日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和問わず語り4~「“夢”の超特急」新幹線開通

2011-01-29 | 昭和
巷では東北新幹線が新青森まで開通したとか、3月には九州新幹線が鹿児島まで延伸されるとか、新幹線にまつわる話題がいろいろと聞こえてきています。でも何となく「夢」がなくて味気ない最近の新幹線。昭和の時代にはもっともっと「夢」のある乗り物であったなと思うのです。

我々世代にとって新幹線と言えば東海道、「ひかり」と「こだま」です。東京-新大阪間を3時間10分(開業当初は馴らし稼働で4時間だったそうです)で結ぶと言う「夢の超特急」の名のもとに、昭和39年10月1日開通しました。昭和39年と言えば東京オリンピックの年。オリンピックの開会式が10月10日ですからまさしくその直前の開通だったわけで、きっと関係者は大変だったのでしょうね。「死んでも間に合わせろ」とお偉いさんが言ったかどうかは知りませんが、死に物狂いでオリンピック開会前開通にこぎつけたのだろうということは想像に難くありません。こちらはそんなこと預かり知らぬ子供ですから、本当に世の中がお祭り騒ぎだったと言う事だけがやけに印象的に記憶に残っています。

子供たちに最もインパクトがあったのは「夢の超特急」というフレーズ。それまで在来特急で6時間半かかっていたものが半分以下に短縮されちゃうわけですから、そりゃ「夢」ですよね。物事が目覚ましく進歩していく様が、こういった社会的な出来事を通して実感されるそんな時代だったのだと思います。時代と共に歩んでいた大人たちが肌で感じたそんな感覚が、家庭の中で子供たちにも自然自然と伝わっていたのです。だから「夢」があったのでしょう。今仮に「東京-新青森間が3時間20分で行けるようになりました」と言われても、「夢」を感じないですよね。「予定地の買収に手間取ったのですか」「予算関係で先延ばしになって時間かかったんでしょ」みたいな感覚がどうも蔓延してしまって、世の中そのものが妙に冷めて「嫌な大人化している」とでも言うんでしょうか、新しい出来事に対して「夢」を感じなくなってしまっているように思いますね。仮に東京-大阪間を1時間で結ぶリニア新幹線が開通したとしても、きっとあの頃感じた「夢」ある感覚は味わえないのでしょうね。「昭和」は夢のある時代だったなと、ホントつくづく思わされます。

ちなみに実際に新幹線に乗った人の生の話を聞いたのは、オリンピック観戦で静岡から来た父の友人夫婦からでした。良く知らないおじさんの「驚くほど素晴らしい電車だよ」というお話を、黙って聞いていた私は「早く乗ってみたいな」と思ったものです。そんな中、我が家で一番最初に新幹線に乗ったのは父でした。当時仕事で定期的に京都に行っていた父は、開通後ほどなく新幹線で東京-京都間を日帰り往復したと記憶しています。新幹線初乗車を終えて家に帰った父に、私も母も「どうだった?どうだった?」と質問責めにしたのでした。「早いぞ」「揺れないよ」「静かだよ」「窓は開かないんだよ」「電柱なんか見えないよ」・・・先の父の友人のお話以上に具体的な体験談が、私の期待感をより一層盛りたててくれたように思います。そして私が新幹線に初めて乗ったのが、翌年の夏休み。海水浴に父の田舎の静岡に出かけた、「少年サンデー」と出会ったあの旅です。見たことのないきれいな「超特急」の車内にまず感動。動き出してからしばらくは車窓に釘づけでした。ホント「夢」のある時代だったのです。

交通機関に限らず、「昭和」を知る我々世代が組織や世の中をリードするこれからの時代のビジネスでは、少しでもいいからあの頃皆が感じた「夢」を感じさせ「昭和」の感動を蘇らせるような心遣いや仕掛けが欲しいなと思います。それを知る我々世代にはできるはずですし、我々世代がしなければ永久に忘れ去られてしまうものでもあるのです。新しいことでも、体験する前から「当たり前」として覚めた見方しかできない今の子供達は可哀そうな気がするのです。「夢」を感じさせる体験こそが、大人になった後にも「夢」のある人生を歩ませその総体が「夢」のある日本をつくることにつながる、「新幹線開通」に代表される「昭和」の感動体験はそんなことを教えてくれているようにも思えるのです。