十月には、陸軍二〇〇万円、海軍一五〇万円の減額案が示された。桂陸相と西郷海相は、これに猛然と反対し、結局、陸海両省の減額を一〇〇万円にとどめた。
憲政党の隈板内閣は、旧進歩党派、旧自由党派の間で、閣僚数の不均衡や、各党員らの突き上げで、不協和音が高くなってきた。
そんな時、文部大臣・尾崎行雄(おざき・ゆきお・神奈川・慶應義塾・工学寮・新潟新聞・報知新聞論説委員<二十四歳>・東京府会議員・衆議院議員<三十二歳・以後連続当選二十五回当選の世界記録>・進歩党・憲政党・文部大臣<四十歳>・東京市長・政友会・中正会・司法大臣・憲政会・無所属・太平洋戦争終戦後衆議院議員<八十八歳~九十四歳>・勲一等旭日大綬章)が、共和演説事件を起こし、十月二十四日、辞任した。
尾崎文相は、帝国教育界で演説した時、その中で、帝国を共和国と仮定して、論を進めたが、論中に不謹慎な言葉があった。
それが新聞に掲載されて問題になったのだが、尾崎文相のこの演説を躍起となって攻撃したのは、旧自由党派の新聞だった。旧進歩党派の新聞は批判を避けていた。
「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎陸軍大臣は、この問題は、旧自由党派の旧進歩党派に対する復讐的攻撃であると見ていた。板垣退助内務大臣も、これを閣議に持ち込み、大いに論難したのだ。
世論も大きくなり、内閣もどうなるかわからない形勢になって来たので、陸軍大臣・桂太郎大将は、このまま放置できないと考えて、大隈重信首相を訪ねて、次の様に忠告した。
「尾崎文相の演説問題は、いまや宮中府中の間にも取り上げられている。わけても貴族院の如きは、これを政治問題にしようとしている情勢すらうかがわれる。尾崎の真意はよくわからないが、政治問題となり、やがて宮中にも累を及ぼすようなことになっては、弁解の余地もない」
「首相から尾崎によく忠告し、すみやかに参内して謝罪させたほうがよい。事が長引いては、首相の責任に及ぶことにもなりかねない。一時逃れをしていても、やがて貴族院が、責任を問うことは明白であるから、それを未然に防ぐことが主唱としてこの際必要である」
「尾崎が参内して謝罪すれば、この上とも追及されることもあるまい。そこまでいけば、世論が如何にやかましくなっても、また貴族院が如何に問責の論を強くしようとも、もう事はすでに終わったことになるから、心配はない」。
大隈首相もこの桂陸相の意見をもっともと考え、尾崎文相にその旨を伝えた。九月六日、尾崎文相は参内して明治天皇に罪を謝した。
その宮中からの帰途、尾崎文相は桂陸相をその官邸に訪ねた。そして、桂陸相が大隈首相を通して忠告してくれたことを謝し、あわせて宮中での明治天皇に対する陳述の模様を桂陸相に語った。
それを聞き終えた桂陸相は、尾崎文相に向かって、次の様に答えた。
「自分の忠告を聞き入れてくれたことは満足だが、今聞くところによれば、貴下の言は弁解に過ぎないような気がする。それはかえって無用のことではないか。しかし、もう過ぎたことなのでどうにもならない」。
はたして、尾崎文相の参内、明治天皇への謝罪は効果がなく、共和演説問題は、世間の大問題となっていった。遂に宮中でもこれを不問に付すことが出来なくなり、十月二十日、大徳寺実則侍従長が板垣内相を訪問した。
また、十月二十二日、岩倉具定(いわくら・ともさだ)侍従職幹事(京都・岩倉具視の次男・戊辰戦争・維新後米国留学・政府出仕・伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧・公爵・貴族院議員・学習院院長・枢密顧問官・宮内大臣・公爵・従一位・旭日桐花大綬章・大勲位瑞星大綬章等)が大隈首相を訪問した。
さらに十月二十三日には、明治天皇から大隈首相に対し、「このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!」との沙汰があった。
これにより、同日、尾崎文相は大隈首相に辞表を呈出、翌二十四日、大隈首相が参内、尾崎文相の辞表を執奏した。
尾崎文相は、宮中での明治天皇へ謝罪の陳述を奏上したことについて、「桂陸軍大臣に、してやられてしまった」と、桂陸相に対して、恨みの感情を持った。
謝罪の陳述に対して、明治天皇が不快感を抱いたので、尾崎内相は、むしろ、参内しなかった方がよかったと思った。以後、尾崎は桂に嫌悪の念を持ち、ことごとく対立の姿勢をとることになる。
