大井篤大佐は、軍令部次長・伊藤整一(いとう・せいいち)中将(福岡・海兵三九・十五番・海大二一・次席・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・兼海軍大学校校長・兼軍令部第一部長・兼大本営海軍通信部部長・第二艦隊司令長官・戦艦「大和」で戦死・大将・功一級)からこの会議に出席するように言われた。
当時、軍令部第一部第一課部員(航空作戦主務)だった源田実中佐も出席していた。ある幹部が源田中佐に問いかけた。「マリアナに来やせんかね」。
すると、源田中佐は極めて強い口調で、「いや、絶対にカロリンです」と断定した。嶋田軍令部総長以下、誰もが黙った。
「マリアナに来たら、どうなるんだ」と、作戦関係の部員が、質した。「いや、そんなことは航空の分らん人が言うことです」と源田中佐は決めつけるように言った。
こうして、軍令部の予想は、西カロリン諸島付近となった。大井篤大佐は、源田中佐の自信の強さに驚いた。
昭和十九年一月、柴田武雄中佐は、ラバウルの第二〇四航空隊司令として、ソロモン航空戦を戦い、毎日のように来襲する敵の戦爆連合の大編隊に対し、攻撃を行っていた。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、当時、連合艦隊航空参謀・内藤雄(ないとう・たけし)中佐(山形・海兵五二・六番・海大三六・海軍爆撃術の権威・ドイツ出張・中佐・南遣艦隊参謀・南西方面艦隊参謀・第三艦隊航空甲参謀・連合艦隊航空甲参謀・海軍乙事件で殉職・大佐)がラバウルにやって来た。
内藤中佐は、南東方面艦隊司令部(司令長官・草鹿任一中将)に打ち合わせに来たのだが、その時、官邸山の上にあった、柴田中佐の宿舎を訪れた。内藤中佐は、柴田中佐と海軍兵学校の同期生だった。
内藤中佐は、開口一番、「源田が、柴田の言うことは全部間違っている。たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか、と言っていたよ」と柴田中佐に知らせてくれた。
それを聞いて、「源田はそんな気持ちで重大な航空作戦を指導しているのか」と、柴田中佐の公憤は、その極に達した感があった。
昭和十九年、六月半ばの「あ」号作戦は、軍令部第一部第一課航空作戦主務・源田実中佐が関わった最大の作戦だった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、この作戦は、中部太平洋方面と予想される敵の攻勢に対し、空母を中心とした新編の第一機動艦隊と、陸上基地航空隊群で編成された第一航空艦隊の両方で応戦し、一気に勝敗を決しようというもので、詳細な作戦計画が練りあげられていた。
昭和十九年五月三日には「大海指第三七三号」として発令された。作戦の詳細について、作戦参加部隊に対する説明および研究会が開催された。
トラック基地にいた二五一空にも呼び出しがかかって、司令・柴田武雄中佐も出席することになったが、当初、柴田中佐は「そんな会議なんか出る必要はない」と言って出席を渋った。
軍令部からは、源田中佐のほか、ハワイ真珠湾攻撃の際の空中攻撃隊総指揮官だった淵田美津雄中佐も参謀として来ていた。
源田中佐、淵田中佐、柴田中佐は海軍兵学校五二期の同期生だったが、柴田中佐は、同期ではあるが、源田中佐と淵田中佐のこれまでのやり方を信頼していなかったのだ。
柴田中佐は、しぶしぶ出席したが、厚さ三センチにも及ぶガリ版刷りの作戦計画書を見てうんざりした。
これを読むだけでも大変だが、その精緻な内容は作文としては立派であっても、今の海軍航空隊の実力からしてその筋書き通りに進まないことは、去る二月のトラック大空襲の際のみじめな現実が何よりそれを証明していた。
<あんな机上の空論を、得々と並べ立ててなんになる>。作戦計画について熱弁を振う淵田中佐や源田中佐に対して、柴田中佐は腹立たしさを通り越して、空しさすら覚えていた。
確かにこの作戦計画そのものは立派だった。「我が決戦兵力の大部を結集して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅(ふくめつ)して敵の反攻企図を挫折せしむ……」に始まる詳細な内容は、もしこちらの思惑通りにことが運べば、大勝利間違いなしと思わせるものがあったし、そのために源田中佐としても精一杯の手は打っていた。
