日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方30」~ハードロック 2

2011-01-16 | 洋楽
ハードロックの元祖第一期ジェフ・ベックグループは2枚のアルバムを残して69年、彼の気まぐれからあえなく解散します。返す刀でベックが結成に動いたのが、アートロックの雄と言われたヴァニラ・ファッジのティム・ボガート(B・VO)、カーマイン・アピス(D)との新たなるハードロック・バンドでした。しかしながら、ベックが交通事故で重傷を負うという事態になり、ボガートとアピスはベックとのバンドをあきらめカクタスを結成。ベックの次なるハード路線は立ち消えになりました。聞くところによれば、ボーカルには第一期ベックと同じロッド・ステュワートを予定していたと言うのですから、このバンドがこの時期に結成されていれば洋楽の歴史は違ったものになっていたのかもしれません。

一方、ベックのバンドを手本にしてブルースを基調としながらもハード路線に打って出たバンド、レッド・ツェッペリンを結成したジミー・ペイジですが、69年にはハードロック・アルバム最初の傑作と言える「レッド・ツェッペリンⅡ」をリリースします。「胸いっぱいの愛を」「ハート・ブレイカ―」などの後世に語り継がれる名曲を多数含んだこのアルバムでは、ギターリフを中心としたハードロックのひとつのスタイルが確立されています。これによりギターを中心とした当時のバンドアンサンブルにおけるギタリスト第一人者の地位は、ベックではなくペイジとして歴史に刻まれ、いよいよ新たな時代である70年に突入することになるのです(クリームを解散させたクラプトンは、この当時もハードロックと言うよりは多分にブルース寄りであり、彼はその後のキャリアを通じても決してハードロック・ギタリストでないと思います)。

ベックはその後第二期ジェフ・ベックグループを結成しますが、ここで彼は新たにブラック寄りのアプローチとジャズ系キーボード奏者マックス・ミドルトンの影響によりその音楽ベクトルを急展開させます。これが後の「ブロウ・バイ・ブロウ」以降の“孤高のギタリスト路線”につながる重要なポイントなのですが、このあたりは別項で改めて触れたいと思います。彼が70年代初頭にやり残したハードロック路線の活動は、73年第二期ジェフ・ベックグループ解散後に待望久しいボガート、アピスと結成したベック・ボガート&アピス(BB&A=写真)として遅ればせながら実現します。しかしながらこのバンドは、ハードロック黎明期の69年に企画されたバンドであり、時代の流れが急速であった70年代前半において企画から4年後に結成の陽の目を見たバンドでは既に時代に共鳴を求めることは難しく、1枚のスタジオ盤と日本のみ発売のライブ盤を残してあっさりと解散、彼が再びハードロック路線に舞い戻ることはありませんでした。

※実はこのBB&Aは日本が当時、海外情報不足もあり英米ポピュラー音楽の時代の流れの外にいたことで、73年当時でありながらこのオールドスタイルのハードロックバンドが日本に限って熱狂的に迎えられ、「BB&Aライブ・イン・ジャパン」も名作ライブと言われていました。実際このライブアルバム、確かにボーカルが弱くキーボード不在という点が73年レベルからは古臭いのかもしれませんが、3ピースとは思えない重厚感溢れる良質なハードロック・ライブでして、重たいリズムセクションといつになくハードでソリッドなベックのギターが冴えわたっていて個人的には大好きなライブ盤です。40年近くにわたる愛聴盤のひとつだったりします。

★ハードロック黎明期を知るアルバム
①「レッド・ツェッぺリンⅡ/レッド・ツェッペリン」
②「ベック・ボガート&アピス・ライブ・イン・ジャパン/ベック・ボガート&アピス」