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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「POW MIA」あなたたちを忘れない〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-03 | アメリカ

空母「ミッドウェイ」の搭乗員控え室展示を順番に見ています。

「イントルーダー」の記念展示室にあった「チェックオフリスト」。
スプリンクラーや換気バルブ、消火栓や消火ホースそれぞれの場所が
艦内での現在位置を表す番号で示されており、
それぞれは定期的にちゃんと稼働するかどうか点検が行われます。

これは本当にここにあったチェックリストらしく、最後にチェックした
1991年9月15日の日付と担当CPOのサインが確認できます。

「ミッドウェイ」はこの半年後の1992年4月に退役しました。

 

最初のレディルーム展示のあった「レディルーム#6」に入った時のことです。

入ってすぐのところにあるオーディオツァーの説明には、なぜか
「POW Story」(捕虜物語)として、
ベトナム戦争時に捕虜になったパイロットについての説明がありました。

さらに、レディルームの出口にはこのようなパネルがありました。

名前と階級の間にはパープルハートやネイビークロスなどの勲章が飾ってあります。

左のシンボルには、「POW MIA」「あなた方を忘れない」

まず「POW」は「Prisnor of war」戦時捕虜、そして
「MIA」とは「Missing in Action」戦闘中行方不明を指します。

監視塔と鉄条網、そして捕虜のシルエット。
これが戦時捕虜と行方不明者の家族会のマークとなっています。

ベトナム戦争で捕虜になったり、あるいは行方不明になって帰ってこなかった
兵士は、2017年現在で1,611人もいるのです。


ファントムIIに乗っていたパイロットも、多くが命を失いました。
右側に並ぶ名前は全てパイロットで、名前の横
KIA(キル・インアクション)
は空戦中に撃墜されたとされる人、

そしてPOWは捕虜になってそのままいまだに行方不明の人です。

この場合のPOWは、MIAも含み、

「捕虜になった、あるいは状況的に捕虜になったと考えられる」

人たちのことです。


アメリカ軍ではパイロットは全て士官なので、この名簿もその階級は少尉から中佐まで。

Lieutenant Commander (LCDR) 少佐 [O-4]
Lieutenant (LT) 大尉 [O-3]
Lieutenant Junior Grade (LTJG) 中尉 [O-2]

という「働き盛り」の階級が中心です。

数えてみたところ、1965年の4月から72年の8月にかけて
106名のパイロットが戦死あるいは捕虜となり、
二度と帰ってこなかったということになります。

さらに内訳は、

空戦戦死 64名、捕虜あるいは行方不明 42名

となり、戦死とわかっている割合が多いのに気がつきます。

 

ベトナム戦争は1955年から始まっていますが、
ファントムが運用されるようになったのは1960年からですから、
この飛行機は新兵器デビューするなり実戦に投入されることになりました。

また、前回お話ししたA-6イントルーダー戦闘機も1963年生産開始なので
戦時生まれの実戦デビューとなります。

イントルーダーのレディルームにはこのような展示があり、目を引きました。

レディルームには、かっこよさや強さを賛美するばかりでなく、
こんな「負」の展示もあります。

地上に激突して粉々に砕け散ったイントルーダーの機体の破片です。

イントルーダーを一目でそうと認識するアイコンでもある、
特徴的な「ツノ」型の燃料プローブがかろうじて原型をとどめています。


先日のF-35の墜落事故でわたしたちは改めて思い知ったばかりでもありますが、
航空機、特に戦闘機の訓練は平時戦時を問わず常に危険と隣り合わせです。

特に、戦争継続中に航空隊に編入されたイントルーダーパイロットに対しては、
何時間にも及ぶ全天候下での空戦技術や、低空での飛行、
数え切れないくらい繰り返される爆撃シミュレーションなどの訓練が
短い期間(通常1ヶ月だったといわれる)の間に集中的に行われたため、
当時150名以上の海軍と海兵隊のイントルーダー乗員が
その訓練中に事故による殉職をしたといわれています。

このイントルーダーの破片は、オレゴンの訓練場でクラッシュし、
バラバラになった二機の残骸です。(個別の事故によるもの)

どちらのイントルーダーも、事故発生時は夜間低空飛行での訓練中でした。

まるで紙くずのようになってしまったイントルーダーの破片がここにも。

詳しいことはそれ以上書かれていないので、この二機のイントルーダーが
同時に事故を起こしたのか(接触などで)、それとも別の事故なのかわかりませんが、
二機のうち一機のパイロットは生還し、もう一人は殉職したとだけ書かれています。

先ほどの展示に書いてあったように、確かに対MiG戦キルレシオ(撃墜比率)は
駆動性の高いと言われるMiGを相手に大変高かったわけですが、
イントルーダーの場合一度のクラッシュで乗員2名が失われるため、

彼我の戦死者の数はこちらが確実に多かったとされます。

先ほどのファントムII乗員の犠牲者名簿も、ABC順の記載なので判別できませんが、
同じ日付で亡くなった、あるいは行方不明になった二人は
同一の航空機に乗っていたという可能性もあるということです。

ちなみに今ちょっと名簿を探してみると、たとえば

1967年5月19日に未帰還になったスティア中尉とアンダーソン中尉、
65年12月29日に空戦戦死したローズスローン大佐とヒル大尉、
67年4月4日に空戦戦死したツェイラー大尉とマーチン少尉

というように、必ずと言っていいほど同一戦死日時によるペアができます。

 

次回は、航空機が撃墜された後、もし海上に着水したら?
というサバイバルについてお話しします。

 

続く。


エクストリーム・クーポニング〜アメリカのテレビ番組

2019-06-29 | アメリカ

うちにはテレビがありません。

20年近くそうやって暮らしていますし、ホテルに泊まったときでも
映画を観るときくらいしかテレビというものの存在すら思い出さないのが普通です。
たまにホテルで映画を見ようということになって、モードを変える前、
バラエティ番組の音声やナレーション流れただけで、申し訳ありませんが
ものすごく不快な気分になるというくらいのアンチテレビ派なので、
当然ながらタレントや俳優の名前と顔はほとんど一致しません。

それで不便なことなどまずないので、これからもそうだと思いますが、
アメリカにいるときだけは、テレビを付けて、流行りの番組をチェックします。

全てはネタとしてここでお話ししようという下心あってのことです。

長寿番組で、ネタゲットの意図を抜きにしても、付けてしまったら
何とく観てしまうのが、「Ninja Warrior」。
日本の番組「サスケ」のアメリカ版です。

番組でよく「ミドリヤマにいくぞ!」と行っているのですが、それは
本家「サスケ」の収録場所である緑山スタジオ・シティのことらしいですね。

この日はご覧のように超イケメンの日系アメリカ人が登場したので撮っておきました。

「サスケ」ではどうか知りませんが、アメリカでは出場者のバックグラウンドや
ストーリーを加えて散々盛り上げて本番というのが定石です。

彼の場合、いとこがガンの治療を受けたということが、
わざわざエピソードとして紹介されております。

こういうのに出てくる人は大抵何か専門のスポーツをやっているのですが、
このトシオさんの場合はロッククライミング、柔道、大道芸など種目多数。

チャレンジが始まると、たとえ最後までいっても数分で終わってしまうので、
バックグラウンド紹介などに時間をかけないと番組が保たないのです。

ガタイもいいし、平井堅風というか彫りが深くエキゾチックですが、
アメリカ人から見ると一目で「アジア系」に属する風貌となります。

そしてほとんどのアメリカ人女性は彼のようなタイプを

「キュート!」

と評するに違いありません。

ここで初めて彼がトシオ・シドニー-アンドウであることが明らかになりました。

Toshio the Ninja Warrior.mp4

調べてみたらこんなYouTubeが見つかりました。
いやー、肉体エリートというのはいるもんですね。

さて、お次。
英語でおめでたのことを「エクスペクティング」と言いますが、
これは「期待する」「予定する」という意味合いです。

それに否定の「UN」をつけることで「予期せぬ妊娠」。

そのつもりがないのに赤ちゃんができてしまい、産むことを選んだ女性を取り上げ、
現在進行形でその周りの人々や起こる出来事を描くドキュメンタリー。

マッケイラさんは17歳で母親になることを選択しました。

しかし化粧がケバい。
お母さんと病院にいく車の中で、なぜか

「駐車の仕方なんてわからないのよ!ちゃんと習ってないし」

としょうもない喧嘩をしておりますが、撮影のカメラがあってもお構いなしなんですね。

駐車の仕方がわからない、という話ですが、確かにアメリカの免許の実技は
どこか駐車場とか空き地などで同乗者を横に乗せ練習して受けにいくと、

これもモールの周りを警官が同乗して一周するだけでもらえるというものなので、
パーキングに入れられない初心者は多いと思われます。

妊娠している17歳が車の運転をする、というのは日本ではあまりない例かもしれません。

マッケイラさんもあと13年くらいでこうなってしまうのか。(しみじみ)
彼女の心配はもちろん父親も17歳であることです。

これがお父さんですよ〜。

なのでこれから大変、というような話がデレデレと続きます。
が、ここまでしか観なかったのでこの話はおしまい。(投げやり)


さて本題、今日ご紹介するのは、新聞やパンフレットに印刷されている
クーポンを駆使して、安く買い物することに命をかけている人を
紹介する、

「エクストリーム・クーポニング」(EXTREAMING COUPONING)

という番組です。
クーポンを使うという意味でクーポニングと言っているのでしょう。
もちろんクーポニングという動詞は存在しません。

そして今日もクーポニングに命をかける人たちが買い物にやってきました。

アンジェリークさんはとにかくクーポンが使えるものだけを買う主義。

アメリカのスーパーマーケットは、このように子供を乗せられる
バギータイプのカートがあります。
普通のカートも大きくて、一週間分の食物を搭載するのは楽勝です。

食べ物が終わったら次は日用品。
ちょっと待って?なんで歯磨き粉をそんなにいっぱい買うの?

爪磨き(エメリーボード)毛抜き(ツィーザー)まで買い込んで、
今のところ合計は約380ドル。(4万円くらい)

これはまだまだ途中経過ですので念のため。

アンジェリークさん、ドキドキのお勘定です。(そこですかさずコマーシャル)

オーマイガー、合計15万円7千円になりました。

彼女らの持ってくるクーポンとはこんな感じのものです。

別の家族ですが、やっぱり「クーポニング」のある主夫の家庭では、
家族全員がハサミでクーポンを切ることを強制されています。

おばあちゃんは娘にクーポンを切ることを強制されていて、
手を休めると文句を言われるのだとか。
老後の生活をこんなことに忙殺されて一体何を思うのか。

というかこのおばあちゃんのTシャツが・・・

「危険 次の5分で機嫌が変わる!」

このシャツ、アメリカでは結構流行っているようです。

「というわけで、合計は2123.5ドル(約23万6千800円)です」

スーパーマーケットで何を買えばそんなに・・・・。

ここにクーポンを入力していくわけですな。
いつの間にかスーパーの従業員が集まってきて皆で見物する騒ぎに。

ほとんど息を飲んでレジを凝視しております(笑)

「トータルはマイナス33.64ドルになりました」

マイナス?
クーポンを使えば、マイナスもありなんですか?
マイナスが出たらそれはどうなるかというと・・・。

なんと、ギフトカードをマイナス分もらえるらしいですよ。
どうして金額がまた増えて57ドルになっているのかはわかりませんが。

20万分買い物してさらにギフト券をもらえてしまう、こんなのなら
誰でもやってみたいと思うのかもしれません。

周りに詰め掛けて見物していた従業員一同が拍手。
みなさん仕事はもうしなくていいんですかね。

レジ係も彼女をハグして検討を称えます。ってなんでやねん。

荷物をお店のオーナーらしき人物は車に運ぶのを手伝ってくれます。
クーポンのシステムというのをよく知らないのですが、お店にすれば
別に損にはならないということなんでしょうか。

こちら別のクーポンマニア、ミッシーさん。
たった18ドルでこれだけのものを手に入れたの、とご満悦です。

ミッシーさんはどうやら右側の女性と同棲しているLGBTな方である模様。
今日は集めに集めたクープポンを持ち満を辞してのお買い物です。

「クーポン783枚あるのよ」「ええ〜」

そのうちスキャンできないクーポンは775枚。
ということは彼女らはそれを手打ちしないといけないということです。

(-人-)ナムー

とりあえずお勘定ですが、941ドル40セントとなりました。
さっきと比べると大したことないと思ってしまいますが、10万くらいです。

長く伸びたレシートで遊んでおられますが・・・。
そういうこともあって閉店後に撮影したのかな?

クーポニングの結果、お代金は30ドル85セントになりました。

 

ただちょっと気になりませんか?
スーパーで何にそんなにお金を使えるのでしょうか。

 

わたしがこのクーポニングを冷笑的に見てしまう理由がこれです。
とにかく彼女らは、同じものを大量に買い込んでいるのですが、
12個のプロテインバー。これはわからんでもない。

もちろんわたしは1本以上同時にバーなど買ったことがありませんが。
(それもなぜか食べると胃が痛くなるのですぐにやめた)

しかしこれはどうなのと。
40本の痛み止めクリーム。
どこの痛みに使うものかは知らないけど、そんなもん40本もいるか?

全身が痛むならともかく、痛みがある患部にだけ塗るためなら、
おそらく一生かかってもなくならないのでは?

それに一応消費期限てものもあるよね?

95の生理用品。というかカゴにものを放り投げるんじゃない!

おそらくこれも使い切らないうちに・・いやなんでもない。

それそんなにたくさん必要?と思えるものばかり買い込んでるわけです。
586ドルが30ドルになれば確かにマニアとしては嬉しいかもしれませんが、

メントスとかリーズとか、こんなに溜め込んでどうするの?
毎日これを一つづつ片付けていくの?

でも、アメリカ人はそんなことまで考えていません。

とにかくスポーツの試合のように、クーポンによって多額の買い物が
マイナスにでもなろうものならそれでグレイトなのでしょう。

見物していた従業員やお客が拍手するのもそういったスポーツ観戦的な感覚です。
このテレビショーはたちまち有名になり、人気が出たそうなので、
撮影を皆が楽しんでいるようです。

戦利品に囲まれてうっとりするニコルさん。
しかし2000個のライナーを使い切る前にまたクーポンで買い物してしまいませんかね。
毎日使ったとしても6年かかるわけですが、そもそもライナーって
毎日洗濯するのなら滅多に必要になんかなりませんよね?

