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 ヨーロッパには、10世紀頃から15世紀頃にかけて、いろいろな時代にいろいろな地域に、詩曲を作り、歌って各地を巡った人々がいました。「吟遊詩人」といわれる人々です。詩人であり、作曲家であり、歌手であったといえるでしょう。今で言うなら、シンガーソングライターといっていいのかも知れません。11世紀頃には、南フランスの宮廷から「トルバドゥール(Troubadour)」と呼ばれた吟遊詩人が現れます。トルバドゥールは、カタルーニャ(スペインの南東部)、プロヴァンス(フランス南東部)、イタリア北部・中央部などを中心に巡っていました。トルバドゥールは、貴族出身の者が多く、各地の宮廷などを遍歴し、騎士道精神に基づく恋愛や十字軍を主題とする歌を歌っていたようです。


 チマブエの描くフランチェスコ

 アッシジにフランチェスコが生まれたのは、1181年(1182年という説もある)で、青年期を迎えるときには、12世紀から13世紀へと入っていきます。アッシジにも吟遊詩人「トルバドゥール」は巡って来ていました。若きフランチェスコは、多くの若者たちと同じように、旋律に乗った、アーサー王と円卓の騎士たちの英雄的な行為を聴き、騎士道への強い憧れを抱いたことでしょう。

 南フランスのプロヴァンスがトルバドゥールの故郷だといわれています。プロヴァンスの宮廷からトルバドゥールと呼ばれた吟遊詩人が現れたといいます。フランチェスコの母親ピカ(通称。本名は、ヨハンナ(Johanna))は、プロヴァンスの出身でした。真偽のほどは定かではないのですが、プロヴァンスの貴族の出身だともいわれています。

 クリスティアン・ボバン(Christian Bobin)の「いと低きもの 小説・聖フランチェスコの生涯(Le Très-Bas)」(平凡社、1995年)には次のように描かれます。

 ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、これが父親の名前である。布地と毛織物の商人。彼の父もすでにこの商売をしていた。息子は父の財産と服飾への興味を受け継いだ。ピカの奥方、これが母親の名前である。彼女はアッシジの生れではない。もっとずっと遠くからやって来た。プロヴァンス地方で暮らしていたのだ。フランチェスコの父親は商売でかの地におもむき、帰ってくるとき、その腕に全世界の黄金を抱えていた。つまり、この美しい女性の愛を得たのであり、それはおそらく彼がなしとげた最良の仕事、かつて彼の指がとらえた最も繊細な布地であった。この妻こそ、フランチェスコの父親の天才がなしとげたわざだった。

 フランチェスコの祖父ベルナルド(Bernardo)は近郊の農村からアッシジに出てきて、布地を扱う商人になります。その子ピエトロ(Pietro di Bernardone)はその事業を拡大し、南フランスに出かけて毛織物など布地を仕入れ、中部イタリアで売り捌きました。ヨーロッパ各地の商人は、東方からの物産が集積される南フランスに赴いては買い付けを行っていました。

 ベルナルドーネ家は、織物商として相当な財産を築き上げていましたが、属する階級は庶民階級でした。裕福になったフランチェスコの父ピエトロには、上流階級に対する強い憧れがあったでしょうし、文化的先進国のフランスにも強い憧れがあったでしょう。それが結実したのが娶った妻「ヨハンナ」であったのかも知れません。

 フランチェスコの両親の像
(1984年、Roberto Joppolo によって作られたこの銅像は、Francesco が誕生したといわれる場所に立っています。フランチェスコの父 Pietro di Bernardone と母 Pica です。Pica は、Pietro の手によって監禁された Francesco を解放するために外した鎖を持ち、Pietro は、相続権を放棄した Francesco が捨てた服を持ち、大きな喪失感にとらわれた表情をしています。)

 2人の間に初めての子が誕生します。男の子でした。農民からの出世物語が始まっていました。第1章は「父ベルナルド」、第2章は「私ピエトロ」、第3章は「我が子」にあてられるはずでした。ベルナルドーネ家は、農民から商人へ、そして上流階級へ。そうなるはずでした。

 しかし、ベルナルドーネ家をやがて継ぐことになる長男に夢を託していたであろうピエトロに誤算がすでに始まっていました。南フランスでの商用を優先して妻の出産に立ち会わず、家を留守にしていたことでつまづきが始まります。敬虔なクリスチャンであった妻が我が子に、ヨルダン川でイエスらに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネ(Giovanni Battista)」にちなんで、「ヨハネ(羅語:Johannes。伊語では、ジョバンニ(Giovanni))」と名づけてしまったのです。自分の名が「ヨハンナ」であったことから、「ヨハネ」と名づけることに躊躇はなかったでしょう。

 ヴェロッキオ「キリストの洗礼」(部分)

 自分の夢を実現させるはずの長男の名が「ジョバンニ」になっていたことにピエトロは驚いたことでしょう。ヨハネは「らくだの皮衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物」(「マタイによる福音書」3章)とする人物であったのです。荒野での洗礼活動を始めたのはヨハネであり、その持つイメージは荒野での厳しい苦行者でした。自分の望む我が子の将来の姿とは対極にありました。

