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ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

コラージュ

2007年03月14日 | 芸術


カフェのT君から、「コラージュ」の素材としてどう
ですか、と色々な絵葉書を貰う。
写真やら、どこかの広告やら、使えそうなものは取り
敢えず確保と言う感じで30枚ほど貰った。
その中には、アメリカのピンクチラシ代わりの絵葉書
も混じっている。
何でも、向こうに行った人が、街中にあるのを実際持っ
てきてT君にくれたらしい。
見るからに、いかがわしい感じだ。
しかし、素材としては中々使えそうだ。
電話番号も載っているから、ひょっとしたら繋がるか
もしれない、などとつい想像してしまったが、そんな
ことはどうでも良かった。

コラージュと言えば、真っ先に思い浮かべるのはマン.
レイか。
PICABIAもいくつかやってる。
今や、数ある表現方法の一つで、決して斬新というも
のではなくなった。
現代美術では、もう新しい手法などと言うのは出尽く
している観がある。
そうなると、引用組み合わせ、あるいは巨大化という
やり方が一般的となり、そんな作品が現代美術という
名で出現する。
あと、マンガの芸術化という最近の傾向もあるが、個
人的には全然良いとは思えない。
リキテンシュタインがすでにやったものではないか、
と思うのだが。

日本人なら、荒川修作とか中西夏之などは良いと思え
る。
菅木志雄もセンスあると思う。
しかし、今人気ある若手などは、一体どこが良いのか
全く理解できない。
そもそも理解するというのが、芸術の場合馴染まない
ので、感覚で良いか悪いかなのだが、こちらの感覚が
もう古くなったのか、単なるアニメと芸術の違いが感
覚的に捉えることが出来ない。
どうしても、単なるアニメにしか見えないのだ。

そんな、現代美術の状況はあと30年もすれば答えは
出るので放っといて、コラージュだ。
最近は、便利なパソコンでばかりなので、手作業でや
ることが新鮮だ。
例えば「味」というものは、手作業でなくては出せな
いものがあるが、それは偶然性の賜物でもある。
微妙なかすれとか、痕跡、断面、そんなものの全体が
「味」となって、感じられるのだ。
しかし、その「味」というものが、芸術性とどう関連
するのかということになると、Je sais pasだ。
結局、よく分からないのだ。
と、そんなことを考えながら(実際は考えてないが)
色々切り貼りしてコラージュ作品を作った。

襖絵

2007年02月03日 | 芸術


「美の壺」と言うテレビ番組で、襖絵の制作風景を流
していた。
金箔を、ランダムに散らす手法で、江戸時代からの伝
統的なものだという。
金箔も全体に散らすわけではなく、上半分以上は余白
と言う所謂日本的な「余白の美」を感じさせる仕上が
りのもので、普段の生活の中に美を取り込むという、
嘗ての日本人がそうだったと言われている、美意識と
寄り添う生活様式を充分に感じさせる、襖絵であった。

当時の浮世絵なんか見ても感じるが、デザインセンス
のモダンさ。
幾何学模様など、今でも全然古びてない。
江戸時代だけ、例外的にセンスが開花したのか、と思
えるような特異な豊かさを感じる。
今現在、それらが生きているのかと疑問に思うから、
その特異さが余計に際立つ。

たとえば今回の襖絵を見たときは、これは「ジャクソ
ンポロック」だなと思った。
絵の具を滴り散したり、ランダムに塗る手法は、正に
金箔を散らすそれだった。
仕上がりも、似ている。
コンテンポラリーアートを先取りしていた襖絵。
日本の美を知らな過ぎることを今回も感じた。
それにしても、200年以上前にすでにコンテンポラ
リーアートが日本にあったとは。
幾何学模様は「モンドリアン」を先取りだし、伝統の
中に先鋭性が潜む、「日本的美」の世界は、是非とも
誰かさんの「美しい日本」に登録してもらいたいもの
だと、つくづく思った。


