バスの運行会社は“apm”で、“Azienda Perugina della Mobilita S.p.A.”を省略したもの。イタリア語で“azienda”は女性名詞で「企業」の意味で、“Azienda Perugina”は「ペルージャの企業」ということになります。“S.p.A”は“Societa per Azioni”の略であり、“societa”は女性名詞で「会社」、“azioni”は女性名詞“azione”の複数形で「株主」の意味ですから、「株式会社」ということになります。
アッシジはイタリアの中央部、「ウンブリア州(Umbria)」に属します。ウンブリア州は北の「ペルージャ県(Provincia di Perugia)」と南の「テルニ県 (Provincia di Terni)」に分かれます。アッシジ(人口 2万8000人ほど)はペルージャ県の都市であり、県庁所在地の「ペルージャ(Perugia)」(人口 16万8000人ほど)の東20kmほどのところにあります。鉄道では、ペルージャから25分ほどで着きます(2.40ユーロ、2011年4月現在)。
コムネ広場にある噴水
アッシジを走るapm社のバスには、3路線あります。「路線」という意味のイタリア語は、“linea”(女性名詞)です。linea A、linea B、linea Cがその3路線です。A路線(linea A)のバスは旧市街の中心の「コムネ広場(Piazza del Comune、Town Hall Square、市庁舎広場)」から40分おきに(時刻表→PDF)出発し、19分かけてコムネ広場に戻ってきます。停車するのは24停留所。1分ほどで次の停留所に着いてしまいます。7:25が始発で、8:00、8:40、9:20、、、と続き、16:40には最終バスとなります。
主な停留所で、PIAZZA COMUNE→PORTA SAN GIACOMO→CIMITERO ASSISI→V.S.CARCERI→VIA GIOVANNI XXⅢ→VIA DELLA COOPERAZIONE→VIA ADA NEGRI→V.FOSSO CARONCIO→VIA GIOVANNI RENZI→STADIO ULIVI-PISCINA →V.FRATELLI CANONICHETTI→V.ASSISANA V.DEL FUOCO→BV.S.BENEDETTO→LARGO PROPERZIO→PIAZZA SANTA CHIARA→PIAZZA COMUNEと巡るのが基本の路線です。
アッシジの町を欧米人(特にカトリック教徒)の間で有名にしているのは、「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」です。しかし、この大聖堂は町(旧市街)の中心にはありません。アッシジの旧市街(城壁に囲まれた地域)はビール瓶をちょっと太めにして、反時計回りに45度ほど回転させたような形をしています。大聖堂は旧市街の北西部の端、ビール瓶の首のところにあります。
サン・フランチェスコ大聖堂
アッシジの旧市街の中心のコムネ広場からサン・フランチェスコ大聖堂の見える「ウニタ・ディタリア広場(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)」への路線は、B路線(linea B)です。ウニタ・ディタリア広場ではC路線に乗り換えることができ、新市街に出かけることができます。しかし、“The ticket is non-transferable.”という表記がバス内にあることから、乗り換えるたびに切符は買わなければなりません。
バス停には、切符が買える店の案内が
切符はあらかじめ買っておくと、1ユーロ(2011年3月現在)ですが、バスの運転手から買うと、1.5ユーロになります。さらに釣銭が必要がないようにしておかなければなりません(“You can buy a ticket on the bus for 1.50 euro, but you must have exact change.”)。バスの切符をどこであらかじめ手に入れたらよいかは、停留所に表記があります。その停留所の近くの切符売り場が表記されています。コムネ広場ならば、Bocchini Central Caffe、Trovellesi Bar、Mariani News Paperの3か所です。
B路線は、40分おきに(時刻表→PDF)出発し、14分かけてコムネ広場に戻ってきます。15停留所に停まりますが、主な停留所で、P.ZA COMUNE→L.GO PROPERZIO→OSPEDALE→PARCHEGGIO B ASSISI→V.LE G.MARCONI→V.FONTEBELLA→P.ZA COMUNEと巡るのが基本の路線です。
この路線は、始発が7:45で、最終が20:25でかなり遅くまで走っています。停留所の1つが“Ospedale"(=hospital、病院、男性名詞)であることから、アッシジの住民が病院に通う足になっているのでしょう。コムネ広場を出たバスは、旧市街の南東部にある「ヌオバ門(Porta Nuova)」をくぐって城壁の外へ出ます。そこが“LARGO PROPERZIO”で、駐車場“PARCHEGGIO PORTA NUOVA”の近くです。バスはさらに旧市街から離れ、病院へと向かいます。
ウニタ・ディタリア広場へとやってきたミニバス
病院を出たバスは、城壁の外を並行して走る道路を通って、北西に進んで、「グリエルモ・マルコーニ通り(VIALE GUGLIELMO MARCONI)」をウニタ・ディタリア広場へとやってきます。「サン・フランチェスコ門(PORTA SAN FRANCESCO)」をくぐって城壁の中に入ったバスは、「フォンテベラ通り(VIA FONTEBELLA)」を進み、コムネ広場へと戻ります。
