四名の中堅士官らが排斥運動を始めたにもかかわらず、榎本海軍卿は、今度は京橋三十間堀の料亭で、博徒らと盛大な酒宴を開いた。海軍部内の榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった。
山本中尉の同僚らは、山本中尉を押し立て、隅田川の一件について、海軍省に抗議しようとはかった。
だが、山本中尉は、「海軍卿の進退を論ずることなどに、我々のような下級者はすべきでない」と、受け付けなかった。
ところが、明治十四年二月十五日、山本中尉は突然、練習艦「乾行」乗組みを罷免され、非職を命ぜられた。
山本中尉は「不当な処置である」と怒り、練習艦「乾行」艦長・浜武慎中佐(後海海軍兵学校教官・大佐)に、その理由を質した。
だが、浜中佐は「兵学校からこの辞令が届けられたから、君に交付しただけだ」と言うだけだった。海軍兵学校の人事係に尋ねても、同様の答えが返って来た。
山本中尉は、榎本海軍卿に宛てて、上申書を書いた。要旨は次のようなものだった。
「軍人が非職に入るのは、品行が修まらない、疾病、自己請願、この三つのいずれかに該当した場合と、法規に厳として定められている。ところが、自分は、身を海軍に委せ、君国のため一意奉公の至誠を捧げて職務に服し、なんら過失の覚えがなく、かつ心身ともに健全であり、請願もしていない」
「それにもかかわらず、突然非職に入れられたのは如何なる理由によるものか、願わくは高教を垂れていただきたい」。
しかし、山本中尉の上申書は、高い棚に束ねられて、捨て置かれた。
山本中尉の家は、芝田町九丁目にある、川路利良(かわじ・としよし)警視総監(鹿児島・禁門の変・戊辰戦争・薩摩官軍大隊長・会津戦争・薩摩藩兵器奉行・維新後東京府大属・典事・邏卒総長・欧州警察制度を視察・初代警視総監・西南戦争・陸軍少将・別働第三旅団司令長官・欧州警察制度視察・病気になり帰国・病死・正五位・勲二等旭日重光章)の邸宅の近くにあった。
非職となり、山本中尉の月給は四十五円から十五円になった。山本中尉の家は借家で、家賃は五円だった。女中が一人いて、その月給はニ十銭~三十銭だった。
三月二十九日、家計は緊迫していたが、そこへもってきて、妻の登喜子が次女を出産した。さすがに剛気の山本中尉も参った。しかし、堪えるしか道はなかった。
次女の、すゑ子は、後に、山路一善(やまじ・かずよし)海軍中将(愛媛・海兵一七・三席・少佐・日露戦争・連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀・中佐・第一艦隊第三戦隊参謀・第一次世界大戦・少将・第三特務艦隊司令官・海軍の航空兵力導入に尽力・「海軍航空生みの親」・中将・正五位・勲三等・功三級)の夫人になる。
明治十四年四月七日、榎本武揚海軍卿が罷免され、川村純義(かわむら・すみよし)大将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争・参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死去・海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)が再び海軍卿に就任した。
榎本武揚海軍卿の更迭を、三宅雪嶺(みやけ・せつれい・石川・加賀藩儒医の子・官立東京開成学校・東京大学文学部哲学科卒・自由民権運動・政教社設立・「日本人」創刊・帝国芸術院会員・文化勲章受章・「真善美日本人」など著書多数・哲学者・評論家)は、その著書「同時代史」で次の様に述べている。
「榎本が部内の人を動かさんとし、薩摩出身者が怒り、賊軍の身分にて生意気なりとて、集まりて殴打し、海軍卿の更迭を惹き起こす。之には佐賀に人も与かり、川村が卿となれる後、中牟田(佐賀出身)が同大輔(次官)となる」。
明治十四年七月上旬、山本中尉は、海軍卿・川村純義中将に呼び出された。窮乏生活も五か月になろうとしていた。
川村中将は、「おはんは、七月十三日付で、航海練習艦『浅間』の乗組みを仰せ付けられることにないもした」と山本中尉に告げた。「まっこと、あいがとごわす」と、山本中尉は深く頭を下げた。
だが、山本中尉は、それだけでは、気が済まず、非職になった理由を問い質した。すると、川村中将は次の様に言って諭した。
「過去は追わんがよか。前途が大切じゃ。いまやわが海軍は、「浅間」を練習艦として、新たに砲術専攻の門戸を開かんとしちょる。こげんとき、おはんら有意の士官に、絶大の努力をしてもらわにゃならん。他の一切の経緯を顧みず、奮起してたもんせ」。
