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 「アッシジ(Assisi)」で見るべきものは、「ポルツィウンコラ(Porziuncola)」であるとたびたび述べてきましたが、それでも、「アッシジで一つしか訪れることができないとしたら、どの場所を選びます?」という質問をされたら、即座に「サン・フランチェスコ大聖堂」と答えるでしょう。やはり、アッシジを代表する建物は、「サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)」であることには間違いありません。



 アッシジの町を欧米人(特にカトリック教徒)の間で有名にしているのは、「サン・フランチェスコ大聖堂」があるからです。しかし、この大聖堂は町(旧市街)の中心にはありません。アッシジの旧市街(城壁に囲まれた地域)はビール瓶をちょっと太めにして、反時計回りに45度ほど回転させたような形をしています。大聖堂は旧市街の北西部の端、ビール瓶の首のところにあります。



 アッシジの町は、他宗教の指導者にとっても、よく知られた場所です。

 2001年9月11日にアメリカ合衆国で、ハイジャックされた航空機を使った4つのテロ事件、「アメリカ同時多発テロ事件」が発生すると、ローマ教皇「ヨハネ・パウロ2世」は、高まる宗教対立の風潮を心配して宗教対話を呼びかけ、世界の宗教指導者を招き、「平和の祈り」を捧げる集会を2002年1月24日、「アッシジ」で開催します。集会には、カトリック、東方正教会、イスラム、ユダヤ、仏教、ヒンズー、ゾロアスター教などから約250人の代表が参加したといいます。

 これを遡ること16年前、1986年10月27日、ヨハネ・パウロ2世は、世界の宗教者に呼びかけて「世界平和の祈りの集い」をアッシジで開催しています。26年5ヶ月と2週間(1978年10月16日~2005年4月2日)という長い教皇在位期間を誇るヨハネ・パウロ2世は、宗教間の問題に温和な態度で臨み、諸宗教や文化間の対話を呼びかけ、またその場を積極的に設けた教皇でした。

 2011年10月27日、ローマ教皇「ベネディクト16世」は列車でローマを出発し、アッシジに到着後、「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会(Basilica di Santa Maria degli Angeli) 」に赴き、講話を行う予定です。「真理の巡礼、平和の巡礼」と名付けられており、「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」となるそうです。1986年10月27日から25週年になることを記念したいというベネディクト16世の意向によるもののようです。


     (サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のファサード上部で金色に輝くマリア像)

 その日の午後、サン・フランチェスコ大聖堂への巡礼が始まります。この巡礼は、「熱心に平和を求め、正義と平和の構築に取り組むすべての人の歩み」を象徴するのだそうです。巡礼は、ひとりひとりが祈り、黙想を行うために、沈黙のうちに行われます。サン・フランチェスコ大聖堂に至ると、その前で、「世界平和と正義のための考察、対話、祈りの日」の締めくくりとして、平和のための共通の約束がなされる予定です。

 聖フランチェスコの精神をよく伝える祈りであるとされる「平和の祈り」は、聖パウロ女子修道会のページ「祈りのひととき」によると、次のようなものです。

○○○神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
○○○憎しみのあるところに愛を、諍いのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、
○○○疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
○○○闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
○○○慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
○○○愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
○○○わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。


 「ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ(Pietro di Bernardone)」とその妻「ピカ(Pica)」の息子として、1182年(1181年という説もある)、アッシジに生まれた「ジョヴァンニ(Giovanni)」は、父親からは「フランチェスコ(Francesco)」と呼ばれていました。

 裕福な商人の家庭に育ったフランチェスコは、放蕩な生活を送ったのですが、あるとき、騎士になろうとして、対ペルージャ戦に参加します。しかし、捕虜になり、父親が支払った賠償金で解放されます(1203年)。挫折を味わうことになったのです。

 フランチェスコは丈夫な身体には恵まれてはいませんでした。1年あまり牢獄に繋がれていた間に身体を壊し、解放されてアッシジに戻ってからも療養生活を送らざるを得ませんでした。それでも、騎士になる夢を捨てきれず、病が癒えると今度は教皇軍のシチリア王国遠征に参加します。しかし、アッシジから南へ60kmほどしか行かない「スポレート(Spoleto)」で、再び病を得ます。


           ((4)フランチェスコ、教会改革の使命を受ける)

 帰郷したフランチェスコは、1206年、「サン・ダミアーノ教会(Chiesa di San Damiano)」の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい。」との声を聞き、教会の修復を始めます。次第に互いを兄弟と呼ぶ同志が増えていき、「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum)と名乗ることになります。


            ((23)クララ修道会の修道女たちの最後の別れの挨拶)

 フランチェスコは死期が迫っているのを知ると、弟子の修道士たちにポルツィウンコラに自分を運ばせます。1226年10月3日、ポルツィウンコラの裏の「トランジト礼拝堂(Cappella del Transito)」でフランチェスコが亡くなると、その亡骸は、木の枝に載せられて、アッシジの町に運ばれます。アッシジの町では、キアラや他の修道女たちが待っていました。

 「ファヴァローネ・ディ・オフレドゥッチオ(Favarone di Offreduccio)」とその妻「オルトラーナ(Ortolana)」の娘として、アッシジで生まれた「キアラ(Chiara、クレア(Clare)、クララ(Clara)とも)」は、フランチェスコの活動を知るようになります。18歳になると(1212年)、キアラは家を出て、フランチェスコの力をかりて、信仰生活に入ります。キアラは、聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人であり、フランチェスコ会の女子修道会「クララ会(清貧の女性修道会)」の創始者ともなります。




 どうも話にまとまりがなく、拡散していきます。キリスト教徒でない私は、調べて知ったことをすべて書いてしまいたくなります。でも、今回のテーマは「サン・フランチェスコ大聖堂」でした。大聖堂は、上下2層に分かれ、上の聖堂(大聖堂上堂)には、ジョットの作と推定される「聖フランチェスコ伝」という28枚の連作フレスコ画が描かれています。その4枚めと23枚めを紹介しました。次回は、拡散しないように、ジョットの連作フレスコ画について記事を書いて見たいと思います。

(参考) 「「イタリアで」 - パドヴァの聖アントニオとアッシジの聖フランチェスコ
 
                (この項 健人のパパ)

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