日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№77~全米を席巻した“再生ビジネス”バンドの顛末

2009-07-26 | 洋楽
77年正統派ロックのニューバンドがヒット・チャートに登場しました。フォリナーです。

№77   「栄光の旅立ち/フォリナー」

元スプーキー・トゥースのミック・ジョーンズ(G)が中心となって77年にデビューした腕に覚えの英国人3人、米国人3人のバンド、それがフォリナーです。「フォリナー=外国人」というバンド名は、英米混合を象徴的にあらわしたものである訳です。70年代前半には、有名ロックバンドの離合集散で生まれたバッド・カンパニーやKGBといった“スーパーバンド”がもてはやされたりしたものですが、70年代半ば以降はニューカマーたちの時代が到来。「昔の名前」組の再編成は久しく聞かれなくなっていた中、さっそうと登場した“再生ビジネス・バンド”が彼らだったのです。

ミックとともにバンド結成の柱となったのが、元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルド(G、KEY、SAX)。彼らは“腕に覚え”のミュージシャンたちのオーディションを繰り返し、元ブラック・シープのボーカリスト、ルー・グラムや元ハンター・ロンソン・バンドのデニス・エリオット(D)らを加え、単なる「再生バンド」の域を超えた新生“スーパーバンド”として、鮮烈なデビューを果たすのでした。77年3月にリリースされた彼らのデビューアルバム「栄光の旅立ち」は、経験豊富な彼らならではの洗練された内容で、とてもデビュー作とは思えない充実の一作だったのです。

A1「衝撃のファーストタイム」はまさにタイトルどおり、1曲目にふさわしいインパクトと魅力的なメロディのナンバーで、ファースト・シングルとしてアルバムと同時リリースされ、全米4位の大ヒットを記録し“衝撃のデビュー”を印象付けました。さらに続いてカットされたA2「冷たいお前」も全米6位にランクされる連続ヒットを記録。日本ではこの曲が大ヒットして、一躍英米混合の“スーパーバンド”として人気を集めたのでした。さらに第3弾シングルB1「ロング・ロング・ウェイ・フロム・ホーム」も全米20位まで上昇。アルバムは最高位4位にランクされた後もリリース後約1年にわたってTOP20にランクインし続けるという快挙を成し遂げ、見事“再生ビジネス”を成功に導いたのでした。

その後も「ダブルビジョン」「ヘッド・ゲームス」とヒットアルバムを連発。70年代後半のディスコ、パンク全盛の時代にあって、抵抗を続ける数少ない正統派ロックバンドの旧勢力的存在として、大健闘を続けます。ところが、81年の4作目「4」制作時に彼らに一大事件が起こります。アルバムの制作方針を巡って、SONYの盛田&井深的“創業コンビ”であるミックとイアンが衝突。結局イアンと彼を支持したキーボードのアル・グリーンウッドはバンドを脱退してしまいます。しかしながら、ミック主導でリリースされた「4」は彼ら最大のヒットアルバムとなり、大ヒットバラード「ガール・ライク・ユー」はその後の彼らの新たな方向性を決定づけるものとなったのでした。

新たな方向性とはすなわち、一般に言われる「アリーナ・ロック」あるいは「産業ロック」と言われる路線でした。彼らはその後、「ガール…」と同系統のバラードを主流にしたあからさまな“売れ線狙い戦略”に転換します。初期からのファンはこうした動きを良しとせず、次第に人気は下降線をたどり90年にはボーカルのルー・グラムも脱退(その後一時期復帰)、現在は実態として“懐メロバンド”になり下がった状態でツアー中心の活動を続けているのです。

そもそもがミック・ジョーンズの“再生ビジネス”として誕生したフォリナー。初期の大ブレイクの後、僚友イアンと袂を分かちつつも敢えて80年代の「産業ロック」化の流れに入っていたのは、むしろビジネス・パーソンたる彼の面目躍如といってもいいのかもしれません。しかしながら現在、“懐メロバンド”と化したフォリナーにルー・グラムそっくりのボーカルを雇い入れることで、“集金マシンビジネス”として世界中をツアーする二重アゴの彼の姿を見るにつけ、“再生”を誓った夢多き70年代の姿とのあまりにかけ離れた有様には悲しみを禁じ得ないのです。