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 大きな教会堂には、「礼拝堂(伊語:cappella、英語:chapel)」という空間がいくつも並んでいることがあります。「身廊(伊語:navata、英語:nave)」というミサが執り行われる空間(椅子が多く並んでいる)の両脇に、礼拝堂がいくつも展覧会場のブースのように並んでいます。礼拝堂の多くは、三面が壁で、身廊に向かって開いています。正面にはステンドグラスが嵌められている場合もあり、また壁には多くフレスコ画などの壁画や額に入った絵画があります。



 フランチェスコの死後、2年経った1228年に建築が始まり、25年後の1253年に完成した「アッシジ(Assisi)」の「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」の礼拝堂の建設に関しては、ほとんど記録が残されていません。そのため、個々の礼拝堂の建設がいつ行なわれたのかは知られていません。聖堂の建設時に礼拝堂の入口は設けられます。礼拝堂の建設費用を出す者がいれば、礼拝堂が造られます。

 サン・フランチェスコ大聖堂の「下部聖堂(下堂、 basilica inferiore)」の「翼廊(伊語:transetto、英語:transept)」の左右には、「オルシーニ家(Orsini。中世ローマの有力貴族で、コロンナ家とローマの覇権を争った)」によって寄進された礼拝堂が2つあります。右翼にある「サン・ニコラ礼拝堂(Cappella di San Nicolò)」と左翼にある「サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂(Cappella di San Giovanni Battista)」です。

 サン・ニコラ礼拝堂(バーリの聖ニコラの礼拝堂)は、サン・フランチェスコ大聖堂が完成してからおよそ40年後の1296年前後に建設が始まったのではないかといわれています。「ナポレオーネ・オルシーニ枢機卿(Napoleone Orsini Frangipani、1263年~1342年)」が依頼主でした。礼拝堂には多く聖人の名前が付けられます。

 フランチェスコが騎士になる夢をかなえようとして目指したイタリア南部の「プッリャ州(Puglia)」の州都は「バーリ(Bari)」です。バーリの守護聖人はサンタクロースの元ともいわれる「ミラの聖ニコラウス(Nicola di Mira、バーリのニコラ、Nicola di Bari)」です。ニコラウスは、没落し娘たちの結婚のための持参金を用意できなくなった商人の家に、夜中に窓から密かに持参金に相当する多額の金を投げ入れたという伝承で知られ、サンタクロースはこの伝承から発展したとする説もあります。ニコラウスは裕福な家庭に育ち、多額の遺産があったのです。

 ニコラウス(270年頃~345年または352年)は、現在のトルコの地中海に面した「アンタルヤ県」の「パタラ(Patara、デムレ(Demre)の付近)」で生まれ、現在のシリアの「ミラ(Mira)」で大主教をつとめ、亡くなります。1087年に、聖ニコラウスの聖遺物がミラからバーリに移されます。ミラは、いろいろな宗教が許容されていたとはいえ、イスラム教国のオスマントルコの支配下に移っていたのです。ニコラウスの聖遺物を収めるため、バーリに「サン・ニコラ聖堂(Basilica di San Nicola)」の建築が始められ、1098年に完成をみます。バーリは、多くの巡礼者を集めることとなり、この地方の経済の中心地となります。



 サン・ニコラ礼拝堂には、聖ニコラの8つの物語が描かれています。その一つが「聖ニコラウス、無実の三人を死刑から救う」です。中世イタリアの年代記作者「ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine、1230年?~1298年)」の著した、キリスト教の聖者や殉教者たちの列伝である「黄金伝説(Legenda aurea)」は、第3章を「聖ニコラウス」にあてています。それによると、「金に目のくらんだ執政官が3人の無実の騎士の首をはねるよう命じた。それを聞いた聖ニコラウスは処刑場に急ぎ、死刑執行人の手から剣をもぎ取って投げ捨て、無実の者たちを解き放った」とあります。




 この出来事は絵画「ヴォルガの舟曳き」で有名なロシアの画家「イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(Ilya Yefimovich Repin、1844年~1930年)」も描いています。「ミラの聖ニコライ、無実の三人を死刑から救う」(Saint Nicholas of Myra in Lycia、1889)です。ニコラウスはロシア語では「ニコライ」になります。



 サン・ニコラ礼拝堂の向かいにあるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂(洗礼者ヨハネの礼拝堂)は、聖人ヨハネ(ヨハネを伊語で言うなら、ジョヴァンニ)の名がつけられています。フランチェスコの洗礼名が「ジョバンニ(Giovanni)」でした。夫ピエトロが商用で留守の際にフランチェスコの母ピカ(ヨハンナ)は出産したことから、ひとりで名付けたのですが、これを気に入らなかったピエトロは我が子を「フランチェスコ」と呼びました。

 この礼拝堂はオルシーニ枢機卿が若くして亡くなった弟「ジョヴァンニ・ガエターノ・オルシーニ(Giovanni Gaetano Orsini)」を祭るために建てたといいます。オルシーニ枢機卿は死後この礼拝堂に葬られることを望んでいたそうです。オルシーニ枢機卿はアヴィニョンで1342年に亡くなります(ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた「アヴィニョン捕囚」(1309年~1377年)の時期)。しかし、葬られたのはローマの旧「サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)」にあった「サン・マルツィアーレ礼拝堂(Cappella di San Marziale)」でした。



 サン・ジョヴァンニ・バッティスタ礼拝堂には、シエナ派の画家「ピエトロ・ロレンツェッティ(Pietro Lorenzetti、1280年~1348年?)」の描く「祭壇画(altarpiece)」があります。祭壇画は、キリスト教会の祭壇の飾りで、祭壇の背後の枠の中に取り付けられている、宗教的題材を描いた絵やレリーフをいいます。この礼拝堂には3枚の絵画からなる「三連祭壇画(triptych、トリプティク)」があり、中央にマリアとイエス、右手にフランチェスコ、左手に洗礼者ヨハネが描かれています。

 礼拝堂の話しをマクラにして、ジョットの連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」の第6場面「フランチェスコ、インノケンティウス3世に力を貸す」に話しを発展させようとしたのですが、数日かけて仕事の合間にいろいろと調べながら記事を書いているうちに、礼拝堂の話しから抜けられなくなってしまいました。またまた仕切り直しです。




                   (この項 健人のパパ)

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