こんな馬鹿げた買い物に皆が喝采するのも、アメリカの家が広くて、
そういったものを収納するストアージのスペースに困らないからに他なりません。

「ミニマリスト」や「断捨離」などという言葉が流行る日本では
全く理解できないテレビ番組であることだけは確かです。

この洗剤を見てわたしはやっぱりこいつら理解できん・・・と思ってしまいました。
2800回分ってことは、毎日洗濯しても8年・・・。

いや8年前の洗剤っていくらなんでも品質的にどうなのよ。

 

というアメリカ人の煩悩のありようをあからさまに見ることができる番組ですが、
実は、もっと「変な番組」が次々と登場しているのがこの国の恐ろしいところなのです。


また日をあらためてご紹介しようと思います。

 

 


トロフィーポイント〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-27 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学ツァーは、チャペルに始まり、
将来の陸軍指揮官がゴルフやサッカーをしているスクールヤードまできました。

バスを停めたまま、ガイドの男性は皆をハドソン川の見える河岸に案内していきました。

ウェストポイントの象徴ともいえる石碑が見えてきました。
これは「バトルモニュメント」といい、南北戦争のあと、戦死者の顕彰を目的として
生き残った退役軍人などの出資で建立されました。

ハドソン川を臨む峡谷の上一帯を、「トロフィーポイント」と呼びます。
昔のまま残る芝の上、樹齢を重ねた大木が作る爽やかな日陰には、
ご覧のようにアメリカ陸軍が使用した大砲などが展示されているのです。

トロフィーポイントは、

「1812年の戦い」

「独立戦争」

「米西戦争」

などのエリアに分かれていて、各ゾーンには
その戦争で使用された武器などが置かれています。

看板に書かれた説明によると、大砲はほとんどが戦争で鹵獲したもので、
ここにある中で一番古いのは1812年の「サラトガの戦い」のものだそうですが、
残念ながらそれがどれかまではわかりませんでした。

独立戦争へと繋がっていく「アメリカ革命」の頃には、ここウェストポイントには
160もの大砲があり、武器研究に使われた後は候補生部隊が訓練のために使用しました。

ゾーンごとにいつの戦争の武器か決まっているということですが、
個体には何の説明もついていません。

この一帯を「トロフィーポイント」というのは、キューバ、フィリピン、
そして米西戦争で得たトロフィーが置いてあるから、という説明ですが、
ここでいう「トロフィー」というのが具体的にどれかはわかりませんでした。

第一次世界大戦以降のトロフィーは、この後見学したウェストポイント博物館に
全て展示されている、ということでしたが・・・。

アメリカの学校組織は同窓会を「クラスオブ〇〇年」と呼び、例えば
このモニュメントを寄贈した「クラスオブ1934年」はその年に卒業したという意味です。

入学した時からこの名称が付与されるので、今年2019年に入学した学生は
その瞬間「クラスオブ2024」と呼ばれることになります。

1930年に入学したこのクラスは、1984年、全員が70を超えて、
ここトロフィーポイントに記念碑を寄贈しました。

彼らはその後第二次世界大戦で、欧州に、そして太平洋で戦い、
少なくない指揮官が戦死したことでしょう。

この碑文中、「かつて我々が卒業したALMA MATER」
とありますが、このアルマ・マータとは、ギリシャ語由来で、
欧米では「自分を育んだ母校」という時に(主に文章で)使われます。

ここは米西戦争のエリアです。
この隣にあった説明を読んで、初めて「トロフィー」が何かわかりました。

「ここには三つのトロフィーがあるが」

つまり、戦闘で獲得してきた相手の武器をもって「トロフィー」と言っとるのです。

それを念頭に”trophy”をあらためて検索してみると、我々日本人のイメージ、
『コンテストなどでもらえるカップ』というのは一つの派生的な意味に過ぎず、

戦利品; 戦勝[成功]記念物 《敵の連隊旗,シカの角,獣の頭など》

こちらが第一義となる意味だったのです。

なるほどー、戦利品か。
俗に「トロフィー・ワイフ」などというあれは、こちらの意味なのね。

ご存知ない方に説明しておくと、トロフィーワイフとは、男性が社会的に成功してから
その地位なり財産なり名声なりを利用してゲットする若い美人妻のことです。

ちなみに日本ではトロフィーワイフのために糟糠の妻を捨てる男は
女性からはもちろん男の側からもあまり評価されないようですね。

女性に対しても「金と地位目当て」という眼が向けられるのは、これはもう
ご本人たちには気の毒ですが、致し方ないかなという気がします。

ということは、これはスペイン軍の大砲なんですね。

米西戦争は、キューバに侵攻したスペイン軍が現地でやらかしたのをネタに
アメリカがハーストなどのジャーナリズムを使って煽り、国民を焚きつけ、
まず世論を形成しました。

当時キューバとフィリピンに権益のあったアメリカの実業界は開戦を望んでいたのです。
ちょうどその時偶然()ハバナでアメリカの戦艦「メイン」が謎の爆発を起こしたので、
アメリカは、ここぞと、

「リメンバー・メイン!スペインを地獄に!」

を合言葉に戦争に突入しました。
(アメリカ史をご存知の方は、この『リメンバー』が真珠湾だけでないことを

よおおおおっく知っておられると思います)

ここは独立戦争のエリアです。

ここにはハドソン川を閉鎖するために使われた防鎖が展示されていて、
これがウェストポイントにとって独立戦争のシンボルとされています。

「ハドソンリバー・チェイン」とか「グレート・チェイン」と言われるこの鎖は、
イギリス軍のハドソン川帆走を防ぐために河に渡された文字通り「防鎖」です。

ここにチェーンが実際に渡されたわけです。

これが現在のウェストポイントとハドソン川。
ここに残されている以外にも、コネチカットのコーストガードアカデミーに
鎖のごく一部が展示されているのを見たことがありますが、
ほとんどは使用後、溶解されてリサイクル処分になったということです。

全体的に綺麗すぎるので、砲筒以外の部分はレプリカかもしれません。

ハドソン川を臨むポイント付近では業者がメインテナンスを行なっていました。

見学客に「グレートチェーン」の説明をしているツァーガイドは
退役軍人で、かつてここで訓練生活を送っていた人です。

アメリカでは軍人恩給があるのでリタイア後は悠々自適ですが、
ボランティアとしてツァーガイドを引き受ける人は多そうです。

ガイドに案内されて、ハドソン川を臨むビューポイントに近づいていきます。

この一帯は1812年戦争のエリアのはず。

1812戦争とは、アメリカとイギリスの間に起きた戦争のことです。
米英が奪い合った土地がネイティブインディアンの土地でもあったことから、

アメリカ対イギリス・カナダ・インディアン連合軍

の戦いとなりました。
くのインディアン部族は虐殺され、その土地はアメリカの植民地になります。

先ほどフィールドに舞い降りたヘリは、陸軍の偉い人が用事をしている間、
ここでひっそりと帰りを待っている模様。

かつてチェーンが張られたポイントを一望できる高台に展望所があります

「イギリス艦隊は二度とウェストポイントに接近することも
鎖を突破することを試みることもしようとしなかった」

1938年に卒業したクラスの生存者によって建造された岸壁の碑文には

「祖国のために戦い傷つき、あるいは捕虜となって死亡した旧友の魂が
この自然美に囲まれた神聖な我々の魂の故郷にとどまらんことを」

対岸は「コンスティチューション島」。
島というより突き出した半島ですが、根元が水路で絶たれているので一応島です。

ここに見えている家屋は、グーグルマップで確認する限り廃屋のようです。
ついでにグーグルマップには同じポイントのこんな瞬間が捉えられていました。

船着場近くの簡易トイレを待つ候補生たち。

解説を受けている間に近づいてきたのはカリブ海のイギリス連邦、
アンティグア・バーブーダ船籍の貨物船です。

クラスツリーとして、記念植樹をするクラスもあります。
1981年に卒業したクラスが卒業記念に植えました。 

 独立戦争で交戦したイギリス軍が降伏した時に召し上げた戦利品の一部。
1779年7月16日という日付がかろうじて読み取れます。

AMPHITHEATERとはローマの円形劇場のことですが、ここにもそれがあります。
野外コンサートが行われるようです。

バトル・モニュメントを近くで見ました。
南北戦争が終わってから、戦死者を顕彰するため1897年に建てられました。

「長い灰色の線」にも登場します。
「星の降るクラス」の卒業式で証書をもらうアイゼンハワー。

日本と開戦が決定してすぐに士官に任官するクラスの「宣誓式」もここで。

根本にある大砲には、南北戦争での有名な戦いの名前がつけられています。

「長い灰色の線」で、上級生がプリーブ(新入生)にいきなり質問する慣習が
描かれていますが、このバトルモニュメントについての質問も定番で、

"How are they all?"

(彼らは全員どうしている?)

"They are all fickle but one, sir."

(一人を除いていなくなりました)

"Who is the one?"

(その一人とは誰か?)

"She who stands atop Battle Monument,
for she has been on the same shaft since 1897;" 

(バトルモニュメントの上に立っている彼女であります。
彼女は同じ円筒の上に1897年からずっと立っています)

というやりとりがされたものだそうです。
『たった一人ずっと経ち続けている彼女』とはもちろんモニュメントの上の女神のこと。
今はそういう「問答」そのものが行われなくなったらしいですが。

これで構内ツァーは終わり。
出口のウェストポイント博物館までバスで移動です。

車窓からは士官候補生が戦闘服で移動している姿を見ることができました。
今見えている二人は男女ですが、ウェストポイントは学内恋愛は奨励されないがOKだとか。

降りる時にツァーガイドにチップを渡すとたいそう喜んで相好を崩し、

「チップは大歓迎ですよ」

アメリカ人は意外とこういう時お金を出さない傾向にあります。

帽子をかぶらずに私服で歩いているのは一般人だと思われます。

この中世の城のような校舎の佇まいにも見覚えがあります。

マーティ・マーがアイルランドからウェストポイントにウェイターとして就職する最初のシーン。
胸に値札のようなものをつけていますが、これは当時の「入場証」だと思われます。

いろんな事務所が入っているビルです。

「スタッフ・ジャッジ・アドボケートオフィス」

候補生の処罰などを判定する事務所?

「クレームなどの法律センター」

「一般市民のアドバイザリーセンター」

「ソルジャー・フォー・ライフ」

「運送関係オフィス」

などなど。

一棟全部がボウリングセンター。

 

さて、これで見学を終わり、次に連れて行ってもらったのは
ウェストポイント博物館でした。

 

続く。


ビートネイビーハウスにようこそ〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2019-06-26 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記です。

見学コースはバスで広い構内をまずチャペル、そしてグラウンドまで
案内の人の説明を聴きながらやってきました。

その中で、

「勉強がついていけなくて辞めざるを得なかったり、
自分の意思で中途退学した場合、莫大な費用を返還しなければならない」

という話がありました。

ウェストポイントでは最下位の成績のことを「ゴート」といって、
毎年華々しく名前が発表されるいう羞恥プレイがあるのですが、
ゴートは最下位とはいってもとりあえず卒業できたわけですから、
ついていけなくて辞めた人(結構多い)と比べれば「偉い」のです。

どちらかというと、退学させられずに最下位になるのは至難の技かも。

そのため、ゴートは卒業生全員から1ドルずつの
これ以上ない暖かい?施しを受けることができます。
(卒業生は1000人はいるので、ちょっとしたお金持ちになれます)

しかし、途中で辞めて行く者には冷たい、しかしそれが国が経営する
軍学校というものです。

我が日本国の士官学校である防衛大学校は、2012年から任官辞退者に
250万円、任官6年以内の自主退官者からも年数に応じて償還金という名で
返還を求めるということになっています。

ところで、成績最下位ドンケツが「ゴート」と呼ばれる理由なんですが、
わたしは、ライバル校である海軍士官学校アナポリスのマスコットがヤギ
「ビル・ザ・ゴート」であることと関係あるのでは?と思ってます。

そのアナポリスの最下位成績者ですが、やはり華々しく名前が公表され、
こちらは「アンカーマン⚓︎」というそうで(笑)

バスは広大なグラウンドの通路にやってきました。
これはきっと名のある軍人さん。

と思って調べてみたら、

ジョン・セジウィック少将(1813−1864)

うーん、日本人には全くあずかり知らぬ名前であったわ。

何をした人かというと、南北戦争で弾が飛んでくる中歩き回り、

「そんなふうに弾から逃げる諸君らが恥ずかしい。
彼らはこの距離では象でも当てることはできないだろう」

といった数秒後に左目の下に弾丸を受けて死んだ人です。
弾に当たりさえしなければ豪傑の英雄譚で終わったのに・・・。

ちなみに、銅像の靴の後ろの拍車を夜中、誰にも見られずに回すと
何かいいことがあるという噂もあるそうです。

ま、候補生にとっていいことなんて、落第しないくらいしか考えられませんが。

さて、セジウィック少将の向こう側のサークルはなんなのかな?
え・・・?もしかしたら皆ゴルフやってます?

こりゃ驚いた、ウェストポイントは体育の時間にゴルフをするのね。
まあ確かに構内にゴルフ場があったりするわけですから、
体育の時間に基礎を叩き込んだら、コースに出ることもあるのかもしれない。

しかし士官候補生の体育のゴルフ、かなり本気っぽい気がします。

もしかしたら将来政治家になって、まかり間違って大統領になったりして、
日本の首相との外交で必要になるという場面もあるかもしれないですから、
基礎をやっておいて損はないかもしれません。

ところで、グラウンドの向こうの国旗が半旗になっていますが、
これはマケイン・ジュニアが亡くなったことに対する弔意だと思います。

亡くなった人の位に応じて、半旗を揚げる期間は決まっているらしいですが、
軍学校はそれとは関係なく長期間に亘って行っているように思われました。

授業でゴルフをやるということは、全員の分のクラブなりなんなりがあるってことです。
それも、ちゃんと校庭にホールが設けてあるわけですから。

彼らが練習をしているのはサッカーグラウンドです。
グラウンドはもちろん、それ以外のところまできれいに芝が敷かれています。

業者による手入れを行なっていないとこんなきれいになりません。

さて、こちらでは体育の授業でサッカーが行われています。
体が資本の陸軍ですから、サッカーの授業なんて遊びみたいなもの。
やっぱり楽しいのか、彼らの表情は授業だというのにやたら明るい。

よく見たら女子生徒がいるではないですか。
体格がほぼ男性と同格なので、髪の毛が長くなければ気づきません。

皆でたくさんのボールを蹴りあって、試合でもないしこれは楽しそう^^

さて、前回もお話ししたウェストポイントの人気者、体育教官だった
マーティ・マー軍曹を描いた映画「長い灰色の線」には、
1913年に行われたという実際のフットボールの試合が登場します。

ウェストポイントの相手はノートルダム大。

「まるで教会みたいな名前だな」

とマーティたちはすっかり勝つ気。

教会みたいも何も、キリスト教系大学なんです。
ノートルダムの応援バンドは尼僧の指揮する小学生だったりします。

確かに前半は勝っていたのですが、後半になって、
相手が予想外の「フォワードパス」という戦法を使ってきたので、
ウェストポイントは35対15で大敗を喫してしまいました。(実話)

しかしこのころのフットボールの装備って・・・・。

(´・ω・`)ショボーンとするウェストポイントチーム。

コーチは、今日のゲームは新しいタイプのものだったことを告げ、
さらにこう言います。

「士官として出陣する時戦場では予想外の事態が続出するものと肝に銘じよ」💢

Notre Dame vs. Army 1913 - The Game

フットボールのことを知らないので、映画を見ても、何が新しくて
どう変わった戦法に出られたのか全くわからないままなのですが、
検索したところ、この試合はカレッジフットボールの歴史を変えたというくらい
画期的なものだったらしいことがわかりました。

1913年 フォワード・パス

youtubeの最後には、試合後に相手の検討を称え合う両校のコーチの手紙とともに、
それ以降アーミーvsノートルダムがゴールデンゲームとなったとも紹介されています。

ところでこのパスがなぜここまで意表を突く作戦で、歴史的なものになったのか、
どなたかお分かりの方、素人にもわかるように教えていただけませんでしょうか。


 さて、チャペル見学を終えてグランドに移動するバスの車窓から、
こんな昔風の(でもアメリカにはよくあるタイプの)家を見ました。

建物の前には、

「ビート・ネイビーハウス」

とあるではありませんか(笑)

スポーツの試合における海軍アナポリスとのライバル意識は、
「ビートネイビー!」が寝言にも出てくるくらいカデット(士官候補生)の
脳髄に叩き込まれるという話を以前もさせていただいたことがあります。

Go Army! Beat Navy!〜アメリカ陸軍士官学校ウェストポイント

相手のマスコットを深夜盗み出したり、人質がスパイをしたり、
シャレにならない両者の相克があるわけですが、はてさて、
この「ビートネイビーハウス」って何?

