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 そして、フランチェスコはもはやなにも言わない。いつも歌っている。ますます懸命に歌っている。ペルージアの牢獄、アッシジでの病気、スボレートでの夢。この三つのひそやかな傷口をとおって、野心という名の汚れた血が流れでてゆく。残るのは、いまや目的を失くしたあの陽気さだけだ。友だち、娘たち、賭事。それらも前ほど楽しいものではない。この地上にあって若さを謳歌し、人から賞めたたえられる以上の喜びが望みなのだ。月日が過ぎてゆく。祭も続けば、どれもこれも似たりよったりに見えてくる。祭に顔を出しはするが、いわば、心はそこにない。心がそこになくても、なにかすることはできるものだ。人生の真盛りを過ごし、話しあい、仕事をし、人を愛しながらも、心がまったくそこにないことさえある。(クリスティアン・ボバン「いと低きもの 小説・聖フランチェスコの生涯」から)

 フランチェスコの生きざまは、「チェラーノのトンマーゾ(Tommaso da Celano、1200年?~1265年?)」の著した聖人伝(hagiography)から知ることができます。トンマーゾ(トマス、Thomas of Celano)は、「フランシスコ会(小さな兄弟会、Ordine francescano、Ordo fraterorum minororum)」の修道士でした。

 1181年(1182年という説もある)に生まれ、1226年に亡くなったフランチェスコとトンマーゾの生きていた時代とは26年ほど重なります。トンマーゾはフランチェスコの20歳ほど年下なのです。トンマーゾは1215年にフランチェスコの活動に加わったのですが、1221年には新しく修道会を立ち上げるためにドイツに送られ、そこで過ごしたために、フランチェスコと直に接触できる可能性のあったのは、6年という期間に限られてしまうことになります。

 トンマーゾはローマ教皇「グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX)」によって、聖人の公式の伝記作者として選ばれます。トマーゾはフランチェスコをよく知っている人物やフランチェスコの情報を知っている人物に取材を重ねたといいます。そうして書き上げたのが「第一伝記(幸いなるフランチェスコの生涯、Vita Beati Francisci)」です。

 さらにその後に集められた資料に基づき、トンマーゾは「第二伝記(Memoriale Desiderio Animae de Gestis et Verbis Sanctissimi Patris Nostri Francisci)」を著します。資料はフランチェスコの弟子たちの記憶に基づくもので、記憶は事実そのものではなく事実の解釈であり、人により異なり、また記憶は時間とともに変容するものであり、そのため、第一伝記と第二伝記の記述では矛盾の生じることもあります。

 トンマーゾの聖人伝によれば、フランチェスコの回心(神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る信仰体験)は、いくつものエピソードを経て、数年かけて達成されます。人の心は左右に触れながら、一定の方向に定まっていくものであり、急激な心境の変化で回心するというのは信じがたいものがあります。しかし、多くの聖人伝における回心は、啓示が突如訪れたり、急激な心境の変化という形をとっています。第一伝記は、フランチェスコが亡くなってまもなく書かれたものであり、フランチェスコを直接知る人たちが多く生きていたために、トンマーゾは事実と大きく異なることを書くことはできなかったのかも知れません。

 フランチェスコは騎士に憧れ、2度、戦いに加わろうとします。1度目はアッシジとペルージャとの戦いであり、このときは実際に戦闘に参加して捕虜になってしまいます(1202年)。2度目は、シチリア王国に遠征する教皇軍に参加しようとイタリア半島の東南にある「プッリャ(Puglia、プーリャ)」を目指します。このときは、「神の声」を聞いて断念します(1205年)。

 騎士になることに興味を失い、遊び歩くことも楽しくなくなって、自分の生き方を模索していたフランチェスコは、アッシジの城壁の外にある「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」に立ち寄り、教会堂で祈りを捧げているときに、また「神の声」を聞きます。「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい」と。

 しかし、フランチェスコは「金持ちのボンボン」でした。金を集めれば、教会の修復ができると考えていました。父親の商売物の布地を父親に無断に売り払って、お金を手に入れ、サン・ダミアーノ教会の司祭に、教会を修復する資金にしてくれと差し出したのです。司祭はその金を受け取ろうとしませんでした。23・4の若者が工面できる額ではなかったのです。それを受け取ることに危険を感じたのでしょう。