アッシジは、「スバシオ山(Subasio)」の西の中腹に楕円形に広がる都市(旧市街)です。アッシジには南西に5kmほど離れて、ウンブリア平原にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli)周辺に広がった新市街(Santa Maria Degli angeli)もあります。2つの地域を南西に走る道路が幾本かで平行に結んでいます。
「ローマ(Roma)」から“Sulga”社のバスに乗り、2時間45分かけて、「アッシジ(Assisi)」にやって来ました。ローマは鉄道駅や地下鉄駅のある「ティブルティーナ駅(Stazione Tiburtina)」の近くに長距離バスのターミナルがあり、いろいろなバス会社がいろいろな方面にバスを発着させています。“Sulga”社のアッシジ行きのバスもここから出ています。「日曜日、祭日(festivo)」は日に1便(8:15発、アッシジ旧市街の入り口「サン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)」に11:10着)なのですが、「月曜日から土曜日まで(feriale)」は日に2便あり、7:15発(10:00着)と10:30発(13:15着)です。
鉄道、バスなどの公共交通機関は平日と休日で利用客数が異なることからダイヤを違えていることが多い。また、その経路を変えていることもあります。日本語の「平日」は、週休二日制の導入によって土曜日を休みとする学校や職場が多いことから、月曜日から金曜日までを指すことが多いといえます。しかし、イタリア語で平日を意味する“feriale”(フェリアーレ)は、「土曜日(sabato、サバト、サーバト)」を含みます。そこで、月曜日から金曜日までを指そうとすると、“escluso(~を除く)”を用いて“escluso il sabato(土曜日を除く)”という語を“giorni feriali(平日)”の後ろに置き、“giorni feriali escluso il sabato(土曜日を除く平日)”とします。
移動日の3月28日(月曜日、lunedi、ルネディ)の出発時間とほぼ同じ時刻にホテルの近くのバス停からバスに乗って、3月25日(金曜日、venerdi、ヴェネルディ)に予行演習をすることにしました。490、491、495番のどのバスも長距離バスのターミナルである“Stazione Tiburtina(スタッツィオーネ・ティベルティーナ)”に停車します。終点です。491番は「平日(feriale)」のみの運行ですが、490番も495番も「全曜日(feriale e festivo)」の運行です。便数が多いせいかそれほど混まなかったので、多くのスーツケースを持ち込んでも他の乗客に迷惑をかけないことが確認できました。
イタリアのほぼ中心に「ウンブリア州(Umbria)」があります。中世から近世にかけて「ローマ教皇領」に属していて、商業で栄えた地域でした。丘陵地が多い地域で、地中海性気候(夏乾燥、冬多雨)に属することから、ブドウ(乾燥した気候で生育)やオリーヴ(比較的乾燥に強い)の栽培が盛んです。「中田 英寿」が1998年から2000年にかけて活躍した「ACペルージャ(Associazione Calcio Perugia SpA)、現 ペルージャ・カルチョ(Perugia Calcio SpA)」の本拠地である「ペルージャ(Perugia)」が州都です。
このウンブリア州にカトリック世界最大の「修道会(キリスト教精神の清貧・貞潔・服従の3つの修道誓願を立て、共同生活の中で生きる信徒の組織)」の一つとなった「小さき兄弟会、Ordo Fratrum Minorum (OFM)、Order of Friars Minor、フランシスコ会」を始めた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)、アッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi」が生まれた「アッシジ(Assisi)」があります。ペルージャ(Perugia-Piazza Partigiani)からアッシジ(Assisi-Piazza San Pietro)へはバスで30分ほどです。
まず、訪れるべきはアッシジに生まれ、フランシスコ会の創設者となったアッシジのフランチェスコの功績を讃えるために建設されたサン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)でしょう。アッシジの旧市街の北西の端にあります。バスでアッシジのバス停のある「ウニタ・ディタリア広場(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)」に着くと大聖堂が目に入ってきます。下車した場所のすぐ正面の「サン・ピエトロ門(Porta San Pietro)」を道路を渡ってくぐり、すぐ左手に折れて「フラーテ・エリア通り(Via Frate Elia)」の坂道を登っていきます。
アッシジに来て、サン・フランチェスコ大聖堂を見ただけではもったいない。旧市街を離れて、新市街といわれる地域にある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」も必見でしょう。この聖堂は、その「クーポラ(cupola)、丸天井」の下に「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」というこの小さな礼拝堂を取り囲んで立てられています。小さな礼拝堂が非常に大きな聖堂に納められているのです。
