POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 はじめてこの町をおとずれたのは、1954年の夏で、アッシジのとなりのペルージャという、これも中世のままの町の大学で、イタリア語の夏期コースに出ていたとき。友人の運転するスクーターのうしろに乗せてもらって、やはり坂ばかりのペルージャの丘を降り、しばらく平野を走ると、アッシジの丘が前方に見えた。丘のいちばんふもとの辺りの、「大修道院」と土地の人が呼ぶ教会の巨大な橋梁をおもわせる建築に、まず、目を奪われた。

 それから、何度、この町をおとずれたことだろう。11回、というあたりまでは勘定して得意になっていたが、そのあとは、数はどうでもよくなった。ローマから、たしか200キロ近くあって、車で行っても、ちょっとした一日仕事である。留学生はお金がないから、だれか車をもっている友人が、アッシジに行こう、と言ってるのを耳にすると、すりよって行って、連れてって、と懇願した。何度行っても、平野からあの大修道院を眺めると、ああ、アッシジだと思って、心がふくらんだ。
(須賀敦子さんのエッセイ「アッシジに住みたい」から)

 アッシジの「サン・フランチェスコ大聖堂」では、ローマの教会や聖堂とは異なり、観光客に混ざって、修道士や神学校の学生を多く見かけます。濃い茶色の修道衣をまとったその服装で、観光客とは違う存在であることが見てとれます。また、その人種を見ると世界各地からやって来ているようにも見てとれます。フランチェスコの生き様は、キリスト教徒でなくても理解しやすく、その人間性は魅力的です。フランチェスコの存在がアッシジを人を惹きつける魅力的な町としていることに間違いはありません。



 サン・フランチェスコ大聖堂の上堂の壁面には、ジョットの描く「聖フランチェスコの生涯」という28場面の連作フレスコ画があります。上下2層からなる大聖堂の下堂から入ると、やがて中庭に出ます。その中庭には上堂に上る階段があり、ファサード-身廊-翼廊-後陣(アプス)からなる上堂の翼廊に入ることができます。



 翼廊から見て、身廊の左の壁から「聖フランチェスコの生涯」の物語が始まります。第1場面は、フランチェスコは裕福な家庭に生まれたことを示し、第2場面は、フランチェスコは騎士に憧れを抱いていたことを示しています。この最初の2場面はすでに紹介しました(参考:「アッシジへ」-「サン・フランチェスコ大聖堂」で「ジョット」の連作フレスコ画を見る(1) )。今回は第3場面から見ていきたいと思います。

 12世紀から13世紀にかけて、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝は対立していました。主に北イタリアにおいて、貴族たちや都市はその旗色を明確にしました。「皇帝派(伊語:Ghibellini(ギベッリーニ)、英語:Ghibelline(ギベリン))」であった「アッシジ(Assisi)」は、教皇派(伊語:Guelfi(グエルフィ)、英語:Guelph(ゲルフ))であった「ペルージャ(Perugia)」と争うことになります。

 騎士に憧れを抱いていたフランチェスコは、武具を揃え、その戦いに参加することになります。父親が戦いに参加することに反対したかどうかは定かではありませんが、戦いに参加して武勲を上げることは、父親にとっても本人にとっても、プラスに働くはずだったでしょう。本人の社会的評価も上がり、父親の政治的影響力も増したことでしょう。

 しかし、アッシジはペルージャに1202年、「コレッストラーダ(Collestrada)」の戦いで敗退します。フランチェスコは捕虜となります。父親は賠償金を支払って、フランチェスコを釈放させますが、釈放までには1年という期間がかかりました。賠償金の額が高額だったのでしょうか、戦場に行くことを反対していたとするならば、父親の怒りだったのでしょうか。

 ペルージャの牢獄で1年を送る中で、フランチェスコは病気になりました。病気になったことで父親に賠償金を支払って釈放させる気を起こさせたのかも知れません。釈放されてからもしばらくは病気が癒えることはなく、陽気な「ボンボン」も憂鬱を感じたことでしょう。牢獄にいたときから、自分の生き様について、深く考えるようになっていたのかも知れません。その時間は十分にあったのですから。

 フランチェスコの父親、「ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)」は毛織物商人であり、たびたびフランスに出かけていたといいます。フランチェスコが生まれたときも留守をしており、母「ピカ(Pica)」は、生まれた子に「ジョヴァンニ(Giovanni)」という名前をつけますが、仕事上フランス語が非常に堪能で、フランスびいきだった父親は、その名が気に入らず、「フランチェスコ(Francesco)」と呼びます。

 そんな父親ですから、諸外国の事情に詳しく(13世紀のカペー朝のフランスは、ローマ教皇との連携を図り、王権を強化していた)、すでにアッシジ対ペルージャの戦いの勝敗の行方を見通しており、それゆえ、フランチェスコが戦場に行くことを強く反対したかも知れません。言うことを聞かなかった息子に腹を立てて、容易には賠償金を支払わなかったのかも知れません。いろいろな想像ができます。跡継ぎにしようと考えていたでしょうから、放蕩には目をつぶっていたのかも知れず、手に焼く息子だったのかも知れません。

 病を得たあたりから、フランチェスコはたびたび「神の声」を聞くようになります。それは実際は思索的になっていたフランチェスコの「心の声」だったのかも知れません。「神の声を聞く」ということは心的な体験であり、目撃者がいるはずもなく、フランチェスコが人に語らなければ、人の知るところとはなりません。フランチェスコの心的態度が、徐々に実在としての「神」を受け入れるようになり、「神」の存在を人に伝えられるようにもなっていったのでしょう。

 ある夜、フランチェスコは不思議な夢を見ます。十字架のしるしのある立派な武具が置かれた荘厳な建物を見て、フランチェスコは誰の建物なのかを尋ねます。それに対する答えが「おまえとおまえの騎士たちのものだ。」というものでした。自分の栄華を確信して、フランチェスコは、今度はシチリア王国に遠征する教皇軍に参加しようと「プッリャ(Puglia、プーリャ)」を目指します。

 しかし、アッシジからわずか南に行った「スポレート(Spoleto)」で体調を崩してしまいます。ここで、再び不思議な夢を見ます。「おまえは何故、隷(しもべ)のために主(あるじ)を、従者のために王を忘れようとしているのか」と問いかける声を聞きます。「では、いったいどうしたらいいのですか」と問い返すと、声はアッシジに戻るようにと告げます。


          ((3)フランチェスコ、荘厳な建物の夢を見る)

 帰郷したフランチェスコは、1206年、「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、教会の修復を始めます。しかし、声の意図したことは具体的な、教会という「建物」ではなく、制度としての、「堕落した教会の建て直し」でした。フランチェスコには、そこまでは理解できませんでした。理解したとしても、自分にはその力があるとは考えなかったでしょう。


          ((4)フランチェスコ、教会改革の使命を受ける)

 フランチェスコは、謙虚さに目覚め、やがて「清貧」をその生き方にしていきます。

                (この項 健人のパパ)

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