POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 文章を書くことに素人の私は、文字を削ることができません。饒舌にはなるのですが、思いが集約できなくて、その思いを充分に伝えることができません。アッシジは、幾度でも訪れたい町です。その思いを記事にしてきました。でも、内容がまとまらず、破綻することもしばしば。そこで、今回は、そのマクラを須賀敦子さんのエッセイで始めることにしました。

 イタリア中部の小都市、アッシジは坂の町である。どこへ行くにも、坂ばかり。中世以来の街並がつづくなかを、ゴシックのアーチをくぐったり、修道院の高い壁にそって、坂を上がったり降りたりしながら、ときどき、曲り角などで、思いがけなく眼下にひらける景色に見とれることもある。(企業情報誌の季刊誌「Mr. & Mrs」に掲載された「アッシジに住みたい」から)

 アッシジの旧市街は小さな町です。ローマを朝に立ち、アッシジに1泊して、翌日の夕刻にアッシジを出るならば、充分にアッシジを「見て」回ることはできます。しかし、その行程ではフランチェスコやキアラの思いを感じることはできません。「アッシジには行った」と日記帳に書き留めることしかできません。アッシジに行ったからには、何かを感じて帰りたいものです。もっと時間が必要なのです。心の中でフランチェスコやキアラが生きた時代に時を遡る、そんな余裕が必要なのです。




 アッシジは、十三世紀の初頭に清貧の修道生活を始めて、多くの人たちに愛されたフランチェスコゆかりの町である。しかし、当のフランチェスコが死ぬと、修道士たちは莫大な財産を築きあげ、大修道院は、いわばその「堕落」の象徴といえるかもしれない。でも彼らの「堕落」のおかげで、私たちは、かけがえのないジョットの壁画をはじめ、すばらしい街並まで楽しめるのだから、不平はいえない。フランチェスコの生涯を物語る大壁画は、とてつもなく高いところにあるから、ひどく見にくいのだけれど、それでも行くたびに、長いこと立ちどまってしまう。(「アッシジに住みたい」から)



 サン・フランチェスコ大聖堂は、上部聖堂(上堂、basilica superiore)と下部聖堂(下堂、basilica inferiore) の上下2層からなり、それに修道院が付随して、一体となっています。大聖堂は、アッシジの町(旧市街)の北西の斜面に築かれ、斜面を有効に利用するために上下2層にしたもののようです。

 大聖堂は、アッシジのフランチェスコの功績を称えるために建設されたもので、1226年10月3日にフランチェスコが亡くなると、その2年後の1228年には、ローマ教皇「グレゴリウス9世(Papa Gregorius IX、在位:1227年~1241年)」によって、すでに建築が始まり、1253年に一応の完成をみたようです。

 フランチェスコの思いを継承した「アッシジのキアラ(Santa Chiara d'Assisi)」は、時には、「もう一人のフランチェスコ(alter Franciscus)」と呼ばれていましたが、1253年8月11日に亡くなります。キアラは、この大聖堂の完成を見届けているのかも知れません。キアラは、完成した大聖堂を見て、どのような感慨を抱いたのでしょうか。

 大聖堂は、上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式で築かれ、上堂内部はルネサンス初期の画家「ジョット(Giotto)」による「聖フランチェスコの生涯」が、28場面のフレスコ画で描かれています。ジョットがこの作品を描いたのは、1296年から1298年にかけてといわれています。



 ジョットのフレスコ画は、上堂の入り口を入って、右奥から始まります。大聖堂の「身廊(nave、サン・フランチェスコ大聖堂は「単廊式」で、側廊を持たない)」は、4つの交差ヴォールトからなります。そのため、左右それぞれ4面の壁があり、それぞれの面に3場面が描かれます。第1場面から第12場面までが、入り口から見て右の壁に、第17場面から第28場面までが左の壁になり、第13場面から第16場面までの4場面は、入り口の壁に描かれています。



 大聖堂上堂の入り口から入って、ジョットのフレスコ画を見る場合には、まず、右の壁の奥に向かってから、時計回りにフレスコ画を楽しむのがよい方法だと思われます。大聖堂下堂の入り口から入ると、やがて中庭に出ることになりますから、「後陣(アプス、apse)」を見上げて、左手の階段を上ると、大聖堂上堂の翼廊に入ることができます。その左側の壁から第1場面が始まります。この方法もよいのかも知れません。



 ジョットの描くフレスコ画の第1場面は、フランチェスコが聖なる人の扱いを受けている場面です。一人の男がフランチェスコの進む道の上に自分の服を脱いで敷いています。敬意の表し方の1つなのだそうです。

 フランチェスコが生きた時代は、市民階級が政治へ大きく関与するようになった時代でした。地域間の交流が盛んになり、人や物の移動が増え、商人や職人からなる市民階級が裕福になり、発言力を増していく時代でした。それとともに対立も生まれ、皇帝派対教皇派、封建領主対新興市民階級、自治都市対自治都市などの闘争が行われます。

 裕福であり、政治力もあったであろう毛織物商人の家庭に生まれたフランチェスコは、いわゆる「お坊ちゃん」の扱いを受け、その富裕のおこぼれにあずかろうとする取り巻きもいたと想像できます。その文脈で考えると、この場面を別の意味で捉えることもできそうです。この時点では、フランチェスコはまだ「回心」(神に背いているという「罪(sin)」を認め、神に立ち返るという信仰体験)をしてはいず、当然「聖性」を持ってはいません。

 フランチェスコは、死後、やがてイタリアの守護聖人となります。そのため、ローマ教会の意向に合わせて、フランチェスコの若い頃の生き様は書き換えられたことでしょう。フランチェスコは回心以前から人格的に優れた人物であり、尊敬された人物である必要があったのです。ジョットがこの第1場面を描いたときには、フランチェスコが亡くなってから70年が経っていました。フランチェスコの生涯は、美談化され、伝説化されていました。


            ((1)フランチェスコ、純朴な人から尊敬を受ける)

 第2場面は、フランチェスコが貧乏な騎士に自分のマントを与えている場面です。フランチェスコは貴族の騎士に出会います。その貴族は貧しく、その地位に相応しくない、みすぼらしい服装をしていました。騎士に憧れを抱いていたフランチェスコは、その騎士に敬意を払い、自分の身に着けていた外套を与えたといいます。

 フランチェスコは、裕福な家庭に生まれましたが、ただの平民階級の出身でした。欲しいものが容易に手に入ったであろうフランチェスコにも、貴族という身分は手に入りませんでした。騎士は憧れの対象であり、戦いで武勲を上げ、騎士と同等の尊敬を得たいと考えたのも当時の若者たちの抱いたであろう気持ちからは当然の成り行きだったでしょう。


         ((2)フランチェスコ、落ちぶれた騎士にマントを与える)

 フランチェスコは、アッシジのすぐ隣の都市国家「ペルージャ(Perugia)」との戦いに参加することになります。まだ、フランチェスコは「神の声」を聞くことはありませんでした。

              (この項 健人のパパ)

(追記) dezire さんが、アッシジの町を写真で紹介してくださっています。
フランチェスコを生んだキリスト教の巡礼地・アッシジの街の風景」をご覧ください。(追記の終わり)



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コメント
 
 
 
ルネサンス美術 (dezire)
2014-12-25 17:12:06
こんにちは。
私もアッシジに行ったので、詳しいご説明を興味深く読ませていただきました。絵画ひとつひとつにについて丁寧にご説明されていて勉強になりました。

私もアッシジの旅と美術についてレポートしてみました。読んでいただけると嬉しいです。ブログにご感想などコメントをいただけると感謝致します。
 
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