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ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

青の稲妻

2007年12月15日 | 映画


更科の主人に、ジャ.ジャンクーの「青の稲妻」を「プラッ
トホーム」に続けて貸したのだが、その感想はというと、
やはりちょっと解らないという「プラットホーム」と
同じようなものであった。
しかしそれは、詰まらないというはっきりした感想で
もなく、言うなれば判断保留といった感じである。
思うに、その辺が、ジャ.ジャンクーの映画の特徴で
もあるのではないか。
つまり、はっきりしたテーマがあるわけでもなく、ドラ
マを盛り上げる演出があるわけでもなく、しかも、主
人公が一人というわけでもなく、同じ平面状で起伏の
ない世界が展開していくといった印象の、言い方を変
えれば単調で退屈な映画である。
しかし、それが何故か魅力的であるのだ。

「青の稲妻」というタイトルは、何か意味あり気な感じ
だが、原題は「Unknown pleasure」。
密かな楽しみとでも訳せば良いのか。
主要な登場人物は、二十歳前のちょっと不良の二人の
青年と、それより三、四歳年上の謂わばお酒造会社の
キャンペーンガールの三人。
男二人は、兎に角しょぼい。
見た目もしょぼく、やることなすこと全てが共感でき
ない。
女性は、「チャオタオ」というジャ.ジャンクー映画
の常連の女優が演じるのだが、見た目地味で特別スタ
イルが良いわけでもなく華やかさもない。
「チャン、.ツィー」などのスターとは対照的な女優
である。
そんな地味な登場人物が、中国の田舎町の埃っぽい風
景の中で時を過ごす。
世の中に対する怒りを抱えた若者の苛立ち、とかなん
とか言えば納得され易いのだが、そういうテーマはな
かなか明確にはならない。
テーマに沿って、深めようというベクトルはこの映画
にはない。
深めるというより、むしろ拡散のイメージだ。

一般的に「解る」映画というのは、何かテーマがあり、
それが論理的に理解されるかどうかで決まる。
例えば「三丁目の夕日」。
失われたコミュニティーを、郷愁とともに描いた良質
な映画、と論理的に納得できる(以前も触れたが、個
人的には全く評価しないが)。
つまり、解りやすい映画というのは、そうなるための、
論理的な構造を持っている。
物語の構造だ。
主人公がいて、何か事件が起き、それに伴いある波紋
が広がり、ある結果を招くという物語であったり、主
人公が何かを求めて旅に出るであったり、いずれにし
ろ物語としての構造があるものは、解る解らないの判
断は客観的に可能である。
その判断が出来にくい映画が、所謂難しい映画という
ことになる。

しかし、映画が何かを描くというものであれば、破綻
のない物語で描く世界というのは、すでに知っていると
いう意味で類型であり、その世界は過去の変奏でもあ
る。
それは同時に、映画の可能性を狭めるものである。
そもそも世界というのは、知らないことだらけなのに、
類型的なものを見て知った気になるというのは、人の
悪い癖だ。
安心したいからという理由は分かるが。
しかし、その世界は未知ではなく既知の世界。
しかも全体のほんの一部。
もしそのことに自覚的になれば、同じような類型的物
語では描けないものに対しても自覚的になるはずだ。
ジャ.ジャンクーは、そのことに関して自覚的な映画
監督であるのだと思う。
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