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第一次世界大戦 ”初めて”のパイロットたち(おまけ:ラフベリーとライオン) 〜スミソニアン航空博物館

2020-11-04 | 飛行家列伝

スミソニアン博物館の第一次世界大戦当時の軍用機、
ことにエースに焦点を当てた展示から、リヒトホーフェン以外の
当時の飛行家、マックス・インメルマンやことにオスヴァルト・ベルケという
航空史において創始者となった人物の名前を知ることになりました。

今日は、当時アメリカから参加した戦闘機隊や、
ヨーロッパの航空隊に参加したアメリカ人飛行士たちをご紹介します。

■ ”初めて”のパイロットたち

ステファン・トンプソン
Stephern W. Thompson 1894-1977

がミズーリ大学を卒業後、
アメリカ陸軍沿岸砲兵隊U.S. Coast Artillery Corps
に参加したのは1917年のことでした。
すぐに陸軍航空隊の通信部門に転属した彼は、偵察員として
フランスの第一航空部隊で訓練を受けます。

1918年、フランスの爆撃隊の飛行場を訪問していたトンプソンは
病気で休んでいたフランス人の偵察員兼射手の代わりに
爆撃機に乗ってくれないかと誘われて搭乗。

任務から帰投する途中、ドイツ軍の戦闘機が現れ、トンプソンは
そのうち1機を撃墜し、アメリカ軍の制服を着たアメリカ軍人として
初めて公式に「航空勝利」が公式にクレジットされることになりました。

その年の7月の空戦で、彼のサルムソン2A2は、
「リヒトホーフェン・サーカス」フォッカー eD.VIIに攻撃されました。

トンプソンは機を撃墜しましたが、3機目の弾丸が彼の機関銃を破壊し、
彼の脚に当たりました。
彼の機のパイロットは胃に弾丸を受けましたが、
亡くなる前になんとか飛行機を墜落させ、トンプソンは命を救われました。

 彼らを撃墜したパイロットは有名なドイツのエース、
エーリッヒ・レーヴェンハートErich Loewenhardt ( 1897 – 1918) です 。

絶対ナル入ってる

トンプソンがアルバトロスD.IIIを撃墜したときに着用していた飛行服と
彼の脚から取り出された弾丸は、米国空軍国立博物館に展示されています。 


Fallen World War I Aviator Gets Posthumous Distinguished Flying ...

ジェームズ・ミラー大尉   James Miller 

ジェームズ・ミラー大尉は、米軍の最初の飛行士であり、
第一次世界大戦で最初の米航空の犠牲者となった人物です。

イエール大学卒で成功したニューヨークの投資家だったミラーは、
(道理で着ている服がゴーヂャスだと思った)
1300におよぶ著名な事業に参入していたプロフェッショナルで、
新聞に「ミリオネアー・ルーキー」などと書かれながら、
1915年、軍事科学の勉強をニューヨークのプラッツバーグキャンプで開始し、
その年の後半にはやはり飛行士だった米国鉄鋼社のエグゼクティブ、で弁護士、
レイナル・ボリング (Raynal Bolling )とともに、ニューヨーク州兵の
初の航空製造会社の立ち上げを行っています。

1918年2月、ミラー大尉は最初のアメリカ人戦闘機パイロットを組織した
第95航空団に配属されて前線に赴きますが、翌3月、
彼は空戦に巻き込まれ、アメリカ人飛行士として初めて戦死しました。

ボリング大佐

ちなみに、レイナル・ボリングもハーヴァードロースクール出身の弁護士で、
また裕福な出の実業家でありながら飛行士となった人物です。
ヨーロッパ戦線に赴き、車で移動中ドイツ軍と遭遇し、射殺されました。

ボリングの死はミラーの1ヶ月後で、奇しくもこの二人の実業家は
アメリカ人として初めて空と地上で戦死したということになります。

 

■ラファイエット航空隊とラフベリー軍曹

ジェルヴェ・ラウル・ヴィクター・ラフベリー
Gervais Raoul  Victor Lufbery(1885-1918)

 

この人の写真を当ブログであげるのは3回目となります。
次のコーナーでは

ラファイエット航空隊

の紹介がされているので、フレンチーアメリカンの飛行士である
このラフベリー軍曹の写真が登場しているのです。

この写真で彼は軍服にフランス政府から授与されたレジオンドヌール勲章、
軍事メダル、そしてクロワ・ド・ゲール、十字勲章を付けています。

ラフベリー軍曹はパリのチョコレート工場で働いていたアメリカ人化学者の父と、
フランス人の女性の間に生まれましたが、1歳で母を亡くし、
フランスで母方の祖母に育てられました。

