら、
わたしは写真を撮っていなかったかもしれない。

彼女の白いユニフォームと水兵のダークな軍服の色のコントラストが、
写真に特別なインパクトを与えたのだ」

気がついた時には白いものが目に入ったのでシャッターを切った、というのと
看護師に気がついて水兵がキスすることを期待していた、というのでは
全く状況が違いますが、どちらも本人の記憶によるものです。

あまりにも有名な写真の作者として、いろんなところで何回も喋っているうちに、
当人の記憶でありながら、微妙に書き換えがおこなわれてきたのかもしれません。

 

さて、この時、水兵のグレン・マクダフィは、自分たちが撮られていることを察知して、
カメラマンが何枚もシャッターを切るまでずっとキスを続け、
方やイーディスの方は、キスされながら

「彼ら(水兵)は自分たちのために戦ってくれたのだから
(好きなだけ)キスさせてあげよう」

と思っていた、と述べているそうです。

アイゼンシュタットの写真の背景には、イーディスが一緒に来たという
看護師の同僚の姿が写っていますし、水兵の姿も多数見えます。

 

ところで、こういう話にはありがちなことなのかもしれませんが、
彼らの素性が明らかになる過程がなかなか面白かったので、書いておきます。


ながらく特定されずにきたこの二人の素性がわかるきっかけになったのは、
イーディス本人が写真家にあの看護師は自分であると連絡したことからです。

見知らぬ水兵にキスされたとき、花も恥じらう乙女であった彼女は、
(自分がタイムズの紙面を飾ったのを見てびっくりしたものの)
それが自分であることを
長らく口外しなかったのですが、70年代後半、
「若い日の思い出」としてそれを人に何気なく話をしたところ、相手に
写真をもらっておけば?といわれ、ついその気になったのでした。

アイゼンシュタット氏は彼女を見るなり、まずその脚を見て

「あの時の看護師だ!」

と叫んだのだそうですが、その連絡を氏から受けたタイムズ紙は、
彼女が本物であるかどうかを確かめるために、紙面で情報提供を呼びかけました。

ところが驚いたことに、それに対して、なんと

11人の男性と3人の女性が

わたしがあの当事者である、と名乗りを上げたというのです。

ジョン・エドモンソン、ウォレス・ファウラー、クラレンス・ハーディング、
ウォーカー・アーヴィング、ジェームズ・カーニー、マービン・キングズバーグ、
アーサー・リークス、ジョージ・メンドーサ、ジャック・ラッセル、ビル・スウィースグッド。

マクダフィ以外の10名、彼らは全員が元水兵で、全員が自分があの写真の人物だ、
と名乗り出たと言いますからちょっとしたホラーです。

写真でもわかるように、水兵はタイムズスクエアにたくさんいたわけですし、
看護師とキスした覚えのある人も本当に何人かはいたのかもしれません。

そうでない人は一体何を目的に?と少し暗澹たる気持ちになってしまいますが、
あの水兵であるということになれば、老後はイージーモード、
注目を集め有名人となり、下手したら財産を残せるかも、と
虫のいいことを考え、何十年も前の出来事で裏が取りにくいのをいいことに、
ちゃっかり名乗りを上げた不届きな男もいたのかも・・・・・

とここは控えめに勘ぐっておきます。

 

というわけで、「自称水兵イレブン」からの特定は困難を極め、
写真の男の
正体は、長らくわからないままでした。

 

その後2005年になって、11人のうち一人、ジョージ・メンドーサが、
海軍の写真解析によって、キスする水兵といったん認定されました。

当時メンドーサは駆逐艦「サリバン」勤務の水兵でした。
休暇で一緒に映画を見ていたフィアンセと外に出た時、終戦の知らせを聞きました。
そのあと戦勝を祝う人波を歩いていた彼は、