神聖喜劇

2007年02月02日 | 芸術


この前、戦争物必須教材として挙げた大西巨人の「神
聖喜劇」が、なんと漫画として発売されるらしい。
新聞にでかでか宣伝が載っていたのだが、始め見たと
きは何かの宗教のそれかと思った。
如何にものイラストがその手のものを連想させるもの
だったし、「神聖喜劇」のことだと気付くには暫く時
間を要した。
それにしても、こんなのが漫画になる時代か。

理不尽なルールに支配された軍隊の中で、強い意志と
聡明さで立ち向かう主人公は、確かに漫画向きと言え
なくも無い。
物語としても、劇的な事件がおこるし、そういう視点
からしても面白いとは言える。
しかし、この小説の面白さはそれだけではない。
むしろ、それ以外の部分がこの小説の価値を高めてい
るところだと思う。
「失われた時を求めて」に似ているというのも、正に
その点なのだ。

「失われた時を求めて」という超長編小説は、その執
拗な描写、妄想的想像力による世界の出現と消滅の経
験が、その特徴だ。
はっきり言って、物語としては面白いと言う類ではな
い。
主人公が劇的な経験をするわけでもなく、むしろ自堕
落な貴族社会で、あても無く彷徨うだけである。
その精神の軌跡を、ああでもないこうでもないと延々
綴っている。
読む側は、その世界を体験する。
ただそれだけだ。
しかし、そのことが、この小説でしか味わえない唯一
無二の世界で、この小説ならではの価値となっている。

「神聖喜劇」(全5巻)も「失われた時を求めて」と
同じような構造を持っている。
特に、派生的な世界が、唐突に挿入されるところなど
が。
「田能村竹田」に関する叙述など、それだけで「田能
村竹田」論が成立するくらいの内容である。
一見、本筋とは関係ないものが執拗に叙述されるのだ
が、これが小説世界に張り巡らされる川のような役目
となり、全体に生気を運ぶ。
「失われた時を求めて」では、マネがモデルと言われ
ている「エルスチール」と言う画家に関しての芸術論
がこれに当たる。
これがまた、読み応えのある芸術論なのだ。
他にも、音楽に関するものや、地名に関するものや、
兎に角盛り沢山なのが「失われた時を求めて」だ。
さすがは本家としか言いようがない。

本家以外で、同じような構造の小説で成功したのはこ
の「神聖喜劇」くらいのものではないだろうか。
と、言いたいところだが、広く知っているわけでもな
いのでここは訂正。
個人的体験限定の話で、「神聖喜劇」は「失われた時
を求めて」に似ている。
そして、日本の小説ベスト10にも入れたい。
こんなところでどうだろうか。
それにしても、この「神聖喜劇」を最後に長編小説体
験は途絶えている。
もう、そういうエネルギーは無いのか。


レイテ戦記

2007年01月22日 | 芸術


「硫黄島からの手紙」で、戦争の実態を知ったという
話を聞くが、確かに、ありがちな「戦争賛美」、或い
は逆の「徹底批判」、と類型にはまらない映画で、バ
ランスよく描いているとは思う。
のだが、この映画によって教えられたと、初めて思う
人が多いと言う状況には少々驚く。
それだけ、当時の情報と言うのがちゃんと伝えられて
いないということだから。
普段、たとえばドキュメンタリーの太平洋戦争ものな
ど見ないのかね、と思ってしまう。

映画によってある事実を知るというのは、確かにある
とは思うが、多くは単純化、脚色などによって本来と
は違うのではないか、と想像できてしまう。
本当の事実とは何か、というのは難しい問題で、戦争
の真実など、誰にも解らないという事実はあるが、と
りあえずは、なるべく主観の入らない実際に起こった
事柄からその全体像を想像するしかない。
だから、映画からそのきっかけを得るのは、良いこと
だと思うが、それが全てだと思うことは危険だ。
知らず知らずに嵌められ洗脳(思い込まされる)され
るというのは、普通によくあることだから。
最近の若手と言われる議員たちにも、そんな傾向が見
られる。
はっきり言って、大丈夫か?と思う。

