POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 「アッシジ(Assisi)」は、サン・フランチェスコ大聖堂などのある旧市街と鉄道駅やサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂のある新市街に分かれます。旧市街と新市街は接しているのではなく、鉄アレイのように2つの円形の市街を4kmほどの道路が結んでいます。4kmほどですから、健脚であれば徒歩で行き来することもできますが、2つの市街をバスが往来しています。

 バス停には、apmと表示されている

 バスの運行会社は“apm”で、“Azienda Perugina della Mobilita S.p.A.”を省略したもの。イタリア語で“azienda”は女性名詞で「企業」の意味で、“Azienda Perugina”は「ペルージャの企業」ということになります。“S.p.A”は“Societa per Azioni”の略であり、“societa”は女性名詞で「会社」、“azioni”は女性名詞“azione”の複数形で「株主」の意味ですから、「株式会社」ということになります。

 アッシジはイタリアの中央部、「ウンブリア州(Umbria)」に属します。ウンブリア州は北の「ペルージャ県(Provincia di Perugia)」と南の「テルニ県 (Provincia di Terni)」に分かれます。アッシジ(人口 2万8000人ほど)はペルージャ県の都市であり、県庁所在地の「ペルージャ(Perugia)」(人口 16万8000人ほど)の東20kmほどのところにあります。鉄道では、ペルージャから25分ほどで着きます(2.40ユーロ、2011年4月現在)。

 コムネ広場にある噴水

 アッシジを走るapm社のバスには、3路線あります。「路線」という意味のイタリア語は、“linea”(女性名詞)です。linea A、linea B、linea Cがその3路線です。A路線(linea A)のバスは旧市街の中心の「コムネ広場(Piazza del Comune、Town Hall Square、市庁舎広場)」から40分おきに(時刻表→PDF)出発し、19分かけてコムネ広場に戻ってきます。停車するのは24停留所。1分ほどで次の停留所に着いてしまいます。7:25が始発で、8:00、8:40、9:20、、、と続き、16:40には最終バスとなります。

 主な停留所で、PIAZZA COMUNE→PORTA SAN GIACOMO→CIMITERO ASSISI→V.S.CARCERI→VIA GIOVANNI XXⅢ→VIA DELLA COOPERAZIONE→VIA ADA NEGRI→V.FOSSO CARONCIO→VIA GIOVANNI RENZI→STADIO ULIVI-PISCINA →V.FRATELLI CANONICHETTI→V.ASSISANA V.DEL FUOCO→BV.S.BENEDETTO→LARGO PROPERZIO→PIAZZA SANTA CHIARA→PIAZZA COMUNEと巡るのが基本の路線です。



 アッシジの町を欧米人(特にカトリック教徒)の間で有名にしているのは、「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」です。しかし、この大聖堂は町(旧市街)の中心にはありません。アッシジの旧市街(城壁に囲まれた地域)はビール瓶をちょっと太めにして、反時計回りに45度ほど回転させたような形をしています。大聖堂は旧市街の北西部の端、ビール瓶の首のところにあります。

 サン・フランチェスコ大聖堂

 アッシジの旧市街の中心のコムネ広場からサン・フランチェスコ大聖堂の見える「ウニタ・ディタリア広場(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)」への路線は、B路線(linea B)です。ウニタ・ディタリア広場ではC路線に乗り換えることができ、新市街に出かけることができます。しかし、“The ticket is non-transferable.”という表記がバス内にあることから、乗り換えるたびに切符は買わなければなりません。

 バス停には、切符が買える店の案内が

 切符はあらかじめ買っておくと、1ユーロ(2011年3月現在)ですが、バスの運転手から買うと、1.5ユーロになります。さらに釣銭が必要がないようにしておかなければなりません(“You can buy a ticket on the bus for 1.50 euro, but you must have exact change.”)。バスの切符をどこであらかじめ手に入れたらよいかは、停留所に表記があります。その停留所の近くの切符売り場が表記されています。コムネ広場ならば、Bocchini Central Caffe、Trovellesi Bar、Mariani News Paperの3か所です。



 B路線は、40分おきに(時刻表→PDF)出発し、14分かけてコムネ広場に戻ってきます。15停留所に停まりますが、主な停留所で、P.ZA COMUNE→L.GO PROPERZIO→OSPEDALE→PARCHEGGIO B ASSISI→V.LE G.MARCONI→V.FONTEBELLA→P.ZA COMUNEと巡るのが基本の路線です。

 この路線は、始発が7:45で、最終が20:25でかなり遅くまで走っています。停留所の1つが“Ospedale"(=hospital、病院、男性名詞)であることから、アッシジの住民が病院に通う足になっているのでしょう。コムネ広場を出たバスは、旧市街の南東部にある「ヌオバ門(Porta Nuova)」をくぐって城壁の外へ出ます。そこが“LARGO PROPERZIO”で、駐車場“PARCHEGGIO PORTA NUOVA”の近くです。バスはさらに旧市街から離れ、病院へと向かいます。

 ウニタ・ディタリア広場へとやってきたミニバス

 病院を出たバスは、城壁の外を並行して走る道路を通って、北西に進んで、「グリエルモ・マルコーニ通り(VIALE GUGLIELMO MARCONI)」をウニタ・ディタリア広場へとやってきます。「サン・フランチェスコ門(PORTA SAN FRANCESCO)」をくぐって城壁の中に入ったバスは、「フォンテベラ通り(VIA FONTEBELLA)」を進み、コムネ広場へと戻ります。

               (この項 健人のパパ)


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 「アッシジ(Assisi)」は、人口28,000人ほど、面積187km²ほどの小さな都市です。日本で同程度の人口と面積を持つ「市」を探すと、人口27,000人ほど、面積171km²ほどの山梨県の「上野原市」が見つかります。上野原市は、日本に786市あるうちの人口の順位で737番めになります。総面積の82%ほどを林野が占めます。

 アッシジは「ウンブリア州(Umbria)」の都市ですが、ウンブリア州はイタリア半島のほぼ真中に位置し、イタリア半島を縦走する「アペニン山脈(Appennini)」が通っており、丘陵地が多い地形です。ウンブリア州では防衛の観点から丘の上にできた都市が多く、アッシジの旧市街も城壁に囲まれて、山の中腹に広がっています。

 アッシジは、「スバシオ山(Subasio)」の西の中腹に楕円形に広がる都市(旧市街)です。アッシジには南西に5kmほど離れて、ウンブリア平原にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli)周辺に広がった新市街(Santa Maria Degli angeli)もあります。2つの地域を南西に走る道路が幾本かで平行に結んでいます。



 イタリアの鉄道会社「トレニタリア(trenitalia)」の「時刻表検索サイト」によれば、ローマからアッシジには列車で2時間から2時間30分程度で行くことができます。乗車駅は原則として、「ローマ・ティブルティーナ(Roma Tiburtina、“RO TIB”と省略される)」です。「ローマ・テルミニ(Roma Termini、ROMA TE)」駅の東にあり、地下鉄などでアクセスができます。



