日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「70年代洋楽ロードの歩き方29」~ハードロック 1

2011-01-10 | 洋楽
洋楽におけるロックと呼ばれる音楽は50年代末期に黒人音楽と白人音楽の融合によってロックンロールとして登場し、60年代にビートルズ、ストーンズ、フーを代表格として短くロックと呼ばれる音楽ジャンルが確立されていきました。そして60年代の後半にはさらにそれらの中でより激しいビートを刻むハードロックの源流的な動きが活発化していきます。発端はエレクトリックなギターサウンドの台頭であり、その原点的アーティストとも言えるのがイギリスのヤードバーズだったのです。ヤードバーズは、当時の一般的なバンド形態であったボーカル中心の演奏から、腕利きのギタリストを前面に押し立てたギター中心で聞かせるブルース・ロック・バンドでした。そして、このバンドから生まれた3人のギタリストが、ロックの新たな流れを生みだすことになるのです。

その1人目がエリック・クラプトンです。彼は66年にヤードバーズを脱退すると、ギター、ベース、ドラムの3ピースバンドであるクリームを結成します。クリームは、音楽機材の当時の目覚ましい進歩にも助けられ、大音響とバトル的インプロヴィゼーションを特徴とした“ハードな”音づくりで人気を博すことになります。しかしながら、まだクリームはギターバンドではありながら、基調とする音楽はあくまでブルースであり、その意味ではハードロックではなく“ハードブルース”であったと言うのが正しい見方であるのかもしれません。クラプトンの後を受けた2人目がジェフ・ベック。彼も68年にはヤードバーズを抜け、自らのバンド第一期ジェフ・ベック・グループ(=写真)を結成します。この時のメンバーには、ボーカルであのロッド・ステュワート、ベースではロン・ウッド(現ローリング・ストーンズ)がいたのです。

第一期ジェフ・ベック・グループの音楽は、ベックのギターとロッドのボーカルがすさまじく対決するまさしくハードロックであり、ロックがまだロックンロールであった時代のプレスリーのナンバーなどを敢えて新たな解釈で取り上げているのは、「ハードロック誕生」を高らかに宣言しているかのようにも思えます。「ギタリストには2通りしかない。ジェフ・ベックとそれ以外だ」と言われたように、当時としては突出してハードなギターを弾きまくり、まさに世界初のハードロック・ギタリストとしてその名を世界にとどろかせたのでした。このバンドは2枚のアルバム「トゥールース」と「ベック・オラ」を残していますが、迫力と衝撃度合いでは前者、作品的まとまりでは後者という感じの出来になっています。

ベックを継いだヤードバーズ3人目のギタリストはジミー・ペイジ。彼は同バンドを発展的に解消させ、ハードロックバンド、レッド・ツェッペリンを立ち上げました。デビューアルバム「レッド・ツェッペリン」を制作した際に、「バンドの音作りの参考にしたのはベックの『トゥールース』だ」と言っているのは有名なお話です。ツェッペリンの原点すなわちハードロックの原点は、第一期ジェフ・ベック・グループであったと言えるのです。
(この項つづく)

★ハードロックの歴史を知るアルバム~その1(プレ70年代)★
①「トゥールース/ジェフ・ベック・グループ」
②「ベック・オラ/ジェフ・ベック・グループ」
③「レッド・ツェッペリン/レッド・ツェッペリン」

昭和問わず語り 2~日本が一番幸せだった時代の象徴「東京オリンピック」

2011-01-09 | 昭和
戦後昭和の歴史で何と言っても忘れられない一大イベントは東京オリンピックです。東京オリンピックは1964年10月10日に開幕しました。1959年生まれの私は当時5歳になったばかり。先の話に出てきた藤山愛一郎の家の近くに住んで高輪台の幼稚園に通っていました。その朝、仕事に出かける父を玄関先でお見送りをしていた時、玄関から外に出た父が「お~、すごいぞぉ、見てごらん」と言って空を指差しました。その指差した先の空には、5機の飛行機が見事に描き切った5色の五輪の輪がきれいに空を飾りあげていたのです。この時の光景は今でも鮮明に覚えています。

