退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「おぼつかない足下」について

2012-03-06 03:29:12 | Weblog
雨。パラパラと降り続く。

中山元「フーコー 思想の考古学」読了。

あれこれものを考えるときそのどこかに「無条件の前提」がある。
それゆえ敢えて「遡行」をするもののそれでもあるということ。

「時代の制約」からは誰も逃れることができず
一見「正反対のこと」を言っているふたりが「同じ土俵」に立っていたり。

きちんとものを考えることの難しさをあらためて思う。
自分の「足下」はしっかりと見ておかなければならない。

さて。

今日は仕事前にドトールとミスドをハシゴしたのだけれど
後者で幼い少女が母親の目の前で出口の透明なガラスにおでこをぶつけるのを見る。

痛みは大したことがなかったのかそのまま方向を変えて出て行った。
最近ではビートたけしくらいしかしない「ネタ」のようで思わず微笑む。

その一方隣りにいたおそらくは常連の若者が喫煙席に座っているのを店の人に不思議がられ
敢えて座っているのだと答えた後で「気遣いなんです、そこが重要」と言うのを聞く。

子ども連れの多い店ゆえそうしているのだということらしかったが
黙ったままでいられないのがいかにもな「青二才ぶり」。

「しゃらくせぇ」と思わず心でつぶやく。
せめて「今日は受動喫煙しに来ました」くらいの台詞がほしいところ。

それを言っちゃあおしめえよ。

「寅さん」ではなくとも同じ「フーテン」の身として忠告しておきたかったけれど
最後の一服の煙を横に吐く程度で終わって店を出る。
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「どうぞこのまま」ということについて