 私たちは、ローマからアッシジには、“Sulga”社のバスに乗って行きました。1人17.5ユーロ(2011年3月現在)かかり、子供料金の設定はありません。「普通列車(Regionale、レジオナーレ、“R”と表示される)」ならば、大人9.40ユーロで、4歳以上12歳未満(12歳は大人料金)で子供料金の設定があります。初めてのアッシジでしたから、バスはアッシジの旧市街の入り口(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)に到着することから、選択したわけです。



 鉄道を利用すると、列車は新市街「分離集落(frazione、フラツィオーネ)サンタ・マリア・デリ・アンジェリ」に到着します。ここからは、バスを利用して、旧市街にアクセスする必要があります。しかし、5kmほどしか離れていないので、6分ほどで旧市街の入り口に到着します。さらにバスは旧市街の中にも入っていきます。旧市街の東の端の「Piazza Matteotti(マッテオッティ広場)」が終点です。30分毎に出ています(時刻表→PDF)。

                 (この項 健人のパパ)

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 「ローマ(Roma)」から“Sulga”社のバスに乗り、2時間45分かけて、「アッシジ(Assisi)」にやって来ました。ローマは鉄道駅や地下鉄駅のある「ティブルティーナ駅(Stazione Tiburtina)」の近くに長距離バスのターミナルがあり、いろいろなバス会社がいろいろな方面にバスを発着させています。“Sulga”社のアッシジ行きのバスもここから出ています。「日曜日、祭日(festivo)」は日に1便(8:15発、アッシジ旧市街の入り口「サン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)」に11:10着)なのですが、「月曜日から土曜日まで(feriale)」は日に2便あり、7:15発(10:00着)と10:30発(13:15着)です。



 7時30分のバスに乗るにはかなりの早起きをしてバスのターミナルにやって来なくてはならないので、子連れ旅の私たちは10時30分のバスに乗ることに決めてありました。ホテルもアッシジに2泊とってあったので、予定の変更はできません。4週間の旅なので、持ち運んでいるスーツケースも4つと移動日は大変です。切符が売り切れて、アッシジまで列車で行くこととなると、スーツケースを持ってうろうろとしなくてはなりません。切符は前もって手に入れることにしました。



 切符を前もって入手するためとバスターミナルのある場所を確認するために「予行演習」です。地下鉄で移動するのは道に迷うことがなく、リスクが少ないのですが、スーツケースをひいて階段を上り下りするのは結構きつい作業です。乗換えがあると更に骨が折れます。それと比べて、バスは階段の上り下りがありません。車外の景色を楽しむこともできます。



 鉄道、バスなどの公共交通機関は平日と休日で利用客数が異なることからダイヤを違えていることが多い。また、その経路を変えていることもあります。日本語の「平日」は、週休二日制の導入によって土曜日を休みとする学校や職場が多いことから、月曜日から金曜日までを指すことが多いといえます。しかし、イタリア語で平日を意味する“feriale”(フェリアーレ)は、「土曜日(sabato、サバト、サーバト)」を含みます。そこで、月曜日から金曜日までを指そうとすると、“escluso(~を除く)”を用いて“escluso il sabato(土曜日を除く)”という語を“giorni feriali(平日)”の後ろに置き、“giorni feriali escluso il sabato(土曜日を除く平日)”とします。

 移動日の3月28日(月曜日、lunedi、ルネディ)の出発時間とほぼ同じ時刻にホテルの近くのバス停からバスに乗って、3月25日(金曜日、venerdi、ヴェネルディ)に予行演習をすることにしました。490、491、495番のどのバスも長距離バスのターミナルである“Stazione Tiburtina(スタッツィオーネ・ティベルティーナ)”に停車します。終点です。491番は「平日(feriale)」のみの運行ですが、490番も495番も「全曜日(feriale e festivo)」の運行です。便数が多いせいかそれほど混まなかったので、多くのスーツケースを持ち込んでも他の乗客に迷惑をかけないことが確認できました。



 ホテルマンなどの日常的に外国人観光客に対応する人たちを除いて、イタリアでは意外と英語が通じないなという印象を持った私たちは誤解があると非常に不都合なことになる場面では「紙」に書いて見せることにしています。今回は特に「当日」の切符を買うわけではないので、28(lunedi)/3/2011,Roma→Assisi,10:30→13:15と書いたものを用意しました。人数は指で示すのが一番です。切符売り場では英語が通じましたが、紙も見せました。で、受け取ったのがレシートのような小さな紙切れ。紙面には購入日の25-03-2011という表記とROMA ASSISIという表記がある程度の粗末なもの。出発日時の表記がありません。

 イタリア鉄道の「インターシティ(IC)」の切符のようなものを予想していた私には不安のよぎるもの。このレシート状の紙切れをかざし「これが切符?」というようなジェスチャーを見せたところ、売り場の男性も「そう」というようなジェスチャーを返しました。ここはイタリア、これで何とかなるんだろうね。まあいいか、日本の常識で判断するとストレスが溜まるから、考えないようにしよう。

 当日、バスの運転手に切符を見せたところ、難なく乗車できました。有効な切符であることをどこで判断しているんでしょうね。一応、乗車人数を確認していたところから見ると、データは運転手に伝えられているんでしょうね。レシート状の紙切れには通し番号が振られていたことから、データより乗車人数が多いときは通し番号で確認なのでしょうか。

 混んでいることを予想して、数日前に切符を入手しておいたのですが、予想に反して、乗車した人数が20人程度で、空席があちらこちらに。バスは定刻の10時30分に出発しました。ベネチア メストレ-ベネチア サンタ・ルチア間の列車が定刻の2分前に出発したのにびっくりした経験を持つ私たちは、「へぇ~、定刻に出るんだ。」と感心をしてしまいました。失礼ですね。

 バスがペルージャに近づくと地味めの若者のドライバーからイタリア語でアナウンス。「アッシージ」という語だけは聞き取ることが出来ましたが、何を言われたのか皆目見当がつきません。すると、バスはガソリンスタンドに入って停車です。ガソリンスタンドには別のバスが停まっています。ドライバー席から立ち上がって後ろを振り向いたドライバーは、我々に向かって“Assisi,change buses”と声を張り上げます。

 アッシジに行く乗客はバスを乗り換えよ、ということなのでしょう。そういえば、バスに荷物を積み込むときに、行き先を聞かれ、ペルージャ行きの乗客とは反対側の荷物入れにスーツケースを収納してもらっていました。このバスは、ペルージャを経由すると理解していましたが、実はペルージャを経由するのではなく、途中で2方向に振り分けられるんですね。いつもそうなのかは知りませんが、乗客のうちの我々を含めた6人はバスを乗り換えです。聞いてないよ~



 それから30分ほどして、バスは眼前に「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」の見える「ウニタ・ディタリア広場(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)」に到着です。やって来ました、私が強く望んだアッシジに。

                 (この項 健人のパパ)