検索してみると、

「チェックイン4時、チェックアウト11時」

なんとベッドアンドブレックファーストではないですか。

ビルディング109、ビートネイビーハウスにようこそ!
陸軍を象徴するという意味で重要な役割をする歴史的ホテルです。
各スウィートルームは最近新しく改装された共用のフルキッチンにアクセス可能です。
(HPより)

なんと!誰でも泊まれたりするのかしら。
例えば「ビートアーミー」関係の人でも。

ビートネイビーハウスの隣にあった家。
もしかしたらこれもホテルの一つかもしれません。

実はこの家、「長い灰色の線」に登場しています。
映画を見ていて気がつきました。

なんと、マーティ・マー軍曹メアリー・オドネルと結婚し、住んでいた家という設定です。
実際には二人は別のところに住んでいたということですが、
撮影が行われたのはまさにここだったのです。

この家は映画の最後のシーンにも出てきました。

30年ウェストポイントに務め、慕われたマーティのために、
ウェストポイントではその退職の日、分列行進を行います。

「誰のための分列行進です?」

「きみだよ。候補生たちが君のために行進をしたいと申し出たのだ」

呆然と感動しつつ長き灰色の線を見るマーティの目にはいつの間にか涙が・・。

真ん中は学校長、一番右の人も手袋で目をぬぐっています。

戦争で死んだマーティの教え子の妻とその息子。
息子も第二次世界大戦で南方に出征しましたが、
名誉の負傷で帰国しました。

「皆に見せたかったな」

「いいえ、みんなここに来ているわ」

マーティの目には見えていました。
自分を引き上げてくれた体育教師のキーラー大尉が。
出征を見送り、そのまま帰って来なかった彼の
教え子たちが。

 

そして、この家で静かに息を引き取っていった妻のメアリーオドネルが。

分列行進の音楽はアイリッシュ風のメロディの行進曲から、
「マイティー・マー」の歌に代わり、最後には「オウルド・ロング・サイン」になります。

ちなみに、映画の撮影は行われましたが、妻メアリーが息を引き取ったのも
ここではなく、当時二人が住んでいた家のポーチだったということです。

 

 

続く。

 

 


「長い灰色の線」マーティ・マーとは〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-24 | アメリカ

 

アメリカ陸軍士官学校、ウェストポイントの見学記ですが、
今回は、陸軍士官学校奉職しその人生をウェストポイントに捧げた
実在の人物マーティー・マーを主人公にしたジョン・フォードの映画、
「長い灰色の線」の一部をご紹介しながら話してみたいと思います。

本物かどうかわかりませんが、映画は士官学校候補生が、グレイの制服に身を包み、
皆で校歌?らしきものを合唱するシーンから始まります。

タイトルの「グレイ」はまさに彼らの制服の色であるわけですが、
彼らのアイテムである火薬にちなんでいるらしいですね。

帽子の黒、ジャケットの灰、飾りなどの黄色、全て火薬の色とか。

なんかこじつけとしか思えないんですが、まあ海軍のように錨とか、
海を表すブルーとか、一目でそうとわかるシンボルがないものでね。

 

世紀のイケメン、タイロン・パワーが若者から退職時までを演じる
マーティ・マー(Marty Maher)とはそれではどんな人物だったのか。

「marty maher west point」の画像検索結果

Martin "Marty" Maher、Jr. (1876年6月25日 - 1961年1月17日)は
アイルランド生まれ、 1899年から1928年まで
アメリカ陸軍士官学校で水泳のインストラクターを務めました。

ウェストポイントの士官候補生やスタッフに非常に尊敬され、
賞賛された彼は、三回クラスの名誉会員に選ばれています。

84歳で亡くなった後、ウェストポイント墓地に埋葬されました。

最初の二年間、彼は候補生食堂のウェイターでした。
候補生食堂で、ウェストポイントの「下級生しごき」の一種、
いきなり「レザーとは何か」という質問をぶつけられ、

「動物の皮を剥ぎ毛や脂などを除去しタンニン酸に浸したもの!
するとゼラチン質が非腐敗性の物質に変成し水に強くなる!それが皮です」

ととてつもない早口で答えているプリーブ(一年生)を
不思議そうに眺めるマーティ。


派手に皿を割って給料から差し引かれるなど、ウェイター生活は
彼にとって決して楽しいものではありませんでした。

ウェイターを2年間続けた後、マーティは陸軍入隊を決心しました。
宣誓立会い担当の大尉はジョン・パーシングといいます(本物)

マーティはキーラー大佐のもと、体育のインストラクターになります。

彼はウェストポイントの給養だった同郷のメアリーオドネルと結婚。
(彼が陸軍に志願したのは彼女の気を引きたかったからという説も)

子供は映画でも描かれているように生まれて数時間で死亡してしまいます。

二人は候補生たちを子供と思ってウェストポイントで生きて行く決心をし、
そして、任官し戦争に赴く教え子たちの幾多の死を見届けることになる・・・
というのが映画のストーリー。

さて、わたしたちのツァーはチャペルの見学を終えました。
校内見学ツァーのためにこんな立派なバスがあります。

コースはロングコースとショートコース。
わたしたちのは短い方でした。

走るバスの窓からもいろんな軍学校ならではの施設が見られます。
こんな石碑だとか・・

トレーニング中の女子学生とか。
自衛隊と同じく暇さえあれば校内を縦横無尽に走り回る模様。
友人同士らしい二人のアフリカ系女子学生、辛そうです。

フィジカルデベロップメントセンター、それはすなわち体育館だと思われ。

体育館がこんなに広いわけかい、と今更ながらに驚きます。
先ほどの資料によるとウェストポイントは某大の千倍の広さですから、
体育館も単純にそれくらい大きいと考えると納得です。

某大だってここと比べなければかなか立派な施設だと思うんですけどね。 

ところでマーティ・マーですが、経歴によると、陸軍入隊後、彼は
体育教官として軍曹待遇で仕事を始めました。

今はそんなことはないと思うのですが、当時の体育教官(の偉い人)
キーラー大佐の引きがあったからだと思われます。

そして割り当てられたのが、水泳のインストラクター。

ところが彼は実際にも泳ぐことはできなかったのですから驚きます。
ものすごい原始的な方法で水泳の訓練を行うマーティ。

みんなの前で教官らしく取り繕うマーティ。
ところが実際のマーティ・マーは、教官としては大変優れていたらしく、
自分が泳げないのにどんな指導をしたのか、泳げなかった士官候補生も、
彼の元を去るときには泳げるようになっていた、というから驚きます。

オーストラリアから来た兵隊上がりの士官候補生は、水泳の腕は抜群でしたが、
学科についていけなくて悩んでいました。

マーティはそんな彼を自宅に呼び、家庭教師をつけてフォローしてやります。

この生徒はのちに家庭教師と結婚し、二人の間に生まれた男子は
長じて士官学校に入学することになるのでした。

うっかりプールに落ち、泳げないことがバレてしまいました。
でも候補生たちの彼に対する信頼と愛情は揺らぎません。

彼がいかにウェストポイントで愛されていたかは、まだ彼が生きているうちに
この自伝的映画が制作されたことに表れています。

マーティ・マーはタイロン・パワー演じる自分の映画を観ているのです。

サッカーグラウンドの向こうにそびえ立つオベリスク。
その頂上の天使像はハドソン川を眺めるように立っています。

バスの中からグラウンドにヘリコプターが降りたのに気がつきました。
系統としてはフライング・エッグの進化系ですかね。
ドアには陸軍のマークが描かれ、VIP専用機であることがうかがえます。

ヘリの乗員らしい人に候補生が話しかけていますね。

偉い人が用事を済ませるまでここで見張りをしているのだと思われます。

キャンパスのいたるところには迷彩服に大きな黒いバックパックを背負った
士官候補生たちの姿を見ることができます。

ここウェストポイントはニューヨーク州のハドソンリバー沿いにあり、
夏はこの日のように死ぬほど蒸し暑くて冬は凍死するほど寒いお土地柄。

いずれも外に出たくない過酷な環境という、軍学校としてはこれ以上ない
「鍛錬の場」であるからかもしれませんが、
どこかのアナポリスのように地下道で建物同士をつなげたりしないのです。

当然、罰則の「歩け歩け運動」も、この人に優しくない天候のもと粛々と行われ、
いやでも反省が骨身にこたえるという効果があるというわけです。

某大で第4大隊に当たったくらいで遠いの損だの思っている人、世界には
上には上があるということを覚えておくと、ちょっとは気持ちも楽に・・

ならないか(笑)


続く。


カデット・チャペルと「長い灰色の線」〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント見学

2019-06-23 | アメリカ

もう随分と昔になってしまった気がしますが、ウェストポイントを見学し、
見学者向けの「ウェストポイント紹介ミュージアム」について
ようやく話が終わったところまでこぎつけました。

考えたら校内ツァーの前で終わってしまい申し訳ない。
ということで、見学者が訪れるツァーデスクに12ドルくらい出して申し込んだ
バスで巡る見学に出発するところから始めたいと思います。

ツァーバスは案内デスクの外側から出発します。
たまたまわたしたちが到着したとき、ツァーが始まる20分前くらいで、
しかもその日最終だったのは大変ラッキーでした。

いくら物好きでもこんなところにもう一度来るとは思えないしね。

バスに乗り込むと、案内のおじさんが、

「今からゲートを通りますが、絶対に写真は撮らないように」

と気のせいか怖い顔をして言い渡しました。
軍学校なのでゲートの写真が世の中に出回ってはセキュリティ上問題ありなのです。

わたしはその雰囲気に大変緊張してしまい、ゲートを通過し、おそらく
もう写真を撮っても問題のないところに来ても、カメラを取り出せませんでした。

今にして思えば撮っておけばよかったと思うのが、入ってすぐのところにある
いかにも築何百年クラスの花コウ岩建築による、セイヤーホテル。

Thayer-hotel.jpgwiki

学校内部にホテルがあるとはさすがはアメリカ陸軍の士官学校です。

ところでわたしは、前回までの当ブログエントリで、一度マッカーサーと
その息子離れできない過保護の母親について話したことがあるのですが、
可愛い息子のボクちゃん(=マッカーサー)が心配のあまり、母親はずっと
ウェストポイントのホテルに住んでいた、という史実を知った瞬間、
このホテルのことだと納得がいきました。

学校の近くではなく、学校の中に住んでいたわけです。

その証拠写真

「macarthur's mother」の画像検索結果

これによると、母親のメアリー・ピンクニー・マッカーサーは
13歳まで息子を学校に通わせず、自分で教育を施し、さらには
ウェストポイントで近くに住んでいただけでなく、息子が行進するときには
一緒に行進を行い(!)、息子がデートするときは付いてきて、1935年に
マニラに転勤になったときには一緒にフィリピンに行っています。

おかげでマッカーサーは、開校以来の超優秀な成績だったにも関わらず、
アンチからは

「カーチャンと一緒に士官学校を卒業したマザコン」

と死後も言われてしまうことになりました。
ちなみにフィリピンに母親が付いていったのは、これによると、

「彼が母親と離れたくなかったから」

だということですが・・・どっちもどっちってやつですか。

マッカーサーは第一次世界大戦ののちウェストポイントの校長を勤めていますが、
そのときにホテルの拡張工事を行なって部屋数を増やしています。

死の二年前にはウェストポイントに帰ってきてあの、歴史的な演説を行いました。

「生い先短い思い出で、私はいつもウエスト・ポイントに戻る。
そこでは常に『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。
今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。
しかし諸君、どうか忘れないでいただきたい。
私が黄泉路の川を渡る時、最後まで残った心は士官候補生団とともにあることを。

では諸君、さらば!」

このときに滞在したホテルも、もちろんセイヤーホテルです。

わたしたちの乗ったバスは、こんなよく言えば壮麗で歴史を感じさせる
ゴシック建築っぽい建物の前にやってきました。
見学コースその1は、ウェストポイント内にある教会です。

ところで皆さん、前回まとめてウェストポイントについて書いたとき、

「ロング・グレイ・ライン」

が陸軍士官学校を象徴的に表す言葉だと説明したことがありますが、
そのときに同名の映画(邦題は『長い灰色の線』)があるということも
話題にさせていただいたのを覚えておられますでしょうか。

陸軍士官学校で体育教官をしていた実在の人物、マーティ・マーをタイロンパワー、
その妻をモーリン・オハラが演じた1955年、ジョン・フォード作品です。

このタイトルシーン、後ろに写っているのがこの教会となります。

1975年(昭和50年)防衛大学校を卒業したという方から聞いた話ですが、
そのかたが在学中、防大でこの映画を鑑賞するということがあったそうです。

アメリカにはニューヨークでもボストンでも、街角には
古くから伝わる教会が取り壊されずに残っているのですが、
それらのどれよりも立派で大きい気がします。

感覚としては、パリのノートルダム寺院くらいの規模でしょうか。

ここが軍施設となったのは1778年のことであり、陸軍士官学校となったのは
1802年と言いますから、もう200年を余裕でぶっ超えてるわけです。

ここは「カデットチャペル」と呼ばれ、1902年に建造されました。

チャペルは映画のシーンを見てもお分かりのように、キャンパス(っていうのかな)
の比較的高いところに位置しています。

なので、このチャペルの横に立つとこのような眺めが展開しているわけです。

敷地面積は65万キロ平方メートル、校内にはゴルフ場、スキー場、墓地、
なんなら原子炉まであったりします。
とにかくおそらく世界で一番広い士官学校であることは間違いありません。

すごい偶然ですが、我が日本国の士官学校である防衛大学校は、
その面積65万平方メートルです。

防大ってウェストポイントと同じ大きさだったのか!!

と驚いた人、もちつけ(笑)

見学した日は、ボンネットで卵が焼けそうなくらい暑い日でしたが、
このキャンパス(っていうのかな)の灰色な重苦しい世界をご覧ください。

重厚といえば聞こえがいいけれど、重々し過ぎて軽佻なところ皆無。

アメリカ社会の「軽さ」みたいなのを日頃いやっというほど見ていると、
思わずこれを刮目して見よ、とどやしつけられている気分になります。
ああ、これもまたアメリカ。

噂によると同じ士官学校でも、空軍はもちろん海軍のアナポリスは
この灰色の世界に比べるととんでもなく「チャラい」のだとか。
もちろん比較の問題だとは思いますけどね。

ところでこれも「長い灰色の線」の一シーンです。
上の写真とは別の建物のようですが、実に似た感じの灰色の建物。
制服の灰色もつまりこのキャンパス(っていうの?)の色彩と合わせているのでは。

何をしているかというと、罰則として歩かされているのです。
飲酒が見つかったとか、門限に遅れたとか、そういう
倫理委員会にかけられるまでもないチョンボに対しては、
とにかく歩け歩け歩けば罪は軽くなるとばかり歩くのが陸軍流。

やっぱりこれは陸軍の基本が歩兵だからだと思うんですが、
それならアナポリスはどうなっているのか知りたいですね。

我が海上自衛隊の幹部候補生学校では走らされたり腕立て伏せだったりでしたが、
どうやら今ではパワハラに当たるとかで体罰はなくなっているとか。

他の学校ならともかく、そんなことで軍隊の指揮官が養成できるのか、
と外部の者は単純に疑問なんですが、その話はともかく。

 

ところでこの写真は、タップス(就寝前のラッパ)が鳴るときに、
部屋に帰らず、パーティに遅れてきた彼女と別れを惜しんでいた生徒が、
マーティが見てみないふりをしてやったのにも関わらず、
自己申告して自ら罰を受けているシーンです。

ウェストポイントにやってきたばかりのマーティは、

「黙っていれば誰にもわからないのに」

というのですが、生徒は

「それでも自分は規則を破ったことを知っているから」

と答え、マーティを感動させるのです。

この作品は、スコットランドからウェイターの職を求めてやってきて、
士官候補生を間近でみているうちに彼らを深く愛し、いつの間にか体育教師となって、
その生涯をウェストポイントに捧げた人物を描いた「伝記映画」でもあります。

チャペルのかなたに広がる山麓にポツンと建っていた豪邸。
ここもウェストポイント関係の設備だと思うのですが、わかりません。

別の年代に建ってつぎはぎ状態になっている建物同士を
無理やり行き来するための空中回廊をつけてしまった例。

どうみても使われている様子がありませんが、非常用でしょうか。

さて、チャペルの中に入ってみました。
ここに写っているのは同じバスで見学した人たちです。
年配の夫婦が多く、この左は東洋系のアメリカ人家族。

ツァーは1日に何度かおこなわれるようで、アメリカ人にとって
ウェストポイント見学は観光にもなっているらしいことがわかりました。

壮大なステンドグラスは圧巻です。
聖人といっても左のほうの人のように戦いの神みたいなのが多い気がします。

ところどころに見える文字、

「FAITHFUL ONTO」

「DEATH AND I WILL」

「CROWN OF LIFE」

など、聖書に詳しくないとわからないのかもしれません。

説明の人が壁のランプを指し示しました。
砲弾の形を象っているそうです。

チャペルの一角では何やら運動部が集まって準備の真っ最中。

教会の壁にはアメリカ国旗(12星)と陸軍の旗が交互に並んでいます。
昔ならともかく、多民族国家のアメリカで士官学校といえども
キリスト教ばかりではないはずなのに、と思ったのですが、これも説明によると、
構内にはシナゴーグ(ユダヤ教会)もカトリック教会も別にあるのだそうです。

流石にその他の宗教まではカバーしていないようでした。

大礼拝堂なので、パイプオルガンも壮大なものです。

演奏者席がどこかまではわかりませんでした。

映画「長い灰色の線」ではこのオルガンの音色を劇中聴くことができます。

そして、この祭壇も映画に登場します。

まず、カデットチャペルのシーンはこんなカットから始まります。

礼拝が始まるや、伝令が校長など偉い人のところにメモを持って走ってきます。

校長が司祭に何事かを伝え、周りの何人かが立ち上がって、
なぜか騒然と教会を出て行きます。
司祭は皆に向かって

「今日の早朝、日本軍の航空機が真珠湾を攻撃しました。
公式な発表はまだですが、我が国は日本と交戦状態に入りました」

と発表します。

「ジャパン」

という司祭の言葉が終わるや否や、全員がなんの合図もなく立ち上がり、
イギリス国歌の「ゴッド・ブレス・ザ・クィーン」のメロディーの賛美歌を
パイプオルガンの伴奏で歌い始めるのが実に映画的。

この曲は聖書の曲ではなく、

"America" ("My country 'tis of thee.")