「酔っ払っていたので通りがかりの看護婦にキスした。
写真の後ろには許嫁のリタも写っている」

と主張したのです。
そうだとすれば、もしかしたらこれが原因で彼女が機嫌を悪くし、
それを記憶していたため、彼は水兵は自分だと確信したのではないでしょうか。

しかし、フィアンセがいるのに他の女性にキスするかねえ。

ところが、この説には科学的な見地から物言いがつきました。
テキサス州立大学の学者の説で、(学者がこんなことを真面目に検証)

「メンドーサの説明によると、キスをしたのは午後2時ごろだったが、
写真の影の位置は、午後5時以降に撮影されたものである。

ヨルゲンセンの写真に写っている時計(どこにあるかわかりませんでしたが)
は分針が10時近く、時針がほぼ垂直に下向きに向いており、約5:50を指している。

∴ 水兵はメンドーサではない


名乗りを上げたべつの一人、カール・マスカレッロさんの

「俺が自分をあの水兵であると思う理由」は?

「あの時たくさんの女性とキスした覚えがあり、水兵には自分と同じ手に傷がある。
母親も写真を見て自分だといっている。
ただ、酔っ払っていてその時の正確な記憶はない」

うーん・・・メンドーサさんもそうですが、酔ってて記憶がないので、
自分じゃないかと思うってことですか・・・。

さて、それから時は過ぎ、2007年になって、グレン・マクダフィは

「自分があのキスの水兵である」

ということを訴える裁判を起こします。
おそらくですが、こうすれば科学的に検査をしてもらえると思ったのでしょう。
そしてそれだけ自分だということに自信があったのではないかと思われます。

法医学的分析によって水兵の写真ととマクダーフィの現在の写真とが比較され、
そしてマクダーフィはポリグラフ検査を5回受けて全てパスしました。

(はっきりいって数十年後で自分が堅くそう思い込んでいる場合、
ポリグラフの結果というのはまっったくあてにならないと思いますが)

彼の場合、当初の問題は年齢でした。
1928年生まれの彼は、あのキスの時まだ18歳だったことになり、
海軍では当時水兵への応募資格が18歳と決まっていたことから、
彼が駆逐艦に勤務していたという経歴は辻褄が合わないとされたのです。

これは本人が、15歳の時に18歳だと偽って入隊した、と説明したそうですが、
いくら何でも15歳が18歳だといって受け入れられるってのはおかしくないか?

まあ、海軍としても戦争中だったし来るものは拒まずウェルカム、ということで、
明らかに嘘を言っていると思っても見て見ないふりをしたのかもしれませんが。

本人は、

「普通にあの写真の水兵は自分だ、と言えますよ。あれは私です。
他の(名乗り出た)皆さんには、自分こそがあのポーズを再現することができる!
とお伝えしたいですね」

「あの日、わたしがキスをしようと彼女に近づいた時、
男が猛然と走ってこちらに来るのが見えました。

目の端で彼を見ながら、嫉妬深い彼女の夫か彼氏が殴りに来るのかな、
と思っていたんですが、次にキスしながらちらっと見たら、
彼はわたしたちの写真を熱心に撮っていました」

と述べています。

それにしても18歳で誰彼構わず女性にキスって、おませさんだったのか、
それともこの年代の若者にありがちなお調子ものだったのか・・・。


というわけで、女性も男性もめでたく特定できた

・・・・・・・と思いきや、ありがちな話ですが、未だに彼らにも疑義
(イーディスの身長は低く、グレンと抱き合った時にああはならないといった)
が未だ百出している状態で、必ずしも「最終決定」ではないそうです。

しかし、本人たち(水兵イレブンも含め)が死んでしまった以上、これ以上
真実に近づくことはもはやできなくなり、疑義は残るがここで打ち止め、
となっているというのが現状です。

キスのカップルと一応最終認定された彼らは、それぞれ91歳と86歳で亡くなるまで、
様々な媒体に露出し、
各種の追悼イベントやパレードに引っ張りだこの余生を送りました。

