イスラーム勉強会ブログ

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洞窟章12節

2008年02月01日 | 他の解説

 金曜日にこの章を読むことはスンナで、ダッジャールから守られると言われます。だから読んでくださいね!! (意訳:http://www.isuramu.net/kuruan/18.html

  この前、某シスターに洞窟章12節「それからわれは,かれらを呼び起こし,2団のどちらが,よくかれらの(滞在)期間を計算出来るかを知ろうとした。」について質問された。

 すべてを知っておられるアッラーが、どうして「知ろうとする」必要があるのか?

 本文の動詞を直訳するとやはり同じような、「われは知るために」という意味の日本語になるし、ネットや書籍の意訳も↑のように出ている。

  私は今までこのことを疑問に思ったことがなかったけれど、今回指摘を受けて、そういえばそうだな・・・と解説はどうなのだろうと興味を持った。

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 先ほどの節についてですが、やはり日本語の表現だと意味が伝わりにくいのかな、と思います。 ちなみにこの表現の詳細な解説は(私が持っている中で今すぐ確認が取れる)アラビア語の本にはありませんでした。

 アラビア語では、「われはOOを知るために(彼らを起こした)」とあります。ほかの節ではアッラーは私たちを試すために創造した、や、答えはすべてアッラーが知っているはずのことばかりについて、審判の日にアッラーが預言者イーサーに質問をする場面、預言者ムーサーが初めて預言者として呼びかけられたとき、アッラーが彼が持っていた杖について「お前が持っているものは何か?」と質問する場面など、アッラーが知っているはずなのに預言者に質問したり、クルアーンにその表現があったりしますよね。

  預言者ムーサーは持っていた他愛ない杖が後に海を分けることになることなどそのときは知らなかったでしょうが、その瞬間が来たとき、きっと、アッラーが以前この杖についてお尋ねになったな、あのとき私はこの杖がどうなるかなんて知らず、無知であったが、アッラーは未来も過去もご存知なのだ、と思ったかもしれません。

 (少々強引ですが)そしてそれらはすべて、私たち信者のための訓戒になるのではないでしょうか。アッラーは英知を伴わないことは決して起こさないので。

  アッラーが全てをご存知であることに疑いの余地はありませんから、少しでも疑問があれば、その都度調べてはすっきりした方が自分の信仰心維持のためにいいですよね。
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  という自分なりの答えを言ってみたけど、何か足りないような表現。

  ということで先輩に聞いてみた。

  先輩の持っているコルトビー氏(コルトバ出身の昔の学者)の解釈本には、「عبارة عن خروج ذلك الشيء إلى الوجود ومشاهدته، وهذا على نحو كلام العرب، أي لنعلم ذلك موجودا وإلا فقد كان ا

لله تعالى علم أي الحزبين أحصى الأمد」 とあるらしい。
  う~~む、昔のアラビア語の言い回しは難しい……

 「知る」とは、何か(something)が「存在」に出現・姿を見せる(他に見られる存在になる)こと。これがアラブ人たちにおけるこの単語の意味である。つまり(このアーヤの「知る」という意味は)、われがそれを知る(上記の解説の意味、われが人間にそのことを知らしめる)ために、ということである。そうでなくても(上記の解説の意味・・・姿を見せるという意味を持つこと)至高なるアッラーは2団のどちらが期間を正確に知ることが出来るかを知っておられる-------------という意味?になる。

  アラビア語で読めばフムフムと分かるけど、日本語に直すと意味不明!!

  つまりまあ、「アッラーはもともとご存知だけどそれが人間の目の前に現実に現れるようにさせたということ」みたいな感じ。

  先輩曰く、「他の章でも、例えばアッラーは誰かが悪い事をするのを御存知だけど、最後の審判の日にその人が言い訳できないようにそれを現実の世界に存在させ、誰の目にも明らかにさせるというような意味もあるよ」とのこと。ふむふむ・・・・・・
 さ、洞窟章を読みましょう!