という詩がつけられた「替え歌」です。

時々思い悩むように口を動かさなくなる彼は、マーティが最初に指導し、
第一次世界大戦で亡くなった生徒の息子です。

マーティとその妻が引き合わせて彼の父親と結婚させた女性。
愛する夫に続いて息子もまた戦争に行かなければならないことを知り、
母親の顔は悲痛に曇ります。

ちょうど開戦の時に士官となり、マーティは父親に続いてその息子を
戦争に送り出すことになったのです。

という映画の撮影が行われた頃から何も変わっていないチャペルの内部。

ただしこのシーケンスには大きな矛盾があります。

真珠湾攻撃が起きたのはローカルタイム0755。
司祭は「今朝真珠湾で」と言いますが、攻撃が起きた時、すでに
ウェストポイントのニューヨーク時間は1255です。

この一報がウェストポイントにもたらされた時間は早くともその1時間後としても
昼の2時頃だったはずなので、すでにミサを行う時間ではなくなっていました。

椅子には聖書が備え付けてあります。

士官学校卒業生がここで結婚式を挙げることは多く、シーズンには
結婚式ラッシュとなるそうですが、軍学校の常として、
映画のような開戦の他、戦争に出て亡くなった卒業生のミサも行われるわけです。

アメリカという国は実際になんども戦争を行なっており、
その度に陸軍士官学校からは戦死者を出しているのです。

戦争に行く可能性が大きくなれば軍に入隊する人数が減る、入隊が増えるのは不況の時だけ、
などというどこかの国とは、軍に身を投じるということに対する国民の意識は全く違う。

戦争による「死」が可能性として確実にあるとわかっていても、
難関をくぐり抜けた優秀な人物が毎年何千人も士官学校の門をくぐる。
このアメリカという国には昔から一貫してブレない「愛国の発露」たる国防の形がある。

そんなことを考えずにいられなかったカデット・チャペルでした。



続く。




"唇(リップ)が滑れば鑑(シップ)が沈む"〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-05-13 | アメリカ

 メア・アイランド海軍工廠の博物館は、
昔造船所だった頃の建物がそのまま使われています。

If you don't want to wear your goggles

pick out your glass eyes

while you can still see them

標語です。

「もしあなたがゴーグルをつけるのが嫌だったら、
まだその目が見えるうちに義眼を選んでおきなさい」

義眼のことは英語でオーキュラー・プロテーゼといいますが、
ガラスでできているため俗にグラス・アイズといいます。

ゴーグルをつけましょう、というよりインパクトがあって、
誰でもははー、と言いつけを守ること請け合いです。

真ん中に書かれている目玉は、義眼ってことなんですね。

メア・アイランドにあったナース・コーア、看護師部隊の募集ポスターは
二度目になりますがあげておきます。

応募は地元の赤十字で行なっています、と書かれています。

これも2回目ですが、1900年ごろの水兵募集ポスター。
昇進により増給アリ、みたいなことが岸壁に書いてあります。
月17ドルから77ドルまで支給、食費住居費医療費、
最初の制服だけ無料、とあります。

最初・・・ということは二着目からは自費ってことですね。

時々字が裏返っていて(RとN)、どうもこれがアメリカ人の考えるところの
「ロシア語っぽい」書き方らしいです。

ここにあるのでてっきり映画のポスター風標語かと思ったら、
本当にこんな映画があったんでした。

「これが(世界を死ぬほど笑わせた)筋書きだ!」(アオリ)

として、映画のタイトルは

”THE RUSSIANS ARE COMING, THE RUSSIANS ARE COMING"

”ロシア人がやってくる、ロシア人がやってくる”

The Russians Are Coming, The Russians Are Coming Movie Trailer

日本でも公開されていたらしく「アメリカ上陸作戦」という邦題がついていました。
アメリカのグロスター(東海岸)島にある日流れ着いてしまったロシアの潜水艦。

ロシア人が攻めて来たとの噂があっという間に広まり、島中が大パニック。
乗組員たちは半ば暴徒と化した島民に追い詰められて港の建物に立てこもり、
潜水艦も浮上して一触即発、ロシア潜水艦の乗員が島の子供を助けたことで
どちらもがホッとして戦いを止めようとしたところ、誰かが通報したため
空軍がやってきてしまいます。

さて、ロシア潜水艦と島民の運命やいかに。

Russian Submarines Beware

なぜこのポスターがここにあるのかわかりませんが、撮影は西海岸だったそうなので、
メア・アイランドが何か関係していたのかもしれません。

冷戦真っ最中のアメリカで、ロシア人が映画でどう扱われていたのか、
ちょっと興味がありますが、DVDは出ていないようです。

なぜ中国語のポスター(笑)

簡体字なので想像するしかないですが、普段の訓練が侵略戦争の備えになる的な?

全員顔が濃い(笑)
中国人の理想とする顔貌というのがだいたいこれでわかりますね。
若い頃の毛沢東は中国人にとってのハンサム、
北朝鮮の人の理想は若い頃の金日成だったと聞いたことがありますが。

こちらは何かの百周年で、労働階級の支配する政治万歳、
のような気がします。(適当)

"上に上がって手を洗っていらっしゃい!”

マッカーシズムというのはマッカーシー上院議員の告発をきっかけに始まった
いわゆる「赤狩り」ですが、これに批判的だった女性議員、
マーガレット・チェース・スミスが、マッカーシズムという汚い泥を
家(議会)に持ち込んだ ゾウを叱り付けています。

なぜゾウなのかというと、この「マッカーシズム」という言葉が
生まれたのが、この漫画が最初だったから。

曲芸のゾウを「重ねた赤いペンキ缶」の上に立たせようとする議員、
ゾウは嫌がって「ここに立てっていうの?」


これもマッカーシズム批判の戯画のようです。
赤いペンキ缶を持ち刷毛を振り回して人を追いかけているのがマッカーシー、
後ろに立っている人の看板には

「フランコとチャンのためじゃないならお前は非国民だ」

真ん中の女性は嘆願書に署名してもらおうとしていますが、
人々は怖がって逃げているという・・・。

「私はFBIのコミュニストだった」

フランク・ラブジョイ主演、1951年の映画です。
FBIに所属する主人公が共産党本部に入り込み、スパイを行なっていた、
つまり当局に共産との情報を報告していたという話ですが、
これは実際にあったことだそうで、ある手記を基にしています。

赤狩りについては、例えば映画界でも告発された方、した方と真っ二つで、
調べられた俳優にチャップリン、ウィリアム・ワイラーなど。
反対運動をしたのは

グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、
ハンフリー・ボガート、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、
ベニー・グッドマン、キャサリン・ヘプバーン、フランク・シナトラ

で、逆に告発者側となったのは

ロナルド・レーガン、ウォルト・ディズニー、ゲイリー・クーパー、
ロバート・テイラー、エリア・カザン

など。

こういうのを見ても、どちらが正しく、どちらが間違っていた、などとは
後世になっても誰に判定することもできない気がします。

日本でも昔人気のあった女優さんが自称リベラルにまつりあげられていますが、
その年代の人って、この時代の「反マッカーシズム」は表現者としての使命、
と捉えてそれに乗っかることをよしとしているような・・。

今回の「空母いぶき」の佐藤浩市さんのあれも、本人がというより
どこかからそうするように依頼なり意向があったんじゃないのかな。

映画関係者は昔から反体制左翼が伝統的に多いんですよね。

最近、国の助成金で映画を作っておいて、その映画がなにやら賞を取ったら
国からの祝意を辞退したい、と言い放った監督がいましたが、あれもそんな感じ。

公権力と距離を保ちたいなら最初から助成金を断るべきだったよね。

水爆実験の時らしく、キノコ雲の根元に艦船の影が見えていますね。
なんでこんな不穏な画像を使うの?

まず、「それはここでも起こりうる」して。
「自警団(だと思う)に加わりましょう」と言うお誘い。

ニュージャージーのニュー・ブルンスウィックと言う街の自警団らしく、
ジェイズドラッグストア、マジェスティックベーカリー、メイドウェル家具店、
写真現像店、不動産屋、宝石店、ホテル兼レストラン・・。

つまり、街のお店が協賛しているというわけですが、
それにしても大層な・・・・。

自警って具体的に何をするのかというと、つまりこの流れで言うと、
赤い人を告発しましょう、ってことなんだと思います。

こえー(笑)

ここで時代は少し巻き戻り、戦時中のポスターを。

A slip of the lip can sink ship

「唇から漏れた一言がフネを沈めることもある」

向こうで真っ赤に炎上しつつ沈みゆく船、そして乗員は悲壮な顔つきで
(まあそうなるでしょう)助けの手を求めています。

その下には、

「部隊の移動、船の航路、武器などについて会話しないでください」

とあります。
真珠湾後作られた映画でも、日系人やドイツ人が会話に耳をすませている、
と啓蒙するためのシーンが描かれていましたね。

Loose Lips Might Sink Ships

その一言がフネを沈める

「このポスターは国家の勝利に寄与するための役割を担って、
シーグラム株式会社が作成いたしました」

企業がこんな啓蒙ポスターを作っていたんですね。
シーグラムは2000年にコカコーラに買収された飲料会社です。

アンクル・サム(アメリカ合衆国の擬人化)が、造船所の
工員たちにシルバーのお皿を運んでいる絵。

ジョージ・ミラーと言うのはカリフォルニア下院議員で、
民主党の議員です。


自由でない社会の自由メディア(Free media in unfree societies)

を標語に、アメリカ合衆国議会の出資で運営されていたラジオ。
現在でも放送は毎週1,000時間以上、28の言語で、短波、AM、FMおよび
インターネットによって行われています。
公式の任務は、

「事実の情報と思想を広めることにより、民主的な価値と制度を促進する」


「真実の」になっていないところがまともな気がします。
「真実」ではなく「事実」を伝えて欲しいですよね、日本のオールドメディアも。

こいつら、フェイクニュースを作り出すだけでなく、自分たちに都合の悪いことは
報道しない自由を行使して伝えないばかりか、例えばアリバイ作りのための記事に対しては
卑怯にも検索されないように検索回避タグを記事に埋め込んでましたからね。
事実を報じず真実を封じる、こんな団体を報道機関と呼ぶのか?って話ですよ。

アメリカも含め、今世界的に旧態メディアの劣化が極地に来ていると感じます。


「彼女に真実を聞かせずに育てないで」

ラジオ・フリー・ヨーロッパのポスターです。
あれ?こっちは「真実」か・・・・。

それでは聞きたい。
真実ってなんですか?

 

 

 


世界一太った双子の姉妹、その後〜My 600lbs Life

2019-05-08 | アメリカ

 

軽く流すつもりが我ながらびっくりのシリーズ第3話目、
「マイ600パウンドライフ」、ブランディとカンディの物語最終回です。

まず体重を400パウンド台に落とした妹のカンディがナウザラダン博士の
バイパス手術を受けることになりました。

日本でバイパス手術というとそれは虚血性心疾患に対して行われるものや、
同じ消化器系でも、アメリカとは逆に、疾患のある部分を迂回して
栄養が取れるようなバイパスを作るという手術を意味します。

それではアメリカの減量手術とはどういったものでしょうか。
それは、博士が言っているように、消化器を通過する食べ物を物理的に少なくし、
体重を減らしていくと言うもので、以前も説明したことがありますが、

ルーワイ胃バイパスと呼ばれています。

先生が説明していることをもう少しわかりやすく解説すると、
まず、胃を20~30ccの小袋に分け、その小袋に小腸(small intestine)をつなぎます。

食べ物が流れる小腸の途中に、胆汁と膵液が流れるように
もう一方の小腸の端を吻合します。

栄養の吸収をより多く控えたければ、小腸を長めに吻合、
少しでよければ短めに吻合、とここで調節を行います。

体に入ってくる食べ物の量は同じでも、手術で小袋をつくることによって、
吸収を悪くすることによってエネルギーの取り込みをさらに少なくするのです。

さらにそれに加えて、胃切除(sleeve gastrectomy)を行うようです。
胃をどのように切るのかは、このビデオを見ていただくとわかりやすいです。

Sleeve Gastrectomy Animation

バイパス手術だけでは200キロ超えた人には効き目が薄いようです。

そしてこれが動画の方法で切り取った胃のパート。
いかに彼女の胃が肥大していたかがわかります。

手術が終わり、自宅に帰ったカンディさん、

「ちょっとの間にものすごく体重が減った気がするわ」

いやそれ気のせいだから。

「もう二度とごめんだわ」

術後が辛かったことを言っているのでしょうか。

「辛い手術でしたが彼女は頑張りました」

次に体重の多い姉のブランディが同じ手術を受けることになりました。
カンディが手術を受けてから実に8ヶ月が経過しています。

「目標は胃切除の手術にまでこぎつけることだ」

なんか含みのあるセリフですね。

しかし、どうでもいいけどこの医療スタッフ、全員太り過ぎてね?
あんたらのバイパス手術は必要ないんかい、と聞いてみたい。

減量手術で有名な博士ですが、神様ではありません。
特にバイパス手術中、患者が出血、血栓、肺炎、心臓発作を起こし、
死亡することだってないわけではないのです。

もちろん患者はそうなっても医師を訴えない、という契約書を書かされます。

ブランディのような食べ過ぎを手術でなんとかするというのは、
実際問題大変難しいものだ、と博士は語ります。

いきなり場が騒然となりました。
ドクターやスタッフが走ったりしています。
ブランディの体は手術のストレスで肺塞栓症を起こし、心停止してしまったのです。

顔色を変えて駆け込んで行くスタッフの背中に向かって
ブランディは必死で叫ぶのでした。

「お姉さんに何があったの?!」

「彼女がわたしをおいて行くなんてダメよ。嗚呼神様」(直訳)

なんとか死なずに手術から生還したブランディですが、意識はなく
全身をコードで繋がれている状態に。

そして今だに血圧が下がったままのブランディ。
家族は待合室でただひたすら祈ることしかできません。

「下手すれば脳に障害が出ることもあります」

おいおい。

ブランディの意識がようやく戻りました。

涙に濡れた目を開け、なんとか自分が生きていることを確認。
とりあえず手術も成功したということになります。

回復後測った体重は70キロ当初から減っていました。
これでなんとか200キロくらいになったことになります。

最初の頃の無邪気に減量を喜ぶ様子はありません。

ブランディはその後89キロ減らして177キロに。
カンディは194キロ、約80キロの減量です。
手術が大変だっただけ姉の体重の方が少なくなってしまいました。

辛かった手術のことを思いながらも、若干表情は明るく。

手術は減量の第一ステップにすぎません。
これをいかにあとに続けていくかが目的であり、多くの人たちは
そこで挫折してしまうと言われています。

しかし、彼女たちが双子で何をするのも一緒であったことが、
今回その困難を乗り越えるのに大きな原動力となったのです。

二人は同じ手術を耐え、手術後励まし慰め合い、どうしていけば良いか
前向きに、しかも誰よりも熱心に話し合えるパートナー同士だったからです。

番組の勧めもあったのでしょうが、二人はジムにトレーニングに行くことになりました。

ジムの会員に大々的に紹介されて照れる二人。

こんな体でカーディオなどできるのか?と思いますが、
そこはそれ、皆腫れ物に触るようにやってくれるので大丈夫。

二人にとってここが「大きな前進のための第一歩」なのは、
二人きりの世界から初めて外に出たという意味があります。

二人の不安をよそに、ジムのトレーナーは懇切丁寧に、
彼女たちのための特別プログラムを組んで指導してくれました。

しかも、彼女らに気を遣って営業時間外にトレーニングしてくれているようです。

番組ではジムを紹介して減量を続けるとともに、
精神科医を紹介してメンタルをケアするということまでやってくれます。

二人の肥満の原因を作った彼女らの母も同行。

精神科医は彼女らの互いに対する精神依存の状態から聞いていきました。

互いに依存しすぎるのも問題だというわけでしょうか。

まあしかし、こういうセラピーにゴールはないのです。
ただ現状を聞いてもらうだけでも救いになるということもあります。

二人の肥満の原因を作った母親。(しつこい?)

