「しかし真珠湾からラバウル、インド洋に至る一連の成功から、『今度も成功するだろう。真珠湾やセイロン攻撃だって不安はあったのだ』という自己満足的なものがあって、不安に対して徹底的な『メス』を入れなかった。『臆病者』と罵られても、さらに深い検討を加え、必要な意見具申もすべきであった」。
戦後に記された源田のこの説明は、詭弁と言えるかもしれない。なぜなら、それほど東正面が不安だったら、実際の場面で索敵機数を増やし、厳重な索敵を実施したはずである。だが、実際には、機数も増やさず、気休め程度の索敵をやらせていた。
昭和十七年六月五日から七日まで、ミッドウェー島を巡る日本とアメリカ、両海軍の海戦、ミッドウェー海戦は日本海軍の惨敗に終わった。
「決定版・太平洋戦争『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」(学習研究社)によると、日本海軍は、海戦前に保有していた六隻の正規空母のうちの四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)と多数の飛行機及び熟練の搭乗員を、ミッドウェー海戦で失った。
だが、六月十日午後三時三十分、大本営海軍報道部がミッドウェー海戦の戦果を次のように発表した。
「米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネット型一隻撃沈。彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。重要軍事施設爆破」
「わが方の損害。航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破。未帰還飛行機三十五機」。
以上が大本営発表の数字だが、実際のアメリカ海軍の損害は、航空母艦「ヨークタウン」大破(後に、伊号「六十八潜」が撃沈)。駆逐艦「ハンマン」沈没。航空機喪失一〇〇機未満。戦死者は、航空機搭乗員二〇八人を含む三六二人。
また、日本海軍の実際の損害は、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻沈没。重巡洋艦「三隈」沈没。駆逐艦「荒潮」大破。重巡洋艦「最上」中破。航空機喪失二八九機。戦死者は、航空機搭乗員一一〇人を含む三〇五七人。
ミッドウェー海戦における日本海軍の敗因には、様々な複合要因がある。戦術的には、各空母のミッドウェー基地攻撃隊の収容、二度の兵装転換などによる攻撃隊発進の遅れなどがある。
だが、それら戦術的要因以前の問題として、日本海軍の慢心から来るアメリカ軍への過小評価があった。真珠湾攻撃をはじめとする緒戦時における連合艦隊の大勝利で、連合艦隊は敵の戦力を過小評価していた。
連合艦隊司令長官・山本五十六大将自身が、ミッドウェーに向けての出撃では、大名行列のごときお祭り気分で、「戦艦の行列を揃えて、示威運動を行い、敵出てきたらば軽く捻る考えにて」出撃したという。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、ミッドウェー海戦当時、柴田武雄中佐は、第三航空隊副長兼飛行長として、セレベス島のケンダリー基地にいた。
ミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々にやられていくことが、第三航空隊士官室にいた柴田中佐らに、電信室で傍受した電報によって、知らされていた。
士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった。だが、この罵声は、決して、苦境に陥っている南雲艦隊全員に対するものではなく、南雲艦隊の航空甲参謀・源田実中佐ひとりだけに対するものであることは、お互い以心伝心的にわかっていた。
なぜなら、源田中佐が真珠湾から帰ってから、あちこちで、「真珠湾はオレがやったんだ。お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ」と公言しまわっていた。
その、人を馬鹿にした驕慢不遜な態度・暴言に、南方作戦において連戦連勝の大戦果を上げていた、柴田中佐たちは、はらわたが煮えかえるほど憤慨していたからだ。
しかし、やがて、時間の経過とともに、大乗的なわれに帰り、「これは大変なことになった。せめて飛龍だけでも助かってくれ」と、みな、心の中で祈っていた。
以上が、柴田の回想だが、真珠湾攻撃およびそれ以後について、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将(海兵四〇・次席・海大二四・次席)が、連合艦隊参謀長・宇垣纒少将(海兵四〇・九番・海大二二)に答えた話として次のようなものがある。
