日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和問わず語り3~伊達直人しかり、少年マンガはぼくらの「先生」だった

2011-01-19 | 昭和
年末から日本各地に登場の匿名プレゼント人「伊達直人」。ご存じ懐かし昭和の人気マンガ「タイガーマスク」の主人公です。最初に「伊達直人」を語ってランドセルのプレゼントをした人は、きっと昭和のマンガにはあった人肌の暖かさを思い浮かべつつこの主人公の名を選んだのではないでしょうか。今回は昭和の漫画を思い出し語ってみます。

週刊少年マンガ雑誌が世に登場したのは昭和30年代半ば。私が初めて父にマンガ本を買ってもらったのは5歳の昭和40年、父の田舎静岡に連れられていく途中初めて新幹線に乗った東京駅でした(今思うと、当時人気が出始めて話題になっていた少年マンガ雑誌を、父は私にかこつけて買ってみたんだと思います)。それは忘れもしない「少年サンデー」で、記憶が曖昧ですが「スーパージェッター」「サブマリン707」「忍者赤影」「おそ松くん」などが連載さていて、まだよく字が読めなかった私は行きの電車の中では父に、田舎の家に着いてからは親戚の叔母さんに吹き出しを読んでもらい、帰ってからも何度も何度もそれを見返していたのを覚えています。それからの私は連載マンガが読みたくて、一生懸命字が読めるようになろうとひらがなを勉強し、程なく少年マンガ読者の仲間入りをしたのでした。

「少年サンデー」から入った私でしたが、直に「少年マガジン」に移りました。キッカケは石田国松が少年サッカーで活躍する「ハリスの旋風」だったと思います。確か最終回はブラジルからの留学生ラサールとの交換留学で旅立つところで終わるのですが、子供心に「何でこれで終わりなの?」その先が知りたいと思ったものです。この作品終了前後に「マガジン」の人気を決定づける作品が続々スタートします。「巨人の星」「あしたのジョー」「愛と誠」のシリアス路線三作がそれです。個別の作品のお話はまた改めますが、これらは全て梶原一騎氏の原作(「あしたのジョー」は高森朝雄という氏の変名)によるものでした。とにかくスゴかった。この三作が巻き起こしたのが最初のマンガブームで、小学校の父兄会でも「マンガばかり読んで勉強しない子供が増えている」と問題になったと記憶しています。私はそんな大人の心配を尻目に、毎週毎週、連載マンガの次がどうなるのか楽しみで楽しみで仕方なかったのです。

今話題の「タイガーマスク」も先の三作と同じ梶原一騎氏の原作でした。連載されていたのは確か「ぼくら」だったかなと。養護少年施設出身の主人公がマスクマンのレスラーとして活躍し、施設の子供達に贈り物をして恩返しをするというストーリー。当時読んでいた子供の私も、親がいて欲しいものを親に買ってもらえる自分の恵まれた環境は、子供心にありがたいことなんだと思った記憶があります。昭和のマンガは今思うとけっこう学ぶことが多かったのです。「あしたのジョー」からは、“オトナの男の生き様”みたいなものを教わったのかもしれませんし、「巨人の星」からは目標を持って生きることの大切さを、「愛と誠」からはお金ではけっして償ったり買うことのできない人の気持の大切さを教えてもらったのかもしれません。これらの主人公は皆恵まれない境遇から這い上がって行く、実に「昭和」ですよね。

原作者の梶原一騎氏は私生活ではいろいろ問題を起こしたりトラブルの多い人物ではありましたが、考えてみると実はある意味当時の子供達の「先生」だったのかもしれません。マンガが単に流行を作り出すだけでなく人の生き方のヒントさえも教えてくれる、そんなストーリーが煙たがられずに受け入れられる時代でもあった訳です。子供をかばって車に轢かれた瀕死のタイガーマスクが、死んでも自分の正体を明かすまいとドブ川にマスクを投げ入れる最終回も、昭和的正義の生き様を教えられる思いで読んだ記憶があるのです。このところ の伊達直人の一件も、そんな古き良き昭和の教えを今一度思い出した方々の昭和に育てられた「良心の行動」なのだろうと思うのです。私が少年マンガを読まなくなったのは、少年マンガに力を競うだけの格闘モノや、“下ネタ”的描写で読者を引きつけようとする“学び”のない邪道路線が増え始めた昭和50年代であったと記憶しています。

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