陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

650.山本権兵衛海軍大将(30)山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った

2018年09月07日 | 山本権兵衛海軍大将
 参考までに、鈴木と財部の進級年齢を比較してみると、次の様になる。

 海軍兵学校一四期の鈴木の進級は、少佐<三十一歳>、中佐<三十六歳>、大佐<四十歳>、少将<四十六歳>、中将<五十歳>、大将<五十六歳>。

 海軍兵学校一五期の財部の進級は、少佐<三十二歳>、中佐<三十六歳>、大佐<三十九歳>、少将<四十二歳>、中将<四十六歳>、大将<五十二歳>。

 昭和五年一月二十一日から四月二十二日まで開催されたロンドン海軍軍縮会議に、若槻礼次郎前首相とともに海相・財部彪大将は全権として出席していた。

 その時の、財部海相の優柔不断な態度と、観光旅行でも行くように妻いねを同伴した軟弱さへの批判が海軍部内に高まった。

 江田島の海軍兵学校にまで、その批判の空気が伝染し、生徒らの間に、「死して広瀬になるとも、生きて財部となるなかれ」という合言葉が流れていたという。

 山本権兵衛ほど傑出した海軍の将星はいなかったといわれるが、財部の超特急昇進の一点は、情に流れた不覚の失敗だった。

 明治三十年五月に、英国ビクトリア女王の即位六十年記念祝典がロンドンで開催されることになり、皇族である常備艦隊司令官・有栖川宮威仁親王少将が、天皇の名代として参列することになった。

 有栖川宮少将は、英国で建造された新鋭高速巡洋艦「吉野」に座乗して訪英することを熱望し、次の四人の内諾をとりつけた。

 松方正義(まつかた・まさよし)首相(鹿児島・薩摩藩士・御船奉行添役・御軍艦掛・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞・大蔵官僚・渡欧・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣・内閣総理大臣・麝香間祗候<じゃこうのましこう=華族または親任官であった官吏を優遇するための名誉職>・内閣総理大臣・元勲待遇<元老>・枢密顧問官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス等)。

 大隈重信(おおくま・しげのぶ)外相(佐賀・佐賀藩士・弘道館教授・佐賀藩校英学塾教頭・維新後外国事務局判事・大蔵大輔・参議・大蔵卿・統計院初代院長・立憲改進党結成・東京専門学校<現・早稲田大学>開設・伯爵・外務大臣・憲政党結成・内閣総理大臣・早稲田大学総長・内閣総理大臣・侯爵・貴族院議員・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・ロシア帝国神聖アレキサンドルネウスキー勲章等)。

 西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞・陸軍少将・陸軍中将・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・元老・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 伊東祐亨(いとう・すけゆき)軍令部長(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)。

 ところが、その後、海軍省から「吉野」は出すことができないと通知があり、有栖川宮少将は憤激した。

 有栖川宮少将が西郷従道海相に電話すると、「私は、異議はないのですが、海軍省の省議として「吉野」は出すことができないと決まりましたものですから」と、要領を得なかった。

 伊東祐亨軍令部長も「私は賛成なのですが、海軍省が不同意と申しますので、どうにもなりません」と、同様な返事だった。

 思い当たった有栖川宮少将は、軍務局長・山本権兵衛少将に来邸を求めた。
 
 有栖川宮少将の官邸を訪ねた、挨拶が終わると機先を制して、山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った。

 出鼻を挫かれた有栖川宮少将は、「いや、そうではない。尋ねたいことがあって、よんだのだ」と言って、「吉野」の問題について、説明を求めた。