実は彼女らの父はアルコール&麻薬中毒だったそうです。
子育てどころではなく、双子が泣くと親はシリアルをボウルに
ざらざらっと空けて勝手に食べさせたりしていたとか。

「時が来たら二人はきっといい方に向かって歩いていきますよ」

この精神科医の言葉はのちに実現します。

そして何回めの計量になるでしょうか。
カンディの体重はついに162キロに。

嬉しそう。

ブランディは約100キロの減量に成功しました。

そして診察の最後に、ナウザラダン医師は、彼女らを称えます。

「君は163キロの減量に成功したね」

「今どんな気持ち?」

嬉しいに決まってますよね。
初めて二人で笑っている様子を見た気がします。

この写真を見る限り、道は遠いという気もするのですが、
少なくとも彼女らは自分で歩き出しました。

二人がこの番組に最初に取り上げられたのは2016年のことです。
三年後の現在、その後彼女らがどうなったかというと・・・。

なんと妹のカンディさん、その後アフリカ系の男性と結婚し、
2017年の9月に可愛いベビーを授かりました。
全身が写っているわけではありませんが、随分痩せているのがわかります。

そしてもっと驚くのがお姉さんのブランディ。
2018年秋のスナップです。

この痩せっぷりは、おそらく100キロを切ったんですね。
彼女はカンディの娘のよき叔母さんとして人生を楽しんでいるようです。

そして、痩せてみればキリッとしたなかなかの容姿ではないですか。

どちらかが結婚したということは、互いに対する依存も今は
全くなくなったということになります。

全てがこのようにうまく行く例ではないのかもしれませんが、
彼女らはテレビに出られたことでその運命を変えることに成功しました。

インターネットに流れる彼女らの画像は多く、いかに彼女らが
アメリカ国民に応援されているかがわかります。

皮肉っぽくいうなら、こういうのも「アメリカン・ドリーム」の一種でしょうか。

 

 


世界一太った双子の苦悩〜アメリカ肥満事情その2

2019-05-07 | アメリカ

 前回に引き続き、「My 600 lbs Life 」で紹介されていた太った双子の話です。

今や260~70キロの体重に揃ってなってしまった双子の姉妹、
ブランディとカンディ。
やっぱり生まれた時から太っていたわけではありません。

おそらく1歳くらいの写真でも、ごく普通のアメリカの赤ちゃんです。
しかし、彼女らは成長するにつけ、同じように太っていったといいます。

お誕生日の写真だと思われます。
こういうのを見ると、やはり親の食べ物の与え方が間違っていた、
ということを思わずにいられません。

「molested」というのはいじめられた、ということだと思われます。
いくら太っている人が多いアメリカとは言え、子供の肥満は流石に
大人ほどではないので、いじめの対象になったのでしょう。

小学校低学年の姉妹はもうすでにかなりの肥満となっています。

彼らの母親は彼女らほど太る体質ではないため、娘が揃って
ズンドコ太っていくことにあまり危機感がなかったようです。

「もしそれが深刻なことだと知っていたら・・・」

なんて言って泣いていますね。

異常に太っている子供の親ももちろん太っていますが、
得てして子供ほどではないので、日常に流されるままに問題を看過し、
子供のために何かをすることなく気がついたら手遅れになっているのです。

自分が食べるものもジャンクフードにアイスクリーム、レンジフード、外食。
当然子供にも惰性で同じものを与え続けるうちに
取り返しがつかない状態になってしまい、どうすることもできません。

前回のジャスティンくんは太っていてもその後頑張って体重を落とし、
一流大学に入学することができましたが、これほど異常に太っている子供は
失礼ながらあまり勉強もできないのではないかという気がしますね。

蔑まれ続けてきた姉妹は、より一層内にこもって、
何をするのも姉妹だけ、という人生を送ってきました。

世間と関わらなければ誰にも傷つけられることはない。

その生活は二人でようやく成り立つものであり、片割れがいなくなれば
自分も死んでしまう、そう思っていたかもしれません。(伏線)

不思議なことに、超肥満の彼ら彼女らが仕事をしているのを見たことがありません。
この「全部食べ物に消えてしまう」というお金にしても一体
どうやって手に入れているのか、番組では説明されることはありません。

生活していくために最低限のことをし、残りの時間は何をするかというと、
特大のソファに寝転がって、何か食べながら一日中テレビを見るのです。

右側の本棚にあるのは本ではなく、全てビデオです。

しかも彼女らの食べるものといえば・・・・

カロリーだけは高いが脂肪を増やす以外の
なんの役目もしなさそうな食べ物を口にする時、
彼女らは全く幸せそうではなく、苦痛に満ちて見えます。

こんなものを大量に食べ続け、1日寝そべってテレビを見ていれば
すぐに死んでしまうことは誰よりもわかっているのです。

「わたしは自分の体重にじわじわと殺されつつあるんだわ」

かろうじて体を動かすのはトイレに行く時だけ。

「最悪の事態になる前に止めなくてはいけないのに」

母親の容貌には若い頃の美貌の名残りが伺えます。
しかし、この家庭にも父親の姿はありません。
こういうことも双子の肥満に無関係ではないかもしれません。

無気力な目をして、それでも彼女は訴えるのでした。
このままではいけないとわかっていると。

「精神的にも健康から言っても、そしてお金だってちょっとは・・」

ん?「Little bit」?お金は「大きな問題ではない」ってことですよね。
どうやって収入を得ているのか本当に不思議。


さて、そこで彼女らはこの番組に応募し、「なんとかしてもらう」ことにしました。

ところで、自分では現状をどうしようもできなくて、藁をもすがる思いで
この番組の被験者に応募してくる肥満者はたくさんいるのだと思いますが、
テレビですので全員がその対象に選ばれるわけではありません。

しかしながら不幸中の幸い、彼女らは「年頃の、しかも双子」という
テレビ製作者から見て大変「絵になる」条件でした。

この番組にレギュラー出演している、肥満の人の外科手術を専門にする
外科医のオフィスは西海岸にあります。

番組に選ばれた彼女らはそこに行くのに車の長旅を決行。

移動中の食事はほとんどドライブスルーで注文したものを、車の中で食べます。
とにかく二人は「人目に触れたくない」のです。

「皆がわたしたちを見て色々いうので人前に出たくない」

そう言いながらストロベリーサンデーをドライブスルーで注文。

年頃の女性としてはそういう視線や軽口に耐えられないのです。

スモークハムのサンドイッチを4つ(つまり一人で二つずつ)注文。

「わたしたちのどちらが欠けても生きていけないの」

母親がドクターのオフィスで先に来て娘たちを待っていました。
緊張の面持ちでまず計量を行います。

妹のカンディの体重は587.9パウンド。266.7kgです。

姉のブランディは274キロ。

姉のブランディは自分の体重を直視することさえままならない模様だった、
と妹のカンディ。

267キロも274キロも同じじゃないか、という気がしますが、
姉より7キロも軽い?妹はちょっと余裕こいていますね。

番組でおなじみ、ヨーマン・ナウザラダン博士登場。
博士はイラン系でテヘラン大学を出ています。

いつも患者に言うように、博士はまず50パウンド(22kg)
一ヶ月の間に落とすことができたら、手術を考えよう、と言い渡します。

手術のリスクを軽減することと、患者に、自分の生活を
改善し、真剣に自分の体重に向き合う覚悟があるか試す意味があります。

長丁場の治療に備え、二人は家を借りたようです。
早速一ヶ月で22キロ痩せるために審議中。

手を自分のお腹に乗せているお揃いのポーズがちょっと可愛いですね。
太った人の番組を見ると、ほとんど全員が
自分のお腹をテーブルがわりに食べ物のお皿を置いて食事を取っています。

健気にもカロリー計算した食べ物を用意して、とにかく
これを食べ続ければなんとかなるだろうと作戦を立てます。

しかしこうなってもやっぱり自分たちで料理をしようとは思わないのね。

「とにかくわたしたち、やるしかないのよ」

不安そうなお姉さんのブランディ。

そんなブランディの顔に初めて笑顔が浮かびました。
一ヶ月食べ物を工夫しただけで30キロの減量に成功したのです。

妹のカンディは約32キロのウェイトロス。
見た目は全く変わってませんが。

しかし、博士は彼女らが減量の目的を達成したにも関わらず
検査結果が出るのを待つ間、手術を行うことを延期しました。

どうもどちらかに気になる点があったようです。

手術を先延ばしする理由、それは二人の心臓です。

「カンディ、君のEKG(心電図)はちょっと異常だった」

30キロ以上の減量をしたといっても二人とも堂々の200越え。
今の状態で手術をすることにはリスクが多すぎる、とドクター。

「一ヶ月でもう13〜4キロ痩せてください」

「がーん」(´・ω・`)「がーん」(´・ω・`)

ここに至って、二人は突然やる気モードになって料理の真似事を始めました。
カロリー計算したものを食べるだけで30キロ痩せたので、自信と弾みがついたようです。

「わたしたちの人生はまさに今やっていることにかかっているのよ!」

食べ物だけではなく、軽い運動も始めることに。
まあ、他にすることがないんですからやるしかないよね。

運動といっても、椅子に座ってベルトを引っ張ると言うだけのものですが、
それでも今まで何もしてこなかったのですから効果は絶大。

なんと、前回の計量から32ポンド(14.6キロ)落とし、
体重は226キログラムに。

「もう少しで500パウンドを切るわ!」

うーん、これが彼女に取っての「大台」ですか。

さらに、また一ヶ月後、カンディはそれから19キロ減らし、
目標の500パウンドを大きく下回る218キロに。

この嬉しそうな顔をご覧ください。

というわけで、まず妹のカンディがバイパス手術を受けることになりました。

続く。

 


「我が272.155キログラム人生」〜アメリカ肥満事情 その1

2019-05-04 | アメリカ

今日は連休スペシャルで息抜きの話題をお楽しみください。

さて、アメリカに滞在すると、主にネタ探しのためにテレビを観ます。
日本人の感覚ではとても信じられない一般人の露出型番組は、
ある程度「やらせ」だとしても、よくこんな恥知らずなことを
と呆れるようなプライバシーをネイションワイドに公表する人が
それこそ次々と出てきて唖然とさせられます。

しかしその中でも、医療系に解決を見出す悩める人たちがテレビで
恥とその超肥満の体躯を晒し、その代償に局のお金で治療を受けさせてもらう、
という番組を
今回はご紹介しようと思います。

なんども言っていますがアメリカにはデブが多い。
BMI30以上の比率は33%で日本の約10倍です。

この数字は18歳以上のもので、18歳以下の統計においても
18.4%と、こちらもアメリカは世界一のデブ大国ということになります。

この番組で紹介されていたのは、まだティーンエイジャーだというのに
ここまで体重を増やしてしまい、苦悩を味わう一人の少年。

太り過ぎで家族と一緒にモールに行っても10分で息が切れてしまいます。

「世界一太ったティーンエイジャー」、彼の名はジャスティン。

幼い頃から太っていて、洋服を探すのも一苦労だったとか。
アメリカには肥満専用のブティックなどもあって、
日本では考えられないほど太った人に「優しい」社会なのですが、
それでもやはりこう規格外だと自ずと限界があります。

ジャスティンは歌が上手く、心優しい少年です。
太りすぎて皆と同じことが何もできないこと、
何より、若くして死んでしまうことを恐れ、悩んでいます。

「普通の10代がしていることができるようになりたいんだ」

子供の肥満は、断言しますが100パーセント親のせいです。
ジャスティンの母親は、ただでさえ太りやすい因子を持って生まれた
息子を、その無知と愚かさで後戻りできないほどデブに育て上げてしまいました。

もちろん彼女自身も太っています。
モールを家族で歩くシーンを見る限り、夫のいない彼女は
マクドナルドで働いているようですが、自分自身が
職場の商品の愛好者なので、当然子供にもそれを与えたりするわけです。

料理は一切しません。

日本人のまともな感覚では、全く料理をしない親なんているのか?
と訝るでしょうが、実はみなさん、アメリカ人から聞いたところによると、
多くのアメリカ人は「料理をしない」のだそうですよ。

NYのおしゃれな女性の生き方を描いたSATCは、四人の登場人物のうち
料理をするのは辛うじてユダヤ人と結婚し彼に気に入られようとする時の
シャーロットだけで、皆外食かそうでなければ宅配の紙パック中華を食べています。

実際の例として、日系アメリカ人のわたしの知人の妹の家庭を挙げると、
彼女はカリフォルニア大学の数学教授と結婚していて、夫はユダヤ系。
本人はMITを出ていますし、彼の兄弟は全員がアイビーリーグ卒、
弟は弁護士で兄は医者、当然実家も裕福なのですが、
彼ら兄弟を育てた母親は家で一切料理をしたことがなかったというのです。

まさか、と思うかもしれませんが、アメリカ人は知的レベルと関係なく、
食に関してはとんでもなく寒々しい生活を送っている人が多く、外食以外は
レンジフードを自分の食べたい時間に勝手に作って自分の部屋に持っていき、

各部屋にあるテレビを観たりパソコンをしながら食べるのがスタンダード。
最近は家族揃っての外食すらしない家が多いらしいのです。

ジャスティンの母のような人は決して珍しくなく、これこそがアメリカを
超肥満大国にしている大きな土壌というわけなのですが、とにかく
気の毒なのは人より太りやすい体質に生まれてしまった彼女の息子です。

肥満に悩み続け、思い余ったジャスティンは、ある日自分で番組に応募しました。
突出した肥満であれば、採用されやすいし、もしそうなれば、
手術代を
テレビ局に出してもらえる可能性があるからです。

アメリカの医療費はそれこそ目が飛び出るほど高いのが普通です。
病院の方は、患者が医療費を払えることがわかるまで決して治療しません。

わたしも昔、公園で遊んでいて腕を骨折した息子をERに連れて行った時には、

「帰国してから保険会社に請求するから今クレジットカードで払う」

となんども言っているのに、いつまでもPCをパコパコやるだけで、
痛みで呻いている息子をいつまでも診察室に通してくれず困り果てたものです。

ましてや肥満解消のための手術など、よほど経済的に余裕がある人でないと
とても手が出ないわけです。

ジャスティンは肥満解消の外科手術をしてくれる医者に
意見を聞きますが、こういう場合、全ての番組がそうであるように、
これだけ太った人にいきなりメスを入れることを医者は絶対にしません。

問題は彼の心臓です。
肥大しきった心臓は手術に耐えられないだろうというのです。

そのほかにも、睡眠時無呼吸症候群、糖尿病、高血圧など
10代始めにして王道の成人病のデパートである彼は、
手術前に自力で痩せることを約束させられます。

こちらは彼のお姉さん。
母親も姉も世間一般でいうとかなりの肥満ですが、それでも
弟ほど切羽詰まった状態ではないので、おそらく自分のことは
「ぽっちゃり」くらいの感覚でいると思われます。

医者に、「手術までに食事を改善して体重を減らせ」
と言われたので、姉はかなりやる気になっているわけですが、でもねー。

家族が一丸となって心を入れ替え、食事を見直したりしない限りは、
このクェストをクリアすることはまず無理だと思うんですよね。

とにかく、一番問題なのはこのカーチャンなんだよ。

自分が料理しないので、ジャンクフードを三度三度買い与え、
むしろそれをたくさん与えることが「愛情」だと思っている節があります。

息子が医師のカウンセリングを受けて、手術のために
悲壮な決意をしているのに、カーチャンはなんのてらいもなく
今までと全く変わらないジャンクフードを食べさせようとして、
息子に静かにブチ切れられるのでした。

息子さん、お母さんに怒りを吐き出してしまいました。

17歳の少年には食事を自分でなんとかするという術がありません。
頼りにできるのは母親だけなのに、その母親がここまで愚かだと・・・。

「わかってるのよ。でもどうしていいかわからないの!」

愚かな母親は息子の反撃を受けて泣き出します。
その向こうには彼女が買ってきた食べ物の山が(笑)

このかわいそうな少年と母親がどうなるのか、少年は手術を受けられるのか、
大変興味のあるところでしたが、ちょうどここで出かける時間になってしまい、
結局結論は見逃してしまいました。

今、その結果を検索するために

「ジャスティン テキサス アマリロ ファット」

でググったところ、大変嬉しいことに、彼はこの後体重を正しい生活によって
300ポンド(136キロ)減らし、(それでも特大から大になった程度ですが)
その後教会で歌の仕事に就くことになったということを知りました。

痩せておしゃれになり、イヤリングを付けた最新のジャスティンくん。
なんか肌も綺麗になりましたよね。
テキサスA&M大学(優秀!)への入学も果たし、歌手になる夢のために勉強もしています。


さて、次に、今回の本題となる番組を紹介しましょう。

「ジャスティン・ケース」(誰が上手いこと言えと)はこの番組、

「My 600lbs Life」

のティーンエージャー編です。
番組は、「毎年アメリカでは何百人もの肥満患者が
減量のための手術を受けている」という字幕で始まります。

タイトルロールにはこれまでの出演者の姿が映し出されます。
この男性の脚はリンパ浮腫によってとんでもない「もの」になってしまっています。

しかし、「彼らのうち長期的に手術が成功し健康体になって
痩せることができるのは5パーセント以下なのです」ひえええ。

下のセリフは、娘に押しつぶされた母と押しつぶした娘の悲しい会話です。

とにかく、100人のうち成功するのが数人しかいないとわかっていても、
現状を打開するには何かをするしかない、とすがる思いで
手術を受ける人が後を絶たないというのです。

ジャスティンが減量に成功したのは稀なケースということですが、
これは彼が若く、周りに彼を導こうとする人たちがいて
道を間違えなかったということなのでしょう。

「もうこんなのいや!死にたい」「大丈夫よ!あなたは大丈夫」

カメラが回っていても、出演者は感情をあらわにする場面が多く、
大抵皆絶望して泣いたりするわけですが、こういうのを見ると

「ここまでなる前になんとかすることはできなかったのだろうか」

と答えはわかっているのについ問わずにいられません。

「このシリーズは一年の間600パウンドの人生をもつそれぞれが
彼らの人生を取り戻すべくトライする姿を探求したものである」

はい。

アメリカでテレビを見るときには必ずキャプション付きでね。

今日ご紹介するのはなんと珍しい、29歳の双子の女性です。
ブランディとカンディ、それぞれ266キロ、273キロという体重の持ち主。

二人の寝顔から番組は始まります。

なんとこの二人、姉妹二人で一部屋に住んでいるだけでなく、
巨大なベッドにシーツも敷かず一緒に寝ているのです。

実はずっと寝ていたいくらい起きることそのものが面倒ですが、
それでも朝はやってくるので起きなくてはなりません。
散々苦労して起きて立ち上がり、シャワーを浴びるのです。

