◎それを払しょくするか、相手にしない行法
天国は良く、地獄は悪いというマインド・コントロール。この教団は、教祖も教義も正しく、聖なるものであるというマインド・コントロール。
考える時間を与えず、次々に繰り出されるイメージと音楽・効果音と情報。これを人間に四六時中投入することでポジティブな気分やポジティブな世界観を何年かは維持することができるかもしれない。こうしたスマホを眠る時以外は手離さないライフ・スタイルはほとんど完成の域に達した。スマホ・ホリック、ゲーム・ホリック。
組織宗教である以上は、どうしても組織、教団の維持のために、他の教団は誤っていて、わが教団は正しいとやるものだが、これもマインド・コントロール。
その教団では、ある修行をやれば、どんな信者も同じように同じステージをだんだん上がって行って、最後は同じ悟りに至るという、修行内容と結果が連動するという誤解。
人間の本当の幸福はそういうレベルにあるものだろうか。
いずれも記憶と想念の改変、注意力を内側に向けさせないことが狙いであって、そのマインド・コントロールで最大のメリットを受ける者は、教祖だったり、教団だったり、ゲーム会社だったり、スマホ会社だったり、政府だったり、企業だったり、外国政府だったり、政党だったり・・・・であって、本人はマインド・コントロールされている限り、真理にはたどり着けない。
人間は、メディア・マスコミ経由、教育経由、家庭経由などそれまで生きてきた環境に応じて、あらゆる洗脳を経てきたので、その頭の中は外部からインプットされた情報とそれをもとに頭の中で組み立てられた派生的な情報で満タンになっている。
人間はニルヴァーナにコンタクトすれば、見神、見仏、見性するなどというのも、いわば洗脳情報である。論証の手段がなく、証拠がないから。
釈迦といふいたずらものが世にいでて
おほくの人をまよはするかな(一休)
そうしたバイアスを一枚一枚玉ねぎの皮をむいていくタイプの修行法がクンダリーニ・ヨーガ。
一方一足飛びに真理そのものニルヴァーナそのものに飛び込もうとするのが只管打坐。
どちらにしても、まともな冥想というのは、
マインド・コントロールを払しょくするか、相手にしない行法なのである。