アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

阿比留文字と阿比留草文字

2024-01-04 16:22:38 | 古神道の手振りneo

◎阿比留草文字こそ正統

(2012-06-16)

 

江戸時代の古神道研究者の平田篤胤(1776-1843)は、今のハングルみたいな文字の文書を何通か手に入れ、この奥書によれば、この文字は日文(ひふみ)四十七文字であって、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)(中臣氏の祖神)から対馬の占いを職掌とする阿比留家に伝承されたものであることから、阿比留文字と呼ばれた。

さてハングルは、1446年朝鮮李朝の世宗の時代に公布した文字であり、平田篤胤の時代よりも更に古い。ゆえに常識的にはハングルは対馬経由で入ってきて、これを一部アレンジしたのが阿比留文字になったと判断される。それほどハングルと阿比留文字は似ている。

なお李氏朝鮮時代にはハングルは公文書に使用されることはなかったが、日本統治時代にハングル教育を推進したので、戦後はなんだかハングルが南北朝鮮で公用にされているそうだ。

 

平田篤胤は、更に阿比留家に伝承されている別の文字が、阿比留文字を崩したような形であることからこれを阿比留草文字(アヒルクサ文字)と称した。

さてアヒルクサモジは、日本古代の有力寺社のほぼ三割の神璽、守符で発見されている。そのことからしても、阿比留草文字は、仮名以前つまり空海以前には遡ろうということで、ハングルの成立よりはるか以前のこと。

また神璽、守符に採用されていることから当然にこの文字は神聖文字である。平田篤胤の言うようにハングルが楷書であってその崩し字である草書が阿比留草文字であるとすれば、そうした格の劣った文字を神璽、守符に採用するはずはない。よって、阿比留草文字こそが正格の文字であると認められていたと考える。

 

だから阿比留草文字と阿比留文字の正偏にあまりこだわる必要はなく、両者はとりあえず別物と考えることで良いのではないかと思う。

やはり主題は、古神道の源流がアヒルクサ文字を採用していたということと、その由来にからむ聖者列伝が残っていないかどうかではないかと思う。

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役行者-1-役行者の意義

2024-01-04 06:47:24 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-18

◎青春期の垂直の道-18

 

出口王仁三郎は、空海と役行者は艮の金神様の生まれ変わりだと言っている。(出典:新月の光下巻/木庭次守編/八幡書店P135)

艮の金神とは、善玉神の親玉のことであって、神の世界は三神系で成るのだが、善玉神一グループと、二種の悪玉神グループの総称のこと。三神系が、この世のあらゆる悲喜劇を創出する原動力となっているのである。

 

わざわざそのような貴顕神アヴァターラが世に出てくるのは、時代が危殆に瀕している時期である。役小角(634年~701年)の生涯で特筆すべき事件は、

645年 蘇我入鹿暗殺、大化の改新

663年 白村江の戦い

671年 唐国の使人郭務悰等約2千人の唐兵や百済人が日本に上陸。

672年 壬申の乱

712年 古事記編纂。

 

役行者は、699年に伊豆大島に流罪になって、大赦により奈良県御所市茅原に戻り、701年大阪府箕面市にある箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳で入寂した。

 

役行者は、一般に修験道の開祖と認識せられているが、私は彼の業績について以下のように考えている。

 

1.古神道のエッセンスを修験道に持ち込んで、古神道の延命護持を図ったこと。その成果が古事記である。古事記は、上巻、中巻、下巻の三巻に分かれるが、とりわけ上巻は、古神道の奥秘開示と現代に至る予言書となっている。

また上巻の予言内容については、現代すなわち至福千年到来までの時期にすべて現実化する、と出口王仁三郎は述べている。

 

2.白村江の戦い以後、それまでの日本の言語文字であったらしい神代文字は地下に潜行した。漢字のみの言語を日本に押し付けようとする唐国勢力に対し、原日本語を漢字と仮名で残そうとするため、アイウエオの仮名を創出せしめた。これは、日本語の言霊を残さしめたということで決定的だった。

 

(1)神代文字と古神道

 吾郷清彦によれば、由緒ある神社であればあるほど、神社の神璽(神符)や守符(お守札)が神代文字で書かれているものだそうだ。

 

最も由緒ある元官幣大社では、58社中22社が神代文字の神璽または守符を採用している。該当する元官幣大社は、生国魂神社、大和神社、石上神宮、宇佐神宮、伊弉諾神社、鹿児島神宮、吉野神宮、日吉神社、日枝神社、月山神社、平安神宮、浅間神社、氷川神社、稲荷神社、三島神社、阿蘇神社、大神神社などである。

さらに該当する元官幣中社には、鎌倉宮、金鑚神社、生田神社、住吉神社、また元国幣中社では、寒川神社、伊佐須美神社、志波彦神社、出雲神社、函館八幡宮、塩釜神社、金刀比羅宮などビッグ・ネームが並ぶ。

吾郷清彦の集計では、官幣大社、官幣中社、官幣小社88社の中で神代文字の神璽(神符)や守符(お守札)が採用されているのは27社で、30.7%にも達するという。同様に国幣大中小社86社中の神代文字採用は24社で27.9%と高い。

使用されている神代文字はアヒルクサ文字が大半である。

神社建立の由緒を考えれば神璽(神符)や守符(お守札)のデザインはおいそれと変更できるものではないから、日本の主要な神社は、もともと漢字・仮名文化ではない宗教を持つ部族によって建立されたであろうことが推察される。

そしておそらくそれはアヒルクサ文字の教義体系を有する古神道だった。アヒルクサ文字は中国にはないから、役行者が日本に持ち込んだということではないだろう。つまり大化の改新以前に、アヒルクサ文字の古神道体系が既に日本列島には根を下ろしていたのではないか。そしてアヒルクサ文字の古神道体系のエッセンス(冥想手法、カリキュラム)は、実は道教のそれに類似する同じ垂直の道だったのだろう。

 

(2)空海との関係

修験の山大峯では、役行者信仰一辺倒だそうだが、その大峰でも修行した近藤得海氏の言葉。

『神奈川県大和市の近藤得海師(75歳)。一本歯のゲタで、のし歩く。

「まあ、役行者さんのあとのくくりをしているのが、お大師さんだな。イロハはお大師さんがつくったろ。

じゃ、アイウエオはだれがつくったんだ。役行者さんよ。そういう関係だよ。」

当方絶句するほかなかった。』

(異界を駈ける/藤田庄市/学研P133-134から引用)

 

3.役行者は土地神を平定した。

これは、前鬼後鬼を服従させた伝説にうかがえるが、彼が修験道で歩いた全国各地やアストラルで行った諸方で土地神を平定したということが多かったのではないかと思われる。それにより、神霊レベルでの古神道の全国普及、統一を図った。この辺はいわゆるご神業に属することであって、例えばチベット密教の開祖パドマサンバヴァもチベットの土地神を帰順させまくったが、その内容は俗人が知るべきことでなく、あまり伝わっていないのと同様と思う。

 

4.道教を日本に入れなかったこと

この時代の政権は唐の文字、文化、宗教を取り入れる圧力が強く、道教もしつこく導入を迫られたものと思うが、古神道をあくまで守る姿勢があって、道教排斥についても活発に動いたものと思われる。

 

役行者は、日本が唐という外国勢力により立て直しを迫られる中で、諸国の土地神の帰順により古神道そのものを整理し、仮名創出で原日本語の粋を残させることで、日本人の根幹である日本精神、大和魂を継承させることに成功したのだろうと思う。

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