 フランチェスコは、自力で教会を修復することにしました。司祭に教会の宿泊施設に住む許可をとりつけ、粗末な食事を取りながら、教会の修復をし始めます。フランチェスコはアッシジがペルージャとの戦いに備え、城壁を補強したときに、それに参加し、その技術を習得していたのでしょう。肉体労働をあまりしたことがなかったであろう、商人の息子のフランチェスコは本格的な肉体労働のつらさとその達成感を同時に知ったことでしょう。

 父親ピエトロは、商用で家をしばらく留守にしていましたが、留守を任せていたフランチェスコが商売物を売り払って、家を出たことに激怒します。父親の激怒を知り、フランチェスコは身を隠します。しかし、フランチェスコは身を隠している間に精神的に成長を遂げます。信念の人となったのです。フランチェスコはアッシジの町に粗末な服を着て超然と現れます。

 町の者たちは、すっかり様子の変わったフランチェスコに狂人の扱いをし、嘲弄します。息子フランチェスコが町に現れ、嘲笑されていることを知った父親はフランチェスコを連れ帰り、人目に付かないように、また逃げ出さないように鎖をつけて閉じ込めます。

 父親はまた商用で長期間家を留守にすることになりました。その機会に、母親ピカ(ヨハンナ)は息子フランチェスコの鎖を解いて、サン・ダミアーノ教会に戻らせます。敬虔なキリスト教徒だった母親は、フランチェスコの強い宗教心を感じとっていました。

 フランチェスコの両親の像

 アッシジのフランチェスコが誕生したとされる地に立つ「フランチェスコの両親の像」(1984年、Roberto Joppolo作)の母親ピカの手に握られているのがフランチェスコにつけられていたその鎖です。

 商用から帰ったピエトロは、息子の生き方を肯定する妻にも怒りをあらわし、フランチェスコを連れ戻そうとします。しかし、フランチェスコはすでに信念を固めていて、戻ろうとはしません。ピエトロは、この世間体の悪いフランチェスコを廃嫡にする決心をします。ベルナルドーネ家から追放するのです。フランチェスコ・ベルナルドーネをただのフランチェスコにするのです。ピエトロにはもうひとり、息子がいました。フランチェスコの弟「アンジェロ(Angelo)」です。アンジェロもこの兄を恥じていました。ベルナルドーネ家はこの下の息子に継がせればいいのです。



 廃嫡の手続きは、フランチェスコが宗教生活にある者だと判断されて、教会の法廷で行なわれることになりました。司教館(現在の「サンタ・マリア・マジョーレ(Santa Maria Maggiore))の前の広場、「司教館広場(Piazza del Vescovado)」(現在はジョバンニ・ディ・ボニーノ通り(Via Giovanni di Bonino))が法廷となりました。

 ピエトロは、フランチェスコに対し、「今の生活を改め、家に帰りなさい。そうしなければ、もう息子ではない。いま持っている金は私のだから、すべて返しなさい」と主張します。フランチェスコは、「あなたが私との縁を切ったことで、これからは、父ピエトロ・ベルナルドーネではなく、「天にまします我らの父よ」と言うことができます。あなたの物であるお金だけではなく、この服もお返しします」と言って、着ていた衣服をすべて脱ぎ、お金とともに父の前に置きました。

 トンマーゾは、事の成り行きを見守っていた人の中には、フランチェスコの信念をようやく理解して、感動に目を潤ます者も多くいたと述べています。父ピエトロは、いまだ息子フランチェスコが理解できず、怒りに青ざめた顔で、衣服と金を手にし、広場を立ち去ったといいます。


             (5)フランチェスコ、キリスト教に回心する

 自分の生き方を模索し、その方向を見出したフランチェスコ、自分の思うように生きられない息子に同情する母ピカ、自分の望むように生きない息子に失望する父ピエトロ。サン・フランチェスコ大聖堂のジョットの連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」は、28場面から構成されていますが、第5場面まで見てきました。続きはまた。

               (この項 健人のパパ)

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