「全てのことがいちいち大変なの」

まだ彼女たちは自分自身で体を洗うことができるだけ
この番組の出演者の中ではましな方です。

「二人とも、もうただギブアップしたい時もあるの」

それでもシャワーを浴びなければ、巨大な肉襞の下は
たちまち汗疹で大変なことになってしまうのです。

この番組では太った人の体をごく一部をぼかして写してしまいますが、
あまりにも規格外れに脂肪そのものは全く隠す必要はないと考えているようです。

一日のルーチンがいちいち大変なのに、巨大な身体の二人の姉妹は
かろうじて身を寄せ合って狭いスペースで生きています。

毎日の繰り返しが苦痛では生きていくのもさぞ辛いことでしょう。

胃のある付近を洗うのが一番大変だと言っています。
手が届かないんですね。

それをいうなら膝から下は洗うことなど完璧に不可能なのではないか?
と思いますが、一体どうしているのでしょうか。

と思ったら次に答えがありました。
手の届かないところは片割れにケアしてもらうのです。
体を拭くのもお互いを必要とします。

二人の顔には笑いは一切なく、ただただ苦痛に満ちた作業を無表情で行うだけ。

映像を流しながら彼女ら自身が語るナレーターは切実です。

「本当に自分の身体が嫌い。腕にも問題があるの」

Burden というのは重い荷、積荷などのことをいいます。
それだけ食べたんだから当たり前だろ、とついいいたくなりますが。

それにしてもこの身体・・・どこがどうなっているのか。

この低いベッドに乗るのにも踏み台が必要なくらい足が上がりません。
シャワーが済むと二人は互いの体にパウダーを塗り合います。

この番組をいくつか見て知ったどうでもいい知識ですが、太った人は
これをしないと
股擦れの症状が身体中にできてしまうのです。

こんな生活をしている二人はどんな幼年時代を送ってきたのでしょうか。
彼女たちに少しでも明るい明日はやってくるのでしょうか。

 

続く。



ルネ・マグリット展@ サンフランシスコ近代美術館

2019-03-06 | アメリカ

今日は息抜きに美術展のお話です。

アメリカ滞在最後の日、わたしはサンフランシスコの中心街を
目に刻んでおこうとダウンタウンに車を向けました。

アメリカ在住の友人から、ホームレスが増えすぎて
この写真左側に見えているコンベンションホール、「モスコーネセンター」も、
最近は会議を申し込みも減っている、という悲しい噂を聞いたので、
現状を確認する意味もありました。

とりあえずこの辺りは渋滞が相変わらずひどいです。

まあ確かにホームレスは増えたかもしれません。
しかし、初めてここに来た17年前も路上生活者は普通にいましたし、
いうほどひどくなっているとは思えません。

中国人は多いですが、それ以上に全米から人を集まっているらしいのも
昔と全く変わっていません。

このビルは昔確か「ジャパニーズ・スィーツ」(和菓子)の店だったような。
いつの間には居酒屋になっていました。

「銀兎」と書いて「GINTO」というセンスはともかく、
おそらくこれは日本人のオーナーであろうと思われる店名です。

ここに来たらいつもウィンドショッピングするモールに行ってみました。
高級デパートが二軒、有名ブランドも軒を並べるおしゃれなモールに、
なんだかものすごく既視感のある造形物が・・。

マーケットストリートを歩いていると、アメリカ基準で言うところの
長蛇の列ができているピンクのお店がありました。
ここは昔、ニーマン・マーカスのアウトレットだったはずなのですが、
いつの間にかキャンディ屋さんに代わったのかな、と思ったら、

Candytopia offers a sweet time in San Francisco

キャンディーのテーマパークでした。
キャンディでできた絵画とか彫刻、マシュマロのお風呂・・。

なんか速攻飽きられそうな気もしますが・・・。

その道向かいにあるのは「アイスクリーム博物館」。
2016年にニューヨークに第1号店ができて以来増殖中。

Look Inside San Francisco's Museum of Ice Cream 

こんな立派な(多分築100年くらい)建物の中で何をやってるんだか・・・。

アメリカで日本のラーメンを有名にした一風堂。

街中を車で走っていてサンフランシスコ近代美術館、
SFMOMAで行われているマグリット展のポスターに気がつき、
行ってみることにしました。

断片的に作品を観たことはありますが、
マグリット一人の展覧会は初めてです。

常設展の入場券にマグリット展は別料金が必要です。
展示が行われている4階には専用チケットがないと入れません。

会場入り口にいきなり壁一面に作品を描き出してありました。

ちなみにこちらが本物ですが、こう言う画風なので本物と変わりありません。

こうもり傘の上のグラス。(水入り)

マグリットと言う人は一つのことを思いついて気に入ったら
しつこくしつこく同じものを描き続ける傾向があったようです。

そのモチーフの一つ、窓。

最初の絵もそうですが、窓と絵画をシンクロさせるのがお気に入り。

このアイデアがウケたので「しばらくこればっかり描いてやろ」と思ったんだろうなあ。

チューバ炎上中。

銃が血まみれ。
ちなみにこのタイトルは「Le suivivant」。
英語で「The survivor」サバイバーってことですが、作者はこの絵について
全ての説明を放棄していて、見る者の想像に任せているそうです。

って、どう見てもこれは反戦メッセージだと思うんだが。

「La voix du sang」という原題の意味は「血の声」。
英語のタイトルは「Blood Will Tell」=血が語る。

絵はともかく、それにこの題はないんじゃない?

これを全く理解できないのはわたしだけでしょうか。
マグリットってもしかして中二病か?(ああっ、言ってはいけないことを)

これもマグリットお気にのモチーフ。
自分の顔をりんごで隠しちゃうっていう。照れ屋さんなんだからー。

これも自分だけど後ろ姿。

ベビカから指差す赤ちゃんに赤ちゃん目線で解説してあげる
英才教育な母。

このぬりかべが右手に持っている変なものを覚えていてくださいね。

上半身が人間なら人魚、下半身が人間だと・・・半魚人?

半魚人と帆船のシルエットもお気に入りのテーマだったようです。
っていうかさあ、この人人間の顔が描けなかったんじゃないのかな。

波の模様をした帆船だけの絵もありました。

わたしがマグリットで好きなモチーフを挙げるならこれ。
なんでも彼の実際に住んでいた家なんだそうですが、日本で言うところの
3LDKで、銀行員だった彼の慎ましい暮らしを彷彿とさせます。

空は晴れているのに景色は夜。

木を強調してみました。

上とほぼ同じ。何回描いても飽きなかったのね。気持ちはわかる。

で、このモチーフの絵の題名なんですが、

L'empire des lumieres「光の帝国」

ひかりの・・・・・ていこくだとお?

やっぱり中二だ。
普通っぽい絵に変なタイトルをつけて観る人に首を傾げさせる、
わたしも中学2年の時にはそんな絵を描いたものですよ。

今でも覚えてる。阪神総美展で特賞をもらったあの絵の題を。

「平穏なる時空の矛盾」

うっわー恥ずかしいー!
でも今思い出した。あの時の美術主任め、出品する時わたしに無断で

「空間の矛盾」

って題に変えてやがったのよね。
デパートに展示されたのを観にいったら別の題名になっていたんだ。
いくら中二の作品でも題を変えるな。ずっと恨んでるぞ、久保先生。

大きさや木の形、雲の形や空の色を変えてこれでもかこれでもかと。

この部屋の絵全部が光の帝国ですわ。

光の帝国と自分の肖像画のコンボ。

光の帝国が巨大マグリット帝国に。

唐突に岩がある、と言うのも気に入っていた模様。

マグリットの絵は人を困惑させる。
その困惑こそが観る人をして彼の世界を理解しようとする鍵なのではないか、
とこういう光景を見るとそんなことを考えてしまいます。

今回もアメリカらしくたった一つの作品を除いて全て写真撮影可、
という気前のいい展覧会でした。

その写真禁止の作品の前には、終始係員が立っていて、カメラを構えると
これは写真撮影禁止です、と1日に100回以上注意していました。

しかし、その作品と他の作品の何が違うのか、わたしには全くわかりませんでした。

最後のコーナーはいわば「お遊びコーナー」です。

前に立つと、カメラが作動して月が上っていってしまうとか。

マグリットの絵の中に写り込むことができるとか。

写っているのは彼の友達(多分恋人)で、友達は
別のところに立っています。

せっかくなのでわたしも参加してみました。

これ、さっき赤ちゃんが指差していたぬりかべの持っていた燭台?ですよ。
自分の目と唇を利用して燭台を再現できるというわけ。

ちなみにこの絵のタイトルは「The Liberator」。
解放者。はいはい。

美術館を出て高速に向かう途中に市役所があります。

アメリカの役所は結婚式もしてくれるので、
(SATCでキャリーがビッグとしてたでしょ)
お役所の前にこんな人たちがいることがあります。

別のカップルと友人たち。
これから中華街で披露パーティかしら。

高速に乗る手前にあった「街中のマグリット風」。

昔このブログで一度紹介したことがあるこの景色です

その時には今よりずっと木が小さかったので、後ろの

「ONE WAY」(一方通行)

の標識に見せかけた、

「ONE TREE」

というペイントがよく見えたのですが、肝心のTREEの字を
そのツリーが覆い隠してしまっていました。

このツリーは説明するまでもないですが、前に立つ大きな木のことです。

 

終わり。 

 

 


コヨーテポイントと「ジャパノロジスト」ヘンリー・P・ボウイ〜サンフランシスコ

2019-02-19 | アメリカ

サンフランシスコ滞在中、一度だけコヨーテポイントに歩きに行きました。

コヨーテポイントは正確にはサンマテオにあり、
サンフランシスコに飛行機が着陸するとき、左側の窓に座っていると
眼下にその場所を確認することができます。

ところで皆さん、いきなりですが、アメリカでは、歴史を

Pre-Columbian (先コロンブス期)

とそれ以降に分けることをご存知でしょうか。
つまり、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見し、
彼らが上陸して大陸にいた先住民族(俗にいうインディアン)を
征服した後とそれ以前、というわけかたをするとき、
この言葉を使います。(厳密なものではありません)

それでいうと、プレコロンビアン期には、ここコヨーテポイントは
今のような地続きではなく、沼地に囲まれた島だったと言われています。

そんな地形なので真水を確保することができなかったはずなのですが、
地層を調べてみると、わずかながら人が住んでいた痕跡があるそうです。

この土地一帯はメキシコ統治時代、

コエターノ・アレナス( Cayetano Arenas)

という個人に譲渡されており、「コヨーテ・ポイント」の名前は
おそらく動物ではなくこちらからきたのだろうといわれているそうです。

その後、アレナス一族は1850年、ハワードという実業家に土地を売却し、
ハワードはここで「パシフィックシティ・アミューズメントパーク」という
スパ&プールを経営していました。

政府がここを買い取ったのは1942年のことです。

かつてここにあったというアミューズメントパーク、
パシフィック・シティの大きなエントランスの写真です。

向こう側にはジェットコースターのようなものが見えていますね。

実はこんな楽しげなものができていた模様。

記録によると、ボードウォーク、遊園地、観覧列車、メリーゴーラウンド、
回転木馬、ダンス場ともちろんフードコートのようなものもありました。

そして、今写真を撮っているところをサンフランシスコ側から見たところ。
海水浴をするにはサンマテオは今ひとつ気温がやばいのです(笑)

このアミューズメントパーク、シーズン制で最初の年には大盛況でしたが、
(100万人訪れたとある)次のシーズンには4分の1に減り、
第3シーズンの開催が行われることはありませんでした。

その理由はわたしの予想通り、午後になると強風が吹き付けるここの気候と、
それから湾岸に都市部の汚水が流れ着いたためだといわれています。

上の写真に見えている島部分がここだと思われます。

 

ところで、先ほど名前の出たハワード(ホワードとも)家の
裕福な未亡人、アグネス・ポエト・ハワードは、15歳下の、

ヘンリー・パーク・ボウイ(ブイ)

という弁護士、のちに「ジャパノロジスト」、つまり「日本学」の
権威となる男性と結婚するのですが、この男性が、
アグネスの死後、日本政府に招かれて来日し、横浜に住み、
日本女性との間に子供までなしました。

ルーズベルトかと思った(笑)

この人が、フランス文学者であり翻訳家でもある平野威馬雄の父親、
つまり平野レミのおじいちゃんです。

日本美術愛好家として「武威」(ぶい)という雅号をもち、
日本画を嗜み、サンマテオに日本から呼び寄せた庭師に庭園を作らせ、
排日運動の起こっていたアメリカでサンフランシスコ日米協会初代会長として
日本文化の普及に務めました。

ここコヨーテ・ポイントも、アグネスから相続した土地を
他の海岸沿いの町と同様観光地にするため彼が尽力したそうです。

ここには毎年のように訪れていながら、日本との意外な関係について
初めて知ることとなり、また、大変驚かされました。

今では観光地といっても州が保有する公園で、自然博物館やピクニックエリア、
そしてゴルフコースとヨットハーバーしかありません。

向こうに見えているのはサンマテオブリッジ。
サンフランシスコ側からバークレイに渡る長い橋です。

海沿いにはカメラクルーがいるようですね。

コヨーテポイント・マリーナにはヨットクラブがあります。
先ほどの話によると、午後は風が強いということなので、
ヨットを楽しむ人には絶好のコンディションなのでしょう。

とはいえ、午前中にはこの通り鏡のような海面です。

この日は週末でしたが、ヨットをする人はわかっているのか、
ほとんど漕ぎ出そうとする人の姿はありませんでした。

かろうじて浮かんでいたヨットは2隻だけ。
遠目に見てもキャビン?ではのんびりとした雰囲気で、
お茶でも飲んでいるのではないでしょうか。

決して体育会系ヨット部のようなクルーズにはならなそうです。

桟橋には鵜が羽を乾かしていました。
鵜は水鳥ですが、なぜか羽に防水性があまりないため、
水に入るとその度にまめに羽を乾かす必要があるのだそうです。

コヨーテポイントはバードウォッチングのポイントでもあります。
自然公園の一環でもあるんですね。

この日も近くに舞い降りてしばらく生態観察させてくれた鳥さん。

何枚も写真を撮らせてくれました。

ここコヨーテポイントには子供向けの自然博物館
キュリオシティという施設がありますが、その中では保護動物などを
人口で飼育したりもしているそうです。

その中には、こんな生物たちも・・・・。

バナナスラッグ

とか。

タランチュラ

とか。

西洋ヒキガエル

とか。
野生生物で保護しなくてはいけないけど、公園にいるとまずい、
そんな生物をここでは保護しているのだそうです。

コヨーテポイントを歩いていると、頭上を何度も鳥の群れが行ったり来たりします。

カッショクペリカンです。
北アメリカにはアメリカシロペリカンという白い種類がいますが、
この地域には羽が薄茶ミックスのこのペリカンが生息しています。

遠目にはペリカンに見えませんが、彼らは飛ぶとき
長い首を折りたたんで邪魔にならないようにします。

海の上を列を作って何往復もしていましたが、何をしているかというと
魚の群れを見つけると空中から水中へ飛び込んで魚をとるのです。

このようなダイナミックな方法で魚を捕らえるペリカンは珍しく、
例えばシリコンバレーにいた白いペリカンは集団行動をせず
泳いで餌を探し、大抵は他の鳥の獲物を盗んだりするのだそうです。

ここには第二次世界大戦の間、ほんのいっときでしたが、
戦地に赴く商船船員のための特別の訓練を行う施設がありました。

昔このテーマに一項を割いて説明したことがあります。

この石碑は、その学校があったことの記念と、戦地に赴いて
命を落とした船員たちの慰霊碑を兼ねています。

もし皆さんもサンフランシスコに行くことがあったら、
左側の窓の下を見ていてください。

マリーナにヨットが並ぶ突き出した半島がコヨーテポイントです。

逆にいうと、ここにいると、一日世界の航空機が飛んでいる姿を
場合によっては驚くほど近くで見ることができるので、
飛行機好きには「ウォッチングポイント」としても知られています。

アメリカン航空。

デルタ航空。
アメリカ国内便搭乗の経験から個人的にすっかり「見切りをつけた」航空会社。
合言葉は ” Delta, Sucks ! "

この日の旅客機には翼の上にこのようなベイパーが観測されました。
戦闘機のベイパーは翼端から溢れるように現れますが、
かなり速度を落とした着陸寸前の旅客機は、翼の上だけが
薄っすらと煙ったようなベイパーです。

ベイパーは、翼の上下を空気が流れる時、上部に流れる空気と
翼の下部を通る空気に負圧の差が生じ(距離が違うので)
翼の上を通る空気の圧力が下がって温度も下がるため、
空気中の水蒸気が翼の上だけに水滴となって現れる現象です。

(ということでいいですよね?)

