日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

訃報~横澤彪氏

2011-01-11 | その他あれこれ
日本のテレビをある意味革命的に変革させた功労者、元フジテレビ・ゼネラルプロデューサーの横澤彪氏が亡くなられました。

私が知る限り、昭和の日本のテレビを娯楽ツールとして磨きをかけた人物が何人かいます。古くは、高度成長の日本のテレビを変革させた放送作家の故塚田茂氏。彼はNHK主導の事実を伝えるテレビから楽しむテレビへの移行に大きな役割を果たしました。その流れを受けて、バブル期前後にテレビという娯楽ツールにブランド化の考えを持ち込んで番組制作に新たな流れを作ったのが横澤彪氏その人でした。塚田氏が放送作家の立場から原稿主体でテレビを面白くしたのに対して、横澤氏はフジテレビの社員として根っからの映像マンの立場で見る側にどう映るかの視点から番組作りに取り組み、「楽しくなければテレビじゃない」のコンセプトの下「俺たちひょうきん族」や「笑っていいとも」に代表されるヒット番組を連発し、当時キー局の視聴率競争では万年最下位だった落ちこぼれのフジテレビを再生させ、一気にトップにまで持ちあげた功労者でもありました。

彼の戦略の特徴は、テレビ番組や出演者のブランド化でした。その代表例が、漫才ブームを巻き起こしお笑いの活躍の場を演芸場からテレビに移行させた「THE MANZAI」でした。漫才を横文字で表現するという当時の今風な工夫と、どこまでもそのコンセプトに貫かれた番組づくりは、上方のお笑いを上手に取り込むことでそれまでの旧来の漫才を全く新しいものとして誕生させ、その後のお笑いの世界の流れさえも変えた大きな功績でありました。タモリ、さんま、たけしのビッグスリーの現在の地位確立や、昨今のゴールデンで芸人を見ない日はないというほどの“芸人ブーム”は、横澤氏の入念に考えられた当時のブランド戦略抜きには成し得なかったと言っていいと思います。我々世代にとっては、ちょうど学生時代から若手社会人時代のテレビトレンドを作った流れでもあり、コミュニケーションスタイルやライフスタイルに多大なる影響をうけたと改めて思うところであります。その後フジテレビ内での権力闘争に巻き込まれ吉本興行に移りましたが、そこでも同様のお笑いのブランド化戦略を展開し、関西限定であったはずの「吉本」のブランドはいつしか日本全国で通用する笑いの“品質保証印”にまでなり、今や芸能界ではジャニーズを並ぶ2大ブランドであると言っても過言ではないと思います。

考えてみると、「ひょうきん族」や「THE MANZAI」の流れが今でも通用するという業界事情を見るに、横澤氏以降のテレビ界にはほとんど革命児と言える人が登場していないように思えます。最近の娯楽王座の座からひきすりおろされるような民放テレビの人気下降線傾向には、確かに衛星TV乱立やデジタル化によるテレビメディアの多チャンネル化の流れやインターネットの発達による「YOU TUBE」や「ニコ動」の台頭など外的要因も多々あるものの、ここ20年間以上にもわたってこれといった変革も起せずにきた民放テレビ界の“胡坐(あぐら)状態”が作り出したマンネリ化を容認する姿勢にも問題大いにありなのではないかと思うのです。その意味では横澤氏には、折も折地デジ元年を迎えた民放テレビ界に外部から“卒業生”として、新たな変革の奮起を促すという重要な役割がまだまだ残されていたようにも思っています。73歳という最近の平均寿命からすれば少しばかり早い死には、多くの影響を受けた世代の一人としてとても残念に思います。氏のご冥福を心よりお祈り申しあげます。