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 イタリアのほぼ中心に「ウンブリア州(Umbria)」があります。中世から近世にかけて「ローマ教皇領」に属していて、商業で栄えた地域でした。丘陵地が多い地域で、地中海性気候(夏乾燥、冬多雨)に属することから、ブドウ(乾燥した気候で生育)やオリーヴ(比較的乾燥に強い)の栽培が盛んです。「中田 英寿」が1998年から2000年にかけて活躍した「ACペルージャ(Associazione Calcio Perugia SpA)、現 ペルージャ・カルチョ(Perugia Calcio SpA)」の本拠地である「ペルージャ(Perugia)」が州都です。



 このウンブリア州にカトリック世界最大の「修道会(キリスト教精神の清貧・貞潔・服従の3つの修道誓願を立て、共同生活の中で生きる信徒の組織)」の一つとなった「小さき兄弟会、Ordo Fratrum Minorum (OFM)、Order of Friars Minor、フランシスコ会」を始めた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)、アッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi」が生まれた「アッシジ(Assisi)」があります。ペルージャ(Perugia-Piazza Partigiani)からアッシジ(Assisi-Piazza San Pietro)へはバスで30分ほどです。



 “Sulga”社のバスは、アッシジへは「ローマ(Roma)」や「フィレンツェ(Firenze)」からも出ていていますが、フィレンツェからは日に1本だけで、18:00に出発して、2時間30分でアッシジに到着します(20:30に到着)。フィレンツェへはアッシジを朝の7:00に出発して、9:30に戻ってこられます。少なくともアッシジに1泊すれば、アッシジの主要な場所は見られるでしょう。

 しかし、Sulga社の時刻表をみると「月曜日(lunedì)」と(e)「金曜日(venerdì)」にのみ、朝にアッシジを出たバスがフィレンツェに行き、夜にアッシジに戻って来る、アッシジの住民がフィレンツェに働きに行くためのバスのようにも見てとれます。そこで、私たちはリスクを避けて、フィレンツェからはアッシジに向かわないことにしました。もちろん、列車を利用するという選択肢もあったのですが、違うコースを辿ることにしました。



 まず、訪れるべきはアッシジに生まれ、フランシスコ会の創設者となったアッシジのフランチェスコの功績を讃えるために建設されたサン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)でしょう。アッシジの旧市街の北西の端にあります。バスでアッシジのバス停のある「ウニタ・ディタリア広場(Piazza Unita d'Italia、イタリア統一広場)」に着くと大聖堂が目に入ってきます。下車した場所のすぐ正面の「サン・ピエトロ門(Porta San Pietro)」を道路を渡ってくぐり、すぐ左手に折れて「フラーテ・エリア通り(Via Frate Elia)」の坂道を登っていきます。



 アッシジに来て、サン・フランチェスコ大聖堂を見ただけではもったいない。旧市街を離れて、新市街といわれる地域にある「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂(Basilica di Santa Maria degli Angeli)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」も必見でしょう。この聖堂は、その「クーポラ(cupola)、丸天井」の下に「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」というこの小さな礼拝堂を取り囲んで立てられています。小さな礼拝堂が非常に大きな聖堂に納められているのです。



 今回の記事はアッシジの概要です。詳細は次回以降に、、、

                  (この項 健人のパパ)

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 来年の「イタリア家族旅行」では、フランスを経由してイタリアに入ることを予定しています。我が子「健人」をパリの「ルーブル美術館(Musée du Louvre)」に連れて行って、西洋画に対するある程度の鑑賞眼を身に付けさせようというのです。ルーブル美術館には、17世紀のオランダで活躍した肖像画の名匠「フランス・ハルス(Frans Hals)」が描く「ジプシーの女(Zigeunermeisje、Gypsy Girl)」があります。1628年から1630年頃の作品だと考えられています。時代はすでに「カラヴァッジオ(Caravaggio、1571年~1610年)」を経験していました。ハルスはカラヴァッジオが得意とした明暗対比の強い陰影法を用いています。




 人は自分や家族の姿を記録に残したいと考えます。いま、私たちにはカメラがあります。19世紀にカメラが実用化し、21世紀、自分や家族の姿は電子的に記録に残すことができます。しかし、ハルスの生きた(1582年~1666年)時代にはカメラはありませんでした。その時代、肖像画家という職業があって、中流から上流階級の人々からの注文を受けて、肖像画を描いて生計を立てていました。その時代の人々は、いま私たちが七五三の記念写真を写真館に撮りに行くような感覚で肖像画を発注していたのです。ハルスは肖像画家です。しかし、必ずしも注文に応じて描くだけではありません。八百屋の女、農夫、浜辺の漁師の子供なども描きます。

 人にカメラを向けると、その人の「今」が写せる瞬間があります。そのときにシャッターを切ると、「ベスト・ショット」という写真が撮れます。それと同じことは長い時間をかけて描く絵画には無理なはずなのですが、ハルスは頭の中にカメラを持っていたかのように「ベスト・ショット」を描きます。



 「ジプシーの女」という作品名は、ハルス自身がそう名づけたわけではなく、この女性の風貌からジプシーの女性が連想され、そう呼ばれています。はだけた胸が強調されていることから、この少女は「娼婦」だったと考えられています。カラヴァッジョは「女占い師(Buona ventura、The Fortune Teller、1595年頃)」でジプシーの女を描きますが、それと比べれば、この少女の着ている物が貧しさ故か貧弱です。しかし、ハルスはこの少女の瞬間的に見せた無邪気な表情を鋭く捉え、彼女の「今の生」を的確に描写しています。

 カラヴァッジョの「女占い師」は、初期における最大の傑作の一つと評価されています。まだ、カラヴァッジョの特徴である強い明暗表現はされていません。身なりのよい服装をした若い男が女占い師に右手を差し出して未来を占ってもらっています。この占い師はジプシーだとされます。ジプシー(ロマ人)は、インドからヨーロッパへと移ってきた人たちだと言われています。その放浪の旅で手相占いが行われていたようです。

 女占い師は、誘惑するように男の目を覗き込みながら、男の指先から指輪を抜き取ろうとしているという解釈もされます。その当時、占いを隠れ蓑にした娼婦もいたということですから、この絵の解釈はいろいろでしょう。この絵もルーブル美術館にあります。 

 NHKはいまから25年ほど前、フランスの民間テレビ局TF1との共同で、13回にわたる「ルーブル美術館」を制作し、1985年4月から1986年4月にかけてNHK総合テレビの「NHK特集」の枠で月1回放送しました。その第9回「光と影の王国~スペイン黄金時代~」は、カラヴァッジョの「女占い師」を取り上げて始まります。その中で次のように述べられます。

 この「女占い師」は、イタリアの画家「カラヴァッジオ」が20代の初めに描いた作品ですが、当時大変な評判を呼びました。面白いことに世間はこれを道徳的な作品と受け取ったのです。つまり、教会や親の導きを仰ぐ代わりに行きずりの女占い師などに相談をする若者は、身ぐるみはがされるような天罰を受けて当然とこの絵は教えていると言うのです。