生まれて初めて見る飛行機雲の素晴らしさに目を奪われつつ、五輪マークとオリンピックの関係を説明してもらったのかもしれません。この時が、私がオリンピックというイベントの規模の大きさやその重要性を子供心に強く印象づけられた瞬間でもあったのです。後々知ったことですが、この日は日本中の教育機関は特別にお休みだったそうで(皆、家で家族揃ってオリンピックの開会式を見るように言われていたそうです)、朝10時頃に出かけて行った自営業の父を見送りに玄関に出て五輪の飛行機雲が見れたのは、その日幼稚園が休みであったからなのでしょう。

5歳の子供にとってもオリンピックは特別なイベントでした。特に東京に住んでいたことで、父の出身地である静岡の親戚や友人たちが代わる代わる、オリンピック見物がてら訪ねてきては我が家に泊まったり、一緒に競技場に出かけたり、私も東京見物や買い物のお供をしたり、本当にお祭り騒ぎの毎日でした。おかげで生まれて初めて東京タワーに上ったり、アメ横に行ったり、浅草の仲見世を歩いたり、私にとってもはじめての東京体験がいろいろできたのでした。そんな事情もあって、オリンピック期間中は本当に楽しかったのです。

オリンピックの競技の記憶は、リアルタイムのものと大会後カルピスからもらった大会記録ソノシートを繰り返し聞いたことで作られたものとゴチャ混ぜ状態ですが、子供でもよく分かったのは走る競争という分かりやすい競技マラソンでの円谷選手の銅(ゴール直前で抜かれての3位)と、重量挙げという力持ち度を競う子供ウケのする競技で金を取った三宅選手だったと記憶しています。オリンピック開催期間中には、競技会場のひとつでもあった駒沢公園にも何回か連れていってもらいました。公園内にも設置されていた燃え盛る聖火をながめオリンピック期間中しか聖火は灯されないという話を聞かされて、子供ながらにその特別なイベント体験をリアルタイムで味わってることを実感し不思議な気持ちにさせられたように思います。

自分の周囲だけではなく、日本中が浮かれていた様子が子供心にも何となく伝わっていました。開催と前後して、首都高速道路や東海道新幹線が開通し盛り上がっていたことも、きっと影響をしていたのでしょう。あの体験をリアルタイムでした日本人は誰もが、オリンピックが大好きになったに違いないと思います。日本が一番幸せだった時期の一番幸せな出来事だったのかもしれません。皆でスポーツを応援することの楽しさ、海外から多くの人が訪れることに感じられる日本人としてのプライド(行く先々に外人さんがたくさんいました)、知り合いが訪ね来ることにも象徴される国民がひとつになって盛り上がることの素晴らしさ・・・、そんなことの一端を5歳の私も少しだけ体験させてもらえて、本当に幸せだったと今思える訳です。

昨年、東京は2016年のオリンピック開催地に立候補し敗れました。オリンピックの日本誘致を全面的に応援していた私にとっては本当に残念なことでした。オリンピック誘致は税金の無駄遣いであると世間では反対意見があることも知っています。しかしながら、64年の東京オリンピックをギリギリ記憶の中で体験できた世代としては、これからの日本を作っていく子供達にもぜひあの夢多き素晴らしい体験をさせてあげたいですし、それがきっとこれからの国際社会で生きていく彼らにも大きなプラスになると思うのです。オリンピックを開催することのメリットは必ずしも経済的ソロバン勘定だけでは測れないものであると、日本の再々立候補に向け昭和のオリンピック体験者として声を大にして伝えていきたいと思っています。東京オリンピック開幕の当日、青空に描かれた五輪の飛行機雲を見上げた5歳当時の私の体験を思い出し、自分が体験したオリンピック開催国でしか味わえない幸福感を今こそしみじみと感じているのです。

★好評更新中★「日本一“熱い街”熊谷発社長日記」
blog.goo.ne.jp/ozoz0930

JR“駅ナカ”リニューアルに苦言を呈す!