そんな状況で、押さえておくべき本として真っ先に挙
げられるのが「レイテ戦記」だ。
大岡昇平の、膨大な記録を基にした戦記で、アメリカ
寄り日本寄りという偏りはなく、当時の作戦、現地の
状況が細かく書かれている。
物語ではないので、一般的な「面白い小説」ではない
が、非常に興味深い本で、戦争物では必須だと思う。

小説仕立てだったら大西巨人の「神聖喜劇」だ。
本人の経験を基にした軍隊での物語で、小説としても
面白いのだが(「失われたときを求めて」にどこか似
ている)、当時の日本軍の体質も充分に伝わってくる。
こういうのは、優れた小説家ならではの視点がないと、
描くことが出来ない部分だと思う。
つまり、軍国主義者の盲信によって見えなくなって
しまう部分を、的確に捉えているということなのだ。

そして映画だったら、ドキュメンタリーの「ゆきゆき
て神軍」。
ある兵士を追ったドキュメンタリーだが、その兵士の
極端から極端の突き抜け方が凄い。
こういう人間がいないと、戦場での上官のひどい行為
も知られることもなかったろうに、と納得する。
はっきり言って、世の中に対する適応性はない人だと
思うが、一つの事実を暴くためには極端さ、執念も必
要だと思わざる得ない。
よくこんな作品が撮れたものだと、本当感心する。

以上が、個人的戦争物必須教材だ。

パフォーマンス

2006年12月28日 | 芸術


カフェのT君のところでは、クリスマスに、一人芝居の
パフォーマンスを行ったらしい。
女の子一人と、音楽をプログレ好きの男の子が担当、
T君もベースで参加という、なんともどうなのか?の
ものだが、早速その時のヴィデオを見せてもらった。

それは、予想通りの、どう反応したら良いのかなとい
う類のものだった。
女の子一人が、ただ登場し、座って何をするのでもな
く、たまに何か呟くというもので、三十年前だったら
前衛パフォーマンスとして、ひょっとしたら認知され
たかも、というさんざ見飽きたものだった。
はっきり言ってトホホなものだ。
やってる女の子は、二十歳くらいなので、そういうも
のを知らないから本人としては斬新のつもりかもしれ
ない。
観客の殆どは、パフォーマンスなど興味もないし見た
こともないから、ただただ戸惑っているみたいだった。
お気の毒としか良いようがない。

パフォーマンスと言えば、嘗て、周りに仲の良かった
舞踏家が何人かいた。
自称であれ、本人が舞踏家と言えば舞踏家なのだから、
彼らは立派?な舞踏家だった。
それは、殆ど裸に白塗りのやつ、と言えば分かるあの
舞踏で、有名どころの土方巽ともう一人の笠井叡、そ
の流れを汲む舞踏ということだった。
舞踏と武道は共通するとか何とかいって、武道の相手
をさせられたり(真似事)、いろいろ楽しいことも多
かった。
自分の肉体が財産なので、間違いなく体は鍛えていて、
全員余計な脂肪はついていなかった。
肉体による表現。
だから、あまり衣装は身に付けなかった。
そして、お金も身に付けてなかった。
つまり、全員貧乏だったのだ。
但しこれは、意図したものではない。

そんな彼らの舞台でかける音楽は、「ピンクフロイド」
などのプログレが多かった。
振り返ってみれば、こちらの音楽的趣味にかなりの影
響力を持っていたのが彼らだったということだ、今思
うと。
「キャメル」なんてのもそうだったし、言わずもがな
の「キングクリムゾン」も。
渋谷にあった、プログレ専門の喫茶店にもわざわざ行っ
たくらいだから、当時の興味の度合いも分かると言う
ものだろう。
一般の常識から外れた人たちだから、こちらも面白かっ
たし体質的に合ったのは間違いない。
今でもあの頃はかなり懐かしい。
その中の一人は、たまに会うこともあるが、やはり相
変わらず世の中とは良い具合に折り合いはついてない。
しょうがないね、こればっかりは。
そういう人種に生まれついてしまったのだから。