17歳になると彼は放浪の旅を経て父の国アメリカに辿り着き、
陸軍に在籍した後はインド、日本、中国に任務で赴任しています。

フランスの航空会社の整備士として働いていた彼は、
知人がパイロットとして戦死したのをきっかけに訓練を始めます。

訓練中、彼は同僚のパイロットから整備士上がりであることを理由に
ずいぶんいじめを受けたようですが、整備士ならではの忍耐と
機体を熟知し、細部にまで注意を払いそれを飛行に生かすというスタイルで
エースパイロットになることができました。

1916年、アメリカの有志が、フランスの対ドイツ戦を支援するために

「エスカドリーユ・アメリカ」(アメリカ戦隊)

という派遣部隊を結成することを決めました。
この名前は、ドイツから「中立性の違反にあたる」と激しい抗議を受け、
すぐに

「エスカドリーユ・ラファイエット」(ラファイエット戦闘機隊)

と改名されています。
戦隊は、ほとんど飛行経験のない上流階級のアメリカ人で構成されていました。

ここで思い出していただきたいのが、当ブログで以前ご紹介した

フライボーイズ(FLYBOYS)

という映画です。

主人公はジャン・フランコ。

フランス人大佐にジャン・レノという一点豪華主義配役の映画でしたが、



これ、ラファイエット航空隊がモデルなんですね。

で、ドイツ軍の通称ブラックファルコンといういかにも悪そうな奴と
空戦してやられてしまうエースのキャシディ大尉は、
ラフベリー大尉をモデルにしていると考えられます。

主人公のフランコも落ちこぼれっぽい青年でしたし、
銀行強盗したこともあるやつが混じっているあたり、
「上流階級から選ばれていた」という史実に反しますが。

ラフベリーは航空経験を持つアメリカ市民として採用されましたが、
ユニットメンバーとの出会いは決してスムーズだったとは言えませんでした。

労働階級出身の彼の英語には強いフランスなまりがあり、さらに仲間のほとんどは
裕福な家の出身で、全員がアイビーリーグで教育を受けたエリートばかり。
共通点は何ひとつありません。

しかし、戦闘に入ると、たちまち彼は仲間の尊敬と称賛を受けるようになります。

 ある日仲間のパイロットがライオンの仔を購入しました。
ウィスキーを皿に入れて飲むのが好きだったとかで、(!)
「ウィスキー」と名付けられたこのライオンを、ラフベリーは数年間育てました。

 ウィスキーがガールフレンドを必要としていると思われた頃、
たまたま「ソーダ」という名前のメスライオンがやってきました。

(彼は追加でライオンを買ったわけですが、当時のフランスというのは
アフリカからの船で野生動物なんかをバンバン輸入していたようです。

今でもフランスの動物園に行くとその名残が見られます。
決して大きくない動物園にキリンが1ダースいたりとか、ゾウガメがたくさんいたりとか。
当時はさぞや掴み取り取り放題で動物を獲ってたんでしょう)

ソーダはウイスキーよりもはるかに野性的で、人に慣れず、それどころか
隙あらば人に襲いかかる気満々だったのですが、ラフベリーにだけは懐いていました。

最後までウィスキーはペットの犬のようにラフベリーの後をついて回っていましたが、
 彼が亡き後、ペアは自動的にパリ動物園に連れて行かれたということです。

ラファイエット航空隊のメンバーが集合写真を撮ろうとしていたところ、
ウィスキーがやってきてラフベリーにすりすりを始めてしまったので、
写真が撮れないだけでなく、みんなちょっと引いているの図。

 

ラフベリーはラファイエット航空隊で17機の撃墜記録を立て、
エースになりました。

1918年5月19日、ニューポール28で出撃した彼が
攻撃のため敵機に近づいたとき、ドイツの砲手が発砲しました。

 高度が200から600フィートの間を下降している時、
ラフベリーは飛行機から飛び出し、落下した彼の体は、民家の庭の
金属製のピケットフェンスに突き刺さったと言われています。

ラフベリーはフランスにある飛行士墓地に軍の名誉をもって葬られ、
後にパリのラファイエット・メモリアルに運ばれあらためて埋葬されました。

彼の公式撃墜数は17機ですが、彼の仲間のパイロットは、
25機から60機は未確認撃墜をしている、と証言しています。

彼もまた、フランス系アメリカ人として初めてのエースとなりました。

ラファイエット航空隊のパイロット、
エドウィン・パーソンズが着用していた「ケピ」という
フランス軍独特の帽子。

金糸のブレード飾りがフランスらしく粋です。

冒頭の航空機は、ウドヴァー・ヘイジー(別館)にある

ニューポール Nieuport 28C.