来年の「イタリア家族旅行」では、フランスを経由してイタリアに入ることを予定しています。我が子「健人」をパリの「ルーブル美術館(Musée du Louvre)」に連れて行って、西洋画に対するある程度の鑑賞眼を身に付けさせようというのです。ルーブル美術館には、17世紀のオランダで活躍した肖像画の名匠「フランス・ハルス(Frans Hals)」が描く「ジプシーの女(Zigeunermeisje、Gypsy Girl)」があります。1628年から1630年頃の作品だと考えられています。時代はすでに「カラヴァッジオ(Caravaggio、1571年~1610年)」を経験していました。ハルスはカラヴァッジオが得意とした明暗対比の強い陰影法を用いています。
「フェルナンド・マルティンス・デ・ブルォン(Fernando Martins de Bulhão)」は、1195年にポルトガル、リスボンの非常に裕福な貴族の家系に生まれます。両親はフェルナンドに貴族の身分を継がせることを望み、神学校に入学させようとしますが、フェルナンドはこれを拒み、1210年にリスボン郊外の聖ヴィンセント・デ・フォーラ修道院(Abbey of St. Vincent de Fora、アウグスティノ修道会の所属)に入ります。
モロッコに向かったフランシスコ会宣教師が殉教したという知らせを聞いたフェルナンドは衝撃を受け、学究生活を捨てて宣教活動を行う決意をします。フェルナンドは、フランシスコ会に移り、修道士生活の創始者とされる「聖アントニウス (Anthony the Great、エジプトのアントニウス、Anthony of Egypt)」にならって名前を「アントニウス(アントニオ、ポルトガル語:António)」に改めます。
神に祈りを捧げる「礼拝(worship)」のための専用の空間を「礼拝堂(chapel、cappella)」と言います。主祭壇を囲む礼拝のための空間は「聖堂」と呼ばれて、礼拝堂とは区別されます。礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」の壁画のある「システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)」やイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの連作壁画のある「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」が有名ですが、必ずしも独立した建物であるとは限りません。カトリックの大聖堂では、大聖堂の側廊などに空間をとり、礼拝堂を設置することが一般に行われています。
パドヴァの「サンタントニオ聖堂(Basilica di sant'Antonio)」の「主祭壇(high altar)」の背後に「宝物礼拝堂(Treasury Chapel、Chapelle du Tresor、聖遺物礼拝堂、Cappela della Reliquia)」があります。この礼拝堂には「聖アントニオ」の「聖遺物(relic)」が展示されています。「聖遺物」とは、イエス・キリストや聖人の遺骸や遺品を言います。この礼拝堂には、聖アントニオの「顎」と「舌」が展示されています。「説教(sermon)」の非常に上手であったアントニオに相応しい聖遺物と言えるのでしょう。
聖遺物で有名なのは何といってもトリノの「聖ヨハネ大聖堂(Cattedrale di San Giovanni Battista)」に保管されている「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)」でしょう。「聖骸布(Holy Shroud)」とは、磔刑に処されて亡くなったイエスの遺体を包んだとされる布を言います。ローマ教皇「ベネディクト16世」は2010年5月2日、「トリノの聖骸布」が10年ぶりに公開されている大聖堂を訪問、聖骸布の前で4分ほどの祈りを捧げました。教皇はその後、大聖堂そばのサンカルロ広場で野外ミサを行っています。
サンタントニオ聖堂には最奥にある「聖遺物礼拝堂」を含めて「礼拝堂」が5つあります。まず、聖堂に入って左手(北面)の「翼廊(transept)」に「聖アントニオ礼拝堂(Saint's chapel)」、その左手に「黒髪のマリア礼拝堂(Chapel of the Dark-haired Madonna)」、その奥に「福者ルカ・ベッルーディ礼拝堂 (Blessed Luca Belludi' chapel)」があります。そして、「聖人礼拝堂(聖アントニオ礼拝堂)」」の「身廊(nave)」をはさんだ向かい側の「聖ヤコブ礼拝堂」です。
「パドヴァのアントニオ(Sant'Antonio di Padova、1195年~1231年)」も「アッシジのフランチェスコ(San Francesco d'Assisi、1181年~1226年)」も「聖人(英語:Saint、イタリア語:Santo)」です。「聖人」とは、イエス・キリストの模範に忠実に従って生き、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人間との仲介役となり、人々の祈りを聞き入れてくれるように神のそばでとりなしを行ってくれる存在であるとされます。