藤森照信

2006年12月04日 | 芸術


地元出身の建築家(本来は建築史が専門だが、建築家
としても優れたものを作るので)には、もう一人忘れ
てはならない人がいた。
藤森照信。
嘗て、赤瀬川源平さんなんかと「路上観察」などをや
ってた仲間だ。
その彼の作品が茅野市にある「神長官守矢史料館」。
公的建物で良いと思うのは、ここと昨日の伊東豊雄の
建物の二つだ。

「神長官守矢史料館」は、彼の特徴でもある自然素材
(土藁など)をふんだんに使った、どこか原初的(縄
文的)な雰囲気を感じさせる建物だ。
「場の文脈」からすれば、正にそこから生まれた建物
と言える。
しかし、決して古臭いというものではなく、原初性か
ら普遍性にすんなり横滑りして、そこにやや洗練され
た現代性が加わった感じでもある(一体何を言いたい
のか)。
要するに、なかなか良いのである。

伊東豊雄が「風を感じる建物」とすれば、藤森照信は、
「土を感じる建物」なのだ。
共通するのは、自然の風景に上手く溶け込むというこ
と。
藤森照信に関しては、溶け込むというより土から生え
たという表現の方がぴったりかもしれない。
いずれにしろ、こういう優れた建築家がいて、その作
品(建物)があることを、地元の人間はもう少し関心
を向けるべきだ。
いまだかつて、これらのことをネガティヴな話題(変
なものとかそういう評判)以外で聞いた事が無いし、
殆ど話題にもならない。

所詮田舎の文化レベルなんてこんなものだ。
と、この言葉も今まで何十回と呟いてきたが、いい加
減それにも飽きてきた。
というより単なる愚痴だし、そんなことばかり言って
ると、こちらにもネガティブが伝播するので、もうそ
ういうことは言わないでおこう、と思っている今日こ
の頃なのである。

伊東豊雄

2006年12月03日 | 芸術


地元出身の有名建築家。
その世界に興味のある人なら絶対知っているはずだが、
そうでない人には今ひとつ知名度はないかもしれない(
安藤忠雄ほどの知名度はないという意味で)。
地元でさえ、いまだに知らない人のほうが多いくらい
だから、それもしょうがない。

地元にある彼の建物は一つ。
下諏訪(湖畔沿い)にある博物館だ。
正式名称は「諏訪湖博物館・赤彦記念館」。
なんだか長ったらしい名前だ。
何ゆえ赤彦がついてるか不思議に思うかもしれないが、
島木赤彦(アララギ派)も地元出身だからなのだ。
因みに、諏訪湖を詠んだ次の句が地元では有名。

 「湖の氷はとけてなほさむし
  三日月の影波にうつろふ」

で博物館なのだが、地元関連で「場の文脈」に沿った、
珍しい建物であると言える。
唐突に出現する公共施設、たとえばギリシャ神殿風と
かヨーロッパのどこそこ風、或いは、動物を模したと
かアニメから採った幼児的なものとは、一線を画して
いる。
つまり、トホホな建物ではないのだ。
実際は、コンクリートの打ちっぱなしという、モダンな
つくりなのだが、曲線主体のラインが、周りの風景と
不思議に調和している。
よくある、コンクリートの打ちっぱなしの厭味な主張
は感じない。

そんな建築家「伊東豊雄」だが、その名前を知ったの
はほんの十数年前の話だ。
つまり、この建物を作った時、初めて知ったのだ、こ
の私も。
当時、なんだか変わった建物が出来つつあり、完成し
た時には「なかなか良いなあ」と思ったことを覚えて
いる。
他の、公共施設「箱物」は、ご多分に漏れずセンスの
悪いものばっかりだったので、新鮮な印象を受けた。
そして、伊東豊雄という建築家でしかも地元出身だと
いうことを知り、地元出身でこんなセンスがある人も
いたんだと感心したものだ。
但し、他の人間もそうだったかというと、必ずしもそ
うではない。
「変な建物を作ってまた無駄遣いか」というのを実際
聞いたし、他の建物と全く同列に捉えられていたこと
は事実だった。
まあ、今でも状況はそう変わってないが。