です。

著名なフランスの航空機メーカー、

ソシエテ・アノニム・デ・エスタブリセメンツ・ニューポート

は1909年に設立され、第一次世界大戦前に
一連のエレガントな単葉機のデザインで有名になりました。

会社の同名のエドゥアール・ド・ニューポールと彼の弟シャルルは、
どちらも戦前に飛行機事故で死亡しています。

才能のある設計者のギュスターヴ・ドラージュは1914年に会社に加わり、
セスキプラン・Vストラット単座偵察機の非常に成功し、戦時に
ニューポール11とニューポール17は最も有名な飛行機となりました。

ニューポール28C.1は1917年半ばに開発されました。

ニューポールが製造した最初の複葉戦闘機の設計で、上下翼の弦がほぼ同じです。
スパッドVIIとそのころ発表されたスパッドXIIIの優れた性能と競合するために、
セスキプランシリーズで採用されているタイプよりも強力なモーターの使用を検討しました。

より強力で重い160馬力のGnôme製ロータリーエンジンが利用可能になったことで、
下翼の表面積を増やして新しいエンジンのより大きな重量を補うという決定が促され、
典型的なニューポートセスキプレーンVストラット仕様は廃止されました。

1918年の初めごろのフランスの航空界は、より新しい、より先進的な
スパッドXIIIを愛好する派が多かったため、彼らは新しいニューポールデザインを
最前線の戦闘機として使用することを実質拒否していました。

しかし、ニューポール28は新しい「居場所」を得たのです。
それは大西洋の向こうから到着したアメリカの飛行隊でした。

自国に独自の適切な戦闘機がなかったため、米国は、
需要の多いスパッド XIIIをフランスから入手できるようになる前に、
一時的措置としてニューポール28を採用しました。

ニューポール28は、
アメリカ遠征軍=「駆け出しのUSエアサービス」
の最初の運用機として、信じられないほどの性能を発揮することになります。

全米航空コレクションにおけるニューポール28の主な重要性とは、
アメリカの指揮下にあり、米軍を支援するアメリカの戦闘機と一緒に戦う
最初の戦闘機であったということでしょう。

また、アメリカ軍部隊で空中勝利を収めた最初のタイプでもありました。

1918年4月14日、ニューポール28を操縦する第94航空飛行隊の
アラン・ウィンスロー中尉とダグラス・キャンベルは、
それぞれゲンゴール飛行場で直接行われた空戦で敵機を撃墜しています。



続く。

 


タスキーギ・エアメン・メモリアル〜ピッツバーグ空港

2018-08-26 | アメリカ

ピッツバーグ空港には、ウェイコ9「ミス・ピッツバーグ」の復元機が展示されています。

胴体に「メイル」の字が見えるように、郵便局の飛行機でした。
この郵便を運ぶための飛行機会社は、業務を拡大し、
今はユナイテッド航空の一部地なっています。

また、この空港のTSA(空港検査員)は、元軍人が多いそうです。
四人に一人が元軍人で、誇りを持って仕事をしています、とあります。

空港の一角にミリタリーラウンジなる部屋もあるくらいですし、
アメリカでは退役した軍人を積極的に雇用し、そのことが
企業のイメージアップにもつながるという土壌があります。

そしてこのように、普通に白人と黒人が並んでいる今のアメリカ。
しかしここに至るまで、黒人には長きに渡る迫害された歴史がありました。

 

飛行機を降りてバゲージクレームに向かうとき、
ムービングウォークで通り過ぎるところに冒頭写真のコーナーがありました。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくるね」

家族に断って、少し逆戻りし、コーナーに入って行きました。

昔、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍にあった黒人ばかりの航空隊、
タスキーギ・エアメンについて、映画を紹介しつつ話したことがあります。
その時の記憶によると、タスキーギというのは南部アラバマにあったはず。

どうして五大湖に近いここピッツバーグ空港に展示があるのかな。

ここにあった説明によると、ピッツバーグのセウィクリーというところにある墓地に、
アメリカで最大規模ののタスキーギ・エアメン・メモリアルがあるからだそうです。

ここには全ての戦争のベテランの墓が約100基くらいあり、
その墓の主の人種はそれこそ様々だということでした。

「彼らは身体検査と適性検査で選定を受け、合格した者は
航空士官として採用され、単一エンジン、のちに双発エンジン機の
操縦士、ナビゲーター、そして爆撃手としての訓練を受けた」