聖人は「ローマ教皇庁列聖省(Congregation for the Causes of Saints、現長官:アンジェロ・アマート大司教(Archbishop Angelo Amato))」の調査の結果を受けてローマ教皇が公に聖人の列に加えると宣言する(列聖、canonization、canonizatio)ことで誕生します。「列聖式」はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われます。教皇庁列聖省が調査を宣言すると、その人物は「尊者(Venerable)」となります。さらに、列聖省が調査の結果、その人物の生涯が英雄的で、福音的な生き方であったことを公認すると「福者(Blessed、Beatus)」と呼ばれることになります。
最も貧しい人々のために活動する「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」の創立者、「マザー・テレサ(Mother Teresa)」は亡くなってから6年後に列福されています。この「福者」の中から「聖人」が選ばれていくことになります。それには何十年という時の流れが必要となります。マザー・テレサが「列福」されたのは異例の速さだったと言われるほどで、多くは歴史が長い時間をかけて選別していくのです。
フランシスコ会の1221年会則に大幅な改編を加え、ローマ教皇をその頂点とする権力構造にフランシスコ会を組み入れた「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)」枢機卿は、1227年、教皇グレゴリオ9世となります。グレゴリオ9世はフランチェスコを1228年には列聖します。フランチェスコが亡くなって21か月後のことでした。その年には、フランチェスコの功績を讃えるために、アッシジの町の北西の斜面を利用して聖フランチェスコ聖堂の建築が始まります。2年後の1230年にはフランチェスコの遺骸がこの聖堂に移されます。
「ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)」の描く
「聖痕を受けるフランチェスコ(Stimmate di San Francesco)」
イエスは弟子たちに、全世界に福音(Gospel、「神の国が到来した」というイエスのメッセージ)を宣べ伝え、弟子とするように命じました。「ミッション(mission、福音宣教)」とは、全世界にイエスの福音を宣べ伝えることをいいます。ローマの北に位置するウンブリア地方の町「アッシジ(Assisi)」の裕福な商人の家に生まれた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」は、若い頃は放蕩な生活を送っていたのですが、20歳代中頃に度々神の声を聴くようになり、やがて、福音を説いて、弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けることになります。このジョヴァンニが「アッシジのフランチェスコ」なのです。
アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい(Vertigo)」(1958年に公開)の舞台ともなった「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church、Mission San Francisco de Asis)」は、18世紀後半にフランシスコ会の「フニペロ・セラ修道士(Fray Junípero Serra)」が建立します。もとからの居住者であったネイティヴ・アメリカン(インディアン)に宣教し改宗させる拠点としたものでした。
フランチェスコは修道会を設立した頃の初志に立ち返ることを望み、1221年会則を起草します。しかし、ローマ教皇庁の圧力により、後に教皇グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)となる、インノケンティウス3世の甥であった「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti、1143年~1241年)」枢機卿の手によって、大幅に改編を加えられ、1224年の「総会(general Chapter)」でフランシスコ会の正式の会則とされてしまいました。
フランチェスコは自分の手から離れてしまった修道会を高弟の「コルトナのエリアス(Elias of Cortona)」に委ね、数名の弟子を連れて「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」に入り、祈りと瞑想の生活を送ることになります。
数人の弟子を連れて山に入ったフランチェスコを鳥たちは迎え入れます。茶色の服装は鳥に警戒心を与えなかったのでしょう。フランチェスコの周りに群れて降りてきます。フランチェスコは鳥たちを相手に「説教」を始めます。フランチェスコは行動力はありましたが、説教はあまり上手ではありませんでした。鳥を相手にその練習をしたのでしょうか。しかし、弟子たちの目には鳥すらも師の説教を聴き入ると映ったことでしょう。画家「ジョット(Giotto)」はこの出来事をアッシジの「聖フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco)」のフレスコ画にし、作曲家「リスト」は、「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(St.Françios d'Assise, la prédication aux oiseaux)」 という10分ほどのピアノ曲を作曲しています。