フランチェスコの祖父ベルナルド(Bernardo)は近郊の農村からアッシジに出てきて、布地を扱う商人になります。その子ピエトロ(Pietro di Bernardone)はその事業を拡大し、南フランスに出かけて毛織物など布地を仕入れ、中部イタリアで売り捌きました。ヨーロッパ各地の商人は、東方からの物産が集積される南フランスに赴いては買い付けを行っていました。
フランチェスコの両親の像
(1984年、Roberto Joppolo によって作られたこの銅像は、Francesco が誕生したといわれる場所に立っています。フランチェスコの父 Pietro di Bernardone と母 Pica です。Pica は、Pietro の手によって監禁された Francesco を解放するために外した鎖を持ち、Pietro は、相続権を放棄した Francesco が捨てた服を持ち、大きな喪失感にとらわれた表情をしています。)
1198年、神聖ローマ帝国のアッシジ総督であったスポレート(Spoleto、アッシジの南にある)公「ウルスリンゲンのコッラード(Corrado di Urslingen、Conrad of Urslingen、ウルスリンゲンのコンラード)」は、アッシジの支配権を教皇インノケンティウス三世(在位1198~1216)に委譲するために(1201年に教皇領となり、1213年より教皇庁が直接統治)、当時教皇が滞在していたナルニに赴きます。コッラード侯の不在を突いて、アッシジ市民は立ち上がり、神聖ローマ帝国の支配体制を支えていた貴族たちを追放し、市民自身による自治政府を樹立します。
武勲をあげ、騎士になる機会がフランチェスコにやって来ました。父親ピエトロも我が子に武具や馬を買い与えたことは想像できます。しかし、1202年、フランチェスコは、「コレッストラーダの戦い(Battaglia di Collestrada)」で、ペルージャ側の捕虜になってしまいます。「コッレストラーダ(Collestrada、コレストラーダ)」は、ペルージャの分離集落(frazione)で、テヴェレ川の東にある地域です。アッシジとペルージャのほぼ中間にあります。