 

最初にお断りです。
アメリカでは黒人を「ブラック」ということはまかりならず、

アフリカ系アメリカ人といわないといけませんが、ここでは
(日本語に差別的意図はないとして)単純に黒人、と表記します。


アメリカでの黒人の人権は公民権運動に至るまで全く顧みられていませんでした。

国体を揺るがす戦争となっては、有色人種も戦力として取り込みたいが、
しかしながら白人の部隊に黒人を混ぜることは都合が悪い。
ということで、アメリカ軍は「セグレゲート」、有色人種だけの部隊を作ります。

日系人ばかりを集めた部隊もそうですし、黒人女性だけの部隊、
そしてこのタスキーギ飛行隊などを作り、白人の指揮官を置きました。

特に特殊技能を要するパイロットに黒人を採用したのは
この「タスキーギ・エアメン」が初めての試みでした。


アメリカでは1917年に一度だけ、アフリカ系の男性が陸軍で
航空偵察員を希望したことがあるそうですが、当然
拒否されています。

アメリカにいる限り黒人が航空機に乗ることは不可能だとして、貨物船で密航し、
フランスに渡ってパイロットとなったアフリカ系アメリカ人がいました。

ユージーン・ブラード(Eugene Jacques Bullard )

この人の経歴を見たとき、昔当ブログで扱った、ジャン・フランコ主演の

「フライボーイズ」

という映画を瞬時に思い出してしまいました。

ラファイエット基地に集められたアメリカ人ばかりの外人部隊の中に、
一人スキナーという名前の黒人青年がいたという設定です。


ラファイエット基地に外国人の航空部隊があったのは史実で、
このユージーン・ブラードはどうやらスキナーをモデルにしているようです。

スキナーが、アメリカでは飛行士になれないからフランスにやってきた、
という設定であったように、ブラードはアメリカでは果たせない空飛ぶ夢を
フランスで叶えるために密航までしてやってきたのでした。

第一次世界大戦の時、彼は勇気ある任務に対し、レジオン・ドヌール始め、
クロワ・ド・ゲールなど数々の勲章を授与され、

ブラック・スワロー・オブ・デス(l'Hirondelle noire de la mort)

「死の黒燕」という厨二的な渾名を与えられました。

ただ、撃墜に関しては、20回以上の空戦に参加して、1機、あるいは2機の
ドイツ軍機を撃墜したとされますが、公認記録ではありません。

戦争が終わってからはパリのジャズクラブのオーナーになり、
名士だった彼の店は、黒人歌手ジョセフィン・ベーカーや
ルイ・アームストロングなどが出演する超有名な社交場になりました。

第二次世界大戦が始まったとき、彼は早速外国人航空隊に志望しますが、
事故で背中を負傷していたこともあり、選ばれたのは白人でした。

非番の時にフランス人将校と口論になって罰せられたこともあって、
失意のうちに彼は帰国しましたが、アメリカでかつての名声は全く通用せず、
「ただの黒人」となった彼は、セールスマンや警備員、通訳などの仕事で
糊口を凌ぎつつ余生を送りました。

66歳で亡くなった時、彼の身分はロックフェラーセンターの
エレベーターのオペレーターで、晩年、テレビ番組に出演した時には
エレベーターボーイの制服を着てインタビューを受けたそうです。

不遇の余生を送った彼ですが、1994年になって名誉回復が行われ、
死後33年経ってからアメリカ空軍の中尉に任官されることになりました。

 


さて、アメリカ軍がアフリカ系をパイロットに登用することは、
必要性から生じただけではなく、有色人種側の熱い希望でもありました。

のちに公民権運動を指揮する全米有色人種地位向上委員会のウォルター・ホワイト
労働党のフィリップ・ランドルフ、連邦判事ウィリアム・ハスティなどが
それを実現するために運動を行なった結果、1939年、アフリカ系アメリカ人の
パイロットを養成するための予算法案が議会を通過しました。

これまで「バッファロー連隊」とあだ名される黒人だけの歩兵部隊は
第24、そして第25歩兵連隊、偵察部隊として第9、第10騎兵隊が存在しており、
新設される航空隊も、これらと同じ「分離方式」で編成されることになりました。

黒人にとって航空職種携わるための門戸となったこのシステムですが、
あまりにも選択に制限があったため、航空士官になれたのはごくわずかで、
1940年の時点で全米でたった124名だったそうです。

それだけに実際にタスキーギ航空隊員となれた一握りのアフリカ系は、
最高レベルの飛行経験を持ち、かつ高等教育を受けたエリート集団であり、
全体のレベルは下手すると白人の一般的な部隊より高かったといえます。