というわけでこれは中国南方航空です。

ユナイテッドのおそらく国内便。
よく見ると翼端から細いベイパーが見えます。

KLMオランダ航空。
旅客機の着陸車輪は小型のタイヤが複数あるのが普通らしいと
今回この写真を見て初めて気が付きました。

岩を積んで作った洲には、

「危険は自己責任で」

と釘を刺してあります。
自己責任で釣りをしている人たちがこの日は結構な数いました。

公園内にはポプラクリークとい名前のゴルフコースもあります。
フィーは平日で38ドル、サンマテオ市民なら33ドル、
また「トワイライト」「スーパートワイライト」料金はさらに安く、
それぞれ27ドル、19ドルといったところですが、トワイライトは
午後1時以降にプレイを始めればいいそうです。

ゴルフをしないのでこれが普通なのかどうかわかりませんが、
日本と比べて安いんじゃないでしょうかね。

ちなみに190ドル払えばメンバーになれるそうです。

アメリカは公園のように街中に普通にコースがあるので
ここでならゴルフやってもいいなあ、とよく思ったものです。

公園ではヒスパニック系の家族が子供の誕生パーティを行うらしく
木に誕生日のくす玉人形、「ピニャータ」が吊り下げられています。

中にお菓子やおもちゃなどが詰めてあり、本日の主人公が
目隠しをして棒で叩き割るのがお誕生日のクライマックス。

割れたピニャータからはお菓子が溢れるので、それを
こどもたちがわっと拾いに来るまでがセットです。

アメリカのトイザらス(もうないですが)などには
ピニャーターのコーナーにいろんなデザインのものが売られていました。

わたしの直感が「これは不倫」と決めつけた黒人男性と白人女性のカップル。
男性は結構な年齢、女性は若いけど後ろ姿はご覧の通り。前に回ってもご想像の通り。
きっと男の方には嫁がいるな。

なぜそう確信したかというと、二人の異常なはしゃぎ方です。
人目のつかないこんな公園をイチャイチャしながらもつれ合うように歩き、
いきなりきゃっきゃうふふと走り回る。こんな夫婦っていると思う?

まあ付き合い始めか新婚さんという可能性もないではないですが。

という(面白くもない)ドラマが最後に待ち受けていたわけですが、
ほとんど人気のないこの公園では珍しい出来事でした。

「見てみい、旭日旗や」

映画「トラ、トラ、トラ!」で淵田美津雄隊長を演じた田村高廣が
真珠湾攻撃に向かう機上でいうセリフです。

この、祖国を象徴する太陽の光を写真に撮っていた時、
ここコヨーテポイントと日本の縁など知る由もありませんでした。


ヨットやゴルフ、ピクニックでここを訪れるアメリカ人も、
今やほとんどがそのことを知らない世代になっていますが、
わたしだけはそれを覚えておこうと思います。

 

 


スタンフォード "ザ・ディッシュ”を歩く〜シリコンバレー

2018-12-14 | アメリカ

大久野島で散々うさぎの話をしたので、今日は思い切って気分を変えて
リスと遭遇したアメリカの思い出話をします。

え?全く気分が変わっとらんって?


リスといえば当ブログ的にはもうおなじみ、シリコンバレーの
スタンフォード大学近くにあるスタンフォード・ディッシュです。

正式名称は「The  Dish」。

スタンフォード大学横の小高い丘(標高46m)で、
1961年にスタンフォード大学のリサーチセンターが開設しました。

Dishとはレイディオ・テレスコープ、日本語で言うところの電波望遠鏡のアンテナを
英語ではお皿に見立ててこのように称するのです。

当時4億5千万の費用をかけて作られたものですが、この金額は
アメリカ空軍の出資によってまかなわれたということです。

元々の設置目的は大気圏の化学組成を調査するというものでしたが、
のちにザ・ディッシュは宇宙ロケットや衛星などとの通信用になりました。

そして現在も米国政府の管理下で学術や研究の目的のために使用されています。

NASAの衛星と通信を行っていた時はおそらく非公開だったと思うのですが、
現在、ディッシュのあるこの一帯には3.5マイル(5.6km )のトレイルがあります。

小道以外には立ち入ることもできませんし、バーベキューもピクニックも禁止、
犬の散歩も厳禁ですが、毎日1500〜1800人は訪れる人気のコースとなっています。

さて、その1500人の一人となるべくやってきたディッシュ入り口。

電柱には、いなくなった黒猫を見つけてくれた方には
賞金を出しますという飼い主の切実な訴えが貼られていました。

7月22日からいなくなってこの時すでに2ヶ月経過しています。
どこかの家で保護されているといいのですが・・・。

午後の予定に備えて歩き出したのは、8時ちょうどぐらいでした。

シリコンバレーは9月下旬でも昼間は猛烈に暑いので、
歩くのは朝方がいいと思うのですが、やはり夏休みが終わったので
よそから来ている人が大幅に減ったということなのでしょう。

それと、残念だったのはリスがあまりいなかったことです。

何年か前に初めてきた時には足元がリスだらけで感動したものですが、
今回門の周りには1匹もおらず、延々と歩いていってやっと一匹目に遭遇しました。

10月近くなってすでに冬眠期にでも入ったのかな?と思ったのですが、
後でしらべるとカリフォルニアジリスは、冬がそう寒くない地域では
冬眠せず結構一年中活発に活動しているということでした。

単にまだ彼らの食事時間には早かったのかもしれません。

「ディッシュ」が近づいてきました。

ちなみにこの中は公園ではないので、設置されているのは道だけ。
ピクニックテーブルもベンチも、もちろんトイレもありません。

トイレといえばこの付近は日本のようにコンビニもレストランもない住宅街で、
もしその必要性にかられたらみんなどうしているんだろうと心配になります。

しかしディッシュ側は研究施設を公開してやっているだけでそんなもん知らんがな、
という態度なので、今後もそういう設備の設置は行われないでしょう。

ディッシュが近づいてきて初めて2匹目のリス発見。
本当に今年は変な感じです。

給水設備なのかわかりませんが、白い土管に
ちょこんと後ろ姿が見えました。

手前にいたリスはこちらを見ると向きを変え・・・、

白い土管に向かって走っていきます。

友達のいる土管の淵に駆け上りました。

気のせいかこちらを見ているような・・・。
この辺りのリスはとにかく警戒心が強く、カメラを向けるだけで
何事かを察知して逃げてしまいます。

上空からは定期的に肉食の猛禽類が狙っていますし、
アライグマ、キツネ、イタチ、蛇などに捕食されるので、
敵に囲まれて生活しているとこうなるでしょう。

尻尾を友達のとくっつけると安心感があるのかも・・。

標高46mの円形コースは、右左どちらからいっても必ず一回か二回、
「心臓破りの坂」が待ち受けています。

その一つがこれ。
とはいえ、普通に歩いているぶんには心臓が破れることもありません。

何度もここにきていますが、霧がかかっているのは初めて見ました。

霧は大抵の山より低いところに筋のように立ちこめることもあります。

というわけで、ディッシュの前を通り過ぎるところまでやってきました。
ここでだいたいコースの半分くらいです。

ここから一旦下り、また坂を登っていきますが、この日は
コースにも霧が立ち込めていました。
8月に歩くのとはやはり気温もかなり違います。

ところで、この直後、向かいからやってきたおばあちゃま二人のうち
一人がわたしを呼び止め、

「ちょっと、あなたそんな大きなレンズ持ってるんだからあれ撮ってみて」

とおばちゃん特有の唐突さで命令してきました。

言われるがまま撮った電信柱の上。
肉眼では風速計や風向計と見分けがつかなかったのですが、
シャッターを押して、モニターを彼女に見せると、

「あら、そんなに拡大できるのね。
じゃ一番大きくして。
いいえ、それじゃなくてもっと右を見せてちょうだい」

画面に鷹が写っていることを確認した彼女は、連れに

「だからいったでしょ?あれは鳥だって」

と嬉しそうに宣言しました。

「もう一回ちゃんと撮ってみます。
それにしても良い目してらっしゃいますね」

と振り返って声をかけると、

「そうなのよー」

本当に肉眼ではわたしの2.0の視力でも見えなかったんですよ?

杭ごとに1匹ずつリスが乗っていたこともあるこの一帯にも
全くその姿はなく、ようやく見つけた1匹。
むしろこんな時にこんなところに一匹でいるリスって一体?

地面に平行に伸びた木の幹で腕立てのようなエクササイズを
実行している女の人。

先ほども言ったようにコースから逸れることは禁じられていますが、
彼女はためらうことなくスタスタと脇道に入っていったので驚きました。

ところでうちの近所の公園で毎朝木の枝にぶら下がってエクササイズしている
おばさんがいるんですが、いつか枝が折れるんじゃないかと思って見てます。

公園もあるんだからそこの鉄棒にぶら下がれよ。

朽ち木と電信柱とディッシュ。
基本ディッシュの中は道路以外いっさい手をつけず自然のままです。

今回、そこここに巣を張っていたのがクモ。
レース編みのような綺麗な巣に思わず目を奪われました。

よく見ると蜘蛛の糸はくまなく朝露がビーズのように連なって、
まるで精緻な首飾りのようです。

水色の軀をしたクモの美しさとともに自然の芸術を見た気がしました。

ここまで来るとあとは下りだけです。
スタンフォード大学のフーバータワーが右手に見えています。

かつてのリス地帯には山鳩が餌を探して歩いているだけ。

と思ったら、最後にやっと見つけた呑気なリスさん。
猛烈にお食事中です。

片手で草の茎を抑えてもう片方の手で実を刮げて口に入れています。

この麦のような草の実は彼らの大好物なのでしょう。
カリフォルニアジリスも他の齧歯類と同じく、
ほほ袋にできるだけ溜め込んで巣に持って帰り貯蔵する性質を持ちます。

両手で一生懸命口に食べ物を入れる様子はいつまで見ていても飽きません。

出口まであと少しという時、目の前をリスが横切りました。

 

草地にたどり着いてホッと一息。

というわけで、ちょうど1時間半かけて門まで帰ってきました。

スタンフォード・ディッシュは9月から2月までは6時半にオープンし、
夜7時半に閉門します。
wikiによると冬場の閉門は以前は17時だったようですが、

「それでは仕事が終わってから運動できない!」

みたいなクレームが出たのかもしれません。

しかし、冬場、夜の7時にここに入るのはかなり勇気がいると思う・・・。

この写真にも「警告」としてマウンテンライオンが出ます、
というポスターがありますが、
これは正確にいうと、

「マウンテンライオンがどこかにいるはず

というお知らせなんだそうです。

実はここでマウンテンライオンが実際に目撃されたことは一度もなく、
2011年、マウンテンライオンが通った形跡が見られた
という程度のことだそうですから、たまたま迷い込んだ個体が
残した痕跡に過ぎないのかもしれないし、っていうか、
それは何か他の動物の間違いだったのでは?とも考えられます。

ちなみに、マウンテンライオンというと別種のようですが、
実はピューマのことです。

ピューマか・・・確かにピューマと出くわしたら怖いよね。

今年も一周走破(歩き、だけど)を果たした「ザ・ディッシュ」、
リスの姿もこの「草ソムリエ」みたいな子が見納めとなりました。

「うーん・・・陽を浴びた草の香り、コクのあるボディ、いい仕事してますねえ」


ちなみにカリフォルニアジリスの寿命は6年だそうです。
みなさん、また会いに来るからねー!

 

 

 


宣誓式とコンクリートのカヌー〜アメリカ合衆国 陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-11-12 | アメリカ

陸軍士官学校・ウェストポイント紹介ミュージアム編、最終回です。

「ゴー、アーミー、ビートネイビー!」のコーナーの次には
学生生活が次々tに映し出すカラースクリーンがありました。

これは2016年生徒、すなわち2012年入学した新候補生たちが
剃られたばかりの頭も涼しげに行進している様子です。

詳細は説明されていませんが、巷に出回っている情報から察するに、
彼らは入学が決まり新学期から候補生になる身分。

士官学校ちうのは陸海問わず、新学期が始まるまでに
その精神を叩き直す?というか身につけさせる準備期間を設けるわけです。

聞けば我が防衛大学校でも入校式より前に「着校」し、
基本以前の準備(敬礼とか、制服の着方とか)を学ぶそうですが、
なんと入校式を待たずしてこの時期に辞めてしまう者も出るとか。

この写真は昨日まで高校生だった彼らが、
頭の毛とともにこれまでの甘えを一切断ち切って
士官候補生になる準備段階です。

アナポリスとウェストポイント、どちらが厳しいか知りませんが、
少なくともウェストポイントでは卒業式までには
入学した生徒の3分の2しか残っていないということです。

えーと、これは「アーミー・ネイビーゲーム」のシーンかな?
前回因縁の陸海軍士官学校対抗戦について一項を割きましたが、
これをまとめるためにいろんな資料を見ていて一つ発見がありました。

昔の海軍兵学校のように、ウェストポイントでも卒業時の成績は
冷徹にナンバーが付けられてそれが一生付いて回ります。
有名になれば死んだ後も。

成績トップは普通の高校大学と同じく表彰されますが(後述)
なんと、最下位の生徒も特別に名前が呼ばれてしまうのです。

最下位者の発表はある意味優等生よりも盛り上がるのが普通で、
彼あるいは彼女は全員のスタンディングオベーションでその栄誉を讃えられ、
あろうことか同級生から一人1ドルずつの「お祝い」ももらえるのです。

一人1ドルと言っても侮るなかれ、ウェストポイントの毎年の卒業生は
千人いるんですから、合計で113,692円(今日現在)にはなるわけ。

で、この名誉を担う成績最下位者のことを、なんと呼ぶか。

ゴート(ヤギ)

なんですよ。
なぜヤギか?ってもちろんあれだよね。
海軍士官学校のアナポリスのマスコット、ビル・ザ・ゴート。

最初は落ちてもイテテですむ高さでやる訓練も、
色々とクリアしてきたらだんだん超人レベルになってきます。

比較するものがないからわからないけど、これ多分
結構高いところにあるバーを渡ってますよね。

防具は付けてるけど、高所から落ちると人は本能的に
手を突こうとして手首を骨折したりするものです。
(と、馬から落ちて手首を骨折したわたしが言ってみる)

やっぱり下にマットとか敷いてやるのかな・・・。

ここから先には「ファースティ・イヤー」、最上級生の
最後の一年についてが紹介されています。

4年間耐え難きを耐え忍び難きを忍んでここに至った彼らは、
士官として部下を率いるための訓練に最後の追い込みをかけるのです。

そこでさらなる指揮官としての訓練を受け、士官として
必要な資質についても戦略的な環境の中で身につけていきます。

その中で特に選ばれた30人のカデットたちは「旅団長」あるいは
部隊の「ファースト・キャプテン」として、いろんなレベルの部隊、

「プラトーン」(小隊)
「カンパニー」(中隊)
「バタリオン」 (大隊)
「レジメント」(連隊)

などの統率指揮を経験することになります。
それらの指揮官配置でファースティたちは、軍事倫理と軍人精神を
実証することによるロールモデルとしての役割を果たし、
また「優れた行動」の基準を設定し、それを推し進めることで
他の者に影響を与えることになります。

ウェストポイントでの最後の夏、ファースティはリーダーシップ訓練を通じ、
激しいストレスに晒されながら戦術的な問題を解決する中で、
これまで学んだことを統合する機会を与えられるのです。

ウェストポイントのアカデミック・イヤー(9月から6月までの一学年)
は専攻科目の学習のとともに自己反映のための時間です。

ファースティになり陸軍将校になる役割と責任を引き受ける準備が整うと、
士官の意義と指揮官の資質とは何であるかに焦点が当てられるのです。

東洋系女性のファースティ。
彼女は「プロジェクトデイ」で、学術的、軍事的知識とスキルを
教授たちにプレゼンテーションし、そのプレゼンテーション能力も含めて
評価され成績をつけられます。

先ほども書きましたが、何名かの強力なリーダーシップ能力を発揮する
優秀なファースティは、学生隊の指揮官として旅団を率います。

ウェストポイントから出土した古代の遺跡か?