本人たちも、自分たちが”本物”だと認められたことで満足しながら、
あの世に旅立ったのではないでしょうか。


「ミッドウェイ」のスーベニアショップで見つけた「勝利のキス」
ポパイとオリーブバージョン。

そう言えばポパイって海軍の水兵さんだったんですよね。

最後に。

写真は、1995年8月23日、マーサスビンヤードに浮かべた船の上における
写真家アイゼンシュタット氏の姿です。

被写体と違って、彼がこの写真を撮ったのは動かしようのない事実なので、
彼はその後も「V.J-DAYのキス写真を取ったフォトグラファー」として生き、
事実一生それにまつわる仕事で過ごしたようです。

この時も、来客に所望されたのか、サイン会でもあったのか、
彼の人生そのものとなった作品にサインをしようとしているところです。

おそらくその人生で最後のサインを。

この8時間後、彼は終生愛したこの島のコテージのベッドで眠りにつき、
そのまま2度と目覚めませんでした。

96歳の穏やかな最後でした。

合掌。

 

ところで、最後に念のために説明しておきますと、「V.J-DAY」とは
「ヴィクトリー」「ジャパン」「デイ」で、つまり「対日戦争勝利の日」です。

 

 

 

 


「マサチューセッツ」艦内メモリアル・ルーム〜バトルシップ・コーブ

2017-09-15 | アメリカ

マサチューセッツのフォールリバーにあるバトルシップコーブ。
そのメイン展示は何と言っても戦艦「マサチューセッツ」です。

1日ではとても全てを見終わることができず、結局二日続けて通いました。

今日はもう一度「マサチューセッツ」艦内に戻ってお話しします。

「マサチューセッツ」シリーズの時にご紹介しそこなった、来客用のスナックスタンドです。
この日は平日のせいか営業していませんでした。

砲弾の上に跨った得体の知れない動物が「ジョージ」。
「チャウライン」とは、兵隊用語で「食事に並ぶ列」のことです。

ハンバーガーやホットドッグの類とはいえ、なかなか充実したメニューです。
スープにはボストン名物のコーンチャウダー、トマトビスクまである!

ここはメインデッキのある階ですが、「ジョージのチャウライン」を通り過ぎ、
一旦甲板に出てもう一度中に入ると、メモリアル・ルームが現れます。

「このドアの向こうは、第二次世界大戦で祖国を守るために亡くなった方々を
慰霊顕彰するためのメモリアルルームです」

「一万三千人以上の人々の御霊の名前が艦内の区画に刻まれています」

「入室の際には帽子を取り、室内では御霊に敬意を評して静粛にお過ごしください」

「飲食は禁止です。12歳以下のお子様は保護者と一緒にお入りください」

これを読んだわたしはその場でキャップを取り、室内に入りました。
ちなみにビデオを見るためにベンチに腰掛けた際、帽子を置き忘れたのですが、
次の日また来たら、置いたところにそのままありました。

入室するとまず、「メダルオブオナー」のガラスケースと旗の数々。

海軍・海兵隊・沿岸警備隊の栄誉賞はデザインが同じであるようです。
「エアフォース」とありますが、よく考えたらアメリカも日本と同じく、
第二次世界大戦が終わるまで「空軍」というものは存在しませんでした。

案外知られていないことですが、1947年まで「航空」は基本陸軍が受け持っていたのです。
日本の場合は陸海軍が別々に同じ規模の航空隊を持っていたため、
これでお互いの確執が深まったのではないかと思っていますがそれはともかく。

メダル・オブ・オナーの旗のすぐ近くの壁の白黒写真です。
いつ、どの船のものかはわかりませんが、第二次世界大戦中、
今から海に葬られる戦死者の遺体が納められたボディバッグが甲板に並びます。

