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タスキーギ・エアメン・メモリアル〜ピッツバーグ空港

2018-08-26 | アメリカ

ピッツバーグ空港には、ウェイコ9「ミス・ピッツバーグ」の復元機が展示されています。

胴体に「メイル」の字が見えるように、郵便局の飛行機でした。
この郵便を運ぶための飛行機会社は、業務を拡大し、
今はユナイテッド航空の一部地なっています。

また、この空港のTSA(空港検査員)は、元軍人が多いそうです。
四人に一人が元軍人で、誇りを持って仕事をしています、とあります。

空港の一角にミリタリーラウンジなる部屋もあるくらいですし、
アメリカでは退役した軍人を積極的に雇用し、そのことが
企業のイメージアップにもつながるという土壌があります。

そしてこのように、普通に白人と黒人が並んでいる今のアメリカ。
しかしここに至るまで、黒人には長きに渡る迫害された歴史がありました。

 

飛行機を降りてバゲージクレームに向かうとき、
ムービングウォークで通り過ぎるところに冒頭写真のコーナーがありました。

「ごめん、ちょっと写真撮ってくるね」

家族に断って、少し逆戻りし、コーナーに入って行きました。

昔、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍にあった黒人ばかりの航空隊、
タスキーギ・エアメンについて、映画を紹介しつつ話したことがあります。
その時の記憶によると、タスキーギというのは南部アラバマにあったはず。

どうして五大湖に近いここピッツバーグ空港に展示があるのかな。

ここにあった説明によると、ピッツバーグのセウィクリーというところにある墓地に、
アメリカで最大規模ののタスキーギ・エアメン・メモリアルがあるからだそうです。

ここには全ての戦争のベテランの墓が約100基くらいあり、
その墓の主の人種はそれこそ様々だということでした。

「彼らは身体検査と適性検査で選定を受け、合格した者は
航空士官として採用され、単一エンジン、のちに双発エンジン機の
操縦士、ナビゲーター、そして爆撃手としての訓練を受けた」

 

最初にお断りです。
アメリカでは黒人を「ブラック」ということはまかりならず、

アフリカ系アメリカ人といわないといけませんが、ここでは
(日本語に差別的意図はないとして)単純に黒人、と表記します。


アメリカでの黒人の人権は公民権運動に至るまで全く顧みられていませんでした。

国体を揺るがす戦争となっては、有色人種も戦力として取り込みたいが、
しかしながら白人の部隊に黒人を混ぜることは都合が悪い。
ということで、アメリカ軍は「セグレゲート」、有色人種だけの部隊を作ります。

日系人ばかりを集めた部隊もそうですし、黒人女性だけの部隊、
そしてこのタスキーギ飛行隊などを作り、白人の指揮官を置きました。

特に特殊技能を要するパイロットに黒人を採用したのは
この「タスキーギ・エアメン」が初めての試みでした。


アメリカでは1917年に一度だけ、アフリカ系の男性が陸軍で
航空偵察員を希望したことがあるそうですが、当然
拒否されています。

アメリカにいる限り黒人が航空機に乗ることは不可能だとして、貨物船で密航し、
フランスに渡ってパイロットとなったアフリカ系アメリカ人がいました。

ユージーン・ブラード(Eugene Jacques Bullard )

この人の経歴を見たとき、昔当ブログで扱った、ジャン・フランコ主演の

「フライボーイズ」

という映画を瞬時に思い出してしまいました。

ラファイエット基地に集められたアメリカ人ばかりの外人部隊の中に、
一人スキナーという名前の黒人青年がいたという設定です。


ラファイエット基地に外国人の航空部隊があったのは史実で、
このユージーン・ブラードはどうやらスキナーをモデルにしているようです。

スキナーが、アメリカでは飛行士になれないからフランスにやってきた、
という設定であったように、ブラードはアメリカでは果たせない空飛ぶ夢を
フランスで叶えるために密航までしてやってきたのでした。

第一次世界大戦の時、彼は勇気ある任務に対し、レジオン・ドヌール始め、
クロワ・ド・ゲールなど数々の勲章を授与され、

ブラック・スワロー・オブ・デス(l'Hirondelle noire de la mort)

「死の黒燕」という厨二的な渾名を与えられました。

ただ、撃墜に関しては、20回以上の空戦に参加して、1機、あるいは2機の
ドイツ軍機を撃墜したとされますが、公認記録ではありません。

戦争が終わってからはパリのジャズクラブのオーナーになり、
名士だった彼の店は、黒人歌手ジョセフィン・ベーカーや
ルイ・アームストロングなどが出演する超有名な社交場になりました。

第二次世界大戦が始まったとき、彼は早速外国人航空隊に志望しますが、
事故で背中を負傷していたこともあり、選ばれたのは白人でした。

非番の時にフランス人将校と口論になって罰せられたこともあって、
失意のうちに彼は帰国しましたが、アメリカでかつての名声は全く通用せず、
「ただの黒人」となった彼は、セールスマンや警備員、通訳などの仕事で
糊口を凌ぎつつ余生を送りました。