「好機を捉えて戦果の拡大を計り、あるいは状況の変化に即応して臨機適切な処置をするなどは、南雲部隊では一回もやっていない」
戦後に記された源田のこの説明は、詭弁と言えるかもしれない。なぜなら、それほど東正面が不安だったら、実際の場面で索敵機数を増やし、厳重な索敵を実施したはずである。だが、実際には、機数も増やさず、気休め程度の索敵をやらせていた。
昭和十七年六月五日から七日まで、ミッドウェー島を巡る日本とアメリカ、両海軍の海戦、ミッドウェー海戦は日本海軍の惨敗に終わった。
「決定版・太平洋戦争『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」(学習研究社)によると、日本海軍は、海戦前に保有していた六隻の正規空母のうちの四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)と多数の飛行機及び熟練の搭乗員を、ミッドウェー海戦で失った。
だが、六月十日午後三時三十分、大本営海軍報道部がミッドウェー海戦の戦果を次のように発表した。
「米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネット型一隻撃沈。彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。重要軍事施設爆破」
「わが方の損害。航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破。未帰還飛行機三十五機」。
以上が大本営発表の数字だが、実際のアメリカ海軍の損害は、航空母艦「ヨークタウン」大破(後に、伊号「六十八潜」が撃沈)。駆逐艦「ハンマン」沈没。航空機喪失一〇〇機未満。戦死者は、航空機搭乗員二〇八人を含む三六二人。
また、日本海軍の実際の損害は、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻沈没。重巡洋艦「三隈」沈没。駆逐艦「荒潮」大破。重巡洋艦「最上」中破。航空機喪失二八九機。戦死者は、航空機搭乗員一一〇人を含む三〇五七人。
ミッドウェー海戦における日本海軍の敗因には、様々な複合要因がある。戦術的には、各空母のミッドウェー基地攻撃隊の収容、二度の兵装転換などによる攻撃隊発進の遅れなどがある。
だが、それら戦術的要因以前の問題として、日本海軍の慢心から来るアメリカ軍への過小評価があった。真珠湾攻撃をはじめとする緒戦時における連合艦隊の大勝利で、連合艦隊は敵の戦力を過小評価していた。
連合艦隊司令長官・山本五十六大将自身が、ミッドウェーに向けての出撃では、大名行列のごときお祭り気分で、「戦艦の行列を揃えて、示威運動を行い、敵出てきたらば軽く捻る考えにて」出撃したという。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、ミッドウェー海戦当時、柴田武雄中佐は、第三航空隊副長兼飛行長として、セレベス島のケンダリー基地にいた。
ミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々にやられていくことが、第三航空隊士官室にいた柴田中佐らに、電信室で傍受した電報によって、知らされていた。
士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった。だが、この罵声は、決して、苦境に陥っている南雲艦隊全員に対するものではなく、南雲艦隊の航空甲参謀・源田実中佐ひとりだけに対するものであることは、お互い以心伝心的にわかっていた。
なぜなら、源田中佐が真珠湾から帰ってから、あちこちで、「真珠湾はオレがやったんだ。お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ」と公言しまわっていた。
その、人を馬鹿にした驕慢不遜な態度・暴言に、南方作戦において連戦連勝の大戦果を上げていた、柴田中佐たちは、はらわたが煮えかえるほど憤慨していたからだ。
しかし、やがて、時間の経過とともに、大乗的なわれに帰り、「これは大変なことになった。せめて飛龍だけでも助かってくれ」と、みな、心の中で祈っていた。
以上が、柴田の回想だが、真珠湾攻撃およびそれ以後について、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将(海兵四〇・次席・海大二四・次席)が、連合艦隊参謀長・宇垣纒少将(海兵四〇・九番・海大二二)に答えた話として次のようなものがある。
「好機を捉えて戦果の拡大を計り、あるいは状況の変化に即応して臨機適切な処置をするなどは、南雲部隊では一回もやっていない」