 「ルーブル美術館」第9回の案内役は、レイモン・ジェローム(Raymond Gerome)とジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau)でした。2人の会話が続きます。

レイモン「ごらん、ジャン。カラヴァッジオの初期の作品だ。落ち着いた色と柔らかな光。とても美しい作品になっている。しかし、この絵のテーマはなかなか刺激的だね。」
ジャンヌ「ええ。女の方はジプシーの占い師ね。若い伊達男の手を取って、彼の運命を占っている。でも、彼女の笑いは作り笑いよ。何か企んでいる笑いだわ。ずっと若者を見つめているけれど、でも、ほら、よく見ると彼女は若者の手から指輪を抜き取ろうとしている。」
レイモン「ははは。挙句の果ては財布まで奪われてしまうかも知れないね。」
ジャンヌ「2人の視線の中にどこか共犯者みたいなものが感じられない?」
レイモン「うん?」
ジャンヌ「若者は自分からすすんで騙されようとしているように見えるわ。恋のなれそめを描いているかも知れない、、、」
レイモン「それは面白い見方だと思うね。」
ジャンヌ「暗黙の了解と期待と好奇心。恋物語の始まりよ。」


 フランスのルーブル美術館は、イギリスの大英博物館、ロシアのエルミタージュ美術館と並ぶ世界三大美術館のひとつで、その所蔵点数は30万を超える(すべてが展示されているわけではない)といいます。ルーブル美術館の廊下の総延長は20kmに及ぶようです。絵も見ずに時速4kmで歩いたとして5時間かかる計算になります。そのように広い美術館で、テーマも待たずに絵画を鑑賞するのでは、たぶん何の印象も持てずに終わってしまうでしょう。

 2度目の「イタリア家族旅行」は来年の3月頃という予定のようですから、半年ほどの余裕があります。ルーブル美術館を訪れるのは、2度目になります。今度はテーマをしっかり持って訪れたいものです。忙しい毎日、暇を見つけては「何を見るか」というルーブル美術館の研究をしています。

                 (この項 健人のパパ)

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 貧困は犯罪を呼ぶ、これは紛れもない事実です。犯罪を減らすには貧困を改善することです。富の集中をさせないことです。富の再分配を行うことです。しかし、現実には世界に富は偏在しています。

 ルーマニアやブルガリアを中心とする旧東欧に多く定住する「ロマ人」という人たちがいます。ロマ人はインドが起源とされる民族で、その一部はヨーロッパ各地を移動して暮らしています。フランス政府はロマ人に対して自発的に出国に応じた者には1人300ユーロ(約3万3千円)、出身国で店などを出す計画がある者には3600ユーロ(約40万円)を支給し、出国に応じない者は強制送還するそうです。

 ロマ人は欧州では「ジプシー」などと呼ばれ、集団で窃盗などを働く者もいると言われています。「パリの窃盗の5分の1はロマの仕業だ」などとフランスの政権は指摘したようです。ロマ人の強制送還は、犯罪対策・治安維持の意味合いを持っています。欧州連合(EU)は、国境をなくしました。人は自由に移動できます。2007年にルーマニアとブルガリアがEUに加盟しました。EU域内には大きな「東西格差」があります。富は西に多く集まっているのです。ルーマニアとブルガリアからフランスやイタリアなどへ、ロマ人の流入が続いています。「富」が人を惹きつけるのです。

 中国に「盲流」という現象があります。「やみくもに流れ出てくるもの」という意味で、「流れ出てくるもの」は「出稼ぎ労働者」です。経済的に豊かになった中国沿岸部の大都市に、依然と貧困に喘ぐ内陸農村部から流れ込んでいるのです。「盲流」という差別的な響きのある語は、いまは「民工」、「農民工」などの無機的な語に置き換わりましたが、実態は変わりません。この「盲流」の中から職を失って犯罪に走る者も出てきました。都市住民にとって、盲流は不気味な存在であり、差別の対象となります。

 フランスの政権は指摘しています。「パリで過去18か月間、ルーマニア人の犯罪は2.6倍に増えた。」フランス政府のロマ人追放に抗議する人権団体のデモが、9月4日、ベルギーのブリュッセル、ポルトガルのリスボン、フランス各都市などで行われましたが、その参加者はそれほど多くはなかったと言います。西の人たちにとって、差別が自分には及ばないこと、雇用などの経済問題ではないこと、追放が治安維持に貢献するだろうと考えていることなどがデモが小規模だった理由であると考えられます。

 ジプシーは色が浅黒く、独特の雰囲気を持っており、ヨーロッパの人たちには一見して分かると言います(妻がイタリアで聞いた話では「最近、ジプシーも垢抜けて見抜けない場合もあるのよ。」だそうです。)2010年3月にイタリアに行ってきました。妻がローマの「テルミニ駅」で、「フィレンツェ」に移動する切符を買うために自動販売機の前に立っていたところ、健人が「後ろにジプシーがいるよ。」と告げたそうです。そこには洗濯物を持った家族らしい数人がこちらを注視していました。

 妻は健人にイタリアに行く前にジプシーの犯罪の手口を教えておいたそうです。犯行の現場を見られないように、集団で人の壁を作り、また被害者の抵抗をなるべく受けないように覆いとなる袋・衣類などを持っていることが特徴のようです。それを知っていた健人は、1.集団、2.洗濯物、で「狙われた!」と感じ、妻に警告を出したのです。

 二人の感じたことは、誤りであったかも知れません。しかし、妻は確信を持ってこう言います。「あれはジプシーだったわ。私が財布を出すのを待っていたのよ。」妻は息子の手を取って足早にその場を立ち去りました。切符は後日買ったそうです。妻は、旅行先では「性悪説」に立ちます。「まず、疑ってかかるのよ。そうすれば、被害に遭わないで済むわ。」旅行ガイドで、犯罪の手口も読み込んでおく妻には脱帽です。

 私たちは、今回の旅行では犯罪に遭わないで済みました。しかし、妻はオーストラリアでバッグを持ち逃げされ(上の息子「優也」と旅行中)、パリの地下鉄内でカメラを抜き取られ(私と旅行中)、上海の人ごみで携帯電話を掏られる(一人で旅行中)などの被害も経験しています。

 私もサンフランシスコのマクドナルドでいわゆる「ケチャップ強盗」に遭うところでした(未遂で終わった)。知り合い5人で旅行していましたが、座席に座っていたところ、近づいてきた男が連れの一人に「肩にケチャップがついているよ。」と言ってきたのです。

 狙われていたのは私の持っていたバッグ。全員のパスポートが入っていました。注意がその男の指に付いたケチャップに注がれたのですが、私の視界の片隅にこちらを見つめている「メキシコ系」の男が入ったのです。もちろん声をかけてきたのも「メキシコ系」。似ていました。兄弟かも知れません。自分の脇に置いていたバッグを引き寄せ、その男に視線を向けます。

 男二人は何事もなかったように消えました。「どうして肩になんかケチャップをつけてしまったんだろう。」と言う連れに「いまのがケチャップ強盗さ。」「何ですか、それ。」 知識は人を守ります。外務省は、「海外安全ホームページ」を開設しています。その「サンフランシスコ」の項からの抜粋です。

