退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「わたしはわたしであること」について

2011-04-25 02:15:46 | Weblog
くもりときどき少しだけ雨。ここ数日快晴なく。

カント「純粋理性批判 3」を引き続き読む。

どうにも「お経」状態でほぼお手上げ。
とりあえず本文は読んだので「解説」にわずかな理解への望みを託すのみ。

深夜にマル激のニュース・コメンタリーを観る。

「中央集権システムの破綻」というのが
おそらくは今回の地震・津波・放射能問題を解決するためのポイント。

圧倒的に複雑な「現実=危機」に対処するために
「処理が難しい問題」に対処するためにはどう考えても「中央集権」はマズい。

もっともそれを「リーダーシップの不在」という形で捉えることも出来るけれど
そもそも「リーダー」を育てたり認めたりする「土壌」がもはやないのだから仕方がない。

かつてはそれが出来ていたのだと年配の人々は語るものの
それが「今できるかどうか」は別の話。

そうした中で「既得権益」を手にしている人々は
とりあえずそれを離そうとはしないのも事実。

果たしてその「既得権益」を今後も維持することが将来にどう影響するかなどという考えは毛頭ないだろう。
「当然のこと」をそのまま続けたいだけのことだったり。

あとひとつ気になるのは政府の命令によって
実際に放射能レベルがどうなのかという問題は別にして強制的に避難させられた人々のこと。

かなり以前にも書いた記憶があるけれど
極端に言えば「死んでもいいから家に戻りたい」という人々にどう答えるのか。

おそらくオロオロしながら「正論=死なない方がいいこと」を政府が説くことは想像できる。

がしかし。

「死んでもいい」と言う人々にとって大切なのものは
「死なないこと」より重要だったりする。

たとえば「尊厳死」という考え方が認められるのならば
そうした人々の行動を政府が規制するのはどうなのか。

いたずらに「既得権益」のみを維持しようとする輩よりは
少なくとも個人的には好ましい生き方ではある。

もちろんそうでない考え方もあっていい「当然」も忘れずに。

人の「品性」はさまざまにあるので仕方のないことだが
できれば「豊かさ」を求めたいもの。

やはり「希望」は「絶望」から生まれるものらしい。

というわけで「絶句」しておく。
そんな時には「具体的な事実」を見つめよう。
コメント
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