さらにその上で、米陸軍航空隊は、厳密な適性検査でスクリーニングを行い、
機敏さやリーダーシップなど個人的な資質をふるい分け、
パイロット、爆撃手、ナビゲーターと職種を決定していきました。

のちに彼らが精鋭部隊となったのも当然といえば当然だったのです。

 

後年タスキーギ・エアメンについていろんな媒体が取り扱いましたが、
そのうちHBOの「タスキーギ・エアメン」をこのブログでも取り上げたことがあります。

この中で大統領夫人エレノア・ルーズベルトがタスキーギ航空隊を訪問して、
首席指導員だったアルフレッド”チーフ”アンダーソンの操縦で空を飛んだ、
という実際のエピソードが語られます。

映画では、おばちゃんが気まぐれで飛びたいと言い出し、主人公である
ローレンス・フィッシュバーンを「ご指名」してお偉方大慌て、という

アクシデントとして扱われていましたが、実際は航空隊の宣伝活動として
前もってこのフライトを行うことは決まっていたそうです。

だからこそ、教官として何千人ものパイロットを世に送り出してきた
アンダーソンが選ばれたのですが、大統領夫人、飛行機から降りて、

「なんだ、ちゃんと飛べるじゃないの」"Well, you can fly all right."

と言い放ったという話を本欄でご紹介しました。

彼女が内心黒人パイロットをどう思っていたかが窺える一言ですね。


1941年7月、Chanute飛行場で271人のパイロットの訓練が始まりました。

ただし全員が黒人だったわけではありません。
教えている技術が非常に専門的で特殊なので、完全に分離することは不可能でした。

この通称「タスキーギ・プログラム」はタスキーギ大学での座学に始まり、
タスキーギ陸軍飛行場で実地に操縦訓練を行うことになっていました。

64キロしか離れていないマックスウェル飛行場は白人パイロット専用です。

その中でも図抜けて優秀だったパイロット、キャプテン・ベンジャミンO.デイビス,Jr
は黒人の部下の上に立つ指揮官となりました

デイビスはのちに黒人初の4スター空将(事実上の最高位)になりました。

その後、アメリカ空軍の歴史において何人かのアフリカ系、二人の女性の
空軍大将が誕生してきましたが、2018年現在、アメリカ空軍の最高位は

チャールズ・ブラウンJr.

この人もまたアフリカ系アメリカ人です。

 

徹底した分離政策をとったため、黒人航空隊であるタスキーギでは、
例えばフライト・サージェオン(医師)なども黒人で揃える必要があり、
そのため、アメリカ陸軍初の黒人医官が誕生するというメリットもありました。

しかし、あまりにも厳しいスクリーニングで弾かれた人員の「捨て場所」に
当局は実際のところかなり頭を悩ませたようです。
これらの人員は、管理部門や調理に回されることになりました。

パイロットにも同じような難しさがありました。
あくまでも現場は白人優先だったので、訓練を受けた黒人航空士官ではなく、
相変わらず黒人部隊の指揮官には白人士官がアサインされることになりました。
ブラウンJr.などは超例外中の例外です。

史上たった一人の空軍元帥、あの差別主義者”ハップ”・アーノルドはこう言っています。

「黒人パイロットは、現在のところ我々の航空隊に使うことはできない。
社会的状況が変わらない限り黒人士官に白人の指揮をさせることは不可能だからだ」

タスキーギ航空隊のデビュー戦は1943年5月。

シチリア攻略のシーレーン確保のために地中海の小さな島を爆撃し、
この成功後も、同盟国からその飛行機の赤い尾翼から

「レッド・テイルズ」「レッドテイルズ・エンジェル」

と呼ばれた彼らは、次々とその優秀さを発揮しました。

デイビス中佐が第332航空隊を指揮して行ったダイビング航空攻撃では
予想以上の戦果を挙げ、また第99戦闘機隊は、イタリアのある空戦で
わずか4分の間に5機を撃墜するという記録を作っています。

また、強敵であるメッサーシュミットとコメートと対峙し、
3機を撃墜したことがありました。

332航空隊が戦争中に受けたフライトクロスの数は実に96に上ります。

 

