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2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

秋田県民のご先祖様は?

2024-07-12 23:04:38 | 秋田古代史

引き続き、横手市史を読むことで秋田県の歴史のお勉強中です。弥生/古墳時代から始まり、ようやく10世紀まで来ました。この間は古代の秋田県の歴史。学校で勉強した歴史の時間には、坂上田村麻呂が出てくるぐらいで、ほとんど日本史の教科書には書かれていません。

今回の歴史のお勉強では、今の秋田県民の御先祖様はいつ、どうやって秋田に住むようになったのか?というのがお勉強の目的。お勉強を始める前は、元々秋田にいた、とぼんやり思っていましたが、古代をお勉強すると、いろいろなタイミングで関東や信州、新潟辺りから移住してきた(させられてきた)ということを知りました。

古墳時代、ヤマト王権の勢力は、支配地としては富山-福島ライン辺りまでで、宮城や山形にも古墳は残っていますが、6-7世紀と築造時期が遅かったり、支配と云うより友好種族として文化交流があった結果と、近年ではされているようです。

その後、北や東に勢力を伸ばすために、新潟(渟足柵=垂沼)や(宮城)郡山柵(仙台)と云った先端地に砦を作って支配力を高めるとともに、関東などから移民(柵戸)を送り込んで人を増やすことで、「郡」という行政区域を確立すると云う方法を取ったようです。この政策は、大化改新(645年)以降成立した律令政府の東北経営の重要な政策とされ、10世紀まで、北は秋田県(秋田城)や岩手県(志波城)まで続きました。

また律令政府に服属した現地原住民(蝦夷・えみし)には、宴会でもてなしたり、朝廷から位爵や名前を与えたりという「飴」と、ごく属しなかった蝦夷に対しては、安倍比羅夫や坂上田村麻呂、文室綿麻呂といった鎮守府将軍たちによる征伐軍の派兵といった力による「ムチ」を振るったとのこと。文室綿麻呂という名前は、市史では「坂上田村麻呂に次ぐ有名な」と書かれていましたが、不勉強だったせいか、初耳でした。こうした征伐軍で兵士が送られ来た中にも、後に土着した、なんていう人も多くいたことと思います。

さらに、縄文時代から交易が行われていたということですが、この時代でも東北(から北海道)の物産は、京都などでは貴重品で、多くの商人が入っていたことも考えれます。東北が名馬の産地になったのも、7-8世紀からとの見方もあるようです。

一方で、律令政府による支配やいろいろな賦役、徴税などに不満が溜まり、度々叛乱がおきていたのも歴史の事実で、多賀城から胆沢あたりで活躍した阿弖流為(アテルイ)を典型として、その姿が勇猛果敢だったこともあり、この後の時代でどうしても現地原住民が野蛮人的にみられることになったようです。


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