2011-01-06 | ビジネス
久々にJR苦言ネタです。

最近山手線内の駅ナカのリニューアルが相次いで行われています。私が知るだけでも、東京、品川、上野。時期をずらしてやればいいものを、いっぺんに複数の駅でやるものだからけっこう不便を感じたりしているわけです。言ってみると自分の生活圏内のコンビニが一斉に改装休業になってしまった状態。今やそれほどまでに利便性の点で私の生活に入り込んでいるという証でもある訳ですが‥‥。利用者の利便性や行動特性を全く考慮せずに、自分勝手な都合(恐らくは一度に大量の工事発注をした方が作業単価が下げられるとかの自己利益都合)のみでリニューアルに取り掛かるあたりは、いつまでたっても官僚体質が抜けない企業風土を如実に表しているわけですけど。

今回の本題はその部分ではなくて、リニューアルの中身のお話です。実は新幹線での東京との行き来に毎度利用している東京駅の駅ナカ改装が、昨年末に一段落して新装オープンしました。新幹線口近くの元グルメ通路があったところです。私はここの中央線乗換口近くにあったJRグループ直営回転寿司「うず潮」のリピーターでして、駅ナカで手頃な値段でそこそこうまい寿司が食べられるという点が気に入っておりました。店は結構な繁盛で夕方の通勤時間帯ともなると仕事帰りのサラリーマン諸氏の“軽く一杯”もあってか、連日行列の盛況ぶりだったのです。(ちなみに品川の駅ナカにも同じ店があり、ここも結構な繁盛でしたが時同じくして改装に入っておりました)

さてリニューアル後の東京駅駅ナカですが、当然再出店と思われたこの繁盛店「うず潮」の姿はなく、代わりに出店したのは築地に本店を構える某有名お寿司屋さん。このお店に何の恨みもありませんが、テーブル席主体の落ち着いたら店構えとニギリで3千円前後という価格を見るに、仕事帰りのサラリーマン諸氏が“軽く一杯”という店ではない感じです。実はこの寿司屋に限った事ではないのですが、今回のリニューアルでこの通路にお目見えした店はどれも高級志向であるようなのです。例えば、全メニュー一人前千円以上の炒飯専門店、一個300円近くもするオニギリ店、都内有数の高級スーパー(確かJRがM&Aで傘下にいれた先です)のリカーや食材などなど‥‥。しかもラックに並んだこの一角の紹介パンフレットは、バブル期と見まごう様な高級感溢れるつくり。

私はいかにJRが民営化した企業とはいえ、「公共性」の高い交通機関がその施設を活用する方法として、これはどうなのかと個人的にはいささか疑問に感じました。「公共性」の高い交通機関の駅構内であるなら、やはり利用者の利便性重視の駅ナカづくりが基本ではないのかと。しかもJRには他の交通機関とは異なるもうひとつの忘れてならない「公共性」があります。前身の国鉄は国営会社であり、その所有資産は元々が国民の財産であったということ、そして何より民営化の際には過去の放漫経営が作り出した巨額の負債が切り離され98年の国鉄清算事業団の解散後も約30兆円にものぼる負債が未処理のまま残されて債務が最終的にゼロになるのは2045年、今も毎年約1兆円の利子が国民負担で処理され続けているという事実。このことは、JRが重く背負わされた十字架であるはずなのです(JRご自身お忘れかもしれませんが、絶対に忘れちゃいけない事実です) 。

そんな歴史的背景を持つ企業グループが、高級品を駅ナカで扱うのなら国民負担を強いているお詫びに格安で提供するとでもいうのならまだしも、利用者の利便性を後回しにして一流百貨店の真似事をして高級テナント誘致で商売をしようなんぞは百年早いと言いたいところです。こういった非常識な感覚はまさしく官僚体質企業の為せる技であり、JRが企業風土を改革し本当の民間感覚を身につけるには、本当に百年かかるのかもしれないと思わずにはいられないのです。なんとも情けないことに、これが日本を代表するビッグビジネスの実態なのです。