結局、公共施設というものは、全員の同意を得ること
など不可能で、多数に支持を得たものは、それはそれ
でしょぼく、中途半端なものであるというのは、普遍
的な事実(と思う)。
この建物も、パブリックアートとしての価値は、充分
あると思うのだが、なかなかその点で支持を得るのは
難しい。


読書2

2006年11月14日 | 芸術


一つだけ忘れていたものがあった。
「ユリイカのピカビア特集」。
この本が、読みかけの本として存在していた。
これは、「ユリシーズ」と違って、小説ではないので、
中断してても全く問題ない。
いろんな人が(本人も)ピカビアについて語った本な
ので、それぞれの文章も長くなく、いつでも読めるの
で、最近はお出かけのときの友となっている。
但し、内容は決して分かりやすいものではない。

例えばアンドレ.ブルトンの次のようなもの。
・・・私が思うには、それらは視覚的なものだけに
   固有の法則とはならないであろう。そしてい
   かなる芸術作品も、視覚的なるもの同様、あ
   らゆる点でその法則に従うなどということは
   ないのである。なぜなら実際のところ、作品
   はもはや、程度の差こそあれいずれも見事な
   やり方でよせ集められた色彩の中にも、近く
   遠くから現実に触れる線の戯れの中にも存在
   していないからである。類似は、それがぼん
   やりしか認められない場合であっても、もは
   や存在していない。解釈という名の冗談はあ
   まりにも長い間存続しすぎた。

あるいは、アポリネールの「フランシス.ピカビアへ」
という文章は。
・・・プラクシテレスは帯製造人だ
   君の右足の親指は
   罵倒した
   ヴェネツィアに三人の仲間を持つ騎士を
   小アジアあるいはシャンパーニュで
   そこでは牡鹿たちが間抜けな奴等を運んでくる
   どういった御仁のためかは皆さんご存知だ
   そして君がタンゴを踊るなら
   私ニ触レテハナラナイ

と、分かったような分からないような内容が詰まって
いるのだ。
こんな本を持って、例えばお気に入りのカフェ「オ.
クリヨー.ド.ヴァン」あたりで読んでいる図という
のは、如何にもの世界なのだが、そんな如何にもの
世界で、分かったような分からないような気分になる
のも、ちょっと快感であったりするから困ったもんだ。
   

読書

2006年11月13日 | 芸術


読書の秋と言われても、読まない人は全く読まないの
が本だ。
習慣化してないと、なかなかきっかけもなく、歳をと
ればとるほど縁遠くなるものだ。
周りを見回しても、所謂読書好きという人間はあまり
見当たらない。
斯く言う自分も、以前書いたが、ジョイスの「ユリシ
ーズⅡ」から全く進んでいない。
その間他の本はというと、記憶に残らないような本を、
数冊読んだような読まないような。
全然はっきりしないほど、この一年、いや、二年かな、
本と関わってない。

こんなことでいいのか、と思うことはしばしばなのだ
が、いかんせん読む気が。
パソコンをいじっている今がその時だ、とも思うが、
なんだか作家気分に浸って、はい終わりの日々なので
ある。
全く、パソコンていうのも良いのか悪いのか。
目には悪い。
これだけは、断言できるが。

そもそものきっかけは「ユリシーズ」にある。
あまりに読み辛いのだ。
長編などは、その文体のリズムがすんなり体に染みこ
んで来ると、心地よく進む。
その本の世界を体験する、という感覚をつかむことが
出来る。
「ユリシーズ」の場合、それがどうも。
ここは、きっぱり放置した方が良いかもしれない。