憲政党の隈板内閣は、旧進歩党派、旧自由党派の間で、閣僚数の不均衡や、各党員らの突き上げで、不協和音が高くなってきた。
そんな時、文部大臣・尾崎行雄(おざき・ゆきお・神奈川・慶應義塾・工学寮・新潟新聞・報知新聞論説委員<二十四歳>・東京府会議員・衆議院議員<三十二歳・以後連続当選二十五回当選の世界記録>・進歩党・憲政党・文部大臣<四十歳>・東京市長・政友会・中正会・司法大臣・憲政会・無所属・太平洋戦争終戦後衆議院議員<八十八歳~九十四歳>・勲一等旭日大綬章)が、共和演説事件を起こし、十月二十四日、辞任した。
尾崎文相は、帝国教育界で演説した時、その中で、帝国を共和国と仮定して、論を進めたが、論中に不謹慎な言葉があった。
それが新聞に掲載されて問題になったのだが、尾崎文相のこの演説を躍起となって攻撃したのは、旧自由党派の新聞だった。旧進歩党派の新聞は批判を避けていた。
「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎陸軍大臣は、この問題は、旧自由党派の旧進歩党派に対する復讐的攻撃であると見ていた。板垣退助内務大臣も、これを閣議に持ち込み、大いに論難したのだ。
世論も大きくなり、内閣もどうなるかわからない形勢になって来たので、陸軍大臣・桂太郎大将は、このまま放置できないと考えて、大隈重信首相を訪ねて、次の様に忠告した。
「尾崎文相の演説問題は、いまや宮中府中の間にも取り上げられている。わけても貴族院の如きは、これを政治問題にしようとしている情勢すらうかがわれる。尾崎の真意はよくわからないが、政治問題となり、やがて宮中にも累を及ぼすようなことになっては、弁解の余地もない」
「首相から尾崎によく忠告し、すみやかに参内して謝罪させたほうがよい。事が長引いては、首相の責任に及ぶことにもなりかねない。一時逃れをしていても、やがて貴族院が、責任を問うことは明白であるから、それを未然に防ぐことが主唱としてこの際必要である」
「尾崎が参内して謝罪すれば、この上とも追及されることもあるまい。そこまでいけば、世論が如何にやかましくなっても、また貴族院が如何に問責の論を強くしようとも、もう事はすでに終わったことになるから、心配はない」。
大隈首相もこの桂陸相の意見をもっともと考え、尾崎文相にその旨を伝えた。九月六日、尾崎文相は参内して明治天皇に罪を謝した。
その宮中からの帰途、尾崎文相は桂陸相をその官邸に訪ねた。そして、桂陸相が大隈首相を通して忠告してくれたことを謝し、あわせて宮中での明治天皇に対する陳述の模様を桂陸相に語った。
それを聞き終えた桂陸相は、尾崎文相に向かって、次の様に答えた。
「自分の忠告を聞き入れてくれたことは満足だが、今聞くところによれば、貴下の言は弁解に過ぎないような気がする。それはかえって無用のことではないか。しかし、もう過ぎたことなのでどうにもならない」。
はたして、尾崎文相の参内、明治天皇への謝罪は効果がなく、共和演説問題は、世間の大問題となっていった。遂に宮中でもこれを不問に付すことが出来なくなり、十月二十日、大徳寺実則侍従長が板垣内相を訪問した。
また、十月二十二日、岩倉具定(いわくら・ともさだ)侍従職幹事(京都・岩倉具視の次男・戊辰戦争・維新後米国留学・政府出仕・伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧・公爵・貴族院議員・学習院院長・枢密顧問官・宮内大臣・公爵・従一位・旭日桐花大綬章・大勲位瑞星大綬章等)が大隈首相を訪問した。
さらに十月二十三日には、明治天皇から大隈首相に対し、「このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!」との沙汰があった。
これにより、同日、尾崎文相は大隈首相に辞表を呈出、翌二十四日、大隈首相が参内、尾崎文相の辞表を執奏した。
尾崎文相は、宮中での明治天皇へ謝罪の陳述を奏上したことについて、「桂陸軍大臣に、してやられてしまった」と、桂陸相に対して、恨みの感情を持った。
謝罪の陳述に対して、明治天皇が不快感を抱いたので、尾崎内相は、むしろ、参内しなかった方がよかったと思った。以後、尾崎は桂に嫌悪の念を持ち、ことごとく対立の姿勢をとることになる。