◎ジェイド・タブレット-06-15
◎青春期の垂直の道-15
◎イエスの遺偈(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)
イエスの最後の一言が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」であったのは、知られているが、文字通りのそれだけであったならば情けない話しである。
ところが、詩篇に『わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。』という言い回しがある。これによって、まず十字架上で、イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と最初に朗唱し、平常時であれば、続いて当時のユダヤ教の風習に従って周りにいた人たちがそれに続く詩篇の言葉を合唱したのだろうが、それはなく、ここはイエスが独り心の中で詩篇の続きを唱えて、その後に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」、「すべてが終った」と云ったと見る考え方もある。
心理学者C.G.ユング風に言えば、実はすべての人は、その身に光も闇も、天国も地獄も、明も暗も、善も悪も、そうした相反するものを一身に抱えているのだが、イエスは自ら十字架にかかることで、それを万人が明らかにわが身のことであるとわかるように、明らかに見せてしまった。
よく教会では、イエスの重い軛(くびき)の一部を背負うことで、自分もイエスをいさかかなりともサポートしましょうみたいな言い回しを聞くかもしれない。だが、その言い回しは気休めにすぎないことを、万人は自分自身が最もよくわかっているのではないだろうか。実は自分自身が負うている軛とイエスの負っている軛の重さに変わりはないのではないかと。
さて、イエスは天佑神助を祈る詩篇をとなえたが、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」の後で何かが起きたと見るのだろう。十字架上では、終始一人称では語っていないからである。自分と父が一体であるという立場では語っていないからである。だが、脱身して神人合一したことを語る部分はない。
それとも、肉の苦しみはあるが、それであっても何の問題もないということを改めて確認したということも考えられる。
『27:45さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』
(口語訳新約聖書(1954年版) 【マタイによる福音書】から引用)
『19:29そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
19:30すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。』
(上掲書【ヨハネによる福音書】から引用)
『23:46そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。
23:47百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
23:48この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
23:49すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。』
(上掲書【ルカによる福音書】から引用)
『第22篇
聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌
22:1わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
22:2わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
22:3しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。
22:4われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
22:5彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
22:6しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
22:7すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
22:8「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
22:9しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
22:10わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。
22:11わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。』
(口語訳旧約聖書(1955年版) 【詩篇】から引用)