ならば、他の読みやすい本にすればということになる
が、その読みやすいというのにひっかかる。
どうも生来のひねくれた性格が災いする。
例えば、以前、「ヘルマンヘッセ」のプチプチブーム
があった時、確かガーデニングブームと機を一にした
頃の話だが、「庭仕事の愉しみ」という本が、ちょっ
とした話題となって(と思うが)、ヘッセが再注目さ
れた。
ヘッセを読んだこと無い私に、ヘッセ好きが、「車輪の
下」とか面白いから読んだ方が良いと言う。
しかし、それ以前にこういう話を聞いていた。
ヘッセの次の段階に読むのがトーマス.マン。
すでにトーマス.マンの「魔の山」を読んでいた自分
としては、いまさらヘッセか、という気分だった。
しかも、「魔の山」はかなり面白く、長編小説の記念
すべき第一歩になったものだ、自分にとっては。
で結局、ヘッセは読まずじまい。

こうやって、自分の基準で対象を狭めていくのだが、
問題は、そこに必ず偏見が含まれるということだろう。
しかし、これがなかなかすんなりとは改善されないわ
けだ、分かってはいても。

ダリ

2006年11月07日 | 芸術


今、東京(上野の森美術館)で「ダリ展」をやってい
る。
以前は、かなり好きな画家で、どうにか真似しようと
思ったことはあるが、技術が全然おいつかなくて諦め
た記憶がある。
その頃だったら、絶対見に行ってたと思う。
古典派の技術で、超現実的な世界を表現するというダ
リの世界は、憧れそのものであったのだ。

本物を見たいという願望はずっとあったのだが、幸運
にもその後、生地であるスペインの「カダケス」に行く
機会があった。
「カダケス」そのものは、ちょっと鄙びたリゾートと
いう感じで、のんびりした良いところだった。
そこの海岸を歩いていると、子供のころにダリもこの
風景を見ていたのだろうとか、岩場の形が、確かにダ
リの絵の中のそれだとか、いろんな想像をして楽しん
だ。
海の幸も豊富なので、海老の塩茹でとか、烏賊のリン
グ揚げのようなものとか新鮮で美味しいし(ちょっと
塩気がきつかったというのを除けば)、もう一度行き
たい場所として、しかと登録された(頭の中に)。

その「カダケス」を後にして向かったのは「フィゲラス」。
ここには「ダリ美術館」がある。
建物からして、いかにもダリらしいそれで、中に入る
ともうそこは完全にダリワールド。
「ダリ芸術テーマパーク」という表現がぴたりとくる、
ダリ尽くしの世界は、生理的に駄目な人は絶対駄目だ
ろう、とはっきり感じた(ここでダリを堪能したので、
本物を見たいという欲求は満たされた)。
しかし、ダリの世界を体感できるような仕掛けもあり
で、美術館としては、養老にある荒川修作の「養老天
命反転地」と同じように、独自性を持った楽しめる芸
術空間である。
一度は体験してもよいのではないか、と思う。

その後、ダリの遺体がこの美術館に眠っていることを
知り、確かにその上を歩いた自分は、当然のこと感慨
を新たにしたのだった。

松澤宥

2006年10月17日 | 芸術


松澤宥(ユタカ)氏が死去した。
と言っても、殆どの人は知らないと思う。
地元の「芸術家」だが、地元での知名度も、多分大し
たこと無いだろう。
所謂、わけの分からない「芸術活動」をしていた代表
とも言える人なので。

しかし、その独自性は、地元では言わずもがな、国内
でも一部の間以外では評価されてなかったが、世界で
はそれなりに評価されていたのだ。
国内でのコンセプチュアルアートの第一人者、と言っ
ても良いのではないか。
概念芸術。
方向的には、作品という物が消えていく芸術。
典型的な「よく解らない芸術」の代表なのだが、新し
い芸術の地平を切り拓くという意味では、明らかに重
要な位置にいた人である。
量子芸術などというのも唱えていた。
量子の世界と宇宙は、規模があまりにかけ離れてるの
だが、かなり似通った力学の働くところ。
内なる極小宇宙と、無限大の宇宙との融合を、芸術で
果たそうとしていたのか。
正直なところ、その辺は全く解らない。