山本中尉は、承服した。
山本中尉の同僚らは、山本中尉を押し立て、隅田川の一件について、海軍省に抗議しようとはかった。
だが、山本中尉は、「海軍卿の進退を論ずることなどに、我々のような下級者はすべきでない」と、受け付けなかった。
ところが、明治十四年二月十五日、山本中尉は突然、練習艦「乾行」乗組みを罷免され、非職を命ぜられた。
山本中尉は「不当な処置である」と怒り、練習艦「乾行」艦長・浜武慎中佐(後海海軍兵学校教官・大佐)に、その理由を質した。
だが、浜中佐は「兵学校からこの辞令が届けられたから、君に交付しただけだ」と言うだけだった。海軍兵学校の人事係に尋ねても、同様の答えが返って来た。
山本中尉は、榎本海軍卿に宛てて、上申書を書いた。要旨は次のようなものだった。
「軍人が非職に入るのは、品行が修まらない、疾病、自己請願、この三つのいずれかに該当した場合と、法規に厳として定められている。ところが、自分は、身を海軍に委せ、君国のため一意奉公の至誠を捧げて職務に服し、なんら過失の覚えがなく、かつ心身ともに健全であり、請願もしていない」
「それにもかかわらず、突然非職に入れられたのは如何なる理由によるものか、願わくは高教を垂れていただきたい」。
しかし、山本中尉の上申書は、高い棚に束ねられて、捨て置かれた。
山本中尉の家は、芝田町九丁目にある、川路利良(かわじ・としよし)警視総監(鹿児島・禁門の変・戊辰戦争・薩摩官軍大隊長・会津戦争・薩摩藩兵器奉行・維新後東京府大属・典事・邏卒総長・欧州警察制度を視察・初代警視総監・西南戦争・陸軍少将・別働第三旅団司令長官・欧州警察制度視察・病気になり帰国・病死・正五位・勲二等旭日重光章)の邸宅の近くにあった。
非職となり、山本中尉の月給は四十五円から十五円になった。山本中尉の家は借家で、家賃は五円だった。女中が一人いて、その月給はニ十銭~三十銭だった。
三月二十九日、家計は緊迫していたが、そこへもってきて、妻の登喜子が次女を出産した。さすがに剛気の山本中尉も参った。しかし、堪えるしか道はなかった。
次女の、すゑ子は、後に、山路一善(やまじ・かずよし)海軍中将(愛媛・海兵一七・三席・少佐・日露戦争・連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀・中佐・第一艦隊第三戦隊参謀・第一次世界大戦・少将・第三特務艦隊司令官・海軍の航空兵力導入に尽力・「海軍航空生みの親」・中将・正五位・勲三等・功三級)の夫人になる。
明治十四年四月七日、榎本武揚海軍卿が罷免され、川村純義(かわむら・すみよし)大将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争・参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死去・海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)が再び海軍卿に就任した。
榎本武揚海軍卿の更迭を、三宅雪嶺(みやけ・せつれい・石川・加賀藩儒医の子・官立東京開成学校・東京大学文学部哲学科卒・自由民権運動・政教社設立・「日本人」創刊・帝国芸術院会員・文化勲章受章・「真善美日本人」など著書多数・哲学者・評論家)は、その著書「同時代史」で次の様に述べている。
「榎本が部内の人を動かさんとし、薩摩出身者が怒り、賊軍の身分にて生意気なりとて、集まりて殴打し、海軍卿の更迭を惹き起こす。之には佐賀に人も与かり、川村が卿となれる後、中牟田(佐賀出身)が同大輔(次官)となる」。
明治十四年七月上旬、山本中尉は、海軍卿・川村純義中将に呼び出された。窮乏生活も五か月になろうとしていた。
川村中将は、「おはんは、七月十三日付で、航海練習艦『浅間』の乗組みを仰せ付けられることにないもした」と山本中尉に告げた。「まっこと、あいがとごわす」と、山本中尉は深く頭を下げた。
だが、山本中尉は、それだけでは、気が済まず、非職になった理由を問い質した。すると、川村中将は次の様に言って諭した。
「過去は追わんがよか。前途が大切じゃ。いまやわが海軍は、「浅間」を練習艦として、新たに砲術専攻の門戸を開かんとしちょる。こげんとき、おはんら有意の士官に、絶大の努力をしてもらわにゃならん。他の一切の経緯を顧みず、奮起してたもんせ」。
山本中尉は、承服した。