2012-03-05 03:39:11 | Weblog
雨。一日中降る。

図書館で借りた本を読み切れていないので「ひきこもり」。
家から一歩も外に出ずに過ごす。

タバコを買いに出る「機会」はあったものの
妹夫婦が来るということでついでに頼んでしまう。

足の骨を折った母親の世話を焼く妹。
母親は松葉杖を使わずにやたら動きたがるので回復が遅れている次第。

妹に真剣に諭されていたけれど言うことをきくかどうかは不明。
こちらはとうにあきらめているので「好きにして」といった感じ。

いちおう「洗い物」や「掃除」は肩代わりしている。
それでも何かにつけて勝手に動くのだから。

もちろん「動くこと」そのものは松葉杖を使いさえすれば何の問題もない。
ただし折れている足に負担をかけて動くので当然回復が遅れるというわけ。

腫れてはおさまりまたおさまっては腫れる。
「同じことの繰り返し」が「身に染みてない」模様。

この「理解の悪さ」はなんなのだろう。

真剣に考えるとどうしようもなくなるので
とりあえず笑っておくとこにする。

彼女の息子である「事実」をあらためて思うと
「ヘソ曲り」になるのもなるほどと結論付けるよりない。

「遺伝子」ですかそうですか。

そのような「経緯」を彼女がわかりさえすれば
いたずらに息子に「過剰な期待」をせずにすむものを。

お互いに結構な年月を経ているので
このままいくしかないと「あきらめの春」。

いやはや。

仕方ないことだと受け止めよう。
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「当然」について

2012-03-04 04:50:13 | Weblog
快晴。最高気温17度。

中山元「フーコー 思想の考古学」を途中まで読む。

ある種の「当然」がいかに当然の事になるかを探る試みの解説。
同じものを見ていても人も時代も違えば「目に入るもの」は異なる。

そもそも人は自分にとって「好ましいもの」しか見ないという「事実」もあり。
例えばおのこは「恋人になりうるおなご」しか「おなご」と認めないことだし。

時代によって「見えるもの」が違うという「現実」を思うならば
現代われわれはどういった「当然」を持っているのかが気になるところ。

もちろん「客観中立」などということなどどこにもないけれど
この「知性の働き」は常に意識しておきたいものではある。

さて。

明日は図書館には出かけない予定。
家の掃除その他で一日が終わると思われる。

ホコリだけは日々積もる。
その単純な「事実」を押さえつつ眠くなったの寝る。

この時間帯はさすがに冷えるので
布団の中でゴソゴソすることになりそう。

そしてまた明日が来るはず。
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「さまざまな関係」について

2012-03-03 03:50:31 | Weblog
雨のちくもり。ちょいともやがかかる街並み。

若い男女にそれぞれ甥や姪ができて
彼ら彼女らが「可愛くて仕方がない」と言うのを聞く。

「幸福な愛情」なのだろうけれど
個人的には「身内」だからとりわけどうということもなく。

「家族」という形が「閉じている」からそうなるのだろう。
なぜなら「閉じて」いればこそ「身内意識」も強くなるということ。

もちろんそれは特に悪いことではなく。
ある種の「集団の機能」の結果として「当然」だったりする。

その一方で「開いている家族」とはどんなものかと聞かれても
いささか答えにくいことではあるし。

先日久方ぶりにベビーカーに乗った幼いおなごにじっと見つめられる。
一度視線が合った後で彼女は身を乗り出してこちらを見た。

まるで「不思議な生き物」でも見つけたよう。
もっともそう思われても仕方ないとは思っているものの。

知り合いの若いおのこに「独身」であることをからかわれる。
どうやら彼にとって「結婚していること」が「普通」の基準らしい。

そうした「基準」からすればこちらは「異常あるいは劣る存在」になるわけ。
「人生のあれこれ」を知る由もない彼がそう思うのはむしろ「健全」か。

とはいえ「無条件の前提」が
いたずらに他人を苦しめることもよくあること。

人はみな「不自然な存在」であるとまとめておけば
それぞれにもう少し「寛容さ」を持てる気もするのだけれど。

「自らの暴力性」に気づかない「善人たち」は
愛すべきものではあれども少々やっかいだっりもする。

「無理筋」だと思いつつ敢えて「自覚」を促したいところ。
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「楽しみ」について

2012-03-02 03:25:09 | Weblog
晴れ。夜になっても冷えず。

中山元「フーコー 生権力と統治性」を読む。

フーコーとヨーロッパの歴史の勉強にもってこいの作品。
関連著書があとふたつあり一冊は手元にあるがもう一冊はなし。

とりあえず身近にあるものを読んでからもう一冊も借りてくるつもり。
著者は在野の「哲学者・翻訳家」らしいけれど相当な人物。

他にもデリダ・ニーチェ・ルソー・ブランショなどを手がけている模様。
勝手ながら今後もお世話になるつもり。

新刊本屋をのぞいたらカント「純粋理性批判」も7巻で完訳(解説)していた。
以前途中まで読んだもののこちらもあらためて通読しなければ。

歯が立つかどうかはわからないけれど
やってみる気にさせる魅力は大いにあり。

もちろん本来は原書を読むべきなのだが
「なまけもの」である身としては翻訳や解説に頼るよりなし。

「楽しく学ぶこと」ができればいいだろうということにしておく。
あちこちの「蜜」を吸う蝶々のつもりで。

こうして好き勝手にしていられるありがたさよ。
寿命が来るまで続けられれば「望外の幸せ」。

森羅万象に多情多恨たれ。

かつて武田泰淳が言った言葉の通りに。
もっともそれを「金科玉条」にしているわけではなく「身体」がそうなるまでのこと。

とうに「不惑」は過ぎたとはいえ
「天命を知る」ことができるかどうかは「お楽しみ」。
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「結局は人材育成であること」について

2012-03-01 03:23:22 | Weblog
晴れ。夜の冷え具合もそこそこに。

大庭健「自分であるとはどんなことか」を読む。

矢継ぎばやに繰り返される「問答」にタジタジ。
著者の「前提」が十分掴み切れず今回はとりあえずの読了のみ。

こちらの体調のせいで内容理解が滞ることもしばしばあるので
とりあえず評価は置いておくことにする。

深夜「テレメンタリー2012」を観る。

今から60年ほど前に針を使い回す注射の際には「最低10分の煮沸消毒が必要」という勧告がなされ。
ところが当時の厚生省は「流水洗浄」でOKだと言っていた模様。

北海道のある村で「ありがたい先生」のいた医院は30年前に無くなったが
「煮沸消毒」をせずに注射をしつづけていたせいで村では現在肝がんや肝硬変の患者が続出(死亡例も)。

弁護士に頼んで国から医療費の補助を受けるべく活動しているものの
「原告」は病気の進行と「生活のための」農業の忙しさを同時に抱えて思うように事態を進められない。

茫然とするよりない「悲劇の原因」は「厚生省」でもあり「医者」でもある。
ただしそれ以前に「地方の村」での「医療体制の不備」があるだろう。

そして「都会」でも産婦人科や小児科の医者不足による「救急車のたらい回し」はよくあることで。
やたらに医者が「告発」されるため病院側が「患者の選別」を行うことも十分予想され。

この「悪循環」から抜け出すためにはどうしたらいいのか。
一見「遠回り」に思えるかもしれないけれど「人材の育成」しかない。

「苦しんでいる者たち」を救うことを「当然の仕事」だと思い
自らが身に付けた「まっとうな知識と技術」を惜しみなく注ぐ「人」を養成すること。

おそらくそれを「仕事」にする人なら
「自分の処遇」などに大した関心も持たないと思われるので。

たとえば医者の卵たちが「都会」の「最新施設」が完備された病院で働きたいと思うのが「常」だとしても
「患者からの感謝」に何ものにも代えがたい「喜び」を感じられる「資質」が重要。

そしてわれわれが彼や彼女らを「スゴい」と認めて評価すること。
「負のスパイラル」はいい加減見飽きたのでそろそろ「正のスパイラル」があってもいいのではないか。

一部ではそれがすでに「現実」にもなっていることだし。
あらゆる場所でそれが「現実」になることを「夢」だとしよう。
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