<70年代の100枚>にこれまで複数作品が登場しているのは、ビートルズ、ストーンズ、フー、イーグルス、ドゥービー・ブラザーズの4バンドとロッド・スチュワートの5アーティスト。ソロでは2人目となる2作品登場アーティストはエルトン・ジョンです。
№65「キャプテン・ファンタスティック&ザ・ブラウンダート・カウボーイ/エルトン・ジョン」
エルトンの70年代の全米でのレコード・セールスは、すさまじいものがありました。ベスト盤を含めて72年の「ホンキー・シャトー」から75年の「ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ」まで、なんと7作品が連続全米№1を記録(計39週)。中でも特筆すべきは、75年発表のこの作品です。ビルボード・アルバムチャートに初登場で第1位という、ビートルズさえも成し得なかったポピュラー音楽史上初の一大快挙を成し遂げているのです。
74年当時、米国でのエルトン人気は徐々に盛り上がりつつありましたが、それは年の後半から一気にスパークします。ジョン・レノンのシングルにエルトンがゲスト出演した「真夜中を突っ走れ」がシングルチャートの№1に輝き、11月にニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのライブにジョン・レノンが飛び入りして、大反響を呼び起こします(ジョンとヨーコがヨリを戻した生前最後のライブです)。
クリスマス・シーズンにはベスト盤の「グレイテスト・ヒッツ」が発売されて、10週連続№1を記録。引き続いてリリースされたジョンとの共演でのビートルズ・ナンバー「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンド」も難なく№1に輝き、人気はピークに。元ビートルズの威光も受けて、彼の人気は想像を絶するほどのレベルに達していたのです(この人気、日本には全くと言っていいほど伝播しませんでしたが…)。
今の時代では、音楽ソフトの販売データが瞬時にチャート形成データに反映されるため、ビルボード誌のチャートで初登場№1というのは決して珍しくない出来事ですが、アナログ集計時代の当時としては大変な出来事だったのです。要するに当時のエルトン人気は、発売数週間前からの予約だけでチャート・トップに躍り出るような販売数を稼いでしまうという驚異的な人気であったということなのです。この陰には、当時「エルトン=ジョン=レノン」と言われ、まるでデュオのように扱われたことで、元ビートルズであるジョンの根強い人気による後押しも少なからずあったようには思います。
さて肝心の中身ですが、エルトンと作詞を手掛けるバーニー・トーピンの二人の成功に至る歴史を全10曲に綴った、至ってプライベートなテーマのコンセプト・アルバムです。テーマの目新しさはあるものの、果たしてこんな歴史的快挙をなしとげるほど素晴らしい出来なのかというと、少々首をかしげざるを得ません。もちろんこの時代のエルトンのアルバムが悪かろうハズはないのですが、彼のそれまでの創作水準からみれば正直言って標準レベルといった感じなのです。この点は最高傑作の呼び声が高い「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」との聞き比べをしてみれば明らかです。楽曲、演奏、アレンジ…、誰がどう判断してもこちらの“負け”は明白であると思います。
その原因として、72~73年の「ホンキー・シャトー」「ピアニストを撃つな!」「グッドバイ・イエロー…」の3作はすべて、フランスのシャトースタジオでの制作であるのに対して、74~75年の「カリブ」、本作、「ロック・オブ…」の3作は米国カリブランチでの制作である点が思い当ります。この6作品、「ロック・オブ…」を除きプロデューサーや録音メンバーに特段の変動はないものの、前半3作品と後半3作品では明らかに印象が違うのです。楽曲にも音にも深みがなくエルトンの魅力が半減と言う感じで、米国制作は英国人のエルトンにはしっくりこない、今思うとそんな印象に落ち着きます。
このように本作は作品の水準は70年代を代表するレベルにはないのですが、「史上初のチャート初登場第1位アルバム」という金字塔は歴史的に語り継ぐに値することであり、その意味では確実に70年代を代表する1枚であると言っていいと思います。
№65「キャプテン・ファンタスティック&ザ・ブラウンダート・カウボーイ/エルトン・ジョン」
エルトンの70年代の全米でのレコード・セールスは、すさまじいものがありました。ベスト盤を含めて72年の「ホンキー・シャトー」から75年の「ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ」まで、なんと7作品が連続全米№1を記録(計39週)。中でも特筆すべきは、75年発表のこの作品です。ビルボード・アルバムチャートに初登場で第1位という、ビートルズさえも成し得なかったポピュラー音楽史上初の一大快挙を成し遂げているのです。
74年当時、米国でのエルトン人気は徐々に盛り上がりつつありましたが、それは年の後半から一気にスパークします。ジョン・レノンのシングルにエルトンがゲスト出演した「真夜中を突っ走れ」がシングルチャートの№1に輝き、11月にニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのライブにジョン・レノンが飛び入りして、大反響を呼び起こします(ジョンとヨーコがヨリを戻した生前最後のライブです)。
クリスマス・シーズンにはベスト盤の「グレイテスト・ヒッツ」が発売されて、10週連続№1を記録。引き続いてリリースされたジョンとの共演でのビートルズ・ナンバー「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンド」も難なく№1に輝き、人気はピークに。元ビートルズの威光も受けて、彼の人気は想像を絶するほどのレベルに達していたのです(この人気、日本には全くと言っていいほど伝播しませんでしたが…)。
今の時代では、音楽ソフトの販売データが瞬時にチャート形成データに反映されるため、ビルボード誌のチャートで初登場№1というのは決して珍しくない出来事ですが、アナログ集計時代の当時としては大変な出来事だったのです。要するに当時のエルトン人気は、発売数週間前からの予約だけでチャート・トップに躍り出るような販売数を稼いでしまうという驚異的な人気であったということなのです。この陰には、当時「エルトン=ジョン=レノン」と言われ、まるでデュオのように扱われたことで、元ビートルズであるジョンの根強い人気による後押しも少なからずあったようには思います。
さて肝心の中身ですが、エルトンと作詞を手掛けるバーニー・トーピンの二人の成功に至る歴史を全10曲に綴った、至ってプライベートなテーマのコンセプト・アルバムです。テーマの目新しさはあるものの、果たしてこんな歴史的快挙をなしとげるほど素晴らしい出来なのかというと、少々首をかしげざるを得ません。もちろんこの時代のエルトンのアルバムが悪かろうハズはないのですが、彼のそれまでの創作水準からみれば正直言って標準レベルといった感じなのです。この点は最高傑作の呼び声が高い「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」との聞き比べをしてみれば明らかです。楽曲、演奏、アレンジ…、誰がどう判断してもこちらの“負け”は明白であると思います。
その原因として、72~73年の「ホンキー・シャトー」「ピアニストを撃つな!」「グッドバイ・イエロー…」の3作はすべて、フランスのシャトースタジオでの制作であるのに対して、74~75年の「カリブ」、本作、「ロック・オブ…」の3作は米国カリブランチでの制作である点が思い当ります。この6作品、「ロック・オブ…」を除きプロデューサーや録音メンバーに特段の変動はないものの、前半3作品と後半3作品では明らかに印象が違うのです。楽曲にも音にも深みがなくエルトンの魅力が半減と言う感じで、米国制作は英国人のエルトンにはしっくりこない、今思うとそんな印象に落ち着きます。
このように本作は作品の水準は70年代を代表するレベルにはないのですが、「史上初のチャート初登場第1位アルバム」という金字塔は歴史的に語り継ぐに値することであり、その意味では確実に70年代を代表する1枚であると言っていいと思います。
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