宇宙などを唱えだすと、「いってる人」に見られがち
だが、そもそも芸術家などというものは紙一重のとこ
ろがある。
普通ではないところがあって当たり前なのだ。
いずれにしろ、孤高の芸術家という名称がぴたりとく
る松澤宥氏の冥福を祈りたい。

コラージュ

2006年10月16日 | 芸術


パソコンのおかげで一番楽になったのは、コラージュ
を作る作業だ。
以前は、はさみやナイフで切って、糊付けして、失敗
しては、はがし、ふたたび貼り付けと、何度と無く同
じ作業を繰り返した。
それが今は、一瞬にして切り貼り。
しかも、失敗してもすぐに元通り。
色も、自由に変えられるし、透明化とか今までだった
ら絶対出来ない効果も与えられる。
バリエーションは無限大。
こんなに簡単に出来て良いものだろうか、と思わず考
えてしまうパソコンなのだが。

手作りのものと、パソコンのものとを比較すると、明
らかに違うのは、質感。
パソコンは、プリントして初めて「作品」として出来
上がる。
その、紙質が全体の印象に大きく影響する。
実際に切り貼りしたものなら、使ってる素材の質、凹
凸などが微妙に影響しあって全体の質感が決まるのだ
が、パソコンでは、それらの要素がない。
安直と言えば安直なのがパソコンだ。

しかし反面、表層的な戯れには適しているともいえる。
深みが無い、と言われがちであるが、所詮我々が見て
いる(見ることができる出来る)のは表層だけ。
違いは「深み」を発見したい自分がいるかどうか。
そこには本質的な違いは無い(案外、立体的に見える
かどうかだけの問題だったり)。
つまり「深み」を見ることも表層の戯れの、一形態に
過ぎない。

てなことも、文章にすると、もっともらしい理屈にな
るのだが、本当のところは良く分からない秋の夕暮れ
なのである。

ジョン.アーヴィング

2006年09月25日 | 芸術


昨日、最後に村上春樹のことを書いたが、もう一人彼
が推していた作家がいたことを思い出した。
ジョン.アーヴィング。
そう言えば、小説家志望の男もジョン.アーヴィング
を推していた。
結局、全部村上春樹の受けうりだったんだ、今から考
えると。

本は「熊を放つ」しか読んだことないが、彼の原作の
映画は何本か観た。
結構映画化されているのだ。
知る限りでは、レイモンド.カーヴァーより多いので
はないか(この部分確信無し)。
「ガープの世界」「ホテルニューハンプシャー」「サ
イダーハウスルール」などが、それ。

レイモンド.カーヴァーが、ありふれた日常の中に、
人生の大事なもの発見した作家だとしたら、アーヴィ
ングは、全く逆と言うか、次元が違うと言った方が良
いか、物語の突拍子の無い展開そのものに焦点を当て
た作家だ。
心理描写とか、そういうものより、ドライでブラック
な、悲劇が喜劇であるかのような世界、登場人物も少
々奇妙で、どこか非現実的。
つまり、非現実的なのだが物語的には面白いもの、そ
れがアーヴィングの世界だ。
この点で、レイモンド.カーヴァーとは対照的なので
はないだろうか(飽くまでも物語という視点で捉えて
の比較で、小説としての話ではない)。
だから、映画にもなりやすかったのではないか。

注)
と、もっともらしく比較したが、「大体そんな感じだ」
程度のことなので、細部に突っ込まれても困るので、
ここはさらっと流してもらいたい(一応予防線を)。

実際三つの映画は、どれもそこそこ面白い。
原作の味が生きているのだろう。
テンポがよいというのは、映画の面白さの一要素だか
ら、この点でもアーヴィングは映画的なのだろうと思
う。
それより改めて考えると、村上春樹の小説って、レイ
モンド.カーヴァーとジョン.アーヴィングを足して
二で割ったようなものではないか。
これって、本人にとっては全然嬉しくないことだろう
けど。

