陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

632.山本権兵衛海軍大将(12)四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した

2018年05月04日 | 山本権兵衛海軍大将
 「そこでこの件を熱心に主張した仁礼さんは立場を失い、官を辞して鹿児島に帰るというとられる。おいどんら同志も、仁礼さんと進退を共にすっ覚悟じゃ。おはんの上京を促したのもこんためだ」。

 伊東中将も仁礼少将も旧薩摩藩士だが、伊東中将は明治五年八月、中牟田倉之助(明治四年十一月に少将)についで少将となり、明治十一年十一月に中将に昇進した。一方、仁礼少将は、明治十三年二月に少将となったもので、伊東中将には勝てなかったのだ。

 日高中尉の話を聞いた、山本中尉は、日高中尉の逸る気持ちを制するように次のように言った。

 「はじめて事情が分かった。じゃどん、おいの考えはおはんとちと違う。今回のこつはおいの献策が原因じゃから、その責任を回避っす気はなかが、献策を採用すっかせんかは相当の地位にある者の権威にある。その局になく、学窓を出て実務に就いたばかりの下級者が、献策が採用されんちゅうて、すぐに辞職しちょったら、人事行政はできんようになっじゃなかか」

 「往年、西郷先生が辞職されたとき、その責任の位置にある者もない者も、同志多数が職を辞して鹿児島に帰った。あれと大小軽重の差はあっが、おなじようなもんで、そいはわが故郷の誇りでもなく、おいどんらの名誉でもなか。また、至誠公に奉ずる道でもなかろ」。

 以上の山本中尉の心情を聞いた、日高中尉は「わかった。おはんのいうとおりじゃ。仁礼さんにも、そういうてたもんせ」と答えた。

 山本中尉は仁礼少将を訪ね、詳しく意見を述べて、辞官を思いとどまるよう諫めた。仁礼少将は辞官して帰郷することは中止した。

 しかし、明治十三年十二月四日に伊東中将が軍務局長に就任したあと、十二月八日、仁礼少将は海軍兵学校校長を退き、非職となった。

 非職とは、官位はそのままだが、職務がなく、給料も本給の三分の一になる制度。

 十二月二十六日、今回の騒動の余波を受けた、山本権兵衛中尉は、再び、練習艦「乾行」乗組みを命ぜられ、差し戻された。

 明治十四年の年が明けて間もない頃、練習艦「乾行」で当直勤務中の山本中尉は、「汽艇二隻を隅田川に回せ」という海軍卿・榎本武揚中将からの命令を伝達された。

 山本中尉は艦長の承認を得て、鹿野勇之進少尉に艇の指揮を命じ、汽艇二隻を隅田川に回航させた。

 榎本中将はその二隻の汽艇に、外国使臣らを招待し、芸者連中を侍らせて、遊興した。その噂は、たちまち、海軍部内に広がった。

 この話を聞いた、四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した。そして、榎本武揚の排斥運動を始めた。四名の中堅士官は次の通り。

 スループ「日進」艦長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)中佐(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・維新後海軍大尉・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「龍驤」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府長官・常備艦隊長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・黄海海戦で勝利・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国神聖スタニスラス第一等勲章)。

 コルベット「浅間」艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 軍艦艦長・笠間広盾中佐(中佐・コルベット「筑波」艦長・鉄甲コルベット「比叡」艦長・大佐・死去)。

 東海水兵本営長・有地品之允(ありち・しなのじょう)中佐(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後欧州出張・陸軍少佐・侍従・海軍少佐・提督府分課・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・参謀本部海軍部第一局長・少将・横須賀軍港司令官・海軍機関学校校長・海軍兵学校校長・海軍参謀部長・常備艦隊司令長官・中将・呉鎮守府司令長官・日清戦争・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・予備役・男爵・貴族院議員・帝国海事協会初代理事長・枢密院顧問・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・ハワイ王国クラウンオブハワイ勲章)。