そしてこの写真の横には・・・・・・。

パールハーバー生存者協会の作った慰霊碑が。
生存者協会は1958年の12月7日に結成されました。

「日本帝国海軍の手によってオアフ、ハワイで戦友を殺された者が集い」

「リメンバー・パールハーバー、キープ・アメリカ・アラート」

ちなみに、アメリカでは「戦死した」と記す時には、事務的に「KILLED」と書きます。
ですから、「Killed by I. J. N」は「帝国海軍に殺された」という読み方をせず、
「帝国海軍の攻撃によって戦死した」と書かれていると解釈すべきなのでしょう。

同じように撃墜・撃沈記録には「スコア」という単語を使いますが、これを
日本語の感覚でスポーツ感覚だ!などと怒ったりするのは愚かなことだと思います。


このプラークには、

攻撃は0845に始まり0945まで続いた
日本側の損失(航空機29、潜水艦1、潜航艇5、計64名)
アメリカ軍人と民間人の犠牲者数(2403名)

と書かれています。

そして最後には被害に遭った艦船の名前。

ジョン・フォードの映画「真珠湾攻撃」では、日本軍の攻撃は全く大したことなく、
どの艦船もすぐに修理できるようなプロパガンダがされていましたが、
実際は戦艦9隻の沈没ないしダメージ、巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、
180機を超える航空機の喪失と、被害は甚大でした。

そして、陸軍、海軍を始め民間人の全ての犠牲者の名前が。
名簿の一番最後には、陸軍の看護部隊にいた3名の女性看護師の名前があります。

 

同じ一角にあった「砂漠の嵐」「砂漠の盾」作戦のメモリアル。
ご存知湾岸戦争は多国籍軍の「砂漠の嵐」作戦開始をもって開始されました。

ランドルフ、リン、ヒンガム、ウェイマス、そしてここフォールリバー。
マサチューセッツの各地出身の9名の犠牲者の名前が記されています。

 

 

さて、ここからは朝鮮戦争のコーナーになります。

ゴールデンゲートブリッジの近くにあった朝鮮戦争メモリアムについて話した時、
朝鮮戦争の経過も簡単に説明したことがありますが、もう一度。

1945年、日本が降伏し、北半分をソ連が、南半分をアメリカが占領していたときの様子です。

ちなみに当然のことですが、日本海にはちゃんとシーオブジャパンと記されています。

朝鮮戦争のフェーズ1というのは、つまり北朝鮮が1950年6月25日に
北緯38度線で砲撃をいきなり始め、奇襲してきたときです。

ソウルは占領され、韓国軍は敗退して釜山に追い詰められました。

フェーズ2では、我らが?マッカーサーがバターン号で日本から駆けつけ、
東京を起点にそこから毎日専用機で戦場に通い、アメリカ軍を指揮。
9月15日から10月24日で戦線は大きく押し戻されることになります。

ちなみにこのとき最初に韓国軍の参謀総長になったのは(すぐ解任されましたが)
陸軍士官学校49期卒で砲兵科少佐であったチェ・ビンドク(蔡 秉徳)でした。

フェーズ3、11月25日になんと中国人民軍が参戦してきます。
人海戦術の前に国連軍もアメリカ軍も疲弊を強め、
戦線はまたも大きく南下することになりました。 

この後、戦線は少し北に押し戻し、現在の国境に落ち着き?ます。

おそらくアメリカが参戦してすぐ、国境線を北に押し戻した頃でしょう。

あなたは今38度線を超えています

米国陸軍第7騎兵連隊のご厚意により

ギャリーオーウェンというのは、第7連隊の公式ニックネームで、
アイルランドの同名の曲から取っています。

GarryOwen - Original Lyrics~7th Cavalry Regimental March

 