 邦人観光客が特に多く被害に遭っているのは、スリ・置き引き被害です。スリ被害はバス等の交通機関の中で、置き引き被害はホテルやレストラン等での被害が多いようです。混雑した交通機関の中ではバッグ等を体の前に抱える、ホテルやレストラン等の中でも所持品は身につける、体から離さないようにする等の注意が必要です。

 イタリアは、最低限の収入を満たしていない、定住地がないなどの「犯罪に走りやすい」ロマ人をルーマニアなどに国外追放する準備を進めているようです。人種差別はよくないことです。差別する者はいつ立場が逆転して差別される者になるか分かりません。それほど危うい行為なのです。「被害者」になる前に「加害者」にならないことです。「差別」は非難されるべきだという共通理解を作っておくことです。

 しかし、「治安」が維持されることも一つの「価値」です。この問題はどこに落ち着くのでしょう。妻は、2度目の「イタリア家族旅行」をフランスに入ってイタリアに移動するというプランで練っています。美術に興味を持った健人に「ルーブル美術館」を見せてやりたいのだそうです。その意味では、安全な「パリ」は望ましいことです。しかし、窃盗の5分の1がロマ人の仕業だとしても、残りの5分の4は誰の仕業?

               (この項 健人のパパ)


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 「フェルナンド・マルティンス・デ・ブルォン(Fernando Martins de Bulhão)」は、1195年にポルトガル、リスボンの非常に裕福な貴族の家系に生まれます。両親はフェルナンドに貴族の身分を継がせることを望み、神学校に入学させようとしますが、フェルナンドはこれを拒み、1210年にリスボン郊外の聖ヴィンセント・デ・フォーラ修道院(Abbey of St. Vincent de Fora、アウグスティノ修道会の所属)に入ります。


「幼な子イエスを抱く聖アントニオ」(聖アントニオは幼な子と、また白いユリとともに描かれることが多い。図像学からは白いユリとともに描かれる聖人は聖アントニオである)

 家族や友人の説得を避け聖書研究や文学研究などの学究に身を捧げるために、希望して配転されたコインブラの修道院で、1219年に司祭に任命されたフェルナンドは、モロッコに宣教へと向かう5人のフランシスコ会宣教師を応接します。

 モロッコに向かったフランシスコ会宣教師が殉教したという知らせを聞いたフェルナンドは衝撃を受け、学究生活を捨てて宣教活動を行う決意をします。フェルナンドは、フランシスコ会に移り、修道士生活の創始者とされる「聖アントニウス (Anthony the Great、エジプトのアントニウス、Anthony of Egypt)」にならって名前を「アントニウス(アントニオ、ポルトガル語:António)」に改めます。

 アントニオは数ヵ月後許可を得てモロッコ宣教に向かいますが、現地に着いてすぐに病気になってしまいます。結局、ポルトガルに送り返されることとなりました。1221年、アントニオが乗った船は嵐に遭って、「シチリア」の「メッシーナ」に漂着します。メッシーナの女子修道院で厚遇を受けたアントニオは、そこで気力と体力を回復していきます。

 フランシスコ会のメンバーであったアントニオは、「総会」に参加すべくアッシジにやって来ます。アントニオの所属する教区が「ロマーニャ」に決まり、「フォルリ」の近く、「モンテパオロ」の修道院に配置されます。アントニオは近くの丘の麓にあった洞穴を住まいとし、修道院に通い始めます。聖餐式を行いながら、すすんで雑用を引き受けました。アントニオは謙虚に生きることを好んでおり、洞穴で学究と祈りを行っていました。

 1222年、フォルリの教会でロマーニャの修道士に対する「叙階」が行われます。その際に「説教」が行われました。招待されていたドメニコ会の修道士に説教が依頼されますが、準備がされていないということで断られ、急遽アントニオが代役に指名されます。修道士仲間は、「説教」を自分がするのを避けるために、この新参者を「説教者」に指名したのです。

 最初、アントニオは辞退しますが、それは叶わず、聴衆の前に立たされます。アントニオは平明で明確な言葉で語り始めます。説教家には、教義や聖典について高度で専門的な知識や見識が必要であり、さらにそれをわかりやすく教え伝える能力も必要でした。それを備えていたアントニオの弁舌に聴衆はすぐに魅了されていきます。同僚に雑用をもくもくとこなす役に立つ男としてしか見られていなかったアントニオの人生が大きく変わっていきます。

 アントニオは、1225年にフランスにやって来て、「モンペリエ」、「トゥールーズ」、「アルル」、「ブールジュ」などで活動を続けていました。1226年、「リモージュ」で宣教活動をしていたアントニオの元に知らせが届きます。10月3日の夕刻にフランチェスコが亡くなったという知らせでした。「マルセイユ」から帰途につきます。

 アントニオは、フランチェスコの墓に祈りを捧げ、次期の総長を決める「総会」に参加します。新総長の「ジョヴァンニ・パレンティ」によって、アントニオは北イタリアのほとんどを占めるロマーニャ管区の管区長に任命されます。大変に有能であったアントニオは30歳には大司教ともいうべき地位になっていたのでした。アントニオは精力的に「説教」を各地で行う一方で、修道院を訪れ、そこに暮らす修道士たちにねぎらいの言葉をかけて回ります。

 1228年、アントニオは「パドヴァ」にやって来ます。アントニオの「説教」を聴きに集まる人たちの数は非常に多くて、どの教会もその人数を収容はできませんでした。そこで、アントニオは彼らを引き連れて、広々とした草原に行って「説教」をしたと言います。パドヴァの町の人たちだけではなく、パドヴァの周辺の他の町から、また城や村からも集まったのです。

 1231年、アントニオは、腎臓機能が著しく低下して起こる「腎不全」などが原因の「水腫(むくみ。体内に余分な水分が溜まるという症状)」を起こします。アントニオは、療養のため、パドヴァの北にある「カンポザンピエーロ(Camposampiero)」の森に、2人の修道士を付き添いとして向かいます。胡桃の木の下に質素な庵を作り、そこで起居します。ある日、食事を取ろうとしていたときに、急激に症状が悪化し、アントニオはテーブルにうち伏します。

 死期を悟ったのかアントニオは、パドヴァの「サンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会(現在はサンタントニオ聖堂の一部となっている)」に戻りたいと訴えます。2人の修道士は、移動が症状をさらに悪化させることは承知していたのですが、アントニオの強い希望に仕方なく、牡牛が引く荷台に乗せてパドヴァへと向かいます。

 途中、アントニオに会いにやって来た修道士と出遭い、その強い助言に従って、「アルチェッラ (Arcella)」の「クララ会(アッシジのキアラ(Chiara d'Assisi)が創設した女子修道会)」の修道院に立ち寄ることにします。快復が不可能なまでに病状の悪化することを恐れたのでした。

