アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

カルトの時代が過ぎた今

2024-01-17 16:37:40 | 時代のおわりneo

◎自由求道者の群れの60年

(2013-06-14)

 

1960年代、アメリカの大勢のヒッピーが世界を求道のために遊行し、ビートルズが、インドのリシケシまで行ってマハリシ・マヘッシ・ヨギに会って、超越冥想TMの指導を受けたりした。ヒッピーたちは、当時日本の禅刹にも多数押し寄せたという。

1960年代に20代の若者だった者はすでに70代に突入した者も出始め、この老人たちが奇特な求道、冥想の雰囲気を伝え得たか、あるいはちゃんとした覚者を多数輩出しえたかといえば、決してそうではないところに、日本の現在の問題と将来の課題がある。

本山博のいうように人は物を沢山持てば、自意識が確立しやすいものだ。第二次世界大戦でアメリカは自国をほとんど戦場とすることなく、戦勝国側となって、戦後復興経済の主力となったので、1950年代は物質的にとても豊かな生活を国民の大多数が享受できたのではないだろうか。日本では食料配給の時代だったが、1950年代のアメリカ映画にはアメリカの中流家庭がよく出て来るが、テレビ、大型冷蔵庫、洗濯機など、普通に持っていたものだ。

そうして自意識が確立に向かうと、人は求道することに向かうもので、若者のかなりの部分が共産主義ユートピア教という偽宗教(イデオロギー)にだまされ、1991年のソ連崩壊まで、その幻想は破られることはなかった。

それ以外のやや少数者がインド、日本などに回り、クリヤ・ヨーガや禅などに向かうこととなった。そうした内向的若者達のニーズにマッチして出てきたのがOSHOバグワンであった。

OSHOバグワンの書籍は、70年代の日本でも当時相当読まれた。西荻窪のプラサード書店なんかは、バグワン・フリークのメッカの一つだったように記憶している。

けれどもOSHOバグワンのムーブメントは、アメリカ官憲に追われたことで、尻すぼみに向かった。1986年には、ニュー・エイジのリーダーの一人クリシュナムルティが亡くなり、1990年代初めまでには、ダンテス・ダイジ、OSHOバグワンという大物覚者が逝去し、大物覚者たるリーダー不在の20年に入った。

この20年はカルトが猖獗を窮めた。もちろん1990年以前にも1978年の人民寺院などカルト事件はあったのだが、1993年にブランチ・ディビディアンの事件、1995年のオウム真理教事件をもってカルトが猛威を振るった時代のピークとなった。

カルトはこれ以後、コミューンというスタイルをとらず、以後カルトの様々な勧誘手口が、ネットワークビジネス(ねずみ講、マルチ商法)や詐欺的金儲けに応用されて世の中を混乱させることになって、現在に至る。

この二十数年、まじめな求道者にとっては、グルの絶対数が不足しているということは大きな問題だった。いやむしろまじめな求道者の絶対数がさほど多くはなかったという状況だったのかもしれない。

3.11東日本大震災、福島原発事故を経て、ようやく日本人はこの異形の文明の正体に気がつき始めている。人は本当の自分に出会わなければ、何もまともなことなどできやしないのだ。

メソッドとモチベーションそしてグルとの出会いがなければ、悟りに至ることは難しい。

しかし杜子春ではないけれど、本当に願えばグルはやって来ようというものだ。

 

※2024年1月17日追記

ソ連崩壊後、表面の美辞麗句とは裏腹に左翼的考え方を持った人々が政界やマスコミを実質的に支配し、世界中ができそこないの共産主義的ユートピアみたいになっているが、これを醜悪と感じている人は実は少なくないのではないか。

極まれば反転するが、極まり方も反転の仕方も問題である。

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空海-4-空海の仕掛け

2024-01-17 03:35:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-17

◎同行二人

 

もとより聖なる部分、本当のところは、言葉では語り得ず、動画でも、静止画でも描き得ない。だからといって伝達の労を取らなければ、まあ何も伝わることはない。聖なるバイブレーションは残るだろうが、それを感得できる程の感受性を持つ人は極く限られる。

 

空海の『法はもとより言なけれども、言にあらざれば顕はれず。真如は色を絶すれども、色を持ってすればすなわち悟る』(御請来目録)とは、このことを言っている。だから真言の寺では、派手な天蓋や絵や音曲や香りを用いて五感を総動員させて、法・真如についての直観を与えようとする。これは密教に対する前提知識のない大衆に密教を広めようとする仕掛け。

 

四国八十八箇所霊場を巡回するお遍路さん。

背中には、白衣に南無大師遍照金剛の黒いゼッケン。そして同行二人の遍路傘。これは、単純に歩く広告塔ということではない。肉体を持たぬ精妙なボディの空海が「呼べば」同行してくれることを約束してくれているということ。

密教系、クンダリーニ・ヨーガの修行記や伝法のいきさつを読めば、どうみても肉体を持っていないと思われるグル・師匠が、肝心のところで重要な指導をしてくれる場面に出くわすことがある。このクリティカルな指導を空海がしてくれると保証するのが同行二人なのだと思う。

長く様々なトラブルの待つ修行の道程を、最後まで面倒を見ると空海がギャランティーしてくれるのが「同行二人」なのである。これは真剣に取り組んでいる修行者への空海の仕掛け。

高野山奥の院で、空海はまだ生きているというささやきを聞いたなら、それを単純に非常識なことと退けるわけにはいかない背景がここにある。

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