さて、先日「ミリタリー・ウーメン」と題して軍に関わった女性を取り上げましたが、
ここには朝鮮戦争と関わった女性についてのパネルがありました。

海軍看護部隊は朝鮮戦争のためにUSS「リポーズ」(病院船)で現地に向かい、
朝鮮半島沖で任務にあたりました。

前列の女性たちの足のクロスの仕方が時代を感じさせます。

「彼女らが手を差し伸べた幾多の命」

戦闘で傷ついた兵士たちに手を差し伸べているのはA.ドリスデール中尉。
彼女は第801医療空輸部隊の所属で、彼らを日本に運ぶ
C-54スカイマスターの機内で手当をしています。

「フライトナース」のイレーヌ・ウィレー大尉。
「スカイマスター」の機内で薬を用意しています。
飛行機は沖縄経由で台湾に向かっているところ。

コミュニスト(共産主義者)の包囲網が迫る中脱出する飛行機に
優先的に負傷した兵士を乗り込ませたジャニス・フェーギン中尉(左)
とリリアン・キンケイラ中尉の二人。

靴を脱いでかじかんだつま先をストーブで温めています。

陸軍の看護師(右)が負傷しハワイに搬送された弟のお見舞いに来ています。

海兵隊のエドウィン・ポラック将軍と会話する秘書のアナ・ロゼンバーグ。
彼女は朝鮮半島に赴いています。

朝鮮のテジョンにあった陸軍病院のナースたち。

前にもご紹介したことのある有名な写真ですが、人民解放軍参戦以降、
戦線が押し戻され、疲弊を強める1950年8月に撮られました。

戦友を失って他の兵士に抱きかかえられる海兵隊員の向こうで、
事務的に死んだ兵士の名前を記録する兵士がいます。

一生残る傷を負いながらも昂然と顔を上げて写真に収まる負傷兵。
彼は海兵隊員で、応急治療を経て病院に搬入されるところです。

USS「フィリピン・シー」空母艦上で戦死した二人の軍人の海軍葬が行われています。

第24歩兵隊のエドワード・ウィルソン一等兵。
前線で負傷し、病院に搬送されるのを待っている状態です。

チョーウォンでの戦いの後、傷ついた仲間を運ぶ第24大隊のメンバー。

朝鮮半島の戦地となった場所には、戦死したアメリカ兵の遺体が眠っています。
彼のつけていたヘルメット、ライフル、そしてベルト。

一時撤退後帰って来た時の目印です。

釜山にあるアメリカ人兵士の墓地、1951年。
二人の兵士が捧げ銃をする後ろで、朝鮮人の女の子が花輪を捧げています。

朝鮮戦争終結の条約は1953年7月27日に締結されました。
7月10日、条約締結の会議に向かう首脳部の車。

上写真はその時のメンバー。
下は人民解放軍と朝鮮人民軍からなる終戦締結の派遣団。

アメリカ代表のマーク・W・クラーク将軍が調印のサインを行なっています。

朝鮮戦争の終結を知らせるボストンヘラルド紙。

「 HALT」はドイツ語の「止まる」が語源で、「War halts」で「終戦」と表現しています。
「IKE」はアイゼンハワー将軍で、警戒を続けるために同盟を召集、とありますね。

戦争は終わりました。
となると次は捕虜を取り戻し生きて祖国に返すことが次の最大の目標です。

解放されたアメリカ軍の捕虜たちが、中国の志願護衛兵に守られて行進しています。

解放されたばかりで髭だらけの捕虜が、フライトナースとともに日本に向かうところ。
彼らが掲げている星条旗は、捕虜キャンプで手作りしたものだそうです。

朝鮮戦争で戦死したここフォールリバー出身者の名前を刻んでいます。

ここからは、壁面いっぱいに引き伸ばされていた慰霊室の写真をご覧ください。

第二次世界大戦時の艦隊でしょうか。

朝鮮戦争。
険しい山道を超えるため、皆でジープを押しています。

戦車の上に立って記念写真。

第二次大戦時の空母から爆装をして飛び立つ艦載機。

ヨーロッパ戦線で瓦礫の街を進む兵士たち。

コンソリデーテッドのBー24リベレーター。(と言っておこう)
B-24は日本の本土空襲も行なっていますので、もしかしたら雲の下に見えるのは・・。

 

