日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№73~Jレノンとの共演で米国を制覇したボウイ

2009-06-07 | 洋楽
デビッド・ボウイの70年代を代表する作品と言えば「ジギー・スターダスト」。名盤選出企画では必ず顔を出す“常連”ですが、米国での発売当時の最高位は75位と、意外にも70年代の彼の作品中、米国で最も売れなかったアルバムでもあるのです。

№73  「ヤング・アメリカン/デビッド・ボウイ」

このアルバムが、名盤選びで選出されることはまずありません。何度も繰り返しますが、本企画の趣旨は「名盤選び」ではなく「個人的愛聴盤紹介」でもありません。素晴らしき70年代のリアル体験を元に、当時国内で最もホットな洋楽情報の仕入れ先として多くの若者が聞いていたラジオ番組「全米TOP40」から受けたインパクトを中心として、70年代当時のリアルタイム的重要作品をアルバム単位で選出するものです。デビッド・ボウイのこのアルバムを選出した意図は、ボウイ念願の全米レベルでの成功と75年のB4「フェイム」による初の全米チャート制覇、を評価したものです。

デビッド・ボウイの70年代は、その前半は「ギジー…」に代表される“グラム・ロック期”であり、後半ではブライアン・イーノとの共作でのある意味至って耽美主義的なヨーロッパ三部作を世に送り出しています。そしてその間に挟まれた、75~76年時期がこのアルバムに端を発する“ホワイト・ファンク期”であるのです。前作「ダイヤモンドの犬」で、ソウル・ミュージックへの接近を意識し始めたボウイは、このアルバムで初のアメリカ録音を試み、主にフィラデルフィアで黒人ミュージシャンも起用して制作。意欲的にソウル&ファンクへのアプローチをした作品となっているのです。

もうひとつこのアルバムの制作で大きなポイントとなったのが、ジョン・レノンとの共演でした。75年のグラミー賞授賞式で彼はジョンと懇意になります(その時ボブ・グルーエン氏によって収められたボウイ+ジョン&ヨーコ+サイモン&ガーファンクルの写真は当時「ミュージック・マガジン」誌上で紹介され、中坊の私はえらく興奮したのを覚えています)。その縁で彼はジョンとNYでセッションを行い、ジョンのパフォーマンスにインスピレーションを得て先の「フェイム」を共作しレコーディングしたのです。同時に、ビートルズの名曲B2「アクロス・ザ・ユニバース」の共演カバーも収録されました。

ボウイはこのジョンとの共演により、彼独自のホワイト・ファンクを確実にモノにし、この勢いを駆って次作「スティション・トゥ・ステイション」とシングル「ゴールデン・イヤーズ」も全米で大ヒット。ボウイの“第一次アメリカ進出”は成功裏に幕を下ろしました。次に彼が米国市場を賑わすのは、83年の「レッツ・ダンス」です。当時一世を風靡したナイル・ロジャース=“パワー・ステーション・サウンド”の代表作ですが、ボウイが80年代にこのアルバムを作り得たのは、70年代半ばの2枚のアルバムでホワイト・ファンクをものにしていたからに間違いなく、その発端たる「フェイム」の誕生は、ジョン・レノンがボウイにもたらした大いなる音楽遺産であると思います。