66歳で亡くなった時、彼の身分はロックフェラーセンターの
エレベーターのオペレーターで、晩年、テレビ番組に出演した時には
エレベーターボーイの制服を着てインタビューを受けたそうです。

不遇の余生を送った彼ですが、1994年になって名誉回復が行われ、
死後33年経ってからアメリカ空軍の中尉に任官されることになりました。

 


さて、アメリカ軍がアフリカ系をパイロットに登用することは、
必要性から生じただけではなく、有色人種側の熱い希望でもありました。

のちに公民権運動を指揮する全米有色人種地位向上委員会のウォルター・ホワイト
労働党のフィリップ・ランドルフ、連邦判事ウィリアム・ハスティなどが
それを実現するために運動を行なった結果、1939年、アフリカ系アメリカ人の
パイロットを養成するための予算法案が議会を通過しました。

これまで「バッファロー連隊」とあだ名される黒人だけの歩兵部隊は
第24、そして第25歩兵連隊、偵察部隊として第9、第10騎兵隊が存在しており、
新設される航空隊も、これらと同じ「分離方式」で編成されることになりました。

黒人にとって航空職種携わるための門戸となったこのシステムですが、
あまりにも選択に制限があったため、航空士官になれたのはごくわずかで、
1940年の時点で全米でたった124名だったそうです。

それだけに実際にタスキーギ航空隊員となれた一握りのアフリカ系は、
最高レベルの飛行経験を持ち、かつ高等教育を受けたエリート集団であり、
全体のレベルは下手すると白人の一般的な部隊より高かったといえます。

さらにその上で、米陸軍航空隊は、厳密な適性検査でスクリーニングを行い、
機敏さやリーダーシップなど個人的な資質をふるい分け、
パイロット、爆撃手、ナビゲーターと職種を決定していきました。

のちに彼らが精鋭部隊となったのも当然といえば当然だったのです。

 

後年タスキーギ・エアメンについていろんな媒体が取り扱いましたが、
そのうちHBOの「タスキーギ・エアメン」をこのブログでも取り上げたことがあります。

この中で大統領夫人エレノア・ルーズベルトがタスキーギ航空隊を訪問して、
首席指導員だったアルフレッド”チーフ”アンダーソンの操縦で空を飛んだ、
という実際のエピソードが語られます。

映画では、おばちゃんが気まぐれで飛びたいと言い出し、主人公である
ローレンス・フィッシュバーンを「ご指名」してお偉方大慌て、という

アクシデントとして扱われていましたが、実際は航空隊の宣伝活動として
前もってこのフライトを行うことは決まっていたそうです。

だからこそ、教官として何千人ものパイロットを世に送り出してきた
アンダーソンが選ばれたのですが、大統領夫人、飛行機から降りて、

「なんだ、ちゃんと飛べるじゃないの」"Well, you can fly all right."

と言い放ったという話を本欄でご紹介しました。

彼女が内心黒人パイロットをどう思っていたかが窺える一言ですね。


1941年7月、Chanute飛行場で271人のパイロットの訓練が始まりました。

ただし全員が黒人だったわけではありません。
教えている技術が非常に専門的で特殊なので、完全に分離することは不可能でした。

この通称「タスキーギ・プログラム」はタスキーギ大学での座学に始まり、
タスキーギ陸軍飛行場で実地に操縦訓練を行うことになっていました。

64キロしか離れていないマックスウェル飛行場は白人パイロット専用です。

その中でも図抜けて優秀だったパイロット、キャプテン・ベンジャミンO.デイビス,Jr
は黒人の部下の上に立つ指揮官となりました

デイビスはのちに黒人初の4スター空将(事実上の最高位)になりました。

その後、アメリカ空軍の歴史において何人かのアフリカ系、二人の女性の
空軍大将が誕生してきましたが、2018年現在、アメリカ空軍の最高位は

チャールズ・ブラウンJr.

この人もまたアフリカ系アメリカ人です。

 

徹底した分離政策をとったため、黒人航空隊であるタスキーギでは、
例えばフライト・サージェオン(医師)なども黒人で揃える必要があり、
そのため、アメリカ陸軍初の黒人医官が誕生するというメリットもありました。

しかし、あまりにも厳しいスクリーニングで弾かれた人員の「捨て場所」に
当局は実際のところかなり頭を悩ませたようです。
これらの人員は、管理部門や調理に回されることになりました。

パイロットにも同じような難しさがありました。
あくまでも現場は白人優先だったので、訓練を受けた黒人航空士官ではなく、
相変わらず黒人部隊の指揮官には白人士官がアサインされることになりました。
ブラウンJr.などは超例外中の例外です。