これら戦闘機部隊の成功を受けて、黒人爆撃隊の組織が計画されました。
陸軍に対し人権向上委員会や市民団体からの突き上げもあったと言います。

その結果、1943年にB-25ミッチェル60機を擁する第617爆撃航空隊が組織されました。

ただし、新しい指揮官となったロバート・セルウェイ大佐というのがまた差別主義者で、
航空基地内で白人と黒人の映画館での区画を分けたことで反乱が起こり、

フリーマン飛行基地の反乱

その責任を取ってやめさせれたりしています。

この反乱では162名の黒人将校が逮捕されることになりましたが、
結果として、軍隊の分離政策を廃止した完全統合に向けた第一歩となりました。

それでも一般世間よりはずっと黒人の待遇はましだったと言えるかもしれません。
基地周辺の白人経営によるクリーニング店では、ドイツ人捕虜の洗濯は引き受けても
黒人士官たちの洋服を預かることは拒否したと言われています。

ちなみに、分離政策を取っていた時の黒人専用クラブの名前は
マダム・ストウの同名の小説をもじって

「アンクル・トムズ・キャビン」といいました。

余談ですが、公民権運動以降、「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」
「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味しました。

ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を“アンクル・トムの娘”
と罵倒したことは、その蔑称としての意味をよく表している例です。

さらに、黒人と同じく合衆国の被差別民族であるインディアンたちは、
「白人に媚を売るインディアン」を「アンクル・トマホーク」と呼び、また、
中国系アメリカ人は同様に、「白人に媚を売る中国系アメリカ人」を
「アンクル・トン」(Uncle Tong)と呼んでいるのだとか。

アメリカ(特にニューヨーク)に行くと、アメリカ人にはヘイコラしているのに
日本から来た観光客となると偉そうにする日本人飲食店主が結構いるのですが、
これなどさしずめ「アンクル・トミタ」?(全国のトミタさんごめんなさい)

992人のパイロットが1941〜46年にタスキーギで訓練をうけ、そのうち
355人が海外に配備され、84人が事故や戦闘で命を落としています。

犠牲者の内訳は、戦闘や事故で死亡したのが68人。
訓練中の事故による死亡が12名。
戦争捕虜として捕らえられた32人のうち
死亡した人がその内訳です。

 

パンテレッリアというのは、最初にタスキーギ航空隊が爆撃した地中海の島です。
アメリカの象徴ハクトウワシが、黒い鳥が島に向かって飛んでいくのを

「頑張ってこい息子よ、お前はもう自分でやれる」

と言いつつ見送っているという図。
黒い鳥には

「初めての黒人航空部隊」

と説明があります。

映画を紹介した時、最後のキャプションで、こんなセリフがありました。

「332航空隊は護衛した飛行機をたった1機も失ったことはない」

この記録については、異議を唱える後世の研究も存在し、
ある研究者は少なくとも25の爆撃機が彼らの護衛中失われた、とし、
また別の研究者はそれは27機だった、とする報告を挙げています。

確かに前線で一機も爆撃機が撃墜されたことがない、という話には
かなり盛っている感が拭えないので、神話は神話に過ぎない、
というしかありませんが、それをもってタスキーギ航空隊の名誉が
貶められたということにはならないと思います。

同じ時期、同じ場所で戦っていた航空隊の爆撃機の喪失は
平均46機であったという記録もあるのですから。


このように、高く評価されたタスキーギ・エアメンでしたが、
戦後は普通に人種差別を受ける運命が待っていました。

4スターの空将になったもう一人のタスキーギ隊員、

ダニエル”チャッフィー”ジェイムズJr.

や、NORADとNASAで通信に携わったマリオン・ロジャースのように
その実績と資質を認められて活躍した者は極めて少数だったと言えましょう。

2012年、ルーカスが製作した映画「レッドテイルズ」が公開された時、
ロジャースはセレブレーションに招待されて、その席でインタビューを受け、
このように語っています。

“Our airstrips weren’t as nice as the ones shown in the film. ”

「我々の滑走路はこのフィルムに描かれたような良いものではなかった」

 



 

 

 


映画「FLYBOYS」

2011-08-26 | 映画

サンフランシスコに来てびっくり。

なんと、 大型書店のボーダーズが「閉店」するというではありませんか。
このことは息子の方が噂で先に知っていて、
ボーダーズそのものが無くなってしまうその原因はアメリカ経済の悪化もありますが、
なんといっても「書籍離れ」なのだそうな。

キンドルなどの電子書籍に本腰を入れて、人件費や
場所代のかかる店頭での書籍販売からは
他社に先駆けて手を引くということなのかもしれませんね。
なんだか淋しいです。
ちょうど近くのボーダーズで「在庫処分投げ売りセール」をやっていたので、
本日の映画「FLYBOYS」 を購入しました。

大正解!
久しぶりに好みにドンピシャの映画を見つけました!