当時、軍令部第一部第一課部員(航空作戦主務)だった源田実中佐も出席していた。ある幹部が源田中佐に問いかけた。「マリアナに来やせんかね」。
すると、源田中佐は極めて強い口調で、「いや、絶対にカロリンです」と断定した。嶋田軍令部総長以下、誰もが黙った。
「マリアナに来たら、どうなるんだ」と、作戦関係の部員が、質した。「いや、そんなことは航空の分らん人が言うことです」と源田中佐は決めつけるように言った。
こうして、軍令部の予想は、西カロリン諸島付近となった。大井篤大佐は、源田中佐の自信の強さに驚いた。
昭和十九年一月、柴田武雄中佐は、ラバウルの第二〇四航空隊司令として、ソロモン航空戦を戦い、毎日のように来襲する敵の戦爆連合の大編隊に対し、攻撃を行っていた。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、当時、連合艦隊航空参謀・内藤雄(ないとう・たけし)中佐(山形・海兵五二・六番・海大三六・海軍爆撃術の権威・ドイツ出張・中佐・南遣艦隊参謀・南西方面艦隊参謀・第三艦隊航空甲参謀・連合艦隊航空甲参謀・海軍乙事件で殉職・大佐)がラバウルにやって来た。
内藤中佐は、南東方面艦隊司令部(司令長官・草鹿任一中将)に打ち合わせに来たのだが、その時、官邸山の上にあった、柴田中佐の宿舎を訪れた。内藤中佐は、柴田中佐と海軍兵学校の同期生だった。
内藤中佐は、開口一番、「源田が、柴田の言うことは全部間違っている。たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか、と言っていたよ」と柴田中佐に知らせてくれた。
それを聞いて、「源田はそんな気持ちで重大な航空作戦を指導しているのか」と、柴田中佐の公憤は、その極に達した感があった。
昭和十九年、六月半ばの「あ」号作戦は、軍令部第一部第一課航空作戦主務・源田実中佐が関わった最大の作戦だった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、この作戦は、中部太平洋方面と予想される敵の攻勢に対し、空母を中心とした新編の第一機動艦隊と、陸上基地航空隊群で編成された第一航空艦隊の両方で応戦し、一気に勝敗を決しようというもので、詳細な作戦計画が練りあげられていた。
昭和十九年五月三日には「大海指第三七三号」として発令された。作戦の詳細について、作戦参加部隊に対する説明および研究会が開催された。
トラック基地にいた二五一空にも呼び出しがかかって、司令・柴田武雄中佐も出席することになったが、当初、柴田中佐は「そんな会議なんか出る必要はない」と言って出席を渋った。
軍令部からは、源田中佐のほか、ハワイ真珠湾攻撃の際の空中攻撃隊総指揮官だった淵田美津雄中佐も参謀として来ていた。
源田中佐、淵田中佐、柴田中佐は海軍兵学校五二期の同期生だったが、柴田中佐は、同期ではあるが、源田中佐と淵田中佐のこれまでのやり方を信頼していなかったのだ。
柴田中佐は、しぶしぶ出席したが、厚さ三センチにも及ぶガリ版刷りの作戦計画書を見てうんざりした。
これを読むだけでも大変だが、その精緻な内容は作文としては立派であっても、今の海軍航空隊の実力からしてその筋書き通りに進まないことは、去る二月のトラック大空襲の際のみじめな現実が何よりそれを証明していた。
<あんな机上の空論を、得々と並べ立ててなんになる>。作戦計画について熱弁を振う淵田中佐や源田中佐に対して、柴田中佐は腹立たしさを通り越して、空しさすら覚えていた。
確かにこの作戦計画そのものは立派だった。「我が決戦兵力の大部を結集して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅(ふくめつ)して敵の反攻企図を挫折せしむ……」に始まる詳細な内容は、もしこちらの思惑通りにことが運べば、大勝利間違いなしと思わせるものがあったし、そのために源田中佐としても精一杯の手は打っていた。