◎ジェイド・タブレット-06-27
◎青春期の垂直の道-27
◎秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す
この身このままで仏となったのは、唐での大悟の際だろうと思う。
空海は、大日如来と合体などという露骨な表現はとらないで、大日経悉地出現品を引いて
「この身このままで、思うまま行動できる不思議な力を得て、大いなる空の境地において自由に振る舞いしかも聖なる身体(身秘密)を完成することができる」という言い方や、龍猛菩薩の菩提心論を引いて「真言密教の教えと行法においてのみ、この身このままで仏となれる」というような言い方で、人間が人間のままで仏に成れるようなイメージ誘導をしており、ややはぐらかした表現をとっている。
クンダリーニ覚醒プロセスについては、はっきりとは書かないのが、クンダリーニ・ヨーガの道の伝統なので、このようなはぐらかした言い方であることには、特に問題はないと思う。
またその境地の高みについては、十住心論で10段階の世界観を提示している。その十番目が、第十住心・秘密荘厳住心である。これには、顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証すとある。
つまり真言が蔵を開くと秘宝が展開し、数知れない徳がはっきりすると説明している。ところが、ここでその秘宝や徳の中身を具体的、羅列的に説明しないところが、エチケットであり、思わせぶりなところであるが、ここはそれを承知している者の作法と見るべきだろう。
更には、この時代にあって人間を超えるという言い方をしても理解できる自我意識の発達はなかったため、こうしたおとなしい表現になったのだろう。
そして晩年の著書「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の序には、
『三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し。
あらゆる世界の狂っている人は、自分が狂っていることを知らない。
生きとし生けるもので、眼の見えないものは、自分が眼が見えないことを知らない。
人は何度も生まれるが、生の初めに暗い。
人も何度も死ぬが死の終わりに冥い。
』とある。
まず生の始めに暗いとは、単純に出生後に前世の記憶がすべて無くなるとか、アストラル的な認識能力が無くなってしまうことを暗いと言うとは思えない。
チベット仏教の死のプロセスで言えば、原初の光という宇宙意識(神、仏、大日如来、タオ)の光明を見て、さらに中有から転生の行く先を選んでいくステージがあるが、こういった宇宙意識を知覚・体験していた思い出・感触をすべてなくした無知・デフォルトの状態で生まれることを暗いというのだろう。
次に垂直の道の冥想でもって何度か肉体死を経験した者だけが、死の世界の秘密を極め、「死に死に死に死んで」、死の終わりに冥(くら)い神秘なる死の世界にまた帰っていくという感慨がここにあるように思う。生の世界は死の世界のごく一部なのだ。従って生の始めには暗いだけだったのが、死の終わりにはその世界の秘密を知った結果、冥いと表現が変わるように思う。
つまり垂直の道系冥想の基本形である、死の世界を極めることにより、生の世界を知るという行き方をここに見ることができると思う。
また空海は、広義のクンダリーニ・ヨーギ(密教者)らしく、その超能力を用いた伝説が無数にある。そして、このようにその著書から、死の世界を極めることを前提にした発想が推測できることで、空海こそ手練のクンダリーニ・ヨーギの一人であると考えられる。
さて空海御遺告に、空海が遣唐船に乗る時点では、大日経の中にわからない点が多々あり、問える人もなかったと率直に語っている。
また長安の恵果の俗弟子の呉殷の記録では、「日本の沙門(空海)がやってきたが、この人は並の者ではなく、そのレベルは十地の下から3段目の発光地にある菩薩である。」とあり、誰がこれを語ったのかという問題はあるものの、恵果または周辺の眼力のある人物が、空海は、 菩薩の五十二段階レベルの中で、上から10番目の発光地にあると断定していたということである。
これは、空海の弟子にそこまで眼力のある人物は少なかっただろうから、空海がその死を前に、自分の入唐時のレベルを弟子達に対して殊更に語っているシチュエーションである。
さらには、空海が恵果のもとを去る時までには、「(仏の位を継ぐ密教の秘法である)五智灌頂を受け、胎蔵金剛両部の秘密法を学び云々」、とあるので、大日如来との合体を果たした可能性があるように思う。