アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし

2024-01-23 04:46:41 | 道教neo

◎荘子とOSHOバグワン

(2017-09-09)

 

荘子の逍遥遊篇から。

 

『若し夫(そ)れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いずく)にか待たんとするや。

 

 故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功(いさおし)なく、聖人は名なし」と。』

 

※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。

 

大意:

『もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。

 

至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』

 

荘子はクンダリーニ・ヨーガの奥義体得者であるので、世界の気によるコントロールなどという表現がある。

 

OSHOバグワンは、自らの前世は、古代のチベット僧などととぼけているが、ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンの前世は、荘子であるとみている。

 

荘子は、全般に弟子たちの面倒を親身にみてやろうという姿勢が薄く、自らあちこち逍遥して遊びまくってはいるが憂き世の俗人の苦悩の解決にはあまり真剣とはいえないところがある。

 

こうしたところは、OSHOバグワンがプーナとオレゴンにコミューンを作りながら、あまりその経営に熱心とは言えなかった風であるところに共通点を感じさせられる。

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OSHOバグワン-3-荘子としての前世-1

2024-01-23 03:42:41 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-30

◎青春期の垂直の道-30

◎坐忘で窮め、逍遥遊する

 

OSHOバグワンは、自分の前世は荘子だとは言っていないが、ダンテス・ダイジが、OSHOバグワンの前世は荘子だと喝破している。

荘子の生き方は、垂直の道の一つである道教の坐忘で究極に到達した経験を携えながら、意のままにこの世とあの世を逍遥し遊ぶという生き方である。その上で道(タオ)に覚醒した弟子を打ち出す必要性は承知していながらも、あまりその点についても熱心とは言えないところがある。わざわざ冥想コミューンを主宰したにもかかわらず。

荘子に出てくる個々のエピソードは、説明不足のせいか食い足りないし、一部の老子道徳経の文言より神秘的ではないので、あまりスピリチュアルではなく、深遠さも欠けていると思われがちである。

また荘子は哲学だと言われているが、哲学ではなく、道教の坐忘という冥想の達人であって、冥想の記録である。道(タオ)は無数の断片からなるが、その中の少数のエッセンスの断片から出してきたものが荘子である。

そして究極である道(タオ)を生きる人間の姿が逍遥遊である。死の世界を窮めた者のみがそれを知る。

OSHOバグワンの一生は、死の世界を窮めた者として、弟子たちの育成はそこそこに、ロールスロイス96台を並べて見たり、晩年読書三昧にふけっては講演は少々にしたりと、まさに逍遥遊な生き様だったように思う。

 

さて荘子に見られる最終解脱者としてのエヴィデンスは次のようなところである。

 

1.逍遥遊

『大意:

もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。

至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』

※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。

 

『六気により世界をコントロールし』というところが、超能力活用で、『無窮に遊ぶ』という姿が逍遥遊であって、垂直の道の極み。

(荘子・逍遥遊篇)

 

2.熟眠中に眠らない

熟眠中に夢を見ないのは、ウパニシャッドでもテーマになっていた。

『古の真人は、寝ても夢みず、覚めても憂いなし。

その食するものは美食ではないが、その息はとても深く、真人の息は踵をもってする。

衆人の息はのどをもってする。

屈服する者は、その言はものを吐き出すかのようであり、こだわりが強く強欲な者(嗜欲深き者)はその天機は浅い。』

(荘子 大宗師篇)

 

3.至道の姿

『すると広成子は、以下のようにアドバイスした。

「至道の精、窈窈冥冥たり

至道の極、昏昏黙黙たり

視ること無く 聴くこと無く

神を抱きて以て静ならば、形将(まさ)に自ら正しからんとす」

 

至道の精は、奥深くぼんやりしている

至道の極は、ひっそりとして暗く静かである

見るでもなく、聞くでもなく

神を抱いて、静ならば、その肉体は、自ずから正しく矯正していくものだ。』

(荘子 在宥篇)

 

究極とは、窈窈冥冥にして、昏昏黙黙で言葉では表現できないが、究極と一体になれば、その身は自ずと正しくなるもの。

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