カフェのT君から、「コラージュ」の素材としてどう
ですか、と色々な絵葉書を貰う。
写真やら、どこかの広告やら、使えそうなものは取り
敢えず確保と言う感じで30枚ほど貰った。
その中には、アメリカのピンクチラシ代わりの絵葉書
も混じっている。
何でも、向こうに行った人が、街中にあるのを実際持っ
てきてT君にくれたらしい。
見るからに、いかがわしい感じだ。
しかし、素材としては中々使えそうだ。
電話番号も載っているから、ひょっとしたら繋がるか
もしれない、などとつい想像してしまったが、そんな
ことはどうでも良かった。
コラージュと言えば、真っ先に思い浮かべるのはマン.
レイか。
PICABIAもいくつかやってる。
今や、数ある表現方法の一つで、決して斬新というも
のではなくなった。
現代美術では、もう新しい手法などと言うのは出尽く
している観がある。
そうなると、引用組み合わせ、あるいは巨大化という
やり方が一般的となり、そんな作品が現代美術という
名で出現する。
あと、マンガの芸術化という最近の傾向もあるが、個
人的には全然良いとは思えない。
リキテンシュタインがすでにやったものではないか、
と思うのだが。
日本人なら、荒川修作とか中西夏之などは良いと思え
る。
菅木志雄もセンスあると思う。
しかし、今人気ある若手などは、一体どこが良いのか
全く理解できない。
そもそも理解するというのが、芸術の場合馴染まない
ので、感覚で良いか悪いかなのだが、こちらの感覚が
もう古くなったのか、単なるアニメと芸術の違いが感
覚的に捉えることが出来ない。
どうしても、単なるアニメにしか見えないのだ。
そんな、現代美術の状況はあと30年もすれば答えは
出るので放っといて、コラージュだ。
最近は、便利なパソコンでばかりなので、手作業でや
ることが新鮮だ。
例えば「味」というものは、手作業でなくては出せな
いものがあるが、それは偶然性の賜物でもある。
微妙なかすれとか、痕跡、断面、そんなものの全体が
「味」となって、感じられるのだ。
しかし、その「味」というものが、芸術性とどう関連
するのかということになると、Je sais pasだ。
結局、よく分からないのだ。
と、そんなことを考えながら(実際は考えてないが)
色々切り貼りしてコラージュ作品を作った。