レイモンド.カーヴァー

2006年09月24日 | 芸術


昨日、レイモンド.カーヴァーの「ささやかだけれど、
役に立つもの」を引き合いに出したのだが、何故そう
なったのか。
それは、タイトルが印象的だったから。
他の作品でも、「夜になると鮭は」「僕が電話をかけ
ている場所」など、ちょっとうん?となるようなタイ
トルの小説が多いのだ。
内容は、完全に忘却のかなた(古い表現だ、我ながら)
なのだが、タイトルだけは強く残っているのだ。

今から20年近く前、周りにカーヴァー好きの小説家
志望の男がいた。
当時、こちらは名前さえ知らず、カーヴァーカーヴァー
ってうるさいなと思いつつ、やや気にはなっていた。
そこまで言うなら、ちょっと読んでみようかな、とい
う気になり、借りたのか買ったのかは忘れたが、まず
「僕が電話をかけている場所」から読んでみた。
そしてその後、いくつかを。

当時は、村上春樹が一気に人気化した頃で、確か彼が
強く推してたのがカーヴァーだったような気がする。
実際、翻訳も手がけていたし、村上春樹の大ブームと
歩調を合わせるかのように、レイモンド.カーヴァーの
プチブームがあったのではないか。

で、読んでみての感想なのだが、その辺は本当はっき
りしてない。
そこそこ面白いと思ったことは間違いないのだが、
それっきりなので、それ以上ではなかったのだろう。
そして、その流れで、村上春樹の「ダンス.ダンス.ダ
ンス」なんてものまでも読んでしまった。
これも、その小説家志望が好きな作家だったのだ。
というか、彼も村上春樹経由レイモンド.カーヴァー
だったのだと思う、今から見ると。

結局、個人的には、唯一の村上春樹の小説体験となっ
た。
村上春樹に関しては、ある世代以上の人間には受ける
だろうなという印象を持った。
つまり、ビートルズ世代に。
適度な懐かしさとともに、青春時代の大事なものを取
り戻す勇気を与えてくれる(書いてて恥ずかしくなる)
小説、とかなんとか言えるかもしれない。
どちらにしろ、自分のテイストではありませんでした。

蒔絵

2006年09月23日 | 芸術


以前、「NHKスペシャル」(なんだかんだ言っても
NHKのドキュメンタリーは質が高い)で、日本の伝
統技術の、道具がなくなっている現状を追うというテ
ーマで、輪島の蒔絵を取り上げていた。

細かい葉を描くために、専用の筆が必要なのだが、そ
れは特殊な毛で出来ている。
川辺に生息する、ある鼠の毛で無くては駄目なの
だ。
その、ある鼠がいなくなってしまったらしい。
環境の変化で。
同じような理由で、輪島塗に関しては、十いくつかの
道具が消えつつある状態らしい。
日本全体では、千いくつかになるということだ。

こういうのこそ、国で何とかすることなんじゃないの
か。
日本独自の伝統的美を守る。
それを支えていたのは、日本の自然。
これこそが「美しい日本」に通じることなんじゃない
の、ねえあべちゃん(またそこか)。

そしたら、昨日、「尾形光琳」の蒔絵を違う番組で紹
介していた。
大胆な構図と抽象化、それに装飾性。
良いですねえ。
クリムトなんか、もろに影響されたのではないか(この
部分、勝手な想像)。
弟の尾形乾山は乾山で(こちらの方が好き)、兄のよ
うなきらびやかなところは無いが、非常に斬新な芸術
性の高い焼き物を作ってる。
それを見ると、北大路魯山人のルーツは乾山であるこ
とがよく理解できる。
才能豊かな人は、この時期いっぱいいたんだね。
しかし、まだ、乾山の本物をあまり見たことが無い。
本物を、み見たい(魂の叫び)。

質の高いものに、日々ささやかな感動を味わいながら
暮らすのと、例えば、「自己完結型感動製造装置」と
してのスポーツで、無理やり感動する(させられる)の
とでは、どちらが豊かか。
「ささやかだけれど、役に立つもの」byレイモンド.カー
ヴァーってとこか、な。