フランチェスコの死後、2年経った1228年に建築が始まり、25年後の1253年に完成した「アッシジ(Assisi)」の「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」の礼拝堂の建設に関しては、ほとんど記録が残されていません。そのため、個々の礼拝堂の建設がいつ行なわれたのかは知られていません。聖堂の建設時に礼拝堂の入口は設けられます。礼拝堂の建設費用を出す者がいれば、礼拝堂が造られます。
サン・フランチェスコ大聖堂の「下部聖堂(下堂、 basilica inferiore)」の「翼廊(伊語:transetto、英語:transept)」の左右には、「オルシーニ家(Orsini。中世ローマの有力貴族で、コロンナ家とローマの覇権を争った)」によって寄進された礼拝堂が2つあります。右翼にある「サン・ニコラ礼拝堂(Cappella di San Nicolò)」と左翼にある「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂(Cappella di San Giovanni Battista)」です。
フランチェスコが騎士になる夢をかなえようとして目指したイタリア南部の「プッリャ州(Puglia)」の州都は「バーリ(Bari)」です。バーリの守護聖人はサンタクロースの元ともいわれる「ミラの聖ニコラウス(Nicola di Mira、バーリのニコラ、Nicola di Bari)」です。ニコラウスは、没落し娘たちの結婚のための持参金を用意できなくなった商人の家に、夜中に窓から密かに持参金に相当する多額の金を投げ入れたという伝承で知られ、サンタクロースはこの伝承から発展したとする説もあります。ニコラウスは裕福な家庭に育ち、多額の遺産があったのです。
ニコラウス(270年頃~345年または352年)は、現在のトルコの地中海に面した「アンタルヤ県」の「パタラ(Patara、デムレ(Demre)の付近)」で生まれ、現在のシリアの「ミラ(Mira)」で大主教をつとめ、亡くなります。1087年に、聖ニコラウスの聖遺物がミラからバーリに移されます。ミラは、いろいろな宗教が許容されていたとはいえ、イスラム教国のオスマントルコの支配下に移っていたのです。ニコラウスの聖遺物を収めるため、バーリに「サン・ニコラ聖堂(Basilica di San Nicola)」の建築が始められ、1098年に完成をみます。バーリは、多くの巡礼者を集めることとなり、この地方の経済の中心地となります。
サン・ニコラ礼拝堂には、聖ニコラの8つの物語が描かれています。その一つが「聖ニコラウス、無実の三人を死刑から救う」です。中世イタリアの年代記作者「ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine、1230年?~1298年)」の著した、キリスト教の聖者や殉教者たちの列伝である「黄金伝説(Legenda aurea)」は、第3章を「聖ニコラウス」にあてています。それによると、「金に目のくらんだ執政官が3人の無実の騎士の首をはねるよう命じた。それを聞いた聖ニコラウスは処刑場に急ぎ、死刑執行人の手から剣をもぎ取って投げ捨て、無実の者たちを解き放った」とあります。
この出来事は絵画「ヴォルガの舟曳き」で有名なロシアの画家「イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(Ilya Yefimovich Repin、1844年~1930年)」も描いています。「ミラの聖ニコライ、無実の三人を死刑から救う」(Saint Nicholas of Myra in Lycia、1889)です。ニコラウスはロシア語では「ニコライ」になります。
この礼拝堂はオルシーニ枢機卿が若くして亡くなった弟「ジョヴァンニ・ガエターノ・オルシーニ(Giovanni Gaetano Orsini)」を祭るために建てたといいます。オルシーニ枢機卿は死後この礼拝堂に葬られることを望んでいたそうです。オルシーニ枢機卿はアヴィニョンで1342年に亡くなります(ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた「アヴィニョン捕囚」(1309年~1377年)の時期)。しかし、葬られたのはローマの旧「サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)」にあった「サン・マルツィアーレ礼拝堂(Cappella di San Marziale)」でした。