アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イエス・キリスト-5-単独なる者、選ばれた者

2024-01-03 03:32:41 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-17

◎青春期の垂直の道-17

 

新約聖書は、水平の道寄りに書かれてあるが、もともとイエス・キリストはバリバリの垂直の道の修行者。見神経験はあったが、超能力の相当な使い手であって、神人合一は十字架にかかる以前はなかった。トマス福音書は、垂直の道寄りのことが書かれている。

 

新約聖書外典トマス福音書から。

『一七

イエスが言った、「私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い浮かびもしなかったことを与えるであろう」。 』

(ナグ・ハマディ文書 2 福音書/荒井献/〔ほか〕訳/岩波書店P24から引用)

 

これは、父母がまだ生まれていない以前の自分のことであって、自分がそのきっかけになることを言っている。

 

『一八

弟子たちがイエスに言った、「私たちの終りがどのようになるかを、私たちに言って下さい」。

イエスが言った、「あなたがたは一体、終りを求めるために、初めを見いだしたのか。なぜなら、初めのあるところに、そこに終りがあるであろうから。初めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終りを知るであろう。

そして死を味わうことがないであろう」。』

(上掲書P24から引用)

 

初めも終わりも等しいものは、宇宙意識にして世界全体にして過去現在未来も生も死も一緒くたになったもの。第六身体。

 

『二二

 

イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るのでしょうか」。

イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、[王国に]入るであろう」。』

(上掲書P26から引用)

 

『二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする』とは、選り好みをしないことであって、両性具有の実現のこと。その時、大悟覚醒できる。だが、LGBTQのことではない。

その時、自分が世界全体なので、目も手も足も一であり、禁じられている像を造ろうが造るまいが問題にはなるまい。

 

『四九

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは王国を見いだすであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」。』

(上掲書P33から引用)

 

単独なる者は、既に両性具有を果たした者、選り好みをしなくなった者。そうであれば、垂直の悟りを達成できる。

 

『七五

イエスが言った、「多くの人々が戸口に立っている。しかし、新婦の部屋に入るであろう者は、単独者(だけ)である」。』

(上掲書P40から引用)

 

多くの人は、垂直の悟りの可能性は有している。だが、その誰もが新婦の部屋に入れるわけではなく、両性具有を果たした者、選り好みをしなくなった者である単独者だけが入れる。

グノーシスにおける単独者とは、原人、完全な人のこと。それは、エデンの園追放以前のアダムのことである。

フィリポによる福音書§71にエバと分離する以前のアダムが完全体、原人であることが示される。そのやり方は、エバを再び合体させることであって、それが聖なる結婚となる。

見神した人にもいくつかの段階があり、両性具有を果たす段階というのもあり、その先にさらに新婦の部屋に入る段階というのがあるのだろう。

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