史上たった一人の空軍元帥、あの差別主義者”ハップ”・アーノルドはこう言っています。

「黒人パイロットは、現在のところ我々の航空隊に使うことはできない。
社会的状況が変わらない限り黒人士官に白人の指揮をさせることは不可能だからだ」

タスキーギ航空隊のデビュー戦は1943年5月。

シチリア攻略のシーレーン確保のために地中海の小さな島を爆撃し、
この成功後も、同盟国からその飛行機の赤い尾翼から

「レッド・テイルズ」「レッドテイルズ・エンジェル」

と呼ばれた彼らは、次々とその優秀さを発揮しました。

デイビス中佐が第332航空隊を指揮して行ったダイビング航空攻撃では
予想以上の戦果を挙げ、また第99戦闘機隊は、イタリアのある空戦で
わずか4分の間に5機を撃墜するという記録を作っています。

また、強敵であるメッサーシュミットとコメートと対峙し、
3機を撃墜したことがありました。

332航空隊が戦争中に受けたフライトクロスの数は実に96に上ります。

 

これら戦闘機部隊の成功を受けて、黒人爆撃隊の組織が計画されました。
陸軍に対し人権向上委員会や市民団体からの突き上げもあったと言います。

その結果、1943年にB-25ミッチェル60機を擁する第617爆撃航空隊が組織されました。

ただし、新しい指揮官となったロバート・セルウェイ大佐というのがまた差別主義者で、
航空基地内で白人と黒人の映画館での区画を分けたことで反乱が起こり、

フリーマン飛行基地の反乱

その責任を取ってやめさせれたりしています。

この反乱では162名の黒人将校が逮捕されることになりましたが、
結果として、軍隊の分離政策を廃止した完全統合に向けた第一歩となりました。

それでも一般世間よりはずっと黒人の待遇はましだったと言えるかもしれません。
基地周辺の白人経営によるクリーニング店では、ドイツ人捕虜の洗濯は引き受けても
黒人士官たちの洋服を預かることは拒否したと言われています。

ちなみに、分離政策を取っていた時の黒人専用クラブの名前は
マダム・ストウの同名の小説をもじって

「アンクル・トムズ・キャビン」といいました。

余談ですが、公民権運動以降、「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」
「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味しました。

ジンバブエのムガベ大統領がアメリカのライス国務長官を“アンクル・トムの娘”
と罵倒したことは、その蔑称としての意味をよく表している例です。

さらに、黒人と同じく合衆国の被差別民族であるインディアンたちは、
「白人に媚を売るインディアン」を「アンクル・トマホーク」と呼び、また、
中国系アメリカ人は同様に、「白人に媚を売る中国系アメリカ人」を
「アンクル・トン」(Uncle Tong)と呼んでいるのだとか。

アメリカ(特にニューヨーク)に行くと、アメリカ人にはヘイコラしているのに
日本から来た観光客となると偉そうにする日本人飲食店主が結構いるのですが、
これなどさしずめ「アンクル・トミタ」?(全国のトミタさんごめんなさい)

992人のパイロットが1941〜46年にタスキーギで訓練をうけ、そのうち
355人が海外に配備され、84人が事故や戦闘で命を落としています。

犠牲者の内訳は、戦闘や事故で死亡したのが68人。
訓練中の事故による死亡が12名。
戦争捕虜として捕らえられた32人のうち
死亡した人がその内訳です。

 

パンテレッリアというのは、最初にタスキーギ航空隊が爆撃した地中海の島です。
アメリカの象徴ハクトウワシが、黒い鳥が島に向かって飛んでいくのを

「頑張ってこい息子よ、お前はもう自分でやれる」

と言いつつ見送っているという図。
黒い鳥には

「初めての黒人航空部隊」

と説明があります。

映画を紹介した時、最後のキャプションで、こんなセリフがありました。

「332航空隊は護衛した飛行機をたった1機も失ったことはない」

この記録については、異議を唱える後世の研究も存在し、
ある研究者は少なくとも25の爆撃機が彼らの護衛中失われた、とし、
また別の研究者はそれは27機だった、とする報告を挙げています。

確かに前線で一機も爆撃機が撃墜されたことがない、という話には
かなり盛っている感が拭えないので、神話は神話に過ぎない、
というしかありませんが、それをもってタスキーギ航空隊の名誉が
貶められたということにはならないと思います。

同じ時期、同じ場所で戦っていた航空隊の爆撃機の喪失は
平均46機であったという記録もあるのですから。


このように、高く評価されたタスキーギ・エアメンでしたが、
戦後は普通に人種差別を受ける運命が待っていました。

4スターの空将になったもう一人のタスキーギ隊員、

ダニエル”チャッフィー”ジェイムズJr.

や、NORADとNASAで通信に携わったマリオン・ロジャースのように
その実績と資質を認められて活躍した者は極めて少数だったと言えましょう。

2012年、ルーカスが製作した映画「レッドテイルズ」が公開された時、
ロジャースはセレブレーションに招待されて、その席でインタビューを受け、
このように語っています。

“Our airstrips weren’t as nice as the ones shown in the film. ”

「我々の滑走路はこのフィルムに描かれたような良いものではなかった」

 



 

 

 



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