 修道院に入ったアントニオは、「赦しの秘蹟」という儀式を求めます。「詩篇(旧約聖書に収められた神への賛美の詩)」をいくつか口ずさんだアントニオは、目を見開き、空(くう)を長いこと見つめています。「何をご覧になっているのですか。」とお付きの修道士に尋ねられ、「主を」と答えて、やがてアントニオは息をひきとります。6月13日、享年36歳でした。

 修道士たちはアントニオの死を隠そうとします。しかし、その試みも空しく、子どもたちが「アントニオさんが亡くなってしまった!」と町中に触れ回ってしまいます。クララ会の修道女たちは、アントニオの遺骸をこの地に安置することを望みます。付き添っていた修道士は、アントニオの遺志に従って、パドヴァに遺骸を移動させようとしますが、住民たちはいかなる手段を用いてもそれを阻止すると主張します。

 この何とも人間くさい話をここで止めて、次の表現に変えたいと思います。アントニオが亡くなったとき、子どもたちは通りに出て、泣き叫び、天使は地上に降りてきて、教会という教会の鐘を打ち鳴らして、その死を悼んだといいます。アントニオはそれだけ民衆に親しまれていました。アントニオは「説教」を通じて、民衆の中に溶け込んでいたのでした。

 数多くの敬虔な信者らは、アントニオを納めた棺から離れずに、パドヴァのサンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会へと伴って行きます。司教は「追悼ミサ」を行い、アントニオの遺骸を大理石の櫃に横たえて埋葬します。

 フランシスコ会を始めた「アッシジのフランチェスコ」が亡くなって5年後、「パドヴァのアントニオ」もその後を追うように亡くなります。上品さを漂わせたアントニオと放蕩な時代を送ったこともあるフランチェスコ、学究を志す学者肌のアントニオと行動的なフランチェスコ、説教の非常に上手だったアントニオと説教が決して上手だとは言えなかったフランチェスコ、遠慮深く表に立とうとはしなかったアントニオと人を魅了して止まなかったフランチェスコ、政治力のあったアントニオと政治には無関心だったと思えるフランチェスコ、対照的な2人が歴史舞台から去っていきました。しかし、現代においても2人の聖人の人気に衰えはないようです。それは清貧に生きたという志しの高さが尊敬を集めているためなのでしょうか。



 サンタントニオ聖堂の付属施設のかなり奥に入り込んだところに「聖アントニオ博物館」があります。聖堂自体にはかなりの観光客が入っていたのですが、博物館には私と妻と我が子「健人」のみ。貸し切り状態でした。画像は目立たない博物館入口に立つ妻と子です。

                 (この項 健人のパパ)

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 神に祈りを捧げる「礼拝(worship)」のための専用の空間を「礼拝堂(chapel、cappella)」と言います。主祭壇を囲む礼拝のための空間は「聖堂」と呼ばれて、礼拝堂とは区別されます。礼拝堂は、ミケランジェロの「最後の審判」の壁画のある「システィーナ礼拝堂(Cappella Sistina)」やイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの連作壁画のある「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」が有名ですが、必ずしも独立した建物であるとは限りません。カトリックの大聖堂では、大聖堂の側廊などに空間をとり、礼拝堂を設置することが一般に行われています。



 パドヴァの「サンタントニオ聖堂(Basilica di sant'Antonio)」の「主祭壇(high altar)」の背後に「宝物礼拝堂(Treasury Chapel、Chapelle du Tresor、聖遺物礼拝堂、Cappela della Reliquia)」があります。この礼拝堂には「聖アントニオ」の「聖遺物(relic)」が展示されています。「聖遺物」とは、イエス・キリストや聖人の遺骸や遺品を言います。この礼拝堂には、聖アントニオの「顎」と「舌」が展示されています。「説教(sermon)」の非常に上手であったアントニオに相応しい聖遺物と言えるのでしょう。

 聖遺物で有名なのは何といってもトリノの「聖ヨハネ大聖堂(Cattedrale di San Giovanni Battista)」に保管されている「トリノの聖骸布(Shroud of Turin)」でしょう。「聖骸布(Holy Shroud)」とは、磔刑に処されて亡くなったイエスの遺体を包んだとされる布を言います。ローマ教皇「ベネディクト16世」は2010年5月2日、「トリノの聖骸布」が10年ぶりに公開されている大聖堂を訪問、聖骸布の前で4分ほどの祈りを捧げました。教皇はその後、大聖堂そばのサンカルロ広場で野外ミサを行っています。



 話を戻します。宝物礼拝堂には3つの「壁龕(へきがん、niche、像や飾り物などを置く壁の窪み)」があり、中央の壁龕にはこの聖アントニオの「顎」と「舌」が装飾を凝らした容器に入れられて納められています。その手前には拝観のための通路があり、欄干には6体の像が配されています。左脇の聖フランチェスコ、右脇の聖ボナヴェントゥラ、そしてその間に「信仰(Faith)」、「改悛(Penance)」、「謙譲(Humility)」、「慈愛(Charity)」の像が置かれています。

 1263年、サンタントニオ聖堂建設の第二段階が終了します(聖堂の建設は聖アントニオの亡くなった翌年の1232年に始まりますが、竣工までには80年ほどかかり、1310年に完成をみます)。建設開始より30年ほどかけて第二段階が終了した時点で、フランシスコ会士を集めてパドヴァで開催された「総会(General Chapter)」の際に、「ボナヴェントゥラ(Bonaventura)」総長らは聖人の遺骸をサンタ・マリア・マーテル・ドミニ教会から聖堂に移すことになります。聖人の棺を初めて開けることになり、アントニオが訪れた数多くの教会から提供されて遺体を覆っている「聖遺物」を取り除いていきます。そこで、立ち会っていた会士たちを驚愕させることが起ります。それは聖アントニオの「舌」が腐敗しないで残っていたのです。それが「宝物礼拝堂」に展示されているのです。



 サンタントニオ聖堂には最奥にある「聖遺物礼拝堂」を含めて「礼拝堂」が5つあります。まず、聖堂に入って左手(北面)の「翼廊(transept)」に「聖アントニオ礼拝堂(Saint's chapel)」、その左手に「黒髪のマリア礼拝堂(Chapel of the Dark-haired Madonna)」、その奥に「福者ルカ・ベッルーディ礼拝堂 (Blessed Luca Belludi' chapel)」があります。そして、「聖人礼拝堂(聖アントニオ礼拝堂)」」の「身廊(nave)」をはさんだ向かい側の「聖ヤコブ礼拝堂」です。



 先を急いだため、パドヴァのアントニオが亡くなった前後の話を飛ばしてしまいました。次回はその話をしたいと思います。記憶を記録にして残そうとして、パドヴァの話を始めましたが、忙しくて更新もままならず、ミラノで「最後の晩餐」を見た話に辿り着くまでには妻が新たな旅行の計画を立てそうで、中途半端の旅行記になるのを恐れています。

               (この項 健人のパパ)