以前わたしの好きな映画の傾向として
「男たちが皆で一つの目的に邁進する達成もの」
だと言ったことがありますが、これですよ。まさにこれ。


第一次世界大戦中、アメリカが参戦を決める前に、志願して
フランス空軍に身を投じドイツ空軍と戦ったアメリカの若者たちがいました。
実在した「ラファイエット戦闘機隊」をモデルにした、
「空駆ける青年たちの物語」

それがこの「FLYBOYS」です。
FLYとBOYSの間にスペースが無く、一つの単語としてスペリングされていることにご注目。
(スペースがあると『飛べ、少年たち』で単語ではありませんね)

主役はスパイダーマンのハリー・オズボーン役でおなじみ、ジェイムズ・フランコ。
自宅の農場が抵当に入り、食いつめた末新天地に運を賭けるカウボーイ、
ローリングスを演じます。
部隊長役にはフランス人ジャン・レノを配しての意欲作。
制作総費用70億円。お金かけてます。

「外人部隊」として結集してくるアメリカ人青年たち、それぞれにストーリーがあります。
彼ら「FLYBOYS」を全員絵に描いてみました。
いかにわたしがこういう映画が好きかということが、この無駄な熱意に現れていますね。

 

黒人スキナーのパイロット姿に違和感ありまくり、と思ってふと気づけば、
第二次世界大戦中って白人しか飛行機乗りになれなかったのですね。
このラファイエット部隊には人種の制限はなかったようです。
当初露骨に彼を差別をする、ハーバードを中退して勘当同然軍に入れられたおぼっちゃまロウリー。
アメリカから逃げるように入隊して過去のリセットを図るビーグル、
「六週間生き残れば幸い」の空中戦を生き抜いた虚無的な孤高のエース、キャシディ。
ペットのライオンは実話だそうです。(ライオンなのに『ステイ』してる・・・かわいい)
部隊の一人一人の描写が丁寧になされたプロットは「メンフィス・ベル」を思い出させます。


ところで、当ブログ「リヒトホ―ヘン映画『レッド・バロン』再び」の項に、
「発明されてすぐの飛行機で空戦とか、無茶もいいところ」

と書いたことがあるのですが、
この映画、最初の字幕に


「できてすぐの飛行機で彼らは戦っていた云々」

と、(さすがに『無茶』とは書いていませんでしたが)
全く同じことが書いてあって、いきなり我が意を得たりの出だしでした。

そしてやはり当ブログ「ヒッカム空軍基地の星条旗」の日に
一対一の騎士道的な正々堂々を重んじる戦いであった、
と一次大戦における空戦を評したのですが、
この映画でもドイツ軍航空隊との空中戦はまさに
「顔のある個人同士の」戦いであることがストーリーの軸となっています。

凄腕のドイツ軍パイロットは黒いフォッカーDr.lに乗った非情の男、
ブラック・ファルコン。
彼以外のフォッカーはみんな赤で、この、自分の斃した相手を見てはほくそ笑み、
飛行機に乗っていない敵を撃ち殺す「悪役キャラ」が
リヒトホーヘンと被らないように配慮しています。

関係ないのですがあるところで

『ガンダムのシャアのモデルはリヒトホ―ヘン』

って説を見ました。
本当ですか?これって常識?

その一方で、ブラックファルコンの犯した「ルール破り」に対する謝罪として、
優位を取りながらローリングス(フランコ)を見逃す
「正々堂々とした敵」もおり、ハリウッド映画にありがちな

「ドイツ人、悪い。ロシア人、悪い」

という構図にはなっていません。
ユダヤ資本のハリウッド映画ではなく、この映画は配役の自由を理由に、
メジャーの映画会社ではなく独立系のプロダクションによって制作されたということです。

確かに、その方向性は功を奏していますし、丁寧な作りの佳作であるのですが、
そのせいで配給、公開の規模は小さく(東京の映画館は2館のみ)
こんな映画があるということすら知らなかった人も多くいるかもしれませんね。



とはいえふんだんに費用をかけているだけあって、
フォッカーもニューポールも実機が用意され、
さらにCGによって巴戦やインメルマンターン(のようなもの)も
かなりのリアリティで再現されます。

各々の機にトレードマークを描くことは、
飛行機が戦線に導入されてすぐ行われたようですが、
ここでもニューポール17の機体に

「抵当に入った農場の焼印」
「相手を穴だらけにしてやるという意味でキツツキ」
「アメリカインディアン」

なんかを各々がペイントしているシーンがありました。
(そこで縁起を担ぐなら、まるでここを狙えと言わんばかりのダーツの的みたいな
ニューポール17の翼のマークをまず何とかしろと突っ込んでみる)