砲弾を棒で装填している野戦中の兵隊たち。


メモリアルルームには、過去の戦争で戦死した人々の名前が全て、
最終的にはアルファベット順で管理されているものがこうして壁に記されています。


ここに立ち、

「一万三千人の名誉賞を受けた人々の名前に取り囲まれ」

るうち、この一人一人に名前とともに人生があり、
愛し愛されていた誰かがあったということを思わずにはいられませんでした。

 


オーシャンビーチのクジラ〜サンフランシスコ

2017-09-10 | アメリカ

今夏のアメリカ西海岸滞在は、前半がシリコンバレー、最後にロスアンジェルスと
サンフランシスコ空港を降りるや否や南下してしまったわけですが、
それでもかつて住んでいた「アメリカの故郷」であるサンフランシスコには
家族で一度は行っておこうということになりました。

そうなると、ユニオンスクエアで買い物してディナーは
太平洋を望むこの街の「最北西端」、通称クリフで、というのが
全員の一致した意見になります。

まずユニオンスクエアの地下に車を停めて買い物へ。
道を横切るときにケーブルカーを必ず目撃します。

用事があって乗る人もたまに入るのかもしれませんが、
ほとんどが観光客で、必ず彼らはこうやって外の
「お上りさん専用お立ち台」に立って楽しみます。

日本ではまずありえませんが、アメリカでは
万が一落ちて怪我をしても自己責任、を貫いています。

いつ行ってもオフィスワーカーと観光客で人通りの絶えない市街地ですが、
通りの建物は昔のままの姿です。

市街地から太平洋側に向かって西に行くゲイリーストリートは、
中心から離れるに従って周りがチャイナタウン化していきます。

ちょっとウケた「沸騰」(ブートン)という麺の店。

海に近づくにつれ、道は狭くなって行くのですが、
そこにはロシア正教会のモスクがあります。

そしていつものサンフランシスコ最西端に到着。
いつ来ても清々しいくらい手の加えられていないままの海です。

この海岸は「オーシャンビーチ・ファイアーピッツ」という名前で
国立公園として政府が管理してるので、業者が何かをすることが許されません。

「シール・ロックス」と名前のついた岩礁は、
シールではなくカモメの休憩所になっており、その結果
岩が彼らのフンで真っ白に・・・。

手前の岩山は、海岸沿いにあって引き潮の時だけ上に登ることができます。
昇り降りは結構大変そうですが、いつ見ても観光客の姿があります。

レストランの窓際に席を取ってもらい、景色を見ていたら、
ロボス岬という名前の小さな岩の岬の先端のベッドで釣りをしている人が。

「あんなところに立っていて大丈夫なのかな」

と見ていたら、夕刻になって波がまともに覆いかぶさるように・・・。
さすがにこの後釣り人は諦めて帰っていきました。

海岸では、写真撮影会真っ最中。
カメラマンもモデルもプロではなさそうですが、
波打ち際を歩く姿を熱心に撮影しております。

そういえば大学生の時、友人の別荘に合流するために砂浜をトランク下げて一人で歩いていたら、
そこにいたカメラマンに撮らせてくださいといわれ同じようなことしたことがあります。

地方のコミニュティ雑誌のカメラマンで、あとで掲載された号を送ってもらいました。

というような何世紀も前の話はさておき、お料理です。

レストラン「クリフサイド」では去年に引き続きエビと帆立貝を注文。
粒の大きなクスクスとアスパラのペーストの色合いが食欲をそそります。

息子の頼んだのは鴨のロースト。

レストランの窓からの眺め、俯瞰にするとこうなっています。
注文を待つ間、食事中もずっとこの海に目をやっているわけですが、
少し時間が経って来たころ、海面の異変に気がつきました。