★好評更新中★「日本一“熱い街”熊谷発社長日記」
blog.goo.ne.jp/ozoz0930

昭和問わず語り 1~東京タワーと藤山愛一郎邸

2011-01-04 | 昭和
今年は新しい企画をひとつ。私が育った昭和の時代を、東京文化を中心にして様々な思い出を書き綴ってみたいと思います。なぜこれを思いついたかですが、昭和の時代を象徴する事やモノ、あるいは人や場所に関しては、意外にしっかりとした映像が残っていなくて、またニュース映像等で残っていてもそれは出来事の一面を捉えたに過ぎず、私が思い出す昭和の特徴とは少しずれたモノが多かったりもしています。そんな折にはなんとなく昭和の正しい記憶が人々の心から失われていくさみしさもあり、歳をとる前の自分の記憶がハッキリしているうちに書き残しておきたいと思ったのです。題して「昭和の語り部」シリーズ。目覚ましく発展を続けた昭和元禄の時代を、当時の最先端であった東京で過ごした自分の記憶をしっかりと書きおこしていきたいと思います。

今回は東京タワーをめぐる私の子供時代の環境の話から始めてみます。まず東京タワーですが、私の記憶では映画の「三丁目の夕日」に出てくるような建造途中のタワーの記憶は全くなくて、物心ついた頃には東京タワーは既にしっかりとタワーの形をしていました。たまたま幼稚園~小学校時代を港区で過ごしたために、本当にまじかに東京タワーがあったのです。当時住宅地域には大きな建物はありませんでしたし、それこそ丸の内や新橋にでも行かないと10階建てなんていう建物は全くゼロと言ってもいいほどでした。だから、どこで遊んでいても必ず東京タワーは見えていたのです。言ってみると、東京タワーに見守られながら遊んでいたと言った感じかもしれません。

小学校は白金でした。今でこそセレブなイメージの街になっていますが、当時は全くの住宅地域でした。東京タワーが近くに見えたこととともによく覚えているのは、政治家の藤山愛一郎の普通じゃない家が学校の近くにあったこと。ものすごく大きな家で、道路からずっーと奥まったところに車寄せがあって子供が見ても特別な人の家だなと。その普通じゃない加減は、東京タワーと同じぐらいのレベルであったと。つまり子供心に政治家は普通の人じゃないんだと強く印象付けられたりしました。その場所は、今の「都ホテル東京」です。立派な庭を持つ一流ホテルが建ってしまうほどの敷地な訳ですから、大人になった今訪れてみても、ここが人の家だったと思うとやっぱり普通じゃないですよね。

今でこそ、実態はともかく政治家のセンセ方も“庶民派”が良しとされる時代になりましたが、その頃は普通じゃない人がほとんどだったんですね、きっと。確かに思い出してみれば、当時は「政(まつりごと)は普通じゃない人に任せるべき」と思われていたフシがあります。確かに、鳩山一郎も田中角栄もみな都内の大邸宅に住んでいました。“特別な人”を特別な人として印象付けるのに、その人の住まいはけっこう強い影響力を発揮しますから、大きなお屋敷に住むことが政治家の信頼感の象徴だったのかもしれません。今の時代、市民運動家出の総理大臣のだらしなさを見るにつけ、「政は普通じゃない人に任せるべき」という昭和の考えも一理あるのかなと思わせられもします。

新年ご挨拶

2011-01-01 | その他あれこれ
皆さま、あけましておめでとうございます。

早いもので今年の春で、独立から5年。節目の年を迎えたと思っております。5年前、いろいろなビジネスを興したいと志したはずが、気がつけばコンサルティングの名のもとに他人様のビジネスのお手伝いがメインになってしまい、「本当にこれで良いのか」と自問自答をしつつこの節目の年を迎えました。

本年は初心にかえって、根本から自らのビジネスを見つめ直す年にしたいと考えております。この節目の年を、干支の卯にあやかりまして「一度に大きくは跳ねないものの、小さな跳躍を繰り返しつつ着実に歩みを前にすすめてまいりたい」と思っている次第です。

本年もよろしくご支援の程お願い申しあげます。

★新年「なぞかけ」をひとつ
☞弊社スタジオ02の今年のビジネスとかけまして
☞アマゾンのジャングルと解きます
☞そのココロは・・・?
「木(気?機?)が多くて先が見えません」