◎言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは
まずは、空海の声字実相義。五大とは、地水火風空のこと。
五大にみな響あり (五大皆有響)
十界に言語を具す (十界具言語)
六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)
法身はこれ実相なり (法身是実相)
出口王仁三郎の玉鏡から
『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。
音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』
五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。
『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によつては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』
正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。
ある信者が出口王仁三郎に「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」と答えた。(新月の光(下巻)/木庭次守編P263に出ている)中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。
霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。
『言霊の生ける活用白雲の
空に迷へる学者あはれ
もろもろの学びあれども言霊の
真言の学び悟れるはなし
世の中に学びは数多ありながら
学王学の言霊知らずも
言霊の学びは総ての基なり
其他の学びは末なりにけり
根本を悟らず末の学びのみ
栄ゆる此世は禍なるかな
世の中の一切万事は言霊の
光によりて解決するなり
言霊の真言の道を知らずして
此神国の治まるべきやは』
(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)
まずは、空海の声字実相義。五大とは、地水火風空のこと。
五大にみな響あり (五大皆有響)
十界に言語を具す (十界具言語)
六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)
法身はこれ実相なり (法身是実相)
出口王仁三郎の玉鏡から
『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずに居るのである。
音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』
五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。
『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によつては之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』
正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。
ある信者が出口王仁三郎に「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」と答えた。(新月の光(下巻)/木庭次守編P263に出ている)中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。
霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。
『言霊の生ける活用白雲の
空に迷へる学者あはれ
もろもろの学びあれども言霊の
真言の学び悟れるはなし
世の中に学びは数多ありながら
学王学の言霊知らずも
言霊の学びは総ての基なり
其他の学びは末なりにけり
根本を悟らず末の学びのみ
栄ゆる此世は禍なるかな
世の中の一切万事は言霊の
光によりて解決するなり
言霊の真言の道を知らずして
此神国の治まるべきやは』
(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)