彼らの入隊、そして一人前になるまでのトレーニング、初陣とそれに続く戦闘の合間に
主人公ローリングスのフランス娘(ジェニファー・デッカー。可愛い)との恋愛も描かれます。
お互いしゃべれない英語とフランス語の片言で意志を伝えあう、淡い恋愛。
「戦争映画の客寄せ女優起用に反対する会」の会長であるところのエリス中尉ですが、これは許す。

その理由。

「この時代はこのようなことがあっても不思議ではない。いや多々あったであろう」
「これは戦争映画ではない。青春映画である」


空戦の描写にしても、この時代の複葉機や三葉機の戦いは、まだ義理人情や復讐、
そういった人間的なものを絡め安く、戦争映画と言うよりむしろ
「戦場を舞台にした青春群像ドラマ」として作られた映画といえるでしょう。

でもまあ、たかが一兵卒が飛行機をデートにこっそり持ち出して
彼女を乗せて口説くというのは、さすがに少し無理があったかな。


パイロットのための訓練で椅子をぐるぐる回した後平均台の上を歩かせたり、
隊長のジャン・レノがマフラーの巻き方を教えるのに

「これはかっこいいから巻くのじゃないんだ。
見張りの時に首が摩擦でやられるのを防ぐためだ」

みたいなことを(相変わらず字幕なしの聴き取りですので違ってたらすみません)
言うシーンがあり、日本における搭乗員の訓練の原型というのは
この時代にすでにある程度の形になっていたのだということが分かります。


一対一の騎士道精神を重んじた戦い、名前も顔もある相手、
という戦争にしかありえない展開として

ブラックファルコンが卑怯な空戦をする
それに心を痛めたドイツ軍の「正義漢」パイロットが、その償いとして空戦で手加減する
その後ブラックファルコンがラファイエット隊のエース(キャシディ)を撃墜
死んだエースの機のマークをつけてその仇討ちを果たす

という、こうやって書けばわりとベタなプロットになっています。
実際のラファイエット隊のエピソードを
かなりの部分取り入れているということですが、どこまで事実かな。

そして。
その「仇討ち」なんですが・・・・。
これ書いちゃうとこれから観るつもりの人の楽しみを奪うので書きませんが

「いやそれは・・・・パイロットとしていかがなものか」

と思わずつぶやいてしまったという・・・・・。
いや、いいんですよ。そもそもこれは戦争だから。でもねー。

ブラックファルコンがかなり「嫌な奴」に描かれているのも、このオチに

「いやしかし、許す。だってこいつ嫌な奴だし」

と思わせるための伏線だろうか、とふと考えてしまいましたよ。

さて、映画冒頭にも書かれていた

「できて10年そこそこの飛行機で戦っていた」

件です。
平均寿命4週間から6週間、初陣の戦死率の高い不安定な兵器であった戦闘機。
さらに当時はパラシュートはまだ無く、渡されるピストルは

「機体が火に包まれたときの自決用」

遅かれ早かれ戦死することを最初から覚悟せずには乗ることもできなかったのです。

おまけに、命をかけて戦った者には何ともやりきれないとしか言いようがないのですが、
第一次世界大戦における航空戦の勝ち負けは実は
戦局にほとんど影響を及ぼさなかった
というのが定説になっています。

まさに何のための戦い、なんのための戦死。


しかし、科学の最先端である飛行機を駆る、選ばれしパイロットに皆がいかに憧れたか、
そして戦地の空を飛ぶ自軍の飛行機が兵たちをいかに力づけたかは、想像に余りあります。

リヒトホ―ヘンはドイツ軍のみならず敵国軍の兵士たちにも愛され尊敬されました。

この映画でも、自分の命をかけてパイロットを救おうとする塹壕のフランス兵が描かれています。
彼らは戦う者たちの象徴としての役を担っていたのかもしれません。


わざわざ外人部隊として志願してまで過酷な空の戦いになぜ彼らが身を投じたか、
レッドバロンでも語られた「彼らは何故飛んだのか」が、
主に人物描写にディティールを求め、彼らの個人的な悩みや苦しみにまで踏み込んだことで
わずかながら解き明かされた気がする映画でした。


蛇足ですが、初陣のブリーフィングでビーグルが
「緊張を和らげようと」アメリカンジョークを飛ばし、
ジャン・レノの隊長に叱られるシーンがあります。

こういう時にジョークを言わずにいられないのがアメリカ人の習性なんだよ。

許してやってくれ隊長。