◎ジェイド・タブレット-06-25
◎青春期の垂直の道-25
◎山岳修験の深く旧いルーツ
空海の悟りに至るまでの冥想修行は、まず少年時の役行者の影響の強い山岳修験、そしてうつ状態、明星、唐での大悟と進んでいるように思われる。
空海以前には密教らしい密教は日本にはなかった。ところが空海自身盛んに山岳修験に学んでいる形跡がある。空海は8世紀の人。
「私は少年時代、好んで山水を渉覧した。吉野から南へ一日、更に西へ2日ほどの山深いところに静かな平地がある。名付けて高野という。紀伊国伊都郡の南にあたる。その四面は高い峰々に囲まれ、人の通った跡もなく、道もない。」(性霊集)
このルートの途中までは、山岳修験のメイン・ストリートのひとつである(吉野)大峰奥駆け道であり、空海も少年時代に、このルートを跋渉したであろうことが知れる。
三教指帰には、「ある時には金の巌に登って雪に降られ難渋し、ある時は石槌山に登頂し食料が絶え、散々な目にあった。」
「阿波の国の大滝岳によじ登り、土佐の国の室戸岬で一心不乱に修行した。その私のまごころに感応して、谷はこだまで答え、虚空蔵菩薩の応化とされる明星は、大空に姿を現された」などとあり、紀伊半島から四国を中心に、しきりに山岳にあって修行を行っていたことがわかる。
空海は、文弱の徒ではなく、中国留学以前に、山岳修験によって、クンダリーニ・ヨーガのエッセンス(密教も修験もクンダリーニ系であって垂直の道)を学んでいたのではないかという推測ができるのである。一方山岳修験そのものも、空海以後は密教と習合した形になっている。
時代は下って11世紀に安倍晴明が出たが、陰陽師である彼も泉州の葛城山に山岳修験を学んだような形跡があり、和泉には安倍晴明の伝説が到るところに残っている。空海以後においても、山岳修験はそのノウハウが連綿として伝承されていたことがわかる。密教、陰陽道と、どちらもクンダリーニ・ヨーガ系のものではあるが、山岳修験は、日本の垂直の道のバック・ボーンとしての役割であったように見える。山岳修験おそるべし。また役行者の遺徳も忘れることはできない。