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 「パドヴァのアントニオ(Sant'Antonio di Padova、1195年~1231年)」も「アッシジのフランチェスコ(San Francesco d'Assisi、1181年~1226年)」も「聖人(英語:Saint、イタリア語:Santo)」です。「聖人」とは、イエス・キリストの模範に忠実に従って生き、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人間との仲介役となり、人々の祈りを聞き入れてくれるように神のそばでとりなしを行ってくれる存在であるとされます。

 カトリック教会では、聖人への崇敬はキリスト教信仰の一部をなしています。プロテスタントでは、神のそばにいて神と人間の媒介としての役割を担う「聖人」という概念がありません。聖書に立ち返ることを主張するプロテスタントには、聖書に根拠を持たないものは認めないのです。

 聖人は「ローマ教皇庁列聖省(Congregation for the Causes of Saints、現長官:アンジェロ・アマート大司教(Archbishop Angelo Amato))」の調査の結果を受けてローマ教皇が公に聖人の列に加えると宣言する(列聖、canonization、canonizatio)ことで誕生します。「列聖式」はローマの聖ペトロ大聖堂で盛大に執り行われます。教皇庁列聖省が調査を宣言すると、その人物は「尊者(Venerable)」となります。さらに、列聖省が調査の結果、その人物の生涯が英雄的で、福音的な生き方であったことを公認すると「福者(Blessed、Beatus)」と呼ばれることになります。

 最も貧しい人々のために活動する「神の愛の宣教者会(Missionaries of Charity)」の創立者、「マザー・テレサ(Mother Teresa)」は亡くなってから6年後に列福されています。この「福者」の中から「聖人」が選ばれていくことになります。それには何十年という時の流れが必要となります。マザー・テレサが「列福」されたのは異例の速さだったと言われるほどで、多くは歴史が長い時間をかけて選別していくのです。

 「聖人」になるためには、「奇跡」を起こしていなくてはなりません。その資格要件は厳しいものです。まず「福者」になるために、殉教者の場合を除いて、一つの奇跡が必要です。教皇庁の調査委員会が資料を集め、厳密に調べ、その調査資料に基づいて、列聖省の専門委員会を経て、枢機卿委員会での会議にかけられます。「福者」に値すると判断されると、教皇が列福の教令に署名し、列福式をもって「福者」と宣言されます。福者の列に加えられた後、もう一つの奇跡があると、「聖人」に値するかが同様な手続きを踏んで判断されるのです。これからすると、聖人は立証が可能な二つ以上の奇跡を起こしていることになります。

 1226年、パリのほぼ南へ350kmほどのフランス中部の町「リモージュ(Limoges)」で宣教活動をしていたアントニオの元に知らせが届きます。10月3日の夕刻にフランチェスコが亡くなったという知らせでした。アントニオはフランス南部からイタリア北部にかけての地域で活発な活動をしていた「カタリ派(Cathares、10世紀半ばに現れ、12世紀の終わりには南フランスの都市「アルビ(Albi)」に由来して「アルビ派(Albigenses)」ともよばれる)」に対抗するために送り込まれていました。カタリ派は、新約聖書の章句に固執し、原始キリスト教団の生活を理想化し、教会とその位階制を否定していたことから、ローマ教皇庁によって異端とされます。



 アントニオは、1225年にフランスにやって来て、モンペリエ(Montpellier、マルセイユの北西160kmほどのところにあり、かつては地中海に臨む海港都市であった)、トゥールーズ(Toulouse、歴史的建築物が多い、人口(約40万人)でフランス第4位の都市)、ル・ピュイ=アン=ヴレ(Le Puy-en-Velay、1000年以上の歴史をもつ司教座都市)、アルル(Arles、ゴッホが晩年を過ごした町で、ローマ時代の遺跡がある観光都市)、ブールジュ(Bourges、パリの南230kmほどのところにあり、中世には交易の中心地であった)、リモージュ(Limoges)などで活動を続けていましたが、マルセイユ(Marseille、フランス最大の貿易港であり、人口(約80万人)でフランス第2位の都市)から帰途につきます。

 フランシスコ会の1221年会則に大幅な改編を加え、ローマ教皇をその頂点とする権力構造にフランシスコ会を組み入れた「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)」枢機卿は、1227年、教皇グレゴリオ9世となります。グレゴリオ9世はフランチェスコを1228年には列聖します。フランチェスコが亡くなって21か月後のことでした。その年には、フランチェスコの功績を讃えるために、アッシジの町の北西の斜面を利用して聖フランチェスコ聖堂の建築が始まります。2年後の1230年にはフランチェスコの遺骸がこの聖堂に移されます。



  「ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)」の描く
             「聖痕を受けるフランチェスコ(Stimmate di San Francesco)」

 聖人に列聖されるにはいくつか「奇跡(miracle、miracolo)」を行っていなくてはなりません。フランチェスコが亡くなる2年前の1224年、フランチェスコは「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」で断食しながら祈りをささげていた時に、十字架に架けられた「熾天使(Seraph、Serafino)」を見ることになります。そのとき、熾天使はフランチェスコの身体にイエスの磔刑の傷跡を押しつけたといいます。聖痕(stigmata)とは、イエスが磔刑となった際についたとされる傷と同じ位置に現れた信者らの身体の傷を言います。フランチェスコは、聖痕示現者になり、両手、両足、脇腹に聖痕を持つことになります。これも「奇跡」とされます。


  「ジローラモ・テッサーリ(Girolamo Tessari)」の描く
       「聖餐式で跪くラバ(La mula si prostra davanti all'Eucarestia)」(1515年制作)

 パドヴァのアントニオも「奇跡」を行っています。溺死者を蘇生させるということを幾度か行ったそうです。水面に頭を出し、聴き入る魚に説教をしたこと、ラバに聖餐式を行ったことなどの「奇跡」は絵画の題材ともなっています。魚に説教することができたことと関係するのでしょうか。聖アントニオは、「漁師」の守護聖人です。また、理由はわかりませんが、「養豚業者」の守護聖人でもあります。

 人が聖人に列聖されるのは死後のことです。1226年に亡くなった「アッシジのフランチェスコ」は1228年に、「パドヴァのアントニオ」は1232年に、教皇グレゴリオ9世によって列聖されています。アントニオが亡くなったのは1231年ですから、翌年には列聖されたことになります。アントニオは生前から民衆にそして教皇庁に人気の高い人でした。

 時を少し戻します。アントニオがフランスのマルセイユを冬に発ってアッシジに着いたときには春になっていました。フランチェスコの墓に祈りを捧げ、次期の総長を決める「総会(Chapter)」に参加します。新総長の「ジョヴァンニ・パレンティ(Giovanni Parenti)」によって、アントニオは北イタリアのほとんどを占めるロマーニャ管区の管区長に任命されます。大変に有能であったアントニオは30歳には大司教ともいうべき地位になっていたのでした。

 アントニオは精力的に「説教」を各地で行う一方で、修道院を訪れ、そこに暮らす修道士たちにねぎらいの言葉をかけて回ります。その足跡は、現在はスロベニアと国境を接するイタリアの東の端の町「トリエステ(Trieste)」にも及びます。

