日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和49年村田クンの教え 10了~突然の別れ

2010-03-06 | その他あれこれ
3月の声を聞き、温めてまいりました70年代洋楽新企画をいよいよスタートさせたいと思います。その前に、つなぎで短期間と思っていた人探し&ルーツ探し企画「昭和49年村田クンの教え」を、ひとまず終了させます。当初は5本ぐらいと思っていましたが、思い出せばネタが出るは出るは、あっという間の10本でした。

村田クンとの別れはあっけなく訪れました。日頃勉強をしないで本ばかり読んで、音楽ばかり聞いて、絵ばかり眺めて、街を歩き回っていた彼は前年同様成績が芳しくなかったのでした。私の通っていた進学校は中学校でありながら、1年を通しての全科目平均5.5以下(10点満点)、または4点以下の“赤点”3科目以上で進級できないと言う厳しいルールがありました(もうひとつ、“絶転”という2点以下の科目がひとつでもあると即転校(“絶転”は絶対転校の意)というルールもありました。例の三島由紀夫のご子息はこの“絶転”で転校したという噂でした)。村田クンの2学期までの成績はかなりヤバイ状況で、平均点も赤点科目数も3学期に相当頑張らないと厳しい状況であったのです。

彼は珍しく焦っていました。クラスに友達の少ない彼に代わってできる奴らのノートを借りてあげたり、ヤマかけを手伝ってあげたりと、年明けからは随分学年末試験対策の手伝いをした様に思います。彼の焦りの理由は「オヤジ、怒るだろうなぁ~」「また、レコード焼かれちゃうかなぁ~」と言った感じで、なんかちょっとズレていた気もしますが、顔つきだけはかなり真剣になっていました。さすがにまっすぐ帰宅する日々に移行しましたが、肝心の試験に突入すると「あーあ、夕べも勉強始めたらつまんなくてさ、また本読んじゃったんだよ…」とかの連続で、結局たいした試験勉強もせずに連日試験に臨んでいる様子でした。

3月上旬、すべての試験が終わると彼は、「やべーなぁ。俺ダメかもしんねーよ。でも全科目平均5.5以下でアウトって言ってるけど、実は5.0以上で赤点が2科目以下なら進級会議で下駄はかしてくれるらしいんだ。とりあえずはそこに期待だな」と、さほど落ち込む様子もなく、試験の終わったその日は一緒にお茶の水あたりをブラブラしにいったのでした。「さっきの進級会議の話が本当なら、大丈夫じゃないの」、私も根拠なくはげましてみました。彼は「別に今更心配してもしょうがないから心配しねーし、お前も無理して慰めなくていいよ」と言いながら、いつものように岩波本社地下の書籍販売コーナーに行くと、岩波新書を数冊まとめ買いして「あー、やっと心おきなく好きな本が読めるぜ」と明るい顔で別れました。

その日の彼の明るい表情が「彼はたぶん大丈夫」という印象につながったのか、進級会議がいつあったのかも知らぬまま終業式の日を迎えました。いつもの教室に入っていくと、村田クンの席は主不在で空いたまま、結局彼はその日学校に現れませんでした。終業式と形だけの卒業式が終わると誰かが言いました。「村田、結局ダメだったんだな」。私は急にとてもさびしい気持ちになりました。もっと「しっかり試験勉強しろよ」と言ってやればよかったなと、思いました。でも、時すでに遅しでした。彼は「卒業証書」と引き換えに学園を去ることになったのでした。本当に刺激に満ちた激動の1年でした。音楽、芸術、文学、哲学、ファッション、人の道…、わずか1年間でしたが、たくさんのことを教えてくれとても大きな影響を与えてくれた彼でした。彼から教えてもらったことがなければ、今の私は随分違ったものになっていたかもしれません。落ち着いて考えてみれば、少なくとも今私が今大切にしているいろいろな分野の興味事のルーツは、大抵村田クンに起因しているものだったりするのですから、その影響は大変なものなのです。

その年の春、「急に居なくなって悪かったな」と突然彼から電話があって、ゴールデン・ウィークのとある休日に渋谷で一度だけ会いました。彼が言っていたことは、「オヤジに顔の形が変わるほど殴られた」「ほぼ勘当扱いで家を出ていくことになった」「高校へは行かず、働きながら高校検定を受けて大学に行く」「一緒の大学行ったらまた仲良くやろうぜ」といったことでした。その日は、ブラブラ歩いてはあちこちの喫茶店で一日いろいろ話を聞きました。最後に彼は「家には電話するなよ。取り次いでもらえないし、俺に友だちから電話がかかるとまたオヤジに怒鳴られる。落ち着いたらまた俺から連絡するよ」と言って別れました。そしてもう一言、「大関、バカになりたくなかったら本読めよ」と。結局彼からの連絡はありませんでした。そのうちに私も高校生活が忙しくなって、彼の事はすっかり忘れていました。その後一度だけ、彼の噂を聞いたことがありました。彼と行ったことが縁で浪人時代よく通ったお茶の水の喫茶店に大学時代懐かしい気持ちで立ち寄った際に、マスターだったか常連客だったかが、彼は子供ができて結婚して大学受験をあきらめたらしいって話をしていました。未確認情報ですが、彼の音信はそれが最後でした。

今月、彼が敬愛していたボブ・ディランが初のライブハウス・ツアーで日本に来ます。彼はよくこう言っていました。「外タレのライブに行くなら絶対最終日だぜ。奴らの来日公演なんて舐められたもんで、最初は連日肩慣らしで本気でやるのは最終日ぐらいなものだよ」。彼の教えに従って、今回も29日のディラン来日公演最終日のチケットをとりました。彼も見に来るでしょうか。会いたいですね、ディランにも、彼にも。

※ひとまず、「昭和49年村田クンの教え」を終わります。また思い出しネタがたまったら時々書くかもしれませんが…。村田クンに心から感謝の意をささげます。