 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、「悔い改めよ、天国は近づいた」。預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。このヨハネは、らくだの皮衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。(「マタイによる福音書」3:1~3:4)

 ピエトロは、我が子を「ジョバンニ」とは決して呼ばず、「フランチェスコ(Francesco)」と呼びます。イタリア語では、「フランス人」を“francesi”といいます。ピエトロは、南フランスのプロヴァンスの文化に強い憧れを持っていたことから、この響きを選んだのでしょう。「フランチェスコ」の後に「フランチェスコ」やその女性名「フランチェスカ(Francesca)」は多く現れますが、「フランチェスコ」の前に「フランチェスコ」はおそらくいませんでした。

 ベルナルドーネ家の長男フランチェスコは、物質的に恵まれた環境の中で成長していきます。当時の商人階級に属する人に文字の読み書きのできない人は多くいました。上流階級へ属することを息子に期待するピエトロは我が子に読み書きや算術を習わせ始めます。聖ジョルジョ教会の建物の一角が教室であり、神父たちが初等教育を担当していました。教科書として、「旧約聖書」の詩篇が用いられていました。その中で聖書に接することはありましたが、神学教育を受けたわけではないので、宗教に強い関心を抱くということはありませんでした。

 フランチェスコの生きた時代は、封建制(国王と諸侯、諸侯と騎士の主従関係が双務的契約を前提としていた)が確立した時代でした。厳しい身分制度があったのです。王侯、貴族という世俗的支配階級と高位聖職者(貴族の出身)という宗教的支配階級、それに騎士が上流階級に属し、農民、職人、商人、それに下級聖職者が庶民階級に属していました(さらに、その下に農奴がいた)。商人は豊かな経済力を身につけ、さらに政治的権力を得ても「庶民階級」であることに変わりはありません。父ピエトロが我が子フランチェスコに上流階級に属する努力を要求したのも無理からぬものがあります。

 庶民階級から上流階級に昇格する手段が「騎士」になることでした。本来騎士は叙任されるもので、生まれついての身分や階級ではありませんでした(封建制が進むにつれて封建領地をもった階層に固定されていく)。

 シチリア島やイタリア半島南部を支配していた「シチリア王国」を征服した(1194年)神聖ローマ帝国の「ハインリヒ6世(Heinrich VI)」が1197年(フランチェスコが15歳か16歳のとき)に突如としてシチリアで急死します。コムーネと呼ばれる都市国家に分裂しているイタリアにしばしば進駐し影響力を行使していた神聖ローマ帝国の皇帝が亡くなったのです。帝国の支配を脱して新しい政治体制を作り出そうとして、各地で反乱が勃発します。
 
 1198年、神聖ローマ帝国のアッシジ総督であったスポレート(Spoleto、アッシジの南にある)公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen、ウルスリンゲンのコンラード)」は、アッシジの支配権を教皇インノケンティウス三世(在位1198~1216)に委譲するために(1201年に教皇領となり、1213年より教皇庁が直接統治)、当時教皇が滞在していたナルニに赴きます。コッラード侯の不在を突いて、アッシジ市民は立ち上がり、神聖ローマ帝国の支配体制を支えていた貴族たちを追放し、市民自身による自治政府を樹立します。

 市民たちは町の小高い丘の上に立ち、総督の居城となっていた「城砦(ロッカ・マッジョーレ)」を破壊し、その石材を町を守るために築かれていた城壁を補強するために利用しました。貴族たちは、アッシジと敵対していた隣のペルージャ(Perugia)に亡命していきました。

(参考) 「「アッシジへ」 - 城砦「ロッカ・マッジョーレ」からはアッシジの町が見渡せます。

 まもなく、アッシジはペルージャと戦うことになります。アッシジからの亡命を余儀なくされた貴族たちは、ペルージャの援助を得て、アッシジに戻り、その失った地位や財産を回復しようとしたのです。しかし、一方が圧倒的に軍事力に勝るということはなく、数百人程度の騎士が小競り合いを幾度となく繰り広げたようです。

 武勲をあげ、騎士になる機会がフランチェスコにやって来ました。父親ピエトロも我が子に武具や馬を買い与えたことは想像できます。しかし、1202年、フランチェスコは、「コレッストラーダの戦い(Battaglia di Collestrada)」で、ペルージャ側の捕虜になってしまいます。「コッレストラーダ(Collestrada、コレストラーダ)」は、ペルージャの分離集落(frazione)で、テヴェレ川の東にある地域です。アッシジとペルージャのほぼ中間にあります。

 フランチェスコが解放されたのは、捕虜になってからおよそ1年後でした。アッシジとペルージャの間で、一時的に和議が成立し、その機会に父親ピエトロが高額な身代金を支払うことで釈放されたのでした。しかし、もともと身体の丈夫でなかったフランチェスコは、捕虜となっていた間に健康を損ねていました。アッシジに帰ってから、病床につくことになります。このことがフランチェスコに生き方を考える時間を与えることになります。

 前回の記事の「「アッシジへ」-「サン・フランチェスコ大聖堂」で「ジョット」の連作フレスコ画を見る(2)」と重複する内容です(一部、前回の記述と矛盾する)が、回心する前のフランチェスコについて詳細に述べてみました。
     
                 (この項 健人のパパ)

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