異常なくらい海鳥が海面を行き来しているのです。

よく見ると、鯨のあげる水煙。
しかも一箇所ではなく、見渡す限りの海面いたるところに頻繁に上がります。

魚の群れを追って来た鯨の大群が海面下で「踊り食い」しているようでした。

私たちのテーブル係だったうウェイターによると、彼にとってもこんなことは
初めてで、今までに一度も見たことがない、ということでした。

写真に写っているのを見ても、彼らが二頭単位で行動しているらしいことがわかります。
鯨って一夫一婦制だったんでしょうか。

早速レンズを中望遠(まさかと思っていたので望遠レンズを持っていなかった)に変え、
海面に鯨が姿を表すのをずっと待っていたのですが、鯨というのは基本
イルカみたいにジャンプしないので、これが限界でした。

これは背面ジャンプしてますね。

鯨撮影の合間にデザートが来ました。
いつも一つだけ頼んでみんなで食べる「ラーバ(溶岩)ケーキ」。
最初に来た時、ナイフを入れるとまさに溶岩のようにチョコレートが溢れ、
感激してそれ以来毎年頼んでいるのですが、年々噴出量が少なくなり、
今年は「とろ」っと出るだけになっていたのが残念でした。

いつ来ても基本曇っているクリフですが、なぜか鯨の頃から日が差して来ました。
ゴールデンゲートブリッジをくぐって来たばかりの「コスコ」の貨物船が通ります。

おそらく日本にも貨物を運んで行くんだろうな。

食事が終わってレストランからでるとき、ここに「ビナクル」、
つまり羅針儀架台があるのに気がつきました。
去年もこれありましたっけ?

ビナクルの両側にあるのは「ケルビンのボール」と言って
保障磁石が内蔵され、磁気の干渉を避けるための工夫です。

レストランの向かいのカフェには、モニターが最近取り付けられました。
フットボールの試合を見るためのものだと思われます。

この時、白黒の映画が上映されていたのですが・・・、

映画の舞台がどう見てもこのレストランの前の道。

レストラン前が駐車スペース(今も無料)なのも一緒。
後ろの崖はこの頃むき出しですが、今は補強されています。

車の形を見ると、1950年ごろの映画でしょうか。

なんかカーチェイスをしているらしいことはわかった。
車の後方にはゴールデンゲートブリッジが見えているので、
ブリッジ上の山道を走っているという設定らしいです。

それにしてもなんだろこの映画。

食事が終わって、外に出て少しだけ海を見ました。
岩山の上にもずっと鯨を見物しているらしい人々がいます。

砂浜では愛犬を連れて来たらしい旅行者の姿。
思いっきりここで運動させてあげようとしているようです。

この後飛び上がってボールをナイスキャッチしました。

先ほど同じ場所から撮ってから1時間後だとは思えません。
こんなに穏やかに晴れたオーシャンポイントは久しぶりに見ます。

アウトドア雑誌に登場しそうな装備の人たちが、海岸で釣りをしていました。
太ももまで浸かれる長靴着用で気合が入りまくりです。

サンフランシスコ湾ではヒラメやカタクチイワシ、キングサーモンが釣れるそうですが、
さすがにこんな浅瀬ではどうかなあ。

海岸に面した住宅街はほとんどがアパートで、サーファーが海の向かいだからと
ここに住居を借りるらしく、よくボードを持ってグレートハイウェイを横切ります。

風車は公園に二つあり、こちらは「ダッチ(オランダ)ウィンドミル」。

もう一つの風車は「マーフィ・ウィンドミル」といいます。
1902年に作られ、風で稼働していましたが、その後モーターになりました。
風車の足元にはチューリップ畑があり、写真スポットとなっています。

 

わたしたちにとっての今年最後のサンフランシスコは、印象的な晴天でした。
さようなら、また来年。