 1228年、アントニオは「パドヴァ(Padova)」にやって来ます。アントニオの「説教」を聴きに集まる人たちの数は非常に多くて、どの教会もその人数を収容はできませんでした。そこで、アントニオは彼らを引き連れて、広々とした草原に行って「説教」をしたと言います。パドヴァの町の人たちだけではなく、パドヴァの周辺の他の町から、また城や村からも集まったのです。それも夜のうちから集まり始めたと言います。1~2時間の「説教」を聞くために人々は大変な努力を払ったのです。



 ようやく、アントニオがパドヴァに結びつくことになりましたが、この続きは次回に。今回のイタリア旅行で訪れることができたパドヴァのサンタントニオ聖堂の紹介に入ることができます。

             (この項 健人のパパ)

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 アメリカ西海岸に「サンフランシスコ(San Francisco)」という都市があります。フランシスコ会の修道士が会の創設者「聖フランシスコ」を街の名につけたのが地名の由来とされています。サンフランシスコには「ミッション地区」と呼ばれる地域があり、ドロレス通り(Dolores Street)と16番街の通り(16th Street)が交わる角に「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church)」が建っています。1791年に完成したこの教会は、現存するサンフランシスコの教会としては最も古いものです。

 イエスは弟子たちに、全世界に福音(Gospel、「神の国が到来した」というイエスのメッセージ)を宣べ伝え、弟子とするように命じました。「ミッション(mission、福音宣教)」とは、全世界にイエスの福音を宣べ伝えることをいいます。ローマの北に位置するウンブリア地方の町「アッシジ(Assisi)」の裕福な商人の家に生まれた「ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ(Giovanni di Bernardone)」は、若い頃は放蕩な生活を送っていたのですが、20歳代中頃に度々神の声を聴くようになり、やがて、福音を説いて、弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けることになります。このジョヴァンニが「アッシジのフランチェスコ」なのです。

 アルフレッド・ヒッチコック監督の「めまい(Vertigo)」(1958年に公開)の舞台ともなった「ミッション・ドロレス教会(Mission Dolores Church、Mission San Francisco de Asis)」は、18世紀後半にフランシスコ会の「フニペロ・セラ修道士(Fray Junípero Serra)」が建立します。もとからの居住者であったネイティヴ・アメリカン(インディアン)に宣教し改宗させる拠点としたものでした。

 フランシスコ会などの「托鉢修道会(Mendicant orders)」は、中世中期に、広大な土地を所有し経営を行って荘園領主化していった修道会の腐敗に対する反省として生まれたものです。既存の教会や修道会に対して厳しい批判をすることもあって、従来の聖職者と衝突をし、その多くはローマ教皇の力により解散させられていきます。しかし、フランシスコ会、ドミニコ会などはローマ教皇から認知され、ローマ教皇を中心とした支配体制の中に徐々に組み込まれていきました。

 フランチェスコは修道会を設立した頃の初志に立ち返ることを望み、1221年会則を起草します。しかし、ローマ教皇庁の圧力により、後に教皇グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)となる、インノケンティウス3世の甥であった「ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti、1143年~1241年)」枢機卿の手によって、大幅に改編を加えられ、1224年の「総会(general Chapter)」でフランシスコ会の正式の会則とされてしまいました。

 フランチェスコは自分の手から離れてしまった修道会を高弟の「コルトナのエリアス(Elias of Cortona)」に委ね、数名の弟子を連れて「アルヴェルナ山(Monte Alverna)」に入り、祈りと瞑想の生活を送ることになります。




 数人の弟子を連れて山に入ったフランチェスコを鳥たちは迎え入れます。茶色の服装は鳥に警戒心を与えなかったのでしょう。フランチェスコの周りに群れて降りてきます。フランチェスコは鳥たちを相手に「説教」を始めます。フランチェスコは行動力はありましたが、説教はあまり上手ではありませんでした。鳥を相手にその練習をしたのでしょうか。しかし、弟子たちの目には鳥すらも師の説教を聴き入ると映ったことでしょう。画家「ジョット(Giotto)」はこの出来事をアッシジの「聖フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco)」のフレスコ画にし、作曲家「リスト」は、「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ(St.Françios d'Assise, la prédication aux oiseaux)」 という10分ほどのピアノ曲を作曲しています。

 

 フランシスコ会の一員であった「パドヴァのアントニオ」にも同じような逸話があります。アントニオが「リミニ(Rimini、アッシジの北に位置し、アドリア海に面する町。)」という町にやって来て「説教」を始めようとすると異教徒たちが妨害します。そこで、海に向かって説教を始めると、それを聞こうとして海の魚たちが岸辺にひしめき合い、水面から顔を出したといいます。アントニオの「説教(sermon)」は素晴らしいものでした。その説教を聞いた異教徒たちは改宗するのを躊躇わなかったといいます。アントニオは奇跡も起こします。同じリミニの町で、「ボンビッロ(Bonvillo)」という異教徒がアントニオを辱めようとしてあることを試みます。

 その異教徒は自分の飼っていたラバに3日間餌を与えませんでした。そのラバを町の広場に連れ出し、こう言ったのです。「アントニオよ、お前は聖餐のパンを持って向こうの隅に立て。こちらの隅にはラバの餌の麦を置こう。オレのラバがどちらを選ぶか見てみようじゃないか。お前の言うことが正しいかはすぐにわかるさ。」 多くの人々が注視する中、ラバはアントニオと餌と三角形をなす位置に連れて行かれ、放たれました。この挑戦的な異教徒には自信がありました。当然、腹を空かせたラバは餌の麦に脇目もふらず向かうであろうと。

 この仕打ちに大きく反感を抱いていたのでしょうか、ラバは餌に目もくれずにアントニオの元に向かい、前脚の膝を地面につけてひざまずく格好すらしたのです。それは聖餐の時に人々がする仕草でした。

 群衆からどよめきが起こります。この出来事があって、ボンビッロはいまだ福音を信じていなかった多くの仲間を誘い、改宗したといいます。アッシジのフランチェスコはアントニオの知性と聖性を知って信頼し、修道士に説教の仕方を教えてくれるように手紙を書きます。1224年、ボローニャの修道院でアントニオの講義が始まりました。しかし、この年、フランチェスコは修道会の活動から身を引き、山に籠もることになりました。

 教皇、神父、修道士といった特権的な聖職者を必要としない聖書中心の信仰生活への回帰という努力は、この後、歴史が幾度となく経験し、16世紀に入り、「宗教改革」という形で結実します。「プロテスタント」の誕生です。しかしそれには、まだ300年ほども待たなくてはならなかったのです(マルティン・ルターが「95ヶ条の論題」を発表しローマ教会の堕落に抗議したのは1517年)。

 話はさらに長くなり、終わるきっかけが見つかりません。ポルトガルに生まれたアントニオがなぜ「パドヴァのアントニオ」と呼ばれるようになり、パドヴァの町の守護聖人になったのかという本来の目的に筆が向くまでしばらくお付き合い下さい。



              (この項 健人のパパ)

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