とか思ってしまいますが、よくみてください。
素材はコンクリートでUSMAの文字が入っているよ。

ウェストポイントの工学専攻学生は、毎年

「アニュアル・コンペティション」

という共同制作コンペを行うことになっているのです。
そのお題には二つあって、一つは模型の鉄橋を作ること、
そしてもう一つがコンクリートのカヌーを作ることなのです。

アナポリスで一番難しい科目は艦艇設計と聞いたことがありますが、
それとは多分違う話だと思います。

とにかくこのお題の無茶なことは、このカヌーは実際に
ハドソン川に放流して浮かなくてはいけないということでしょう。
まあ普通の艦船は鉄の塊なので、コンクリートでも頭を使えば
浮くはず、ということでこの無理めなチャレンジになったと思われます。

制作は候補生たちが手作りで行い、そこで評価対象になるのは
チームワークとリーダーシップだったりします。

成形はまず芯を作ることから始まり、それにレイヤーしていって、
コンクリートをいかに滑らかに、うっすーくコーティングするかが勝利の決め手。

展示してあるカヌーはそのレイヤーを分解展示してありますが、
内側から

成形クロス(ワイヤーカッターで成形したもの)

離型剤を塗りサンドペーパーで仕上げた部分

コンクリートのインナーレイヤー部分

補強グリッド

外側コンクリート、塗っただけ

外側コンクリート、紙やすり仕上げ後

外側コンクリート、シーラント仕上げ

などと説明があります。

模型の鉄橋についてはその完成度について強度、デザイン、機能、
そして安全性と耐久性、経済性まで全てを競い合うそうです。

さあ、そしていよいよ卒業後に任官となるのですが、
彼らの配置先はこんなにありますよと。

歩兵、サイバー、経理、警衛(MPですね)、防空、
野戦特科、化学部隊、エンジニア部隊。

補給、輸送、総務、通信、火砲、医療、航空、情報そして需品。

これらの部隊全て、ウェストポイントで学んだ士官が指揮を行うのです。

そしてウェストポイントをめでたく卒業したあと、本物の士官になるために、
彼らは「コミッショニング」、宣誓式を行います。

冒頭の写真は、ミュージアムにあった実物大の模型ですが、
この宣誓の際にはこのように両親が近くに立つんですね。
(両親の模型を作るお金は節約した模様)
この説明によると、親しい友人や恩師に立ち会ってもらってもいいそうです。
婚約者とかガールフレンドなんてのはどうなんだろう。ダメなんだろうな。

「彼らの選んだ特別な場所で」とありますが、どこでもいいのかな。
自分ちの庭とか。

「ザ・ラストシップ」などや映画でもよく見る宣誓(oath)を行うと、
彼らは陸軍少尉の階級章を与えられます。

この瞬間がウェストポイントでの最高潮であり、また、
アメリカ合衆国の陸軍士官として国防の任を担うという
崇高なキャリアの始まりを意味するのです。

私服の彼らが制服を着た姿に変化していくスクリーン。
この「ビフォアアフター」、なかなか楽しいです。

世界におけるウェストポイント出身者の任務地。
丸が大きいほど基地(陸軍だから違う?)の規模が大きくなるわけですが、
これを見ると日本に展開している陸軍って結構大規模だとわかります。

そこでなぜか初心に戻って(?)初めて着校した日の写真が。
君たちファースティもたった4年前まではこんなだったんだよ。

「ウェストポイントに入るというのは変身の過程です。
若い普通の男女が候補生として肉体精神的な挑戦を行うのです。
47ヶ月の課程を通して、彼らはアカデミーの求める学術、軍事、
身体的、性格的な鍛錬を遂行することになります。
卒業までに彼らは陸軍少尉となり、部隊指揮を行うことが目標です」

しかしその47ヶ月は、アメリカ合衆国のリーダーを作り上げるのです。

卒業生は戦場における指揮官としての統率のみならず、政治や
民間団体に広くその活躍の場を持っています。

軍の任務を終えた後、彼らは学校長や大学の学長、
政府のアドバイザーや議員などにもなっています。
その活動が国内でも国際的でも、彼らは陸軍士官学校の伝統である
栄誉と栄光のもとに国を守るという精神を受け継ぐのです。

というわけでウェストポイント出身の政治家などの写真ですが、
わたしには日系アメリカ人で閣僚にまでなったエリック・シンセキ陸軍大将
(上段右から三番目)
しかわからないや(笑)

出口にはこれも実物大のカデットが

「義務」「名誉」「祖国」

という彼らの守るべきものに向かって歩いていく模型が。

怖いよ君たち怖いよ。

最後に、「ロング・グレイ・ライン」メダル・オブ・オナー受賞者、
つまり特に優秀だった卒業生の名前が華々しく掲げてありました。
どれどれ、知っている名前はあるかな?

アロンゾ・H・カッシング(1861クラス)

ダグラス・マッカーサー(1903クラス)

うーん、この二人しか知らんかった。
成績優秀者が有名な軍人になるとは限らないのね。
むしろ「ゴート」の方が有名になる人が多かったりして・・・。

ちうかわたしが陸軍のことを知らないだけかな。

 

さて、この後わたしたちはバスに乗っていよいよ
ウェストポイント学内ツァーに出発しました。

 

続く。

 

 


GO ARMY, BEAT NAVY ! 〜アメリカ陸軍士官学校 ウェストポイント

2018-11-11 | アメリカ

 アメリカ海軍について調べていると、時折目にすることになるのが
「BEAT ARMY!」という不穏な言葉です。

 

アメリカ海軍はこの「ビート・アーミー」をどこでも、例えば
日米海軍軍人の懇親会などで何も知らない日本の旧軍軍人を巻き込んだり、
レギュラスミサイルの発射管の蓋にわざわざ印刷したりしてアピールするので、
ははあ、アメリカ海軍、よっぽど陸軍が嫌いなんだなと思っていたわけですが、
ここウェストポイントに実際に来てみれば、なんのことはないこちらの方でも
「ビートネイビー」を叫んでいるらしい、ということがわかりました。

しかしわたしが当初思っていたより険悪な意味はなく、実はこれ、
陸海軍の間に行われるスポーツの試合、特にフットボールで、
ライバル同士である陸海軍が互いに相手をやっつけるぞ!
と挙げる「お約束」の気勢だったのです。

歴史的には大変古く、アメリカに陸海軍士官学校ができ、
スポーツ交流が始まると同時に

Beat Army!」

「Beat Navy!」

が双方で叫ばれるようになりました。

その昔、ジャパンインペリアルネイビーとアーミーは犬猿の仲でした。
アメリカでももしかしたらそれ以上に仲が悪かったのですが、
アメリカのいいところは、上の方のいがみあいはさておいて、
どうせいがみ合うなら徹底的にやりあおうぜ!
と実際に「代理戦争」たるスポーツに昇華してしまうあたりでしょう。

帝國陸海軍も上の方はともかく下々だけでも野球かなんかで
徹底的にやり合うくらいの余裕があれば、もう少し戦況も
なんとかなったのではないか、と思うのですが今はさておき。

またよりによって、ボクシングの試合でネイビーの顔に
パンチが決まった瞬間を選ぶあたりにその本気度が現れています。
これにも書いてありますが、陸海軍士官学校は伝統的にライバル関係。

100年前は頭脳はもちろん肉体的にもエリートだった
カデット&ミシップマンたちは、一般大と比してもスポーツが強かったのです。
そもそも大学にいく青少年の数そのものが少なかった時代ですのでね。

しかし、今は?

猫も杓子も大学に行くことができるようになり、勉強できなくても
フットボールの有名選手なら諸手を挙げて入学させてくれる大学、

勉強せずに一日スポーツさえやっていればいい大学に
恐ろしいほどにカリキュラムが充実した士官学校が勝てるはずありません。

というわけで、21世紀となった現在、正直いって両校のスポーツレベルは
一般に比べいずれも大したことはありません。

しかし彼らのレベルが落ちたのではなく、他のレベルが上がっただけなので、
同じような条件な両者の力量のバランスはほぼ互角、

ということで今でもライバル関係は成り立っているというのです。

ネットでもいうじゃないですか。

「争いは同じレベルの者同士にしか発生しない!」(AA略)

って。


ところで左下にチアリーダーの写真がありますね。

アメリカのスポーツシーンに欠かせない華、チアリーダーですが、
陸軍士官学校にもちゃんとUSMA(陸軍士官学校のこと)
ラブル・ロウザースというチアリーダーがいる、と書いてあります。

まさかこのチアリーダーたち、カデットじゃないよね?

チアリーダーと選手の間に恋が芽生え・・・などという話も、
一般の大学では普通にありますが、学内恋愛禁止の(ただし一年の時だけ)
ウェストポイントでは
いろんな意味で起こりにくいかもしれません。

もちろん可能性はゼロではないようで、学内カップルも当然いるらしい)

伝統的な陸海軍対抗試合のパンフレット各種。

両者の対抗試合にかける気合いは鬼気迫るものとなります。
他の学校はともかく、とにかく海(陸)だけには負けてはならん!
という悲壮な意気込みのせいで試合前には大変なことになるそうです。

特に一年生(プリーブ)は、試合前になると学内を四六時中歩きながら

「ゴーアーミー!ビートネイビー!」

を叫ぶことを強要され、学内がうるさくて仕方ないとか。
おそらくアナポリスでも同じような事情なのではないでしょうか。
(今度見学できたら確かめて来ます)

伝統の一戦、陸海軍フットボールで試合開始のトスを行う
当時の合衆国大統領ハリー・トルーマン。

1950年のゲームということですから、彼らはおそらく
この後朝鮮戦争、ベトナム戦争に出征したと思われます。

このゲームが、両者ともにたいした実力でもないにも関わらず
人気があるのは、彼らが軍人であり、特に上級生は
これを最後に任官して戦地に赴く運命にある、という
「イモーショナルな」ものが纏わっているからといえましょう。


アーミー・ネイビーゲームには歴代大統領が必ず観覧したり
トルーマンのようにトスを行う栄誉を担います。

海軍予備士官だったジョン・F・ケネディは1963年、その年のゲームを
観戦予定だったのですが、試合8日前、ダラスで暗殺されました。

直前だったこともあって史上初めてゲームの中止が検討されたのですが、
ケネディ夫人ジャクリーンが、

「夫は自分の死によってゲームが中止になるのを望まないだろう」

といったこともあって、予定から一週間後になる12月7日、
なぜかパールハーバーデーに合わせてこの年のゲームが行われ、
アナポリスが勝利をおさめました。

ウェストポイントのマスコットは「ラバ」です。

わたしのラバさん〜酋長の娘〜という歌がありますが、
それではなく、騾馬。ミュールです。
1899年に制定されたマスコットラバさんは、その名も

ブラックジャック

ラバのくせに力こぶとシックスパック作ってんじゃねー(笑)

ところで・・・・ブラックジャック・・・だと?

それはもしかして、陸軍士官学校の偉大なる先輩、
「”ブラックジャック”・パーシング」から来てますか?

これ、もともと黒人部隊の指揮官だったパーシングが
「ニガージャック」と悪意を込めて呼ばれていたのを、
新聞記者が忖度してマイルドに言い換えたもの、
ってもちろんウェストポイントの皆さんは知ってますよね?

それに対し、海軍のマスコットはヤギさん。

今年の初めに掲載した「軍と動物」シリーズで、アナポリスのマスコットが

「ビル・ザ・ゴート」

であるとお話ししたことがあります。

ところでこの英文、読んでみてくださいよ。
海軍兵学校には専用の農場があってヤギが飼育されてるわけですが、
いつの頃からか、試合前になるとわざわざニューヨーク郊外から
ウェストポイントの生徒がワシントンまで出張して忍び込み、

ビルを誘拐していく

という悪ふざけが流行り出しました。

アメリカの大学生というのはよくライバル校同士で

「相手の学校に忍び込んで何かを盗み出す」

ということをやらかすのですが、(例えばMITの学生が
わざわざ大陸横断してCALTEC構内のキャノンを盗んで持って帰るとか)
このカデットによるヤギ強奪も歴史的に回を重ねているのです。

この写真は1953年、アナポリスからさらわれて来たビルと、
ビルをさらってきた誘拐犯人、いやカデット。

写真のキャプションには

 「それ以前にもこれ以降にもよくあること」

とさらっと書いてありますが、アナポリスも毎年のことなら
もう少し防衛するとか犯人を捕まえるとかせんかい。
候補生とはいえ一応軍隊なんだから。

1953年ビル誘拐時の新聞記事

アナポリスが防衛する気がないもんだから、
陸軍だけでなく空軍士官学校も調子に乗って試合前にビルを強奪、
空軍士官候補生らしく?爆撃機で輸送していったこともあるし、
あろうことか一般大学学生にも誘拐されているんですよこれが。

アナポリスがヤギ強奪を軍学校同士の「馴れ合い」として、
あー、別にビルって一匹じゃねーし、やりたければ拐えば?
と醒めた態度でいるだけなのかもしれませんが、それにしても
パンピーに領地侵入され、さらに捕虜を取られるとは情けない。

かもアナポリス、これらの事態にも自衛手段を講じず、
なんとペンタゴンに直訴して誘拐禁止令を出させるという
あまり可愛げのない法的手段に訴えました。

んが、その後も粛々とビル誘拐は繰り返され、
YouTube登場後はついに計画から犯行現場までその様子がアップされる事態に。

Hey Navy... missing anything?

もうわたし、この1分くらいの映像を見て
久々に爆笑してしまいました。
これによると、2007年、誘拐したのは

ビル32世 ビル33世 ビル34世

の三匹。
もうはっきりいって普通に犯罪です。
しかしこれ、計画表なんか見てると結構いい作戦立案訓練になってないか?

しかし、ここでふと思いついてゲーム結果を調べてみると、

2002年から2015年までの全てのゲームで
陸軍は一度も海軍に勝っていません。

やっぱりヤギの逆鱗に触れたせいでしょうか。


ところで、両アカデミーには変わった慣習があります。
このアーミー・ネイビー試合の少し前に

「プリズナー・エクスチェンジ」

と称して留学生交換を行うのですが、まあていのいい人質ですわね。
試合前に変なことしやがったらこいつがどうなるかわかってるな的な。

互いの暴挙にブレーキをかけるためのこの捕虜交換ですが、ゲーム当日、
何もなくてよかったねということで捕虜釈放の儀式が行われます。

ところが、ある年に起きたビル・ザ・ゴート強奪事件においては、実は
ウェストポイント側のプリズナーが手引きを内部で行なったのではないか、
という黒い噂もささやかれているのだそうです。

人質として入り込み堂々とスパイを行うとは太え野郎だ。

というわけで色々と因縁のアーミーネイビーゲーム。

冒頭写真は、まだビルが誘拐の恐れもなく平和に暮らせていた頃、
1916年、
ニューヨークで行われたアーミー・ネイビーゲームです。

このミュージアムの隣にはアーミーショップが併設されていて、
候補生が着るものなども売っていたりするのですが、
やっぱりありました。「ビートネイビーTシャツ」が。

個人的には「ビートアーミー」なら買ってもよかったかも・・・。


さて先般述べた理由で、一般的なレベルでの強豪とはいえなくなった
陸海軍士官学校フットボールですが、それでも何人かは
プロのフットボール選手になった人がいたというから驚きます。
不思議なことに彼らは全員がアナポリス出身者です。

水陸強襲艦「ペリリュー」に乗った後、軍籍にありながら、
ロスアンジェルスの名門、レイダースでプレイした、

ナポレオン・マッカラム(1963ー)

もその一人。
海軍はそれを禁止してはいませんでしたが、その後彼に「カリフォルニア」乗組を命じ、

彼はこれをレイダースでプレイさせないための配置だと不満を持ったようです。
その後彼は規定の年数(5年)を務めてからプロになりました。

ロジャー・スタウバッハ(1942ー)

は海軍補給隊指揮官としてベトナム戦争に参戦後プロ選手に。

フィル・マッコンキー(1957ー)

はやはり海軍のヘリパイとして4年サービスを務めてからプロ選手に。

カイル・エッケル(1981ー)

はあまりにもアカデミー時代に打ち立てた記録がすごかったので、
卒業するなりプロになったようです。
(巨額の違約金を海軍に払ったのかもしれません)

 

1890年から戦争中も一度も中止せずに行われてきた118ゲームの結果は、
2018年現在、

陸軍51勝 海軍60勝、7引き分け

ヤギ強奪の祟りのせいで(たぶん)陸軍は海軍に9試合リードを許しています。


最後に、アカデミーを卒業した陸海軍人で、老境に入っても

「ビート・ネイビー!」「ビート・アーミー!」

と書簡の最後を結ぶ人は昔から結構いるのだそうです。
きっと探せば、墓石に彫り込んでる人も一人くらいいそう(笑)

 あ、そうそう、今年の試合は真珠湾攻撃の日に行われます。
長年の低迷時代からついに巻き返したウェストポイントが勝つか、
王者の余裕海軍が勝つか 